1. 生涯
ローランド・ジョフィの幼少期から教育、そして彼の家族背景が、その後のキャリアや作品に与えた影響について概説する。
1.1. 幼少期と教育
ローランド・ジョフィは1945年11月17日にロンドンで生まれた。彼はロンドンのリセ・フランセ・シャルル・ド・ゴールと、オックスフォードシャー州ウォリングフォードにあるカーメル・カレッジで教育を受けた。カーメル・カレッジは、1997年に閉校するまでヨーロッパで唯一のユダヤ人寄宿学校であった。彼はその後、マンチェスター大学で英語と演劇を学び、正式な教育を修了した。
1.2. 家族背景
ジョフィはフランス系およびユダヤ系の家系に生まれた。彼の父マーク・ジョフィはラトビアリガ出身のジャーナリストで、フランスに長期滞在した経験があり、第二次世界大戦中にはイギリス外務省で勤務したこともある。1950年頃、彼の父は著名な彫刻家ジェイコブ・エプスタインとキャスリーン・ガーマンの娘であるエスター・ガーマンと交際を始めた。エスターはローランドの養育を手伝った。しかし、1954年にエスターが兄セオドア・ガーマンの死から6ヶ月後に自殺した後、ローランドはジェイコブ・エプスタインとキャスリーン・ガーマン夫妻とともに暮らし、彼らが祖父母の役割を果たした。ジェイコブ・エプスタインとエスターの兄セオドア・ガーマンによる幼少期のローランドの肖像画は、ウォルソール新美術館のガーマン・ライアン・コレクションに収蔵されている。

2. キャリア
ローランド・ジョフィは、テレビディレクターとしての初期のキャリアから、社会派映画の巨匠としての国際的な評価、そしてプロデューサーとしての活動に至るまで、多岐にわたる業績を残した。
2.1. テレビディレクターとして
大学卒業後、ジョフィは1973年にグラナダ・テレビジョンに研修ディレクターとして入社し、テレビキャリアをスタートさせた。彼は『コロネーション・ストリート』(1973年-1974年、4エピソード)、『サム』(1974年-1975年、4エピソード)、『ザ・スターズ・ルック・ダウン』(1975年、6エピソード)、『クラウン・コート』(1976年、4エピソード)、『ビル・ブランド』(1976年、5エピソード)、そして『ヘッドマスター』(1977年、3エピソード)などのエピソードを監督した。これらの作品、特に『ビル・ブランド』やBBCの『プレイ・フォー・トゥデイ』シリーズで手掛けたドキュメンタリードラマを通じて、彼は骨太な政治的物語を扱う演出家として評価を確立した。また、『セカンド・シティ・ファースト』(1977年、1エピソード)、『ノー・ママ、ノー』(1979年)、そして17世紀の劇作家ジョン・フォードの戯曲『'Tis Pity She's a Whore』のテレビ映画版(1980年)も監督している。
2.2. 政治活動とブラックリスト事件
1970年代初頭、ジョフィはイギリスの労働革命党(WRP)の会議にいくつか参加していたが、党員になることはなかった。彼は1988年頃に「当時、私は政治に非常に興味があった。しかし、WRPだけでなく、すべての政党の活動に興味があったのであり、積極的に関与したことはない」と説明している。1977年、プロデューサーのトニー・ガーネットは、BBCの『プレイ・フォー・トゥデイ』シリーズで『ザ・スポンジャーズ』の監督にジョフィを起用しようとした。しかし、BBCドラマ部門は、ジョフィがBBCの承認を得ておらず、彼の左翼的な見解のためにMI5によって「安全保障上のリスク」と見なされているとガーネットに伝えた。ガーネットがこの事実を公表すると脅した後にのみ、ジョフィの任命に対する拒否権は撤回された。この『ザ・スポンジャーズ』は、権威あるイタリア賞を受賞した。この事件は、政治的背景を持つ芸術家がメディア業界で直面する困難、特に表現の自由や政治的審査の問題を浮き彫りにした。
2.3. 映画監督として
映画監督としてのローランド・ジョフィは、『キリング・フィールド』や『ミッション』といった初期の傑作で国際的な評価を確立したが、後期の作品では批評的・商業的な困難に直面した。
2.3.1. 初期の名作:『キリング・フィールド』と『ミッション』
ローランド・ジョフィの最初の2本の長編映画、『キリング・フィールド』(1984年)と『ミッション』(1986年)は、それぞれ彼にアカデミー監督賞のノミネートをもたらした。ジョフィは両作品でプロデューサーのデヴィッド・パットナムと密接に協力した。『キリング・フィールド』は、ニューヨーク・タイムズのアメリカ人ジャーナリストと、クメール・ルージュの捕虜となった彼の通訳という2人の男性の友情を詳細に描いた作品である。この映画は、アカデミー助演男優賞(ハイン・S・ゴル)、アカデミー撮影賞、アカデミー編集賞の3部門でアカデミー賞を受賞し、アカデミー作品賞とアカデミー監督賞を含むさらに4部門でノミネートされた。『ミッション』は、南アメリカでグアラニー族のインディオを改宗させようとするイエズス会の宣教師たちと、先住民を奴隷にしようとするポルトガルおよびスペインの植民地主義者たちとの間の対立を描いた物語である。ジョフィはトーマス・バードとのインタビューで、『ミッション』について「インディオたちは無垢だ。この映画は世界で何が起こるか...その無垢さが私たちの中に何を引き出すかについてだ。ニューヨークや東京、パリの映画館に座って、その瞬間、地球上の仲間たちと一体になるだろう。そして、真のつながりを感じて外に出るだろう」と語っている。この映画は、1986年カンヌ国際映画祭でパルム・ドールと技術グランプリを受賞した。また、アカデミー作品賞、アカデミー監督賞、そしてエンニオ・モリコーネによる絶賛されたアカデミー作曲賞を含む6部門でアカデミー賞にノミネートされ、アカデミー撮影賞を受賞した。
2.3.2. 後期の作品と批評
ジョフィの映画監督としてのキャリアは、初期の成功とは対照的に、後期の作品では困難に直面した。1992年の『シティ・オブ・ジョイ』は、パトリック・スウェイジがコルカタの医師を演じ、インドとインド人の慈悲と友情の限界を再び試す作品であったが、「白人救世主」的な視点に基づいているという批判を受け、『キリング・フィールド』の亜流と見なされた。1993年には、ビデオゲーム『スーパーマリオブラザーズ』の映画化作品をプロデュースし、部分的に監督も務めたが、巨額の予算を投じたにもかかわらず、商業的に失敗し、予算を回収するのに苦戦した。彼の1995年の『スカーレット・レター』は、デミ・ムーアやゲイリー・オールドマンといった不適切なキャスティングも相まって、批評的にも財政的にも大失敗に終わった。彼は『スカーレット・レター』と2007年のホラー映画『キャプティビティ』で最低監督賞にノミネートされた。『スカーレット・レター』は第16回ゴールデンラズベリー賞で最低リメイク・続編賞も受賞している。2007年の『キャプティビティ』は、その広告が搾取的で女性蔑視的であるとして広く議論を呼んだ。2011年の公開作『ゼア・ビー・ドラゴンズ』は、オプス・デイというカトリック組織を扱ったことで注目を集めた。ジョフィはこの作品に深い感情的な投資をしており、「人間として私たちに語りかけるメッセージを、心から支持したいと感じている」と述べている。2013年には、国際共同製作の歴史叙事詩的恋愛タイムトラベル冒険映画『ザ・ラヴァーズ』を監督した。
2.4. プロデューサーおよびその他の活動
1980年代後半、ジョフィはベン・マイロンと共に制作会社ライトモーティブを共同設立した。彼は映画プロデューサーとして、『スーパーマリオブラザーズ』(1993年)の他に、『ウォータープルーフ』(2000年)をプロデュースし、『ブラッド・オン・ザ・クラウン』(2021年)ではエグゼクティブ・プロデューサーを務めた。映画製作以外の活動としては、非営利団体オペレーションUSAの理事を務めている。また、2011年7月23日から29日までプノンペンの国立オリンピックスタジアムで開催されたカンボジアバレーボールワールドカップの公式パトロンを務めた。彼はマルタ島に居住しており、ヴァレッタ映画祭の運営チームの活動的なメンバーでもある。2016年には、伝説的なミリオン・ダラー・カルテットをミュージカル仕立てにしたテレビミニシリーズ版『ミリオン・ダラー・カルテット』を監督した。他にも『アンドレスト』(2002年、1エピソード)、『テキサス・ライジング』(2015年、5エピソード)、『サン・レコーズ』(2017年、8エピソード)などのテレビ作品を監督している。
3. 思想と信条
ローランド・ジョフィの作品には、彼の個人的な信念、特に人道主義的視点と社会批判的傾向が深く反映されている。
3.1. 個人的な信条
宗教的には、ジョフィは自身を「揺らぐ不可知論者」("wobbly agnostic")と表現している。彼の作品は一貫して、人権、政治的対立、社会正義といったテーマを探求しており、これは彼の深い人道主義的かつ社会批判的な視点の源泉となっている。彼は、映画を通じて観客に世界の不公平や苦難を認識させ、共感を促すことを目指している。
4. 私生活
ローランド・ジョフィの私生活は、複数の結婚と芸術的な家族関係を通じて、彼の人生における個人的な側面を形成してきた。
4.1. 家族関係
1974年から1980年まで、ジョフィは女優のジェーン・ラポタイアと結婚しており、2人の間には脚本家で監督の息子ローワン・ジョフィ(1973年生まれ)がいる。その後、彼は女優のシェリー・ルンギと長期間にわたる関係を持ち、娘の女優ナタリー・ルンギ(1986年生まれ)をもうけた。彼の家族背景には、彫刻家ジェイコブ・エプスタインの娘エスター・ガーマンとの父の関係や、エスターの死後にエプスタイン夫妻によって育てられた経験が含まれる。
5. 評価
ローランド・ジョフィのキャリアは、初期の傑作が批評家から絶賛された一方で、後期の作品では厳しい評価や商業的な失敗に直面するなど、多様な評価を受けている。
5.1. 肯定的評価
ジョフィの初期の映画、特に『キリング・フィールド』と『ミッション』は、広範な批評的称賛を受け、アカデミー監督賞ノミネートやパルム・ドールを含む数々の賞を受賞した。これらの作品は、その力強いストーリーテリング、人道主義的なテーマ、そして複雑な政治的・社会的問題の説得力ある描写で高く評価された。彼の初期の成功は、彼を1980年代の最も重要な社会派映画監督の一人としての地位を確立させた。
5.2. 批判と論争
しかし、彼の後期の作品、例えば『スカーレット・レター』や『キャプティビティ』は、批評家から厳しい評価を受け、商業的にも困難に直面した。『スカーレット・レター』は、不適切なキャスティングと財政的な失敗が特に指摘された。また、『キャプティビティ』は、その宣伝方法が搾取的で女性蔑視的であるとして論争を呼んだ。彼は『スカーレット・レター』と『キャプティビティ』で最低監督賞にノミネートされ、『スカーレット・レター』は最低リメイク・続編賞を受賞している。『シティ・オブ・ジョイ』もまた、「白人救世主」的な物語であるとの批判を受けた。これらの作品は、彼の初期の傑作と比較して、批評的にも商業的にも成功を収めることができなかった。
6. 影響力
ローランド・ジョフィの作品は、その独特の映画的スタイルと、人権や政治、宗教といった社会問題への深いアプローチを通じて、映画界および社会論壇に大きな影響を与えた。
6.1. 映画および社会論壇への影響
ジョフィの映画、特に『キリング・フィールド』や『ミッション』は、人権侵害、政治的紛争、そして植民地主義の影響に対する世界的な認識を高める上で重要な貢献をした。政治的混乱の人間的犠牲と人間の精神の回復力に焦点を当てる彼のストーリーテリングのアプローチは、映画言語と社会問題の描写に永続的な痕跡を残した。彼の作品は、観客に倫理的な問いを投げかけ、社会的な不正義に対する深い考察を促した。また、彼がブラックリストに載せられた論争は、メディア業界における表現の自由と政治的審査の問題を浮き彫りにし、市民的自由に関するより広範な社会論壇に貢献した。彼の作品は、社会的な意識を高め、映画が単なる娯楽ではなく、強力な社会的批評の手段となり得ることを示した。
7. 作品一覧
年 | タイトル | 監督 | 脚本 | プロデューサー | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
1973年-1974年 | 『コロネーション・ストリート』 | あり | なし | なし | テレビシリーズ(4エピソード) |
1974年-1975年 | 『サム』 | あり | なし | なし | テレビシリーズ(4エピソード) |
1975年 | 『ザ・スターズ・ルック・ダウン』 | あり | なし | なし | テレビシリーズ(6エピソード) |
1976年 | 『クラウン・コート』 | あり | なし | なし | テレビシリーズ(4エピソード) |
1976年 | 『ビル・ブランド』 | あり | なし | なし | テレビシリーズ(5エピソード) |
1977年 | 『ヘッドマスター』 | あり | なし | なし | テレビシリーズ(3エピソード) |
1977年 | 『セカンド・シティ・ファースト』 | あり | なし | なし | テレビシリーズ(1エピソード) |
1978年 | 『ザ・スポンジャーズ』 | あり | なし | なし | テレビ映画、イタリア賞受賞 |
1978年 | 『ザ・レギオン・ホール・ボンビング』 | あり | なし | なし | 『プレイ・フォー・トゥデイ』のエピソード |
1979年 | 『ノー・ママ、ノー』 | あり | なし | なし | テレビ映画 |
1980年 | 『'Tis Pity She's a Whore』 | あり | なし | なし | テレビ映画 |
1981年 | 『ユナイテッド・キングダム』 | あり | なし | なし | 『プレイ・フォー・トゥデイ』のエピソード |
1984年 | 『キリング・フィールド』 | あり | なし | なし | アカデミー監督賞ノミネート |
1986年 | 『ミッション』 | あり | なし | なし | パルム・ドール受賞、アカデミー監督賞ノミネート |
1989年 | 『シャドー・メーカーズ』 | あり | なし | なし | |
1992年 | 『シティ・オブ・ジョイ』 | あり | なし | なし | |
1993年 | 『スーパーマリオブラザーズ』 | なし | なし | あり | 部分的に監督も担当 |
1995年 | 『スカーレット・レター』 | あり | なし | なし | 最低監督賞ノミネート、最低リメイク・続編賞受賞 |
1998年 | 『グッバイ・ラバー』 | あり | なし | なし | |
2000年 | 『宮廷料理人ヴァテール』 | あり | なし | なし | |
2000年 | 『ウォータープルーフ』 | なし | なし | あり | |
2002年 | 『アンドレスト』 | あり | なし | なし | テレビシリーズ(1エピソード) |
2007年 | 『キャプティビティ』 | あり | なし | なし | 最低監督賞ノミネート |
2008年 | 『ユー・アンド・アイ』 | あり | なし | なし | |
2011年 | 『ゼア・ビー・ドラゴンズ』 | あり | あり | なし | |
2013年 | 『ザ・ラヴァーズ』 | あり | なし | なし | |
2015年 | 『テキサス・ライジング』 | あり | なし | なし | テレビシリーズ(5エピソード) |
2016年 | 『ミリオン・ダラー・カルテット』 | あり | なし | なし | テレビミニシリーズ(8エピソード) |
2017年 | 『ザ・フォーギヴン』 | あり | あり | なし | |
2021年 | 『ブラッド・オン・ザ・クラウン』 | なし | なし | あり | エグゼクティブ・プロデューサー |