1. 幼少期とユース時代
前田遼一のサッカーキャリアは、幼少期にアメリカで過ごした経験と、日本に帰国してからの真摯な取り組みによって形作られました。
1.1. 幼少期と教育
前田遼一は1981年10月9日に兵庫県神戸市で生まれました。生後1歳の頃からアメリカのロサンゼルスへ転居し、小学1年生までの6年間を同地で過ごしました。日本へ帰国してからは、小学2年生時に東京都の小学校へ、小学3年生時には横浜市へ転居し、横浜市立鴨志田緑小学校に通いました。
2歳年上の兄の影響でサッカーを始め、小学3年生の時に本格的にサッカーに取り組み始めました。第72回全国高等学校サッカー選手権大会を観戦して、同大会に出場していた暁星高校への進学を決意し、1994年より暁星中学校へ進学しました。中学生時代には東京都選抜やナショナルトレセンに選出されています。
1.2. ユースクラブ経歴
前田はユース時代に以下のクラブでプレーしました。
- 1993年: リバースJr.FC
- 1994年 - 1996年: 暁星中学校
- 1997年 - 1999年: 暁星高等学校
高校生時には国体東京都代表として、1学年下の田中達也(帝京高校)らとともに2年次にベスト8入りを果たしました。暁星高校では主将も務めましたが、全国高校選手権には高校2年と3年のいずれも東京都予選の準決勝で敗退し、一度も出場できませんでした。
また、高校在学中にはヴェルディ川崎の強化指定選手に登録されていました。この制度により、高校のクラブでプレーする資格を維持しながらヴェルディ川崎の選手として登録できましたが、公式戦への出場はありませんでした。当時は全国高校選手権で活躍した3学年年上の中村俊輔に憧れ、足元の技術やプレースタイル全般について強い影響を受けました。
2. クラブ経歴
前田遼一はプロサッカー選手として、ジュビロ磐田、FC東京、FC岐阜の3クラブで活躍しました。
2.1. ジュビロ磐田
慶應義塾大学への推薦入学が決定していましたが、Jリーグ13チームからの勧誘や高校の監督の勧めもあり、プロ入りを決断し、2000年よりジュビロ磐田に入団しました。
磐田にはドリブルを得意とするミッドフィールダー(MF)として加入しましたが、磐田のMFの選手層が厚かったことや、トップ下、1.5列目のFWなど起用法が一貫せず、2001年までは出場機会が乏しい時期が続きました。しかし、後にチームメートの川口能活は、MFを経験していることが前田のFWとしての強みの一つであると語っています。2001年9月1日のJ1セカンドステージ第1節清水戦(静岡ダービー)でJリーグ初得点を記録しました。
徐々に出場機会を増やしていましたが、2002年6月のヤマザキナビスコカップ仙台戦で後方からの悪質なファウルにより右膝を負傷し、外側半月板縦断裂と診断され長期離脱を余儀なくされました。
磐田のチームメートである中山雅史や高原直泰に影響されて、目指すストライカー像を描きFWとしての素養を磨いた結果、負傷から回復した2003年には恥骨結合炎により欠場した中山の代役として2トップの一角に起用され、ゴール前での精力的な動き出しからリーグ戦7得点を挙げました。2004年からはFWへ登録変更しています。
2005年からはリーグ戦で3年連続で二桁得点を記録しました。2007年は右膝半月板損傷によって出遅れましたが、復帰後は攻撃の大黒柱として高レベルのプレーを見せました。同年10月9日、自身の誕生日に結婚しています。
2008年も序盤は半月板損傷による再離脱がありましたが、中盤以降に復帰し、同年10月5日のJ1第28節札幌戦では、2005年7月9日のJ1第15節C大阪戦以来となる3年ぶりのハットトリックを達成し、好調ぶりをアピールしました。
2009年には10月25日のJ1第25節名古屋戦で自身J1リーグ戦3度目となるハットトリックも達成。自身初めてリーグ戦全試合フル出場を果たし、PKなしでの20得点を記録して得点王に輝きました。また、自身初のJリーグベストイレブンにも選出されました。同年オフには複数クラブから移籍を打診され争奪戦となりましたが、磐田に残留しました。
2010年、磐田との2年契約を締結しました。なお、クラブからは同年限りで磐田を退団する中山雅史の背番号9を託されていましたが、これを固辞しています。背番号9は空き番となり、2010年と2011年は誰も着用しませんでした。同年11月のヤマザキナビスコカップ決勝戦では広島を相手に、延長戦に入っても衰えないプレーぶりで自身の挙げた2得点を含めて4得点に絡む大活躍を見せ、大会MVPに選出されました。同月27日のJ1第33節名古屋戦ではヘディングシュートを決め、史上9人目(日本人では5人目)、かつ歴代最年少となるJ1通算100得点を達成しました。一つのクラブでJ1通算100得点を達成したのは、日本人では中山雅史と前田のみです。積極的にプレスを掛け、味方のスペースを作る動きと正確なトラップ、懐の深いポストプレーで確実にボールを繋ぐ多様な働きに加え、通年での活躍によって前年より減ったもののシーズン通算17得点を記録。2年連続の得点王(ジョシュア・ケネディ(名古屋)と同点で両名受賞)に輝き、Jリーグベストイレブンにも選出されました。2年連続得点王はJリーグ史上初の快挙でした。
2011年はシーズン中盤の負傷離脱もあり3年連続での得点王を逃しましたが、怪我からの復帰後は9試合で6得点と奮闘し、通年では14得点を挙げました。この年限りで磐田との契約が切れることもあり、横浜FMなどの他、イングランド2部リーグ・ウェストハムUtdから獲得オファーを受け渡英しました。メディカルチェックと練習参加を行ったものの、労働ビザ取得がネックとなり契約には至らず、磐田に残留しました。イングランドは、外国籍選手の就労ビザ取得要件が他国と比べて厳しいことが知られています。
2012年はチームの1トップ採用にも適応し、相手からのマークが厳しくなる中でつぶれ役としても奮闘しました。日本代表招集中の負傷の影響で1試合欠場したものの、33試合に出場しました。中盤までは好調で、得点ランキングでは一時佐藤寿人に次ぐ2位にまで浮上しましたが、後半は調子を落とし、最終節まで9試合無得点(自身が欠場した試合含めれば10試合)でした。しかし最終節G大阪戦では1得点1アシストの活躍で、通年で13得点を挙げました。
2013年は「ホットライン」を形成していた駒野友一や他の攻撃陣との連携が合わず、得点の好機が激減。波に乗り切れないまま5年連続のJ1二桁得点を果たすことができず、チームはJ2降格を喫しました。
横浜FMからの再オファーも報じられましたが交渉はまとまらず、2014年は磐田の顔としてクラブ・自身共に初となるJ2でプレーしました。同年7月5日、J2第21節京都戦でJリーグ通算150得点を挙げました。シーズン終盤になって名波浩が監督に就任すると、初戦のJ2第34節愛媛戦からゲームキャプテンを任されました。名波はこの登用について「ゴールでチームを引っ張ってほしいのですが、それだけの責任では足りないと。彼がこのクラブで高校を卒業してからやってきて作り上げた地位は確固たるものだと、僕自身もサポーターもそれからクラブも思っていると思うので。その確固たる地位というのはだれからも信頼されて、尊敬される立場だと思いますし、そこに責任というのを前田にのしかけたいということが一つ」と話しています。通年37試合17得点を記録しチーム得点王となりましたが、プレーオフで敗れJ1昇格は叶いませんでした。
磐田からはエースの流出を防ぐべく契約延長を打診されていましたが、大幅な減俸提示であったことからJ1でのプレーを希望し、この年限りで15年間在籍した磐田を退団しました。
2.2. FC東京
2015年、FC東京へ完全移籍しました。当初は2年ぶりのJ1と初めての移籍に戸惑い、適応するまでにやや時間を要しましたが、6月の1st第17節清水戦では2得点を挙げて三浦知良を上回るJ1通算140得点を記録しました。9月の2nd第10節神戸戦では6年ぶり、自身4度目となるハットトリックを達成しました。味方の攻め上がりを促すポストワークも健在で、前線の核として定着しました。
2016年5月、ACL第6節ビンズオン戦では決勝トーナメント進出を決める2得点を挙げました。同年8月13日、2nd第8節神戸戦で史上5人目となるJ1通算150ゴールを達成しました。同年9月の同11節湘南戦において、頭による得点では通算45得点目となるヘディングシュートを決め、中山雅史の持つJリーグ記録を更新しました。さらに、J1通年での敵陣における空中戦勝率で日本人最高値を記録しています。また、得点以外でも得意のポストプレーやチームトップクラスの走行距離を記録し、貢献しました。
2017年8月9日に行われた第21節大宮戦でJ1通算400試合出場を達成しましたが、シーズンを通してレギュラーを獲得できず、J3リーグに所属するFC東京U-23の試合に出場する事もありました。
2018年シーズンもレギュラーを獲得できませんでしたが、最終節の浦和戦で得点を決めて15年連続リーグ戦得点を挙げました。シーズン終了後に契約満了により4年間在籍したチームを退団しました。
2.3. FC岐阜
2019年1月7日、FC岐阜へ完全移籍しました。5月5日、第11節のFC琉球戦で移籍後初ゴールを決めました。また9月14日にはJ1、J2、J3を合わせたJリーグ通算500試合出場(カップ戦除く)を達成しました。
2020年12月26日、契約満了による退団が発表されました。その後、代表のユース時代のチームメイトである茂庭照幸が所属するFCマルヤス岡崎や、2001年ワールドユースで監督だった西村昭宏がGM兼監督を務める高知ユナイテッドSC(共にJFL)からのオファー、そして正式オファーではなかったもののカンボジアのチームから興味を持たれ、引退か現役続行か葛藤しました。しかし、「現役選手を続けるよりも、指導者の道に進んだ方がやりがいがあるんじゃないかと感じたこと」で、現役引退を決意しました。
3. 国家代表経歴
前田遼一は、各年代別の日本代表チームからA代表まで、幅広く選出され日本の国際舞台での活躍に貢献しました。
3.1. 年代別国家代表チーム
高校3年生時にU-18日本代表に選ばれ、1999年にはフローニンゲン国際ユース大会(9位)、SBSカップ(優勝)に出場しました。
2000年にはU-19日本代表の一員としてテルボルグ国際ユース大会(7位)、AFCユース選手権(予選)、SBSカップ(優勝)に出場し、AFCユース選手権準優勝に貢献しました。この大会では1得点ながら柔軟なボールコントロールと閃きでチャンスを作り、大会MVPに選出されました。
2001年には、U-20日本代表の一員としてU-20トーナメント香港(4位)、ジャパンユースカップ(優勝)、トゥーロン国際大会(GL敗退)、ワールドユース選手権(GL敗退)に出場しました。
2002年にはU-21日本代表としてトゥーロン国際大会(離脱)、アジア競技大会(準優勝)に出場しました。
2003年にはU-22日本代表としてカタール国際ユーストーナメント(準優勝)、アテネオリンピックアジア2次予選に出場しました。
2004年はU-23日本代表としてアテネオリンピックアジア最終予選に出場しました。既に磐田ではFWでのプレーを続けていましたが、監督の山本昌邦からはMFに配されました。本大会直前でメンバー選考から漏れ、予備登録に留まりました。
3.2. A代表チーム
2001年10月、20歳にしてフィリップ・トルシエ監督率いるA代表の候補合宿に初選出されました。しかし、翌2002年からのジーコ体制下の4年間は招集されませんでした。
2006年秋、イビチャ・オシム監督指揮の下、これまで候補止まりであったA代表に初選出されました。オシムからは、運動量が非常に多く、個人技術に優れ、見た目にはそれほど速くは見えないが、いつの間にか相手にとって危険な地域にいる、日本に不足していたタイプと評され大きな期待を寄せられました。2007年8月22日に九州石油ドームで行われたカメルーン代表との親善試合で国際Aマッチデビューを果たしました。同年10月17日、大阪長居スタジアムで行われたエジプト代表戦(オシムが日本代表監督として指揮した最後の試合)に先発出場し、国際Aマッチ初ゴールを挙げました。
オシム監督の後任である岡田武史監督からも高さ・足元の技術・守備意識を併せ持つ点を認められ、2008年の東アジア選手権に出場しました。北朝鮮代表戦で代表2得点目を挙げましたが、古傷の右膝痛がぶり返したため大会途中で離脱しました。岡田監督はその後も招集の機会を探っていましたが、コンディションが整わず選外が続きました。2009年に入って復調し、リーグ戦の活躍が評価されて同年9月に約1年3か月ぶりの代表復帰を果たしました。しかし、2トップでのプレーを希望する前田に対し、岡田監督は1トップに入ることを要求。最終的には戦術不適合とされ、翌年開催のワールドカップ本戦では予備登録止まりでメンバーから外れました。
2010年、アルベルト・ザッケローニ監督の就任以降は初采配時から代表に選ばれ、1トップに入りしぶとくポストプレーをこなして味方を助けました。2011年1月開催のAFCアジアカップにも選出されました。身体の強さと高さを発揮し、巧みにボールを引き出してチーム戦術に適応しました。同大会では全6試合に先発出場し、グループリーグサウジアラビア代表戦で2得点、準決勝韓国代表戦では同点に追いつくゴールを決め、日本代表の2大会ぶり4回目の優勝に貢献しました。怪我の影響で一時選外となりますが、同年11月に代表に復帰し、FIFAワールドカップアジア3次予選のタジキスタン代表戦には途中出場で1得点を挙げ、北朝鮮代表戦では先発出場しました。同年の活躍により、日本代表のエースストライカーとも称されました。
2012年もA代表に定着し、ザッケローニ監督が海外でプレーするFWが見たいと明言して選抜したFIFAワールドカップアジア3次予選のウズベキスタン代表戦を除く予選全試合に招集されましたが、同年10月の欧州遠征では練習中に左太腿裏を痛め、試合に出場しないまま途中離脱しました。FIFAワールドカップアジア最終予選では、1トップとして全試合に先発出場。前線の好連携で攻撃のリズムを作り出し、自身も5試合で3得点を挙げる高い得点能力で予選突破を果たしました。
2013年のFIFAコンフェデレーションズカップでも、得点場面だけではない90分通しての貢献度を高く評価され全3試合に出場しました。ザッケローニ監督からはイタリア代表戦においてアンドレア・ピルロ対策を完璧に行ったと賛辞され、元イタリア代表監督のアリゴ・サッキからも同試合で一番印象に残った選手として挙げられましたが、好機を逸し無得点に終わりました。その後、代表経験の少ない選手中心で臨んだ東アジア選手権で柿谷曜一朗と大迫勇也が活躍すると、以降はその2人を起用する形となり、2014 FIFAワールドカップ本大会メンバーからも外れました。W杯メンバーからは外れたものの、メンバー発表後にザッケローニ監督は通訳の矢野大輔を通じて電話で前田にこれまでの感謝の言葉を送っています。
4. 引退後の経歴
選手引退後の前田遼一は、指導者として日本のサッカー界に貢献しています。
4.1. 指導者経歴
2021年1月14日に現役を引退し、同日、ジュビロ磐田U-18のコーチに就任することを発表しました。2022年にはジュビロ磐田U-18の監督に就任しました。
2023年には、ジュビロ磐田に監督として招聘された横内昭展氏の後任として、森保ジャパンのコーチに就任しました。
5. 人物・エピソード
前田遼一は、その寡黙な性格や大食漢としての一面、そして「前田の呪い」と呼ばれるジンクスなど、選手生活を通して数々のエピソードで知られています。
5.1. 性格と習慣
特に無口ではないものの、「記者泣かせ」と形容されるほど人前では寡黙で、インタビューが苦手な一面を持っています。前田本人も自身のキャラクターを認め、「話をしないイメージに乗っかって楽させてもらっているのかも」と語っています。
大食漢としても知られています。2004年のアテネオリンピック予選では、UAE遠征中の代表メンバー内に下痢が蔓延する中、前田はこれに動じることなく食事をとっていました。2011年のAFCアジアカップの際には「中東の空気は嫌いじゃない。食事も何でも食べられる」とコメントしています。チームメートの川島永嗣は、「代表の食事の時とか、僕も結構食べる方なんですけど、食事の終わり頃になっても『まだ食べてるの?』っていうのはよくあります」と前田の食べっぷりを明かしています。
30歳を過ぎても食べる量は落ちず、2012年末にはジュビロ磐田のシーズンシート購入者への感謝イベント『2012 Jubilo Corte Azul Awards』で今年一年最も食べたで賞を受賞しました。また、食べたらタダになる1300 gのCoCo壱番屋のカレーを約20分で完食したことがあります。FC東京移籍後はクラブ側もこれを積極的にネタに使っており、「#ごはん大好き前田選手」というtwitterのハッシュタグを設け、いわゆるスタジアムグルメの宣伝等に利用しています。2015年にスカパー!のコパ・アメリカ中継のCMに出演した際も「丼飯を沢庵だけをおかずに食べる」という大食漢キャラを利用した設定がされました。なお、ごはんが食べられなくなるという理由で間食はしないと語っています。
5.2. 「前田の呪い」ジンクス
「前田遼一がリーグ戦でシーズン最初のゴールを決めた相手はJ2に降格する」という内容のジンクス「前田(遼一)の呪い」が、2012年シーズン終盤に相次いで報じられました。現に、2007年のヴァンフォーレ甲府に始まり、東京ヴェルディ、ジェフユナイテッド市原・千葉、京都サンガF.C.、モンテディオ山形と5年連続で対象クラブの降格が続いていました。
2012年の対象クラブはJリーグの「オリジナル10」の一つであり、降格経験のないガンバ大阪でしたが、G大阪もまた前年まで3位、2位、3位と続いていた好成績が一転して残留争いに巻き込まれ、最終節で磐田との対戦に敗れれば降格という事態に陥りました。そして試合は、前田の1得点1アシストを含む2-1のスコアで磐田が勝利し、G大阪の降格が決定。6年連続でジンクスが継続する結果となりました。
年度 | 初得点 | 対戦相手 | 最終順位 | 結果 |
---|---|---|---|---|
2007 | 第14節 | 甲府 | 17位 | J2降格 |
2008 | 第19節 | 東京V | 17位 | J2降格 |
2009 | 第5節 | 千葉 | 18位 | J2降格 |
2010 | 第4節 | 京都 | 17位 | J2降格 |
2011 | 第10節 | 山形 | 18位 | J2降格 |
2012 | 第3節 | G大阪 | 17位 | J2降格 |
2013 | 第5節 | 浦和 | 6位 | J1残留 |
2014 | 第2節 | カマタマーレ讃岐 | 21位 | J2残留(J2・J3入れ替え戦勝利) |
しかし、2013年に前田がシーズン初ゴールを決めた浦和レッズは残留し、逆にこの年は自身の所属する磐田がJ2に降格してしまいました。2014年に前田がシーズン初ゴールを決めたカマタマーレ讃岐も年間21位の成績でJ2・J3入れ替え戦に回るも、AC長野パルセイロに勝ち、J2残留を決めました。
2012年のG大阪戦の後、前田はこのジンクスについて「思うところは何もない」「もともと何も考えていない」とコメントしました。
その後、2013年シーズンの開幕時にコメントを求められた際には「僕としてはやめてほしい。そういう話とは関係なく、ゴールを決めたい」と、快く思っていないことを明かしました。また、当時の磐田監督の森下仁志も「デスゴールなどと言うのは遼一に対しても相手に対しても失礼」と話しました。一方、2013年のリーグ初戦で対戦した名古屋グランパス監督のドラガン・ストイコビッチは、引き分けとなった試合終了後の会見で自ら切り出して「ひとつ大事なことがある。それは前田にゴールを入れさせなかったことだ」と語り、さらに頭の上で丸印を作り「これでJ1に残れる」と笑顔を見せました。
多くのスポーツ新聞やテレビ番組等に報じられ、過熱する「デスゴール報道」に、磐田は困惑し、服部健二GMは報道陣に対して「パフォーマンスに影響が出る可能性があるので、1点目を取るまでは磐田発信でのこの件に関する報道は控えてほしい」と報道の自粛を要請しました。
このジンクスは日本のマスコミだけではなく、イギリスのサッカー誌フォーフォーツーでも取り上げられたことがあります。
6. 栄誉
前田遼一は、クラブおよび国家代表チームで数々のタイトルを獲得し、個人としても多くの賞を受賞しました。
6.1. クラブタイトル
- J1リーグ: 2002(ジュビロ磐田)
- Jリーグカップ: 2010(ジュビロ磐田)
- ゼロックススーパーカップ: 2003(ジュビロ磐田)
6.2. 国際大会タイトル
- AFCアジアカップ: 2011(日本代表)
- AFCアジア/アフリカチャレンジカップ: 2007(日本代表)
6.3. 個人タイトル
- アジア年間最優秀ユース選手賞: 2000
- Jリーグ得点王: 2009、2010
- Jリーグベストイレブン: 2009、2010
- Jリーグカップ・MVP: 2010
- J2 Exciting 22: 2014
- AFC月間最優秀選手賞: 2000年11月
7. 経歴統計
7.1. クラブ統計
クラブ | シーズン | リーグ | 天皇杯 | Jリーグカップ | アジア | 合計 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
リーグ | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||
ジュビロ磐田 | 2000 | J1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | - | 4 | 0 | |
2001 | 9 | 2 | 2 | 1 | 5 | 1 | - | 16 | 4 | |||
2002 | 4 | 0 | 2 | 0 | 3 | 1 | - | 9 | 1 | |||
2003 | 28 | 7 | 9 | 5 | 5 | 1 | - | 42 | 13 | |||
2004 | 27 | 8 | 6 | 1 | 5 | 3 | 3 | 1 | 41 | 13 | ||
2005 | 25 | 12 | 2 | 2 | 0 | 0 | 3 | 0 | 30 | 14 | ||
2006 | 27 | 15 | 7 | 1 | 3 | 2 | - | 37 | 18 | |||
2007 | 22 | 12 | 0 | 0 | 2 | 1 | - | 24 | 13 | |||
2008 | 22 | 8 | 0 | 0 | 0 | 0 | - | 22 | 8 | |||
2009 | 34 | 20 | 6 | 3 | 2 | 1 | - | 42 | 24 | |||
2010 | 33 | 17 | 10 | 3 | 1 | 0 | - | 44 | 20 | |||
2011 | 28 | 14 | 3 | 1 | 0 | 0 | - | 31 | 15 | |||
2012 | 33 | 13 | 4 | 2 | 1 | 1 | - | 38 | 16 | |||
2013 | 33 | 9 | 4 | 1 | 2 | 1 | - | 39 | 11 | |||
2014 | J2 | 37 | 17 | - | 0 | 0 | - | 37 | 17 | |||
ジュビロ磐田 合計 | 363 | 154 | 48 | 20 | 28 | 11 | 6 | 1 | 445 | 186 | ||
FC東京 | 2015 | J1 | 30 | 9 | 2 | 1 | 6 | 0 | - | 38 | 10 | |
2016 | 29 | 6 | 1 | 0 | 3 | 0 | 8 | 3 | 41 | 9 | ||
2017 | 26 | 1 | 1 | 0 | 7 | 1 | - | 34 | 2 | |||
2018 | 18 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | - | 19 | 1 | |||
FC東京 合計 | 103 | 17 | 4 | 1 | 17 | 1 | 8 | 3 | 132 | 22 | ||
FC東京U-23 | 2017 | J3 | 2 | 0 | - | - | - | 2 | 0 | |||
2018 | 8 | 3 | - | - | - | 8 | 3 | |||||
FC東京U-23 合計 | 10 | 3 | - | - | - | 10 | 3 | |||||
FC岐阜 | 2019 | J2 | 34 | 5 | - | 0 | 0 | - | 34 | 5 | ||
2020 | J3 | 25 | 1 | - | - | - | 25 | 1 | ||||
FC岐阜 合計 | 59 | 6 | - | 0 | 0 | - | 59 | 6 | ||||
キャリア通算 | 535 | 180 | 52 | 21 | 45 | 12 | 14 | 4 | 646 | 217 |
その他の公式戦出場記録:
- 2001年 Jリーグチャンピオンシップ: 1試合0得点
- 2003年 A3チャンピオンズカップ: 1試合0得点
- 2008年 J1・J2入れ替え戦: 2試合0得点
- 2014年 J1昇格プレーオフ: 1試合0得点
- 2016年 AFCチャンピオンズリーグ・プレーオフ: 1試合1得点
出場歴:
- 2000年5月3日:Jリーグ初出場 - J1 1st第10節 vs川崎フロンターレ(等々力陸上競技場)
- 2001年8月28日:公式戦初得点 - ナビスコカップ vsジェフユナイテッド市原戦(市原臨海競技場)
- 2001年9月1日:Jリーグ初得点 - J1 2nd第1節 vs清水エスパルス(静岡スタジアムエコパ)
- 2006年7月12日:J1通算100試合出場 - J1第11節 vsガンバ大阪(石川県西部緑地公園陸上競技場)
- 2010年3月13日:J1通算200試合出場 - J1第2節 vsアルビレックス新潟(東北電力ビッグスワンスタジアム)
- 2010年11月27日:J1通算100得点 - J1第33節 vs名古屋グランパス(ヤマハスタジアム) ※歴代最年少
- 2013年4月20日:J1通算300試合出場 - J1第7節 vsサンフレッチェ広島(ヤマハスタジアム)
- 2014年7月5日:Jリーグ通算150得点 - J2第21節 vs京都サンガF.C.(西京極スタジアム)
- 2016年8月13日:J1通算150得点 - J1 2nd第8節 vsヴィッセル神戸(ノエビアスタジアム神戸)
ハットトリック達成記録:
- 2005年7月9日 - J1第15節 vsセレッソ大阪(ヤマハスタジアム)
- 2008年10月5日 - J1第28節 vsコンサドーレ札幌(ヤマハスタジアム)
- 2009年10月25日 - J1第30節 vs名古屋グランパス(豊田スタジアム)
- 2015年9月12日 - J1 2nd第10節 vsヴィッセル神戸(味の素スタジアム)
7.2. 国際統計

年ごとの国家代表チームでの出場および得点記録です。
国家代表チーム | 年 | 出場 | 得点 |
---|---|---|---|
日本 | 2007 | 2 | 1 |
2008 | 1 | 1 | |
2009 | 2 | 0 | |
2010 | 2 | 0 | |
2011 | 9 | 4 | |
2012 | 8 | 4 | |
2013 | 9 | 0 | |
合計 | 33 | 10 |
7.2.1. 国際Aマッチ出場記録
国際Aマッチにおける詳細な出場記録です。
No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦国 | 結果 | 監督 | 大会 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1. | 2007年8月22日 | 大分 | 九州石油ドーム | カメルーン | ○2-0 | オシム | キリンチャレンジカップ2007 |
2. | 2007年10月17日 | 大阪 | 大阪長居スタジアム | エジプト | ○4-1 | オシム | AFCアジア/アフリカチャレンジカップ2007 |
3. | 2008年2月17日 | 重慶 | 重慶市奥林匹克体育中心 | 朝鮮民主主義人民共和国 | △1-1 | 岡田武史 | 東アジアサッカー選手権2008 |
4. | 2009年9月9日 | エンスヘーデ | デ・フロルーシュ・フェステ | ガーナ | ○4-3 | 岡田武史 | 国際親善試合 |
5. | 2009年10月10日 | 横浜 | 日産スタジアム | スコットランド | ○2-0 | 岡田武史 | キリンチャレンジカップ2009 |
6. | 2010年10月8日 | さいたま | 埼玉スタジアム2002 | アルゼンチン | ○1-0 | ザッケローニ | キリンチャレンジカップ2010 |
7. | 2010年10月12日 | ソウル | ソウルワールドカップスタジアム | 韓国 | △0-0 | ザッケローニ | 国際親善試合 |
8. | 2011年1月9日 | ドーハ | カタールSCスタジアム | ヨルダン | △1-1 | ザッケローニ | AFCアジアカップ2011 |
9. | 2011年1月13日 | ドーハ | カタールSCスタジアム | シリア | ○2-1 | ザッケローニ | AFCアジアカップ2011 |
10. | 2011年1月17日 | アルライヤン | アフメド・ビン=アリー・スタジアム | サウジアラビア | ○5-0 | ザッケローニ | AFCアジアカップ2011 |
11. | 2011年1月21日 | ドーハ | サーニー・ビン・ジャーシム・スタジアム | カタール | ○3-2 | ザッケローニ | AFCアジアカップ2011 |
12. | 2011年1月25日 | ドーハ | サーニー・ビン・ジャーシム・スタジアム | 韓国 | ○2-2 (PK3-0) | ザッケローニ | AFCアジアカップ2011 |
13. | 2011年1月29日 | ドーハ | ハリファインターナショナルスタジアム | オーストラリア | ○1-0 | ザッケローニ | AFCアジアカップ2011 |
14. | 2011年6月1日 | 新潟 | 東北電力ビッグスワンスタジアム | ペルー | △0-0 | ザッケローニ | キリンカップサッカー2011 |
15. | 2011年11月11日 | ドゥシャンベ | ドゥシャンベ・セントラル・スタジアム | タジキスタン | ○4-0 | ザッケローニ | 2014 FIFAワールドカップ・アジア3次予選 |
16. | 2011年11月15日 | 平壌 | 金日成競技場 | 朝鮮民主主義人民共和国 | ●0-1 | ザッケローニ | 2014 FIFAワールドカップ・アジア3次予選 |
17. | 2012年2月24日 | 大阪 | 大阪長居スタジアム | アイスランド | ○3-1 | ザッケローニ | キリンチャレンジカップ2012 |
18. | 2012年5月23日 | 袋井 | エコパスタジアム | アゼルバイジャン | ○2-0 | ザッケローニ | キリンチャレンジカップ2012 |
19. | 2012年6月3日 | さいたま | 埼玉スタジアム2002 | オマーン | ○3-0 | ザッケローニ | 2014 FIFAワールドカップ・アジア最終予選 |
20. | 2012年6月8日 | さいたま | 埼玉スタジアム2002 | ヨルダン | ○6-0 | ザッケローニ | 2014 FIFAワールドカップ・アジア最終予選 |
21. | 2012年6月12日 | ブリスベン | ブリスベン・スタジアム | オーストラリア | △1-1 | ザッケローニ | 2014 FIFAワールドカップ・アジア最終予選 |
22. | 2012年8月15日 | 札幌 | 札幌ドーム | ベネズエラ | △1-1 | ザッケローニ | キリンチャレンジカップ2012 |
23. | 2012年9月11日 | さいたま | 埼玉スタジアム2002 | イラク | ○1-0 | ザッケローニ | 2014 FIFAワールドカップ・アジア最終予選 |
24. | 2012年11月14日 | オマーン | スルタン・カーブース・スポーツコンプレックス | オマーン | ○2-1 | ザッケローニ | 2014 FIFAワールドカップ・アジア最終予選 |
25. | 2013年2月6日 | 神戸 | ホームズスタジアム神戸 | ラトビア | ○3-0 | ザッケローニ | キリンチャレンジカップ2013 |
26. | 2013年3月22日 | アル・アイン | ハリファインターナショナルスタジアム | カナダ | ○2-1 | ザッケローニ | 国際親善試合 |
27. | 2013年3月26日 | ブライダ | キングアブドゥラースポーツシティスタジアム | ヨルダン | ●1-2 | ザッケローニ | 2014 FIFAワールドカップ・アジア最終予選 |
28. | 2013年5月30日 | 豊田 | 豊田スタジアム | ブルガリア | ●0-2 | ザッケローニ | キリンチャレンジカップ2013 |
29. | 2013年6月4日 | さいたま | 埼玉スタジアム2002 | オーストラリア | △1-1 | ザッケローニ | 2014 FIFAワールドカップ・アジア最終予選 |
30. | 2013年6月11日 | ドーハ | グランド・ハマド・スタジアム | イラク | ○1-0 | ザッケローニ | 2014 FIFAワールドカップ・アジア最終予選 |
31. | 2013年6月15日 | ブラジリア | エスタジオ・ナシオナル・デ・ブラジリア | ブラジル | ●0-3 | ザッケローニ | FIFAコンフェデレーションズカップ2013 |
32. | 2013年6月19日 | レシフェ | アレナ・ペルナンブーコ | イタリア | ●3-4 | ザッケローニ | FIFAコンフェデレーションズカップ2013 |
33. | 2013年6月22日 | ベロオリゾンテ | エスタジオ・ゴベルナドール・マガリャンイス・ピント | メキシコ | ●1-2 | ザッケローニ | FIFAコンフェデレーションズカップ2013 |
7.2.2. 国際Aマッチ得点記録
国際Aマッチで記録した各ゴールの詳細情報です。
# | 開催年月日 | 開催地 | 対戦国 | 勝敗 | 試合概要 |
---|---|---|---|---|---|
1. | 2007年10月17日 | 日本、大阪 | エジプト | ○4-1 | AFC アジア/アフリカ チャレンジカップ |
2. | 2008年2月17日 | 中国、重慶 | 朝鮮民主主義人民共和国 | △1-1 | 東アジアサッカー選手権2008 |
3. | 2011年1月17日 | カタール、アル・ラーヤン | サウジアラビア | ○5-0 | AFCアジアカップ2011 |
4. | |||||
5. | 2011年1月25日 | カタール、ドーハ | 韓国 | △2-2 (PK3-0) | |
6. | 2011年11月11日 | タジキスタン、ドゥシャンベ | タジキスタン | ○4-0 | 2014 FIFAワールドカップ・アジア3次予選 |
7. | 2012年2月24日 | 日本、大阪 | アイスランド | ○3-1 | キリンチャレンジカップ |
8. | 2012年6月3日 | 日本、埼玉 | オマーン | ○3-0 | 2014 FIFAワールドカップ・アジア4次予選 |
9. | 2012年6月8日 | ヨルダン | ○6-0 | ||
10. | 2012年9月11日 | イラク | ○1-0 |
8. メディア出演と作品
前田遼一は、テレビCMへの出演や、自身のキャリアを振り返るDVDの発売など、多岐にわたるメディア活動も行っています。
CM:
- ネスレ「ネスレ・ミロ」(2005年)
- 静岡県「ふじのくにファミリープレイプログラム」(2011年)
DVD:
- 「前田遼一 ROAD -まだ何も成し遂げていない-」(2012年)
9. 関連項目
- 特別指定選手としてJリーグクラブに登録された選手一覧
- ジュビロ磐田の選手一覧
- FC東京の選手一覧
- FC岐阜の選手一覧
- サッカー日本代表出場選手