1. 個人背景
伊野波雅彦の幼少期からプロ入り前までの道のりは、サッカーとの出会いや学業、ユース年代での代表経験を通じて形成された。
1.1. 幼少期と家族
伊野波雅彦の実家は豆腐屋を営んでいる。幼少期は水泳や器械体操を習っていたが、9歳の時に全てを辞め、サッカーを始めた。宮崎市立生目台中学校時代には、同期の上田常幸と共に宮崎県選抜に選出された。この頃、同郷の増田誓志を伴い、ブラジルのリオデジャネイロへ2度の短期留学を経験している。また、当時から鹿島アントラーズのファンであり、鹿島ユースへの入団を直談判したが、遠方のクラブに入る負担などを理由に断られた。鹿島が伊野波の地元である宮崎でキャンプを行った際には、練習を見学に行き、小笠原満男と一緒に写真を撮ったこともある。
1.2. 学歴とユース経歴
2001年に鹿児島実業高等学校に進学。高校卒業後のJリーグ入りを目指して数チームの練習に参加したが、契約には至らなかったため、2004年に阪南大学に進学した。大学1年生の時にユニバーシアード候補に選出され、その名を広めた。負傷した吉弘充志の代役として大熊清監督率いるU-20日本代表に抜擢され、2005年のFIFAワールドユース選手権にも参加した。しかし、本大会では出場機会を得られず、この悔しさから大学を休学してプロ入りを決断した。
2. プロキャリア
伊野波雅彦は、日本国内の複数のクラブとクロアチアのクラブでキャリアを築き、各チームで重要な役割を担った。
2.1. FC東京
J1の6クラブからオファーを受け、特に鹿島アントラーズでは既にプロ入りしていた増田誓志からも誘いがあったが、増田との対戦を希望し、2006年1月にFC東京への加入が発表された。当時の監督であったガーロは、開幕戦から新人の伊野波を先発に抜擢し、ボランチで起用した。伊野波は相手キーマンへのマンマークを担った。その後も故障者が多かった守備陣の穴を埋める形で、サイドバックやボランチ、センターバックと複数のポジションで出場機会を与えられた。同年8月23日のJ1第19節アビスパ福岡戦では、ヘディングでプロ初得点を記録した。

2007年はサイドバックにポジションを絞って臨むことを宣言したが、4月に出場機会を失い、ボランチへの転向を志願した。しかし、シーズン中盤以降に今野泰幸がボランチに復帰してからは再び控えに回った。
2.2. 鹿島アントラーズ
2008年、伊野波は鹿島アントラーズへ完全移籍した。同年開催の北京オリンピック代表メンバー入りを目指し、シーズンを通してレギュラーでプレーすることを目標としていたが、序盤はバックアッパーに甘んじ、オリンピック出場を逃した。しかし、シーズン終盤にかけてセンターバックの定位置を奪取。リーグ優勝に貢献し、プロ入り後初のタイトルを獲得した。
2010年序盤は李正秀の加入により出場機会が激減したが、同年7月に李が退団して以降はレギュラーに復帰した。2011年はリーグ戦とACLが併行していた序盤こそ先発出場を続けていたが、ACL敗退後は中田浩二がセンターバックに配されたことで出場機会を減らし、「日本代表で結果を残すため」シーズン途中で退団した。
2.3. ハイドゥク・スプリト
2011年7月、伊野波はクロアチア1部プルヴァHNLのハイドゥク・スプリトへ完全移籍した。クロアチアを足掛かりに上位リーグへの移籍を目指していたが、現地の生活への適応に苦労した。特に、新しい言語の習得の難しさや、チーム内に他のアジア人選手がいないことが主な要因であったと述べている。2011年10月21日のルチュコ戦で、移籍後唯一となる得点を記録した。
2012年1月17日には、給与未払いを理由に初めて練習を欠席した。ハイドゥク・スプリトは当時財政難にあり、伊野波の在籍中には多くの選手が給与の未払いに直面していた。伊野波は3回の練習欠席によりクラブから罰金を科された後、1月下旬に契約を解除し日本に帰国した。ハイドゥク・スプリトでは1シーズンで16試合に出場した。退団に際し、伊野波は「私のキャリア全体で、この2週間ほど悲しかったことはありません」と語った。
2.4. ヴィッセル神戸(第1期)
2012年2月、伊野波はヴィッセル神戸へ完全移籍した。シーズン序盤は主にボランチとして起用されたが、その後センターバックへポジションを移した。しかし、チームはJ2降格を喫し、伊野波は1年で退団することとなった。
2.5. ジュビロ磐田
2013年、伊野波はジュビロ磐田へ完全移籍した。開幕から3バックの一角を務めたが、チームのサッカーに順応できず、代表活動の負担も重なり、チームはJ1第31節のサガン鳥栖戦の敗北により降格した。これにより、神戸在籍時に続く2年連続のJ2降格を経験することとなった。
2014年はディフェンスリーダーとして奮戦したが、好不調の波が激しく安定感を欠き、J1復帰を逃した。2015年は左長母指屈筋の負傷を抱えながらも、守備の要として32試合に出場した。同年11月23日のJ1昇格がかかったJ2最終節大分トリニータ戦では、シーズン初得点となる先制ゴールを決め、同月12日に亡くなった監督・名波浩の父を思い、ユニフォームの袖下から喪章を外し、スタンドへ掲げた。この得点もあってJ1復帰を果たしたが、自身の高年俸やクラブの若手登用の方針から、磐田との契約を満了した。翌年の神戸加入時には、磐田側から戦力外通告を受けた旨を明かしている。
2.6. ヴィッセル神戸(第2期)
タイなどへの海外移籍や引退を含め進路を模索したが、古巣ヴィッセル神戸ではJ2降格を喫し何も成し遂げられなかった、やり残したことがあるとして、2016年2月に同クラブへ完全移籍し、4年ぶりの復帰となった。同年はセンターバックのレギュラーとして出場を続けたが、クエンテン・マルティノス(横浜FM)と共にリーグ最多タイの警告処分を受けた。
2018年シーズンは、なかなか試合に絡むことはできなかったが、10月にフアン・マヌエル・リージョが監督に就任するとボランチとしてレギュラーを奪取した。レギュラーを奪うきっかけとなった第31節の名古屋グランパス戦では、リージョが試合後のインタビューで「伊野波はチームに熱を加えてくれた」と伊野波を称賛している。しかし、チームの新シーズンの始動日である2019年1月17日に契約満了によりヴィッセル神戸を退団することが発表された。
2.7. 横浜FC
2019年2月18日、横浜FCへ移籍することが発表された。2月に入団したこともあり、クラブのキャンプに参加することができず、難しいコンディション調整を強いられたが、3月16日に行われたJ2第4節・アルビレックス新潟戦で移籍後初出場を果たした。新潟戦以降はレギュラーとして出場し、横浜FCのJ1昇格に貢献した。2021年12月30日、契約満了が発表された。
2.8. 南葛SC
2022年3月1日、南葛SCに加入したと発表があった。同年12月19日、プロサッカー選手としての現役引退を発表した。
3. 代表経歴
伊野波雅彦は、ユース年代から日本代表に選出され、A代表でも主要な国際大会に出場した。
3.1. ユース代表経歴
伊野波は、U-20日本代表として2005 FIFAワールドユース選手権に出場した。また、U-22日本代表では北京五輪アジア二次予選までキャプテンを務め、3バックの中央でDFラインを統率した。北京オリンピックアジア最終予選以降は水本裕貴がキャプテンを務めたが、水本は最終予選終了後「伊野波が色々な形で支えてくれたことが大きかった」と語っている。U-23日本代表としてはトゥーロン国際大会にも参加した。
3.2. A代表経歴
2006年8月31日、イビチャ・オシムが指揮するAFCアジアカップ2007予選大会の日本代表メンバーに選出されたが、試合出場はなかった。2007年のアジアカップにも直前で播戸竜二が負傷離脱したため、A代表に緊急招集された。
2010年には、アルベルト・ザッケローニの初采配となるアルゼンチンとのキリンチャレンジカップおよび韓国との国際親善試合の日本代表メンバーに選出された。
2011年のアジアカップでは、サウジアラビア戦に後半から内田篤人と交代で日本代表初出場を果たし、直後に前田遼一へのアシストを決めた。内田の出場停止により初の先発出場となった準々決勝のカタール戦では、オフサイドをかけ損なって失点につながるなど終始低調なパフォーマンスだったが、終盤に値千金の決勝点を決めた。
2014年5月12日、2014 FIFAワールドカップの日本代表メンバーに選出された。所属するジュビロ磐田は2013年にJ2に降格しているため、J2クラブ所属でワールドカップ日本代表に選出された史上3人目の選手となった(2002年大会にセレッソ大阪から選出された西澤明訓と森島寛晃以来。日本以外を含めると、2006年大会にサガン鳥栖から選出された韓国代表の尹晶煥もいるため4人目)。しかし、本大会での出場機会はなく、チームもグループリーグで敗退した。
4. プレースタイル・ポジション
伊野波雅彦は、主にディフェンダーとしてプレーし、センターバック、サイドバック、そしてミッドフィールダーのボランチをこなすことができるユーティリティ性を持っていた。特にセンターバックでは、その守備能力とリーダーシップでチームを牽引した。
5. 獲得タイトル
伊野波雅彦はプロキャリアを通じて、クラブおよび日本代表で以下のタイトルを獲得している。
- クラブ**
- Jリーグ:2008年、2009年(鹿島アントラーズ)
- 天皇杯全日本サッカー選手権大会:2010年(鹿島アントラーズ)
- FUJI XEROX SUPER CUP:2009年、2010年(鹿島アントラーズ)
- 日本代表**
- AFCアジアカップ:2011年
- 個人**
- 関西学生サッカーリーグ 新人賞(2004年)
- デンソーカップ日韓大学定期戦 優秀MF賞
- ユニバーシアードサッカー競技:2005年
6. 個人成績
伊野波雅彦のクラブおよび日本代表での個人成績は以下の通りである。
| クラブ | シーズン | リーグ | カップ戦 | リーグカップ | 国際大会 | その他 | 合計 | ||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||
| FC東京 | 2006 | 28 | 1 | 2 | 0 | 5 | 0 | - | - | 35 | 1 | ||
| 2007 | 20 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | - | - | 24 | 0 | |||
| 合計 | 48 | 1 | 2 | 0 | 9 | 0 | - | - | 59 | 1 | |||
| 鹿島アントラーズ | 2008 | 23 | 0 | 2 | 0 | 1 | 0 | 2 | 0 | - | 28 | 0 | |
| 2009 | 30 | 1 | 4 | 0 | 2 | 0 | 6 | 0 | 1 | 0 | 43 | 1 | |
| 2010 | 26 | 0 | 5 | 0 | 2 | 0 | 5 | 0 | - | 38 | 0 | ||
| 2011 | 10 | 1 | - | - | 3 | 0 | - | 13 | 1 | ||||
| 合計 | 89 | 2 | 11 | 0 | 5 | 0 | 16 | 0 | 1 | 0 | 122 | 2 | |
| ハイドゥク・スプリト | 2011-12 | 15 | 1 | 3 | 0 | - | 1 | 0 | - | 19 | 1 | ||
| ヴィッセル神戸 | 2012 | 22 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | - | - | 23 | 0 | ||
| ジュビロ磐田 | 2013 | 25 | 1 | 0 | 0 | 4 | 0 | - | - | 29 | 1 | ||
| 2014 | 25 | 1 | 1 | 0 | - | - | - | 26 | 1 | ||||
| 2015 | 32 | 1 | 0 | 0 | - | - | - | 32 | 1 | ||||
| 合計 | 82 | 3 | 1 | 0 | 4 | 0 | - | - | 87 | 3 | |||
| ヴィッセル神戸 | 2016 | 27 | 0 | 1 | 0 | 6 | 0 | - | - | 34 | 0 | ||
| 2017 | 15 | 0 | 5 | 0 | 3 | 1 | - | - | 23 | 1 | |||
| 2018 | 10 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | - | - | 10 | 0 | |||
| 合計 | 52 | 0 | 6 | 0 | 9 | 1 | - | - | 67 | 1 | |||
| 横浜FC | 2019 | 28 | 0 | - | 0 | 0 | - | - | 28 | 0 | |||
| 2020 | 19 | 0 | 1 | 0 | - | - | - | 20 | 0 | ||||
| 2021 | 19 | 0 | 2 | 0 | 1 | 0 | - | - | 22 | 0 | |||
| 合計 | 66 | 0 | 3 | 0 | 1 | 0 | - | - | 70 | 0 | |||
| 南葛SC | 2022 | 1 | 0 | - | - | - | - | 1 | 0 | ||||
| キャリア通算 | 382 | 7 | 26 | 0 | 20 | 1 | 17 | 0 | 1 | 0 | 446 | 8 | |
| 日本代表 | 年 | 出場 | 得点 |
|---|---|---|---|
| 日本 | 2011 | 9 | 1 |
| 2012 | 7 | 0 | |
| 2013 | 4 | 0 | |
| 2014 | 1 | 0 | |
| 合計 | 21 | 1 | |
| No. | 開催日 | 開催地 | 対戦相手 | スコア | 結果 | 大会 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 2011年1月21日 | アル=ガラーファ・スタジアム、ドーハ、カタール | カタール | 3-2 | 3-2 | AFCアジアカップ2011 |
7. 人物・エピソード
伊野波雅彦の個人的な生活には、趣味や結婚、そして投資に関するトラブルといったエピソードがある。
- 季節に関係なく1日2個は必ず食べるというほどアイスクリームが大好物である。
- 2008年の開幕前に入籍した。相手は2歳年上で、阪南大学時代の友人の紹介で出会った。
- 2018年12月14日に、投資関係のトラブルで元チームメイトの梶山陽平と訴訟問題を抱えていると報じられた。報道によると、高配当で勧誘され「25.00 億 JPY」の損害を被ったとされている。
8. 引退
2022年12月19日、伊野波雅彦はプロサッカー選手としての現役引退を発表した。最後の所属クラブは南葛SCであった。
9. 外部リンク
- [http://samuraiblue.jp/member/inoha_masahiko.html 日本サッカー協会によるプロフィール]
- [http://www.jfootball-db.com/en/players/inoha_masahiko.html Japan National Football Team Database]
- [https://www.national-football-teams.com/player/41405/Masahiko_Inoha.html National Football Teams]
- [http://www.jubilo-iwata.co.jp/tas/player/2013/19.php ジュビロ磐田によるプロフィール (2013年)]
- [http://www.jubilo-iwata.co.jp/tas/player/2014/19.php ジュビロ磐田によるプロフィール (2014年)]
- [http://www.jubilo-iwata.co.jp/tas/player/2015/19.php ジュビロ磐田によるプロフィール (2015年)]
- [http://www.vissel-kobe.co.jp/profile/?mode=detail&id=119 ヴィッセル神戸によるプロフィール]