1. 生い立ちと教育
ミルトン・グレイ・キャンベルは、幼少期からスポーツへの強い情熱を抱き、その才能は早くから開花した。
1.1. 出生と成長環境
キャンベルは1933年12月9日にニュージャージー州プレインフィールドで生まれた。幼い頃から兄のトムと競い合い、常に彼を上回ろうと努力する中で、スポーツへの愛情を育んでいった。
1.2. 高校時代
プレインフィールド高校(1953年卒)在学中には、陸上競技、アメリカンフットボール、水泳の3種目で活躍した。特に水泳においては、当時「アフリカ系アメリカ人は適切に泳ぐことができない」という偏見がスポーツ界に広く存在していたにもかかわらず、その才能を発揮し、水泳とアメリカンフットボールの両方で「オールステート」の栄誉を獲得した。陸上競技では、ハードル競走と走り高跳びでニュージャージー州記録を樹立し、アメリカンフットボールではフルバックとして140ポイントを獲得するなど、その多才ぶりを示した。彼は高校のコーチに対し、ニュージャージー州で最高の選手になりたいと語り、コーチからは「世界最高の選手になれる可能性がある」と返答された。コーチは、そのためにはオリンピックの十種競技で優勝する必要があると助言し、キャンベルはそれまで知らなかった十種競技について調べ、その挑戦を受けることを決意した。1952年には、『トラック・アンド・フィールド・ニュース』誌の「年間最優秀高校生アスリート」に選出されている。
1.3. 大学時代
高校卒業後、キャンベルはインディアナ大学ブルーミントン校に進学し、高校時代と同様にアメリカンフットボールと陸上競技を続けた。大学での活動は、彼のオリンピックでの活躍に向けたさらなる準備期間となった。
2. 陸上競技キャリア
キャンベルの陸上競技キャリアは、オリンピックでの輝かしい成績と、その後の挑戦に特徴づけられる。
2.1. 1952年ヘルシンキオリンピック
18歳でプレインフィールド高校の生徒であったキャンベルは、1952年ヘルシンキオリンピックの十種競技の代表チームに選出された。この予選は彼にとって初めての十種競技への参加であった。本大会では、前回の1948年ロンドンオリンピックの金メダリストであるボブ・マサイアスに次ぐ2位となり、銀メダルを獲得した。故郷のニュージャージー州に帰ると、拍手と祝福で迎えられたが、キャンベル自身は優勝を逃したことに失望し、次の4年間でさらに練習を重ね、1956年メルボルンオリンピックでの金メダル獲得を決意した。
2.2. 1956年メルボルンオリンピック
1952年から1956年の間、キャンベルはインディアナ大学でアメリカンフットボールと陸上競技に取り組み、メルボルンでのオリンピックに向けて準備を重ねた。1956年の夏、キャンベルはメルボルンのトラックで圧倒的なパフォーマンスを見せ、十種競技で金メダルを獲得した。この大会では、120ヤードハードルで13.4秒の記録を樹立し、世界記録に迫る成績を収めた。彼は世界記録保持者であったレイファー・ジョンソンらを大差で破り、アフリカ系アメリカ人として初の十種競技金メダリストという歴史的快挙を成し遂げた。
3. アメリカンフットボールキャリア
オリンピックでの輝かしい成功の後、キャンベルはアメリカンフットボールのキャリアを追求したが、そこでは人種差別という大きな壁に直面することとなる。
3.1. NFLキャリアと差別的解雇
1957年、キャンベルはNFLのクリーブランド・ブラウンズからドラフト指名を受け、プロアメリカンフットボール選手としてのキャリアをスタートさせた。彼はジム・ブラウンと同じバックフィールドでプレーし、ハーフバックとして7回のランで合計23 ydを記録した。しかし、彼のNFLでのキャリアは不当にも短命に終わった。ブラウンズのオーナーであるポール・ブラウンは、キャンベルが白人女性のバーバラ・マウントと結婚したことを理由に、彼をチームから解雇したのである。キャンベルによれば、ブラウンは解雇の前日に彼をオフィスに呼び出し、結婚の理由を尋ねた。キャンベルは「あなたが結婚したのと同じ理由で結婚したのだと思います」と答え、ブラウンには関係ないことだと伝えた。翌日、彼はブラウンズから「あなたのサービスはもはや必要ありません」という手紙を受け取った。この出来事は、当時のアメリカ社会における根深い人種差別、特に隔離政策のイデオロギーが、スポーツ界にも深く影響していたことを示すものであった。
3.2. CFLキャリア
NFLからの不当な解雇後もフットボールキャリアを追求したいと考えたキャンベルは、カナダへ渡り、カナディアン・フットボール・リーグ(CFL)でプレーを続けた。彼はハミルトン・タイガーキャッツ(8試合で468 ydのラッシング記録)、キッチナー・ウォータールー・ダッチメン、モントリオール・アルエッツ(3試合)、トロント・アルゴノーツ(9試合)に所属し、1964年にフットボール選手としてのキャリアを終えた。
4. その他のスポーツ活動
キャンベルは、陸上競技とアメリカンフットボール以外にも、その卓越した運動能力を様々なスポーツで発揮した。
4.1. 水泳
彼は若い頃から優れた水泳選手であり、高校時代には水泳で「オールステート」の栄誉を獲得している。これは、当時アフリカ系アメリカ人に対する水泳に関する偏見が存在した中で、彼の才能と努力が際立っていたことを示している。
4.2. 柔道
プロフットボール選手としてのキャリアを終えた後も活動的でありたいと考えたキャンベルは、柔道を始めた。彼はヨシシダ・ヨネスカの指導のもと、急速に上達し、ヨシシダはキャンベルが1972年ミュンヘンオリンピックの柔道チームに入る可能性が高いと述べるほどであった。しかし、全米アマチュア運動連合(AAU)の役員が彼のカードを取り上げ、プロフットボール選手としての経歴があるため、オリンピックの柔道競技に出場できないと告げた。キャンベルは、プロの陸上選手はオリンピックに出場が許されているにもかかわらず、自分がフットボール選手であったという理由で出場を禁じられたことに不公平を感じ、このスポーツ規則の矛盾を指摘した。
5. 私生活と社会的影響
ミルトン・キャンベルの人生は、個人的な側面だけでなく、彼が直面した社会的な課題と、それが彼のキャリアに与えた影響によっても特徴づけられる。
5.1. 結婚と家族
キャンベルは白人女性のバーバラ・マウントと結婚した。彼には娘のジュリー・キャンベル、ドリアンヌ・B、モナ・H、そして息子のミルトン・G・キャンベル・ジュニア(故人)、ジャスティン・キャンベル、ミルトン・G・キャンベル三世がいた。また、孫娘のタリア・L・キャンベルと曾孫のナサニエル・G・ジョンセンにも恵まれた。
5.2. 社会的影響と差別の経験
彼の十種競技における偉大な功績にもかかわらず、ミルトン・キャンベルは同時代の他の著名なアスリートたち、例えばボブ・マサイアスやブルース・ジェンナー(現在のケイトリン・ジェンナー)のように、広く知られる存在となることも、それにふさわしい報酬を得ることもなかった。マサイアスやジェンナーがオリンピックでの勝利後、数多くのスポンサーシップを獲得し、ウィーティーズの箱にその姿が描かれるなどしたのに対し、キャンベルは1956年の表彰台を降りた後、現金、スポンサー、テレビ局からの出演依頼を受けることはなかった。この扱いの違いについて尋ねられた際、キャンベルは「アメリカは、黒人が世界最高の選手になる準備ができていなかったのだ」と語っている。この言葉は、当時の社会における根深い人種差別が、彼の功績に対する公的な認知と評価に大きな影を落としていたことを示している。彼はその後、「有名でないことで有名な」オリンピックスーパースターと見なされるようになった。
ESPNのような著名なスポーツニュースプラットフォームは、アスリートたちの素晴らしい運動能力と功績を称えるために、特定の基準に合致する選手リストを定期的に発表している。2000年には「偉大な黒人アスリート50人」や「20世紀のトップアスリート100人」といったリストが発表されたが、キャンベルはいずれのリストにも含まれず、言及すらされなかった。彼の偉業を考慮すれば、これらのリストの上位に名を連ねるべきであったにもかかわらず、その存在が過小評価されていたことは、スポーツ界における公正さや包容力について、今なお問いを投げかけるものである。
6. 遺産と評価
ミルトン・キャンベルは、その卓越した運動能力と歴史的な功績にもかかわらず、長らく公的な認知が不足していたが、その遺産は後世に多大な影響を与えている。
6.1. 名誉の殿堂入りと受賞歴
キャンベルは、その輝かしいキャリアを通じて、数々の名誉の殿堂に名を連ねている。1982年にはインディアナ大学アスレチックス殿堂、1992年にはアメリカ合衆国オリンピック殿堂にそれぞれ選出された。2012年6月にはニュージャージー州殿堂入りを果たしている。さらに、全米陸上競技殿堂と国際水泳殿堂にも名を連ねており、これら両方の殿堂に名を連ねる唯一の人物である。2008年には、ニュージャージー州ウェストロングブランチのモンマス大学から公共サービスの名誉博士号が授与された。
6.2. 公的な認知と過小評価
キャンベルの偉大な業績にもかかわらず、同時代の他の選手と比較して公的な認知度が低かったことは、彼のキャリアにおける重要な側面である。彼自身が語ったように、「アメリカは、黒人が世界最高の選手になる準備ができていなかった」という現実が、彼の功績が十分に評価されなかった背景にあった。この過小評価は、スポーツ界における人種差別という問題が、単に競技の機会に留まらず、その後のキャリアや社会的な評価にまで影響を及ぼしていたことを示している。彼の経験は、スポーツ界における公正さや包容力、そして歴史的な功績に対する適切な認識がいかに重要であるかという問いを提起し続けている。
7. 死去
ミルトン・キャンベルは、長年の前立腺癌との闘いの末、その生涯を終えた。
7.1. 最晩年と死
キャンベルは2012年11月2日、ジョージア州ゲインズビルの自宅で、長年の恋人であるリンダ・ラッシュに見守られながら、78歳で死去した。彼の遺体はゲインズビル北部のメモリアル・パーク墓地および霊廟に埋葬された。彼は娘のジュリー・キャンベル、ドリアンヌ・B、モナ・H、息子のジャスティン・キャンベル、ミルトン・G・キャンベル三世、孫娘のタリア・L・キャンベル、曾孫のナサニエル・G・ジョンセンによって見送られた。