1. 生涯
モーリツ・モシュコフスキの生涯は、幼少期からの音楽的才能の開花、ピアニスト、作曲家、教師としての輝かしいキャリア、そして晩年の健康問題と財政的困難という、成功と苦難が交錯するものであった。
1.1. 初期生と教育
モシュコフスキは1854年8月23日、プロイセン王国のブレスラウ(現ポーランドのヴロツワフ)に生まれた。彼の家族は裕福なポーランド系ユダヤ人で、1854年にザヴィエルチェ近郊のピリカからブレスラウに移り住んでいた。多くのユダヤ人が自身の出自を公にしたがらなかった時代において、モシュコフスキは熱心なユダヤ教徒であり、そのアイデンティティを大切にしていた。
彼は幼い頃から早くも音楽の才能を示し、1865年に家族がドレスデンに移り住むまで家庭で音楽教育を受けた。ドレスデンでは音楽院でピアノの学習を続けた。1869年にはベルリンに移り、まずユリウス・シュテルンのシュテルン音楽院でエドゥアルト・フランクにピアノを、フリードリヒ・キールに作曲を師事した。その後、テオドール・クラクの新音楽アカデミー(Neue Akademie der Tonkunstドイツ語)に進み、作曲をリヒャルト・ヴュルストに、管弦楽法をハインリヒ・ドルンに師事した。この時期に、彼は兄弟子であるクサヴァーとフィリップのシャルヴェンカ兄弟と親しい友人となった。1871年にはクラクの勧めを受け、音楽アカデミーの教員となり、有能なヴァイオリニストでもあったため、時には管弦楽団の第1ヴァイオリンで演奏することもあった。

1.2. ピアニストとして
1873年、モシュコフスキはピアニストとして初めて成功を収め、間もなく近隣の都市を巡演して経験を積み、名声を確立していった。その2年後には、フランツ・リスト自身が招待した聴衆を前にしたマチネで、自作のピアノ協奏曲第1番ロ短調作品3の2台ピアノ編曲版をリストと共に演奏するまでに成長していた。この協奏曲は、後に2011年に再発見され、2014年にようやくオーケストラ伴奏での初演が行われた。彼はヨーロッパ各地を巡演し、傑出したコンサートピアニストとしての名声を確立するとともに、指揮者としても評価されるようになった。

1.3. 作曲家として
モシュコフスキは非常に多作な作曲家であり、200曲以上のピアノ小品を遺し、それによって大きな人気を博した。彼の音楽は瞬く間にセンセーションを巻き起こし、舞台作品やコンサートホールで演奏される大規模な作品でも正当な評価を得た。彼の初期の作品には、ショパン、メンデルスゾーン、そして特にシューマンの影響が見られる。彼は後に独自の様式を確立するが、そこにはピアノという楽器とその可能性に対するシューマン流の繊細な感覚が明確に表れている。しかし、彼の音楽は「男性的な力強さと女性的な繊細さを欠いている」と評されることもあった。それでも、彼は自身の作品の演奏において、他の作曲家のレパートリーを演奏するよりも高く評価された。
1.4. 教師として
1875年から25年間、ベルリン音楽院で教員を務め、数多くの教え子を育てた。彼の教え子には、フランク・ダムロッシュ、ホアキン・ニン、アーネスト・シェリング、ホアキン・トゥリーナ、カール・ラッチムンド、ベルンハルト・ポラック、エルンスト・ジョナス、ヴィルヘルム・ザックス、ヘレネ・フォン・シャック、アルベルト・ウルリッヒ、ヨハンナ・ヴェンゼルらがいた。
1897年、名声と富を築いたモシュコフスキはパリに移り住み、ブランシェ通り(rue Blancheフランス語)に息子と娘と共に暮らした。パリでも彼は教師として引っ張りだこであり、常に意欲的な音楽家たちのために惜しみなく時間を費やした。パリでの教え子には、ヴラド・ペルルミュテール、ワンダ・ランドフスカ、1904年にアンドレ・メサジェの助言で管弦楽法の個人レッスンを受けたトーマス・ビーチャム、モシュコフスキが「彼にはもう教えることは何もない」とまで言わしめたヨゼフ・ホフマン、そして非公式ながらもギャビー・カサドシュがいた。夏には、フランスの小説家で詩人であったアンリ・ミュルジェールが所有するモンティニー=シュル=ロワン近郊の別荘を借りて過ごした。1899年にはベルリン・アカデミーの会員に選出された。彼はアメリカの多くのピアノ製造会社から、自社のピアノの宣伝のために巨額の報酬を提示されて招かれたが、常にその依頼を断り続けた。

1.5. 健康問題とキャリアの変化
1880年代半ばまでに、モシュコフスキは腕の神経系疾患に苦しむようになり、次第に演奏活動を縮小していった。その代わりに、彼は作曲、教育、そして指揮活動に力を入れるようになった。1908年、54歳になる頃には、健康状態の悪化により隠居生活を送るようになった。彼の人気は陰りを見せ始め、キャリアは徐々に下降線をたどった。彼は作曲の弟子を取るのをやめたが、その理由を「彼らはスクリャービンやシェーンベルク、ドビュッシー、サティのような芸術的な狂人のように作曲したがるからだ」と述べている。
2. 作品
モシュコフスキは、ピアノ小品から大規模な管弦楽作品、舞台作品まで、幅広いジャンルで多岐にわたる作品を遺した。
2.1. ピアノ作品
モシュコフスキは200曲以上のピアノ小品を作曲し、それらの多くが彼の人気を確立した。特に有名なのは、ピアノ連弾のために書かれ、後にフィリップ・シャルヴェンカによって独奏用および管弦楽用に編曲された「スペイン舞曲」作品12である。この組曲の「スペイン舞曲第5番(ボレロ)」は、デヴィッド・リーン監督の映画『逢びき』のあるシーンでサロンの三重奏によって演奏されたことでも知られている。
初期の作品である「セレナーデ」作品15は世界的に有名になり、「愛、ちいさなナイチンゲール」(Liebe, kleine Nachtigallドイツ語)など、様々な形で引用された。今日、彼が最もよく知られているのは、ホロヴィッツやアムランといったヴィルトゥオーゾピアニストたちによって演奏されてきた「15のヴィルトゥオーゾ練習曲」作品72である。イリーナ・ヴェレッドは1970年にこの全曲の世界初録音を行った。彼の小品の中には、例えば「火花」(Étincellesフランス語)作品36-6のように、華麗でピアニスティックな効果を持つものが多く、古典コンサートの終わりにアンコールとして演奏されることも多い。他にも「20の小練習曲」作品91、「10の愛らしい小品」作品77、「ワルツ」作品15-5、「ゴンドラの歌」作品41-6などがある。
2.2. 管弦楽および舞台作品
モシュコフスキは大規模な作品も数多く作曲した。2つのピアノ協奏曲があり、1874年に作曲されたロ短調の第1番作品3は、2011年に再発見され2013年に出版された。より広く知られているのは、ヨゼフ・ホフマンに献呈された1898年作曲のホ長調の第2番作品59である。その他にヴァイオリン協奏曲ハ長調作品30、3つの管弦楽組曲(作品39、47、79)、そして交響詩「ジャンヌ・ダルク」作品19を遺している。
彼のオペラ『ボアブディル最後のムーア人の王』(Boabdil der letzte Maurenkönigドイツ語)作品49は、グラナダ陥落の歴史的テーマを題材とした作品で、1892年4月21日にベルリン国立歌劇場で初演され、翌年にはプラハやニューヨークでも上演された。このオペラ自体はレパートリーとして定着しなかったものの、そのバレエ音楽は数年間非常に人気が高かった。また、彼は1896年にベルリンで初演された3幕のバレエ『ラウリン』(Laurinドイツ語)も作曲している。1887年にはロンドンに招かれ、そこで多くの管弦楽曲を紹介する機会を得て、ロイヤル・フィルハーモニック協会の名誉会員に認められる栄誉に与った。


3. 私生活と晩年
モシュコフスキの私生活は、結婚と家族の喜び、そして晩年の健康と財政の困難に直面した悲劇的な側面を併せ持っていた。
3.1. 結婚と家族
1884年、モシュコフスキはピアニストで作曲家のセシル・シャミナードの妹であるアンリエッタ・シャミナードと結婚し、マルセルという息子とシルヴィアという娘の2人の子どもをもうけた。しかし、1890年には妻が詩人のルートヴィヒ・フルダのもとを去り、2年後に離婚が成立した。1906年には17歳だった娘シルヴィアを亡くし、同時期に息子マルセルはフランス陸軍に従軍していた。さらに1910年には、彼のパートナーが娘を連れて彼の親友のもとへ去ってしまい、モシュコフスキはこの私生活の悲劇から、ついに完全に立ち直ることはできなかった。
3.2. 健康および財政的困難
モシュコフスキの晩年は貧困に苦しんだ。彼はすべての著作権を売却し、その収益をドイツ、ポーランド、ロシアの公債や有価証券に投資していたが、第一次世界大戦の勃発によりそれらの価値が失われ、財産をほとんど失ってしまったからである。これは、芸術家が社会経済的な変動に直面した際の脆弱性を示す一例である。1908年からは健康状態が悪化し、彼は隠居生活に入った。
3.3. 記念コンサートと支援
モシュコフスキの窮状を見かねて、かつての教え子であるヨゼフ・ホフマンとベルンハルト・ポラックが彼を援助した。ポラックは、モシュコフスキのオペラ『ボアブディル』の新たなピアノ編曲版をライプツィヒのペータース社に送ることで、印税と偽装した1.00 万 FRFを集め、さらに1.00 万 DEMの贈与、ホフマンからの寄付1.00 万 DEM、そしてポラック自身が拠出した5000 DEMをかき集めることができた。
1921年12月21日、病と多額の借金に苦しむモシュコフスキを支援するため、友人や崇拝者たちがカーネギー・ホールで大規模な謝恩演奏会を開催した。ステージには15台のグランドピアノが並べられ、オシップ・ガブリロヴィッチ、パーシー・グレインジャー、ヨゼフ・レヴィーン、エリー・ナイ、ヴィルヘルム・バックハウス、ハロルド・バウアーらが演奏し、フランク・ダムロッシュが指揮を務めた。パデレフスキは電報で欠席の謝意を伝えたが、モシュコフスキがパデレフスキの初期のピアノ作品の出版に際して便宜を図っていたことは特筆される。このコンサートの興行収入は1.33 万 USD(2017年5月時点の価値で18.78 万 USDに相当)に上った。この収益の一部は、直ちに彼の財政問題を緩和するためナショナル・シティ・バンク・オブ・ニューヨークのパリ支店に送金され、またメトロポリタン生命保険会社で年金が購入され、彼が残りの生涯にわたって年間1250 USD(1.50 万 FRFに相当)を受け取れるように手配された。最初の年金支給は1925年3月1日に予定されていた。これは、芸術家が社会から受ける支援の重要性を示す事例となった。
3.4. 死
しかし、モシュコフスキの病状は好転せず、彼は胃癌のため1925年3月3日に死去した。年金の最初の支給が彼の手元に届く前のことであった。集められた資金は、彼の葬儀費用に充てられ、残りは彼の妻と息子に贈られた。
4. 評価と影響力
モシュコフスキは同時代において高い人気と名声を得ていたが、その後の評価は一時的に低下した。しかし、近年では彼の音楽が再評価され、後世の音楽家や文化にも影響を与えている。
4.1. 同時代の評価
モシュコフスキの演奏は、その華麗さ、バランスの良さ、明晰さ、そして完璧な技術によって、ヨーロッパ中の批評家たちを熱狂させた。彼は19世紀末には高く評価され、人気のある人物であった。1887年にはロンドンのロイヤル・フィルハーモニック協会の名誉会員に選ばれ、1899年にはベルリン・アカデミーの会員に選出された。アメリカの多くのピアノ製造会社から、自社のピアノの宣伝のために巨額の報酬を提示されて招かれたが、彼は常にその依頼を断り続けた。
4.2. 現代的再評価と遺産
今日、モシュコフスキはかつてほど有名ではないが、彼の音楽は再評価の過程にある。彼の「15のヴィルトゥオーゾ練習曲」作品72は、現在でもピアノ学習者がショパンの練習曲の導入として学ぶなど、教育現場で活用されている。彼の作品は、その技術的な要求の高さと音楽的な魅力から、今もなおコンサートで演奏され、教育の場で用いられている。
日本の音楽ユニットであるALI PROJECTの楽曲には、モシュコフスキの作品からの引用が見られる。
- 『名なしの森』イントロ:8つの性格的な小品 作品36-6「火花」
- 『春蚕』 ラスト:10の愛らしい小品 作品77-9
- 『極楽荊姫』 間奏:ワルツ 作品15-5
- 『KING KNIGHT』:10の愛らしい小品 作品77-3
- 『薔薇架刑』Aメロ、サビ:10の愛らしい小品 作品77-3(Aメロ)、10の愛らしい小品 作品77-4(サビ)
- 『逢魔ヶ恋』間奏:10の愛らしい小品 作品77-4
4.3. 逸話
モシュコフスキは機知に富む人物として知られていた。ドイツの指揮者、ヴィルトゥオーゾ・ピアニスト、そして作曲家であったハンス・フォン・ビューローが自らの著書にこう記した。「バッハ(Bachドイツ語)、ベートーヴェン(Beethovenドイツ語)、ブラームス(Brahmsドイツ語)。それ以外は馬鹿者(crétinクレタンフランス語)だ。」これに対しモシュコフスキはこう返した。「メンデルスゾーン(Mendelssohnドイツ語)、マイアベーア(Meyerbeerドイツ語)、そして不肖私モシュコフスキ(Moszkowskiドイツ語)。それ以外はクリスチャン(chrétienクレティアンフランス語)ですね!」これは、フランス語の「crétin」(馬鹿者)と「chrétien」(キリスト教徒)の音の類似を利用した洒落である。
また、ドイツ系アメリカ人の作曲家エルンスト・ペラボから自叙伝を書いてほしいと依頼された時、モシュコフスキはこう返答を書き送った。「もし以下の2つの理由がなければ、私のピアノ協奏曲の楽譜を喜んで送らせてもらったのですが。第一に、それに価値がないこと。第二に、私がより良い作品の勉強に取り組むときに、ピアノの椅子を高くするのにそれが一番便利であること(その楽譜は400ページもあるのです)。」
5. 録音
モシュコフスキの作品は、多くの著名なピアニストや演奏家によって録音されている。
5.1. 主な録音と演奏者
イリーナ・ヴェレッドは1970年にモシュコフスキの「15のヴィルトゥオーゾ練習曲」作品72の全曲を初めて録音した。セタ・タニエルは1993年から1998年にかけて、モシュコフスキのソロピアノ作品集を3巻にわたって録音し、ハイペリオン/ヘリオス・レコードとコリンズ・クラシックスから同時発売された。イアン・ホブソンは、モシュコフスキのソロピアノ作品全集の第1巻を2021年にトッカータ・クラシックスからリリースした。同レーベルからは、モシュコフスキの管弦楽作品やピアノ協奏曲も録音されている。
ホ長調のピアノ協奏曲作品59は、マイケル・ポンティによって初めて録音され、近年ではピアーズ・レーンやヨゼフ・ムークによっても録音されている。2つのヴァイオリンとピアノのための組曲ト短調作品71は、イツァーク・パールマンとピンカス・ズーカーマンといったデュオによって録音されている。
主な録音には、ピアーズ・レーンによる「モシュコフスキとパデレフスキ: ロマンティック・ピアノ協奏曲集 第1巻」、ルドミル・アンゲロフによる「モシュコフスキとアドルフ・シュルツ=エヴラー: ロマンティック・ピアノ協奏曲集 第68巻」、タスミン・リトルによる「モシュコフスキとミェチスワフ・カルウォーヴィチ: ロマンティック・ヴァイオリン協奏曲集 第5巻」などがある。ソロピアノ作品では、セタ・タニエルによる「モシュコフスキ: ピアノ作品集 第1、2、3巻」、マルクス・パウリクとアントニ・ヴィットによる「モシュコフスキ: ピアノ協奏曲ホ長調 & 管弦楽組曲『異国より』」、ジョン・マコーマックとフリッツ・クライスラーによる「モシュコフスキ: セレナータ」、エスター・ブディアルジョによる「モシュコフスキ: 20の小練習曲作品91 & ブラームス: ハンガリー舞曲集」などが挙げられる。