1. Early Life and Background
マルギッタ・グンメルは、1941年6月29日にマクデブルクでマルギッタ・ヘルムボルトとして生まれた。彼女は2021年1月26日に死去した。
2. Athletic Career
グンメルは、オリンピックやヨーロッパ陸上競技選手権大会など、数々の主要な国際大会に出場し、優れた成績を収めた。特に、ライバルであるナデジダ・チジョワとの対決は、当時の砲丸投界の注目を集めた。
2.1. Olympic Games
グンメルは3度の夏季オリンピックに出場した。
1964年東京オリンピックでは、東西ドイツ統一チームの一員として砲丸投に出場したが、メダル獲得には至らなかった。
4年後の1968年メキシコシティオリンピックでは、東ドイツ代表として出場し、砲丸投で金メダルを獲得した。この大会で彼女は、女性として史上初めて19メートルを超える投擲(19.61 m)を記録し、歴史にその名を刻んだ。
さらに4年後の1972年ミュンヘンオリンピックにも東ドイツ代表として出場したが、長年のライバルであるナデジダ・チジョワに敗れ、銀メダルに終わった。この時の記録は20.22 mであった。
2.2. European Championships
グンメルは、ヨーロッパ陸上競技選手権大会およびヨーロッパ室内陸上競技選手権大会でも数々のメダルを獲得した。彼女の主な実績は以下の通りである。
年 | 大会 | 場所 | 種目 | 結果 | 記録 |
---|---|---|---|---|---|
1966 | ヨーロッパ室内陸上選手権 | ドルトムント(西ドイツ) | 砲丸投 | 1位 | 17.3 m |
1966 | ヨーロッパ陸上選手権 | ブダペスト(ハンガリー) | 砲丸投 | 2位 | 17.05 m |
1968 | ヨーロッパ室内陸上選手権 | マドリード(スペイン) | 砲丸投 | 2位 | 17.62 m |
1968 | オリンピック | メキシコシティ(メキシコ) | 砲丸投 | 1位 | 19.61 m |
1969 | ヨーロッパ陸上選手権 | アテネ(ギリシャ) | 砲丸投 | 2位 | 19.58 m |
1971 | ヨーロッパ室内陸上選手権 | ソフィア(ブルガリア) | 砲丸投 | 2位 | 19.5 m |
1971 | ヨーロッパ陸上選手権 | ヘルシンキ(フィンランド) | 砲丸投 | 3位 | 19.22 m |
1972 | オリンピック | ミュンヘン(西ドイツ) | 砲丸投 | 2位 | 20.22 m |
2.3. Rivalry with Nadezhda Chizhova
マルギッタ・グンメルは、ソビエト連邦の砲丸投選手ナデジダ・チジョワと長年にわたる激しいライバル関係にあった。両者は数々の国際大会で競い合い、砲丸投の記録を更新し合った。
1966年のヨーロッパ陸上選手権(ブダペスト)では、グンメルが2位、チジョワが1位であった。1968年のヨーロッパ室内陸上選手権(マドリード)でも、チジョワがグンメルを破って優勝した。1969年のヨーロッパ陸上選手権(アテネ)でも同様にチジョワが1位、グンメルが2位という結果に終わった。1971年のヨーロッパ室内陸上選手権(ソフィア)でも再びチジョワが優勝し、グンメルは2位であった。さらに、1971年のヨーロッパ陸上選手権(ヘルシンキ)では、チジョワが優勝し、グンメルは3位に終わった。
そして、1972年のミュンヘンオリンピックでは、グンメルはチジョワに敗れて銀メダルとなり、彼女たちのライバル関係は最高潮に達した。チジョワはこれらの主要大会でグンメルを上回る成績を収めることが多く、グンメルのキャリアにおいて常に立ちはだかる存在であった。
3. Doping and Controversy
マルギッタ・グンメルは、東ドイツの国家ドーピングプログラムにおいて、最初にステロイドを投与されたアスリートの一人であったことが後に明らかになった。彼女が初めてチュリナボルの投与を受けたのは、1968年のメキシコシティオリンピックのわずか3ヶ月弱前、1968年7月28日のことであった。
1997年に学術誌『Clinical Chemistry』に掲載された論文は、1973年の東ドイツ体育科学研究所(DVfl)の科学報告書から、1968年、1969年、1972年のグンメルのチュリナボル投与量と競技距離をプロットした図を再現している。この図によると、1968年のオリンピックに向けての3ヶ月間で、彼女の投擲記録は17 mから19 mへと2メートルも向上しており、それまでの記録が安定していた熟練アスリートとしては異例の伸びであった。
その後数年間は、より高用量のチュリナボルが使用され、その結果、彼女の投擲記録は20 mをはるかに超えるまでに向上した。1997年のヴェルナー・フランケの報告書に示された科学的なグラフは、ステロイドの投与を中止した後でも、複数のステロイドサイクルによって「残存効果」が顕著に現れ、1968年のドーピング開始前と比較して、薬物中断期間中もグンメルのパフォーマンスが著しく優れていたことを示している。
東ドイツの研究者たちは、女性アスリートへのアナボリックステロイドの使用が、長年の自然なトレーニングと比較して、アスリートのパフォーマンスを著しく向上させると結論付けていた。これを受け、東ドイツは13歳から14歳といったはるかに若い女性アスリート、特に水泳などの競技において、チュリナボルを用いた実験を開始した。
このドーピングの事実は、東ドイツのスポーツシステムが、アスリートの人権や健康を犠牲にしてまで、国家の威信のためにメダル獲得を追求したことを示している。グンメルのケースは、国家が主導したドーピングが、スポーツにおける公正競争の原則をいかに侵害したかを示す典型的な例として、現在も議論の対象となっている。
4. Evaluation and Legacy
マルギッタ・グンメルの運動業績は、彼女が東ドイツの国家ドーピングプログラムの恩恵を受けていたという事実によって、複雑な評価を受けている。彼女は1968年のメキシコシティオリンピックで金メダルを獲得し、女性として初めて19メートルを超える投擲を記録するなど、輝かしいキャリアを築いた。しかし、その記録の背景には、東ドイツ政府が組織的に行ったステロイド投与があったことが明らかになっている。
この事実は、彼女の個人的な努力や才能を否定するものではないが、スポーツの公平性と倫理という観点から、その遺産に影を落としている。彼女のケースは、東ドイツのスポーツシステムがいかにアスリートの健康と人権を軽視し、国家の政治的プロパガンダのために彼らを利用したかを示す象徴的な事例となっている。
グンメルの業績は、ドーピングがスポーツの記録や評価に与える影響、そして国家が関与するドーピングがアスリートの人生に与える長期的な影響について、重要な問いを投げかけている。彼女の遺産は、単なる競技成績の評価に留まらず、スポーツにおける人権、公正競争、そして倫理の重要性を再認識させる歴史的な教訓として記憶されている。