1. 概要
寬仁親王は、大正天皇の皇孫であり、三笠宮崇仁親王と同妃百合子の長男として、1946年に誕生した。明仁(上皇)の従兄にあたる。顎鬚をたくわえた個性的な容貌から「ヒゲの殿下」の愛称で広く親しまれた。生前は皇位継承順位第6位に位置し、将来的に三笠宮を継承するとされていたが、独自の生計を営む「寬仁親王家」の当主を務めていた。
親王は学習院大学で政治学を修め、その後イギリスのオックスフォード大学へ留学。帰国後は札幌オリンピックや沖縄国際海洋博覧会の組織委員会で勤務するなど、初期から公務に関与した。生涯を通じて障害者福祉やスポーツ振興、国際親善に尽力し、多くの団体で要職を務めた。特に、障害者のスポーツを通じた社会参加を熱心に支援し、自らも指導に当たったことは特筆される。しかし、その開かれた発言は時には論争を呼び、特に皇位継承問題における男系継承維持の主張や、皇室を取り巻くストレスに関する言及は、メディアや世間の注目を集めた。
健康面では癌との闘病生活が長く続き、アルコール依存症も患い入退院を繰り返した。2012年に多臓器不全のため66歳で薨去。親王の薨去後、寬仁親王家は廃止され、妃の信子や二人の子女は三笠宮本家に合流した。本記事は、親王の生涯における功績と、社会への影響を中道左派的な観点から記述し、特に人権や社会貢献、家族関係における課題を重視する。
2. 生涯
寬仁親王は、日本の皇族としての生誕から、その後の成長、学歴、そして公務への関与といった初期の活動を通じて、独自の足跡を残した。その生涯は、伝統と個性の間で揺れ動く皇族の姿を映し出していた。
2.1. 幼少期と教育
寬仁親王は1946年〈昭和21年〉1月5日、神奈川県葉山町の三笠宮御假寓所(三井家別荘)にて、三笠宮崇仁親王と百合子妃の長男として誕生した。伯父である昭和天皇にとっては、初めて授かった甥であった。幼少の頃は、姉の甯子内親王とともに貞明皇后に特に可愛がられたという。
学習院初等科、学習院中・高等科を経て学習院大学へ進学した。父の三笠宮崇仁親王の教育方針は「放任主義」であり、親王自身も「子供の頃は『勉強をしろ』と言われたことが無かった」と語っている。初等科では他の一般児童とは異なる特別扱いを受け、登下校の際の下駄箱が専用の特別室に設置されていた。また、友人が親王を「トモちゃん」と呼んだ際には、教師から「何事だ!宮様と呼べ!」と叱責されることもあったという。学校ではスキー、ソフトボールなどのスポーツに熱中し、特に小学校4学年から始めたスキーは、高校2年次にスキーバッジテスト1級を取得するほどの腕前であった。一方で、学業の成績は「メチャクチャに悪かった」と親王は振り返っている。
学習院高等科では応援団に入り、3年次には団長を務めた。応援団での威厳を示すため、2年次には鼻の下の鬚を、3年次には顎鬚も伸ばし始めた。当時の学習院高等科には鬚に関する校則はなかった。親王は後年、テレビ番組『徹子の部屋』(1977年〈昭和52年〉4月1日放送)において、高校生になると「チンピラのように振る舞い」、高校1年生頃からタバコを吸い始め、飲酒に至ってはさらに若い頃から始めていたと述懐している。
1966年〈昭和41年〉1月、成年式に伴い大勲位に叙され、菊花大綬章を授けられた。同年9月15日には、愛車のプリンス・スカイラインGT-Bを運転し、渋谷区神宮前の表参道でUターンしようとしてオートバイをはねる人身事故を起こした。この事故でオートバイを運転していた住み込み店員は左大腿骨骨折で全治半年の重傷を負い、後部座席の少年も軽傷を負った。親王は人身事故を起こした場合は「自動車の運転を辞める」と母親の三笠宮妃百合子と約束しており、運転免許証を東京都公安委員会に返納した。
1968年〈昭和43年〉に学習院大学法学部政治学科を卒業し、政治学士の学位を取得した。同年4月から1970年〈昭和45年〉8月までの2年半、イギリスのオックスフォード大学モードリン・コレッジに留学した。この留学は、父の崇仁親王や義伯母の秩父宮妃勢津子の勧めによるもので、モードリン・コレッジは伯父の一人である秩父宮雍仁親王も在籍した学寮であった。留学当初は英語が堪能ではなく「ハウ・ドゥ・ユ・ドゥー(How do you do ?)」と「サンキュー・ベリー・マッチ(Thank you very much.)」しか理解できないレベルであったが、語学学校「Godmer House School」に3か月通った後、コレッジでは週に一度の論文を「十あるとしたら、六か七くらいの力で」済ませ、「残りは、人と付合うことに費やした」という。保証人はケズウィック家のジョン・ケズウィックであり、後の妻の実家である麻生家も親王の世話を焼いた。イギリス滞在中にはエリザベス2世に招かれバッキンガム宮殿でエディンバラ公フィリップ、チャールズ3世(当時皇太子)、アン王女の臨席で対面している。欧州滞在中のうち6か月はスイスとオーストリアでスキーに興じた。
1970年〈昭和45年〉1月5日の24歳の誕生日に、ロンドンの駐英日本大使公邸で仮装パーティーを開いた。その際、「(自身の曽祖父でもある)明治天皇に(容姿が)似ているから大元帥服を着ろ」と友人に促され、父(帝国陸軍騎兵将校であった)から騎兵将校の軍服を送ってもらい、これを着用した。このことは日本の一部新聞で批判的に報じられた。また、駐車違反の反則金の督促を受けても支払わなかったため、皇族であるにもかかわらず寬仁親王に逮捕状が出される事態となった。親王は学位を取得せずに日本に帰国した。
2.2. 初期活動と公務への関与
日本に帰国後、寬仁親王は公的な活動への関与を始めた。1970年〈昭和45年〉から1972年〈昭和47年〉にかけては、札幌オリンピック組織委員会事務局職員として勤務し、北海道札幌市に居住した。この際の初任給は、4.17 万 JPYであった。さらに1975年〈昭和50年〉には、沖縄国際海洋博覧会世界海洋青少年大会事務局に勤務した。
伯父の高松宮宣仁親王の影響を受けて、親王は早くから障害者福祉やスポーツ振興などの公務に積極的に取り組んだ。特に障害者がスポーツを通じて社会参加することを促すため、自らも指導に当たり、社会福祉法人「ありのまま舎」(宮城県仙台市にあるキリスト教バプテスト系の筋ジストロフィー障害者福祉施設)の活動に見られるように、施設の運営などにも関与し、講演や著述を通じて啓発活動に取り組んだ。
イギリス留学を機に、親王は国際親善にも強い関心を持ち、日英協会名誉総裁を始め、諸外国との交流にも意欲的に取り組んだ。公の場に姿を見せる機会も多く、独身時代の1976年〈昭和51年〉には『スター千一夜』(フジテレビジョン)、1977年〈昭和52年〉には『徹子の部屋』(テレビ朝日)といったトーク番組に出演した。1980年に結婚した後には、妃である信子妃と共にテレビのバラエティー番組に出演したこともある。
1975年〈昭和50年〉10月28日には、午前1時から2時間、ニッポン放送の「オールナイトニッポン」で生放送のディスクジョッキーを務めたことは、皇族としては極めて異例の経歴である。「トモさんのオールナイトニッポン!」の第一声で始まったこの番組では、スタジオでウィスキーのオン・ザ・ロックを飲みながら、皇室、自身の身の上話、初恋の話、福祉の話などを、イギリス留学中にラジオでよく聴いたというビートルズの『ヘイ・ジュード』などの音楽を交え、2時間にわたり語った。放送を聞いていた弟の憲仁親王からは、「二時以降は呂律が回っていなかった」と指摘された。この放送の中で親王は、自身の皇位継承順位が7位であるという数字を気に入っているから、「皇太子妃美智子(当時)はもうこれ以上男子を産まないでくれ」と発言した。黒柳徹子から、宮内庁職員は番組について何と言っていたのかと尋ねられて、「別にもう...諦めてるんでしょうな、おれのことについては」と答えている。
1981年〈昭和56年〉4月には文化放送で障害者福祉を紹介する番組「あすを明るく~ハッピーモーニング」のパーソナリティを務めた。
親王は皇族としての制約の多さに苛立ちを感じ、1982年〈昭和57年〉には「皇籍離脱発言」をして世間を騒がせた。これは当時、富田朝彦宮内庁長官に飲酒した状態で電話をかけ「皇族を辞めたい」と告げたものだった。数日後、シラフの親王を富田長官が訪問した際にもその意思は変わらなかったという。これに対し昭和天皇は記者会見において、「国民の皇室に対する期待が、どのようなものなのかを十分に把握して、その期待に沿うように努力するように望む」と述べた。この発言は、日本のみならず韓国でも報じられ、波紋を呼んだ。
東アジア反日武装戦線は、寬仁親王を暗殺者リストに入れており、親王が行きつけの理髪店、レストラン、画廊などを調べ上げていたため、身辺警備が強化された。1995年〈平成7年〉には「競輪・競艇などに名義貸しをして毎年1000.00 万 JPY近くの謝礼を受けていた」ことが国会で問題視された。当時の藤森昭一宮内庁長官は「宮家で使う金としてではなく、公共のために寄付するご意向だった」と説明した。
3. 結婚と家族
寬仁親王の結婚と家族関係は、公務への貢献と並行して、その晩年にかけて複雑な様相を呈した。
3.1. 結婚生活と子女
寬仁親王は1972年〈昭和47年〉2月、当時16歳だった麻生信子に求婚した。しかし、まだ高校生で若すぎるという理由から、正式な婚約までには8年の歳月を要した。1980年〈昭和55年〉4月18日の皇室会議を経て婚約が内定し、同年5月21日に婚約が発表された。信子は、麻生鉱業・麻生セメント(現・株式会社麻生)社長や衆議院議員を務めた麻生太賀吉の三女であり、母は吉田茂の三女である和子、兄は後の第92代内閣総理大臣麻生太郎である。母方の高祖父は大久保利通、曽祖父は牧野伸顕(伯爵)にあたる。1980年〈昭和55年〉11月7日、二人は結婚の儀を行い、信子は寬仁親王妃となった。
親王夫妻は二人の娘をもうけた。
- 彬子女王(あきこじょおう、1981年〈昭和56年〉12月20日、東京都にて誕生)
- 瑶子女王(ようこじょおう、1983年〈昭和58年〉10月25日、日本赤十字社医療センターにて誕生)
家族は東京都港区元赤坂二丁目の赤坂御用地内にある邸宅で生活していた。
3.2. 別居と親王家の動向
親王の結婚生活は、晩年にかけて複雑な関係へと変化した。2004年〈平成16年〉7月以降、妃の信子はストレス性喘息の治療のため、親王との別居生活に入った。信子妃は親王のアルコール依存症治療に関して、事実と異なる情報を伝えられたことに激怒したとされている。2009年〈平成21年〉10月には、信子妃は自身の住居を親王と娘たちから分離した。
寬仁親王は生前、三笠宮本家から独立した生計を営んでおり、親王が当主を務める「寬仁親王家」として他の宮家に準ずる扱いを受けていた。しかし、親王の2012年〈平成24年〉6月6日の薨去に伴い、当主不在の状態が続いた。2013年〈平成25年〉6月10日、宮内庁は「薨去にさかのぼり、親王家を廃止する」と発表した。これは、従来の慣例では信子親王妃が当主を継承することになるが、長年にわたる別居が続いており、親王の薨去後も信子妃が二人の子女たちと同居していなかった状況が考慮されたためであった。これにより、遺された信子親王妃と彬子女王、瑶子女王の二人の子女は、三笠宮本家に合流することとなった。また、旧寬仁親王邸は2013年〈平成25年〉7月31日より「三笠宮東邸」(みかさのみやとうてい)と称されることになった。
4. 公務と社会貢献
寬仁親王は、その生涯を通じて多岐にわたる公務に従事し、特に福祉やスポーツの振興、そして国際親善において顕著な貢献を果たした。
4.1. 福祉・スポーツ振興活動

寬仁親王は、伯父の高松宮宣仁親王の影響を受け、早くから障害者福祉やスポーツ振興などの公務に積極的に取り組んできた。特に障害者が、スポーツへの取り組みを通じて社会参加することを促すため、自らも指導に当たり、社会福祉法人「ありのまま舎」(宮城県仙台市にあるキリスト教バプテスト系の筋ジストロフィー障害者福祉施設)の活動に見られるように、施設の運営などにも関与した。また、講演や著述を通じて啓発活動に取り組み、障害者のスキー、ボウリング、ダンス、ラグビーなどのスポーツ活動を通じた福祉向上を支援した。
親王自身も癌を患っていた経験から、高松宮妃癌研究基金など癌研究に関わる様々な団体の総裁や名誉総裁を務めた。また、青少年教育や国際関係の推進にも貢献した。スポーツ分野では、日本ビリヤード協会、日本職業スキー教師協会、日本学生氷上競技連盟の会長を務め、日本ラグビーフットボール協会名誉総裁も務めた。全国大学ラグビーフットボール選手権大会、全日本プロポケットビリヤード選手権、競輪の寬仁親王牌・世界選手権記念トーナメントなど、自身の名を冠した優勝杯や牌が贈られる大会も存在した。1987年〈昭和62年〉に創設され、青森県で毎年開催されている『岩木山スキーマラソン大会』では、大会総裁に就任しただけでなく、自らコースセッティングの指揮を執り、選手としても出場するなど、運営面においても熱心に取り組んだ。
4.2. 国際親善活動
イギリス留学を機に、寬仁親王は国際親善に強い関心を持ち、諸外国との友好・文化交流の促進に意欲的に取り組んだ。日英協会名誉総裁、ノルウェー・日本協会名誉総裁、日本・トルコ協会会長などを務め、中東文化センター(日本)の会長も務めた。
具体的な活動としては、1992年〈平成4年〉12月には、米国を訪問し、ニューヨーク医科大学に新設された癌病棟を支援した。1994年〈平成6年〉にはハワイを訪れ、クアキニ病院の再建を支援した。同年2月には、ノルウェーで開催された1994年リレハンメル冬季オリンピックに出席するため、夫妻でノルウェーを訪問した。2003年〈平成15年〉4月には、娘の彬子女王と共にノルウェーを訪れ、視覚障害者向けのワールドクロスカントリースキー選手権大会に出席した。
1998年〈平成10年〉4月には、夫妻でトルコを訪問し、トルコ・日本財団文化センターの開所式に出席した。夫妻はこれに先立つ1990年にも、日本・トルコ関係樹立100周年記念式典の一環としてトルコを訪問している。親王は、中東文化センター(日本)に日本アナトリア考古学研究所を設立することを強く支持し、2002年10月、2003年6月、同年10月にも寄付者グループを率いてトルコの歴史遺産を巡るツアーのためにトルコを再訪した。
1998年〈平成10年〉6月には、オーストラリアを訪問し、ノーベル賞受賞者であるハワード・フローリー博士を記念する医学科学財団のための資金調達活動に参加した。同年12月には、タイを訪問し、第13回アジア競技大会に出席した。
4.3. その他の公的役職
寬仁親王は、その多岐にわたる関心と社会貢献の精神から、以下の多くの公共・名誉職を務めた。
- 社会福祉法人友愛十字会 総裁
- 社会福祉法人ありのまま舎 理事長
- 恩賜財団済生会 会長
- 公益財団法人新技術開発財団 総裁
- 高松宮妃癌研究基金 理事
- 日本ビリヤード協会 会長
- 日本職業スキー教師協会 会長
- 日本学生氷上競技連盟 会長
- 日本・トルコ協会 会長
- 中東文化センター(日本) 会長
- 日本ラグビーフットボール協会 名誉総裁
- 日英協会 名誉総裁
- ノルウェー・日本協会 名誉総裁
- 全国童謡歌唱コンクール 総裁
5. 見解と論争
寬仁親王は、その開かれた発言で知られ、特に皇位継承問題や皇室のあり方、そして社会問題に対して自身の見解を公に表明することがあった。しかし、これらの発言はしばしば論争を巻き起こし、世間やメディアから様々な評価を受けた。
5.1. 皇位継承問題に関する見解
平成時代に入り、憲法上の制約もあり、天皇および皇族が女系天皇の是非について自らの意見を公にする機会は限られていた。そのような中で、寬仁親王は自身が会長を務める福祉団体「柏朋会」(はくほうかい)の会報『ざ・とど』で、「あくまで公なものではない私的な見解」と前置きした上で、女系天皇についての見解を表明した。この機関紙は市販されていない。この中で親王は、女系天皇に明確に反対し、旧皇族の皇籍復帰などを求めた。
親王は、「(2000年以上の)歴史と伝統を平成の御世でいとも簡単に変更して良いのか」と女系天皇を容認する意見を批判し、「万世一系、125代の天子様の皇統が貴重な理由は、神話の時代の初代神武天皇から連綿として一度の例外も無く、『男系』で続いて来ているという厳然たる事実」と主張した。寬仁親王は男系継承を維持するための方法として、以下の案を挙げた。
- 1947年〈昭和22年〉に皇籍離脱した旧皇族の皇籍復帰。
- 女性皇族(内親王)に旧皇族(男系)から養子を取れるようにし、その人物に皇位継承権を与える。
- 廃絶になった秩父宮や高松宮の祭祀を旧皇族に継承してもらい、宮家を再興する。
- 昔のように「側室」(一夫多妻制)の制度を復活させる。親王自身としては大賛成だが、国内外共に今の世相からは少々実現性が乏しいとも述べた。なお、この「側室」発言については、後年(2007年〈平成19年〉10月)にニューヨーク・タイムズのインタビューで「あれはただの冗談だった」と説明している。
その上で親王は、「陛下(現・上皇)や皇太子様(現・天皇)は、御自分達の家系の事ですから御自身で、発言される事はお出来になりません。国民一人一人が、我が国を形成する『民草』の一員として、2665年(神武天皇即位紀元、通称:皇紀)の歴史と伝統に対しきちんと意見を持ち発言をして戴かなければ、いつの日か、『天皇はいらない』という議論にまで発展するでしょう」と結び、女系天皇容認の動きに反対する意見を強く表明した。
また、2006年〈平成18年〉1月3日付の毎日新聞、雑誌『文藝春秋』2006年〈平成18年〉2月号のインタビューでも同様の見解を表明している。特に後者では、小泉純一郎首相や有識者会議が「女系天皇容認の方針なのは、天皇陛下(当時:明仁)の内意を受けてのことではないのか」という噂について、「ご本人に直接確認してはいないが、あの慎み深い陛下が女系天皇や長子優先継承に賛成なさるはずはない。噂は、事実無根の臆測だろう」と天皇の真意を忖度した。
5.2. 皇室及び社会への発言
寬仁親王は、皇室の特性や社会問題など、様々な事柄に対して公に発言し、その背景や影響は時に注目を集めた。
2007年〈平成19年〉10月にはニューヨーク・タイムズのインタビューに応じた。この中で親王は、学習院時代に山手線に乗って通学していたことや、「朝鮮学校の生徒に因縁をつけられることもあった」とし、「彼らは学習院の制服を見つけると、いつも襲いかかってきたものでした」と自身の青春時代を回想する発言をしている。このインタビューでは、徳仁親王(当時皇太子)の人格否定発言(2004年5月10日、当時皇太子が「雅子の経歴とそれに根ざした雅子の人格を否定する動きがあったことも事実です」と発言し波紋を呼んだもの)にも触れ、「手紙に返答していれば、いくらかの進展はあったのではないかと思うが、意見を述べたことに対しての礼を述べる返事しか来なかった」と述べ、徳仁親王に発言について説明するよう長文の手紙を送ったものの、礼状程度の返事しか返ってこなかったために事の進展がなかったという趣旨の発言をしている。また、親王はアルコール依存症を公表したことに触れ、「皇室はストレスの塊」であると述べるなど、皇室が抱える内面的な苦悩についても示唆した。
5.3. 大衆からの批判と論争
寬仁親王の行動や発言は、その個性的で開かれた人柄ゆえに、メディア報道や世間の評価において批判的な視点や論争を引き起こすことがあった。
1982年〈昭和57年〉に親王が表明した「皇籍離脱発言」は、皇族の身分という根幹に関わる問題として大きな波紋を呼んだ。また、1995年〈平成7年〉には、親王が競輪や競艇などの公営競技団体に名義貸しを行い、毎年1000.00 万 JPY近くの謝礼を受け取っていたことが国会で問題視された。これに対し、当時の藤森昭一宮内庁長官は「宮家で使う金としてではなく、公共のために寄付するご意向だった」と説明したが、経済的な側面から倫理的、法的な問題が提起された事例である。
皇位継承問題における親王の見解、特に「側室制度の復活」発言は、国内外で大きな論争を呼んだ。この発言は、後に親王自身が「冗談だった」と釈明したものの、皇族の発言としては軽率であるという批判が相次いだ。
親王が見解を発表する以前、小泉純一郎内閣総理大臣の私的諮問機関である「皇室典範に関する有識者会議」座長の吉川弘之東京大学名誉教授は、皇位継承資格者議論について「皇族から意見を聞くことは憲法違反だ」と指摘していた。また、「憲法の解釈権は有識者会議にある」とも主張した。しかし、2005年〈平成17年〉11月4日、寬仁親王の見解についての記者質問に対し、当時の小泉純一郎首相は、「皇位継承資格者議論について、皇族から意見を聞くのは憲法違反にあたらず、意見を表明するのは自由である」と回答した。同年11月7日、有識者会議の会合を終えた吉川弘之は、「寬仁親王の見解は会議へ影響せず、女系天皇容認の姿勢は変更しない」とした。同日、小泉首相も、女系天皇を容認する有識者会議の方針を支持する考えを示した。同年11月14日、静岡県知事石川嘉延は定例記者会見で、寬仁親王の見解に対し、「同様な考えを持っており共感した」と発言した。さらに、皇位継承資格者議論に対し、拙速な議論に疑問を呈し「伝統的な国のあり方にかかわるものを、わずか数か月で結論を出して、ある方向に持っていこうとするのはとんでもない話。余りにも拙速。有識者会議には皇室問題について長年研究してきた人が何人入っているかというとお寒い限り」と主張した。
朝日新聞は2006年〈平成18年〉2月2日付けの社説で『寬仁さま 発言はもう控えられては』と題し、「政治的発言であり、象徴天皇制という日本国憲法で定められている大原則から逸脱している」と主張し、親王の発言に否定的な見解を示した。これに対し、産経新聞は翌2月3日の社説で『朝日社説 「言論封じ」こそ控えては』と題して朝日新聞を批判した。また、『週刊文春』や『週刊新潮』もそれぞれ『寬仁親王殿下に「黙れ」と命じた朝日新聞論説委員の実名と見識』、『寬仁親王殿下に「黙れ」と命じた朝日新聞ってそんなにエラい?』などの見出しで、朝日新聞を批判する記事を掲載した。
6. 健康問題と薨去
寬仁親王は、その生涯の多くの期間を疾病との闘病に費やした。特に癌とアルコール依存症は、彼の公務と私生活に大きな影響を与え、最終的に薨去の遠因となった。
6.1. 長期にわたる闘病生活
寬仁親王は1990年代から、癌やアルコール依存症をはじめとする様々な疾病に悩まされていた。
1991年〈平成3年〉1月には食道癌の手術を行った後、一時的に寛解した。しかし、1995年〈平成7年〉までに舌の付け根、首のリンパ節、喉など、計6回にわたる癌の手術を経験し、その壮絶な闘病経験を1999年〈平成11年〉に闘病記『癌を語る』として出版した。
2003年〈平成15年〉には喉頭癌と診断され、直ちに治療を開始した。2006年〈平成18年〉9月16日には、化学療法の影響で顎の骨が弱くなっていたため、洗顔中に転倒し顎を骨折した。2007年〈平成19年〉には、親王自らがアルコール依存症であることを公表し、宮内庁病院で治療を受けていることを明かした。親王は、宮内庁が自身のアルコール依存症を公表することに消極的だったことに対し、2007年の講演で「『ふてくされて出てこないのか』といった様々な憶測をされるのは嫌だった」と述べ、自身の病状を隠すことなく公にした。
2008年〈平成20年〉3月には、癌が咽頭に転移し、再び手術を受けた。この手術では、声を残す方向で試みがなされたが、食物の飲み込みがうまくいかず、同年4月には肺炎を発症し再入院した。この際、喉の一部を塞ぐ手術を行ったが、それが原因で声帯を振動させる空気の出口が塞がれ、声を失った。以後、公務の際には電気喉頭を首に当てて会話を行っていた。
2010年〈平成22年〉8月19日には不整脈の治療で入院。さらに9月の定期検診で喉に新たな癌が発見されたことから、12月14日に内視鏡手術を受けることとなった。2011年〈平成23年〉2月には再度肺炎で入院し、同年7月8日には中咽頭上皮に見つかった癌の切除手術のため入院した。1991年〈平成3年〉の癌発見以降、癌に関連する手術や治療を受けるのは、この時点で14回目であった。
2012年〈平成24年〉1月には咽喉に再び腫瘍が見つかり、東京都千代田区の公益財団法人佐々木研究所附属杏雲堂病院(当時)において、1月10日に腫瘍と周辺のリンパ節の摘出、および欠損部への腹部からの移植処置を伴う手術を7時間半にわたり受けた。術後の細胞組織検査の結果、親王の病状が『咽喉癌の再発と見られる』と医師団から発表された。同年3月には、食事の障害になっていた喉の軟骨の除去手術を受けた。1991年〈平成3年〉1月の癌発見から21年間で、癌の手術や治療は計16回を数えた。
同年6月、喉から2回出血し、輸血の必要性があったことが、4日に明らかになった。翌5日、宮内庁は親王の腎臓や肺、肝臓の機能が低下状態にあり、意識レベルが低下していると発表した。
6.2. 薨去と斂葬の儀
寬仁親王は2012年〈平成24年〉6月6日15時35分、入院先の公益財団法人佐々木研究所附属杏雲堂病院(東京都千代田区)で多臓器不全のため薨去した。享年66。宮内庁は同日の会見で、死因は多臓器不全であると発表した。親王はかねてより複数の癌を診断されており、長期間にわたる闘病生活を送っていた。
親王の斂葬の儀は同年6月14日に執り行われ、喪主は長女の彬子女王が務めた。落合斎場で火葬に付された後、豊島岡墓地に埋葬された。葬儀には約660人が参列し、当時の内閣総理大臣野田佳彦も出席した。
7. 人柄と逸話
寬仁親王は、皇族としては珍しく、その個性的な人柄と率直な言動で知られた。その私生活や趣味、周囲の人々との関係を通じて、親王の多面的な魅力が垣間見える。
7.1. 私生活と趣味
寬仁親王は、明治天皇以来初めて鬚を蓄えた皇族であったため、「ヒゲの殿下」(ヒゲのでんか)の愛称で広く知られた。これは、彼の外見的特徴であると同時に、既成概念にとらわれない個性的な人柄を象徴するものであった。
趣味は多岐にわたり、幼少期から親しんだスキーでは、高校2年次にスキーバッジテスト1級を取得するほどの腕前であった。また、ソフトボールにも熱中した。これらのスポーツへの情熱は、後の障害者スポーツ振興活動にも繋がった。
若い頃には、ニッポン放送の「オールナイトニッポン」で生放送のディスクジョッキーを務めるなど、一般の皇族には見られないユニークな活動も行い、その型破りな一面が窺えた。
7.2. 個性的な人柄とエピソード
親王は、その率直で飾らない性格で知られ、時に周囲を驚かせるエピソードも残している。
- 愛知県名古屋市の名門クラブにおいて、親王が「御東場(おとうば。宮中用語で便所)が汚れていたんで拭いといたよ」と語ったことを、オーナーマダムの加瀬文恵が雑誌『プラチナ・スタイル』の取材で明かしている。これは、親王が身分の上下を気にせず、自ら手を動かすことを厭わない人柄であったことを示す逸話である。
- 妃の信子とは、二人きりの際には互いに「ノンチ」「トモさん」と呼び合う間柄であった。親王の食道癌を最初に発見したのは信子妃であり、治療中には信子妃自ら医師や栄養士から情報を収集し、全て異なる品目で1日6回に分けた食事を作ったという。親王はこれに感銘を受け、信子妃が料理本を出版することを許した。しかし、親王がアルコール依存症の治療に関して事実とは異なる情報を伝えられたことに激怒した信子妃は、2004年〈平成16年〉7月以降、ストレス性喘息の治療のため別居生活に入った。親王の薨去前には、信子妃が何度も病院を訪れたものの、「家族の意向」により面会が全く許されなかったという。また、喪主の意向により葬儀への参列も許されなかった。この一連の経緯は、親王と妃の間、そして残された家族内での複雑な関係性と、皇室における個人の尊厳の問題を示唆するものであった。
- 次女の瑶子女王は、親王の性格について「細か過ぎるところがある」と述べている。
- 長女の彬子女王がイギリスへ留学する際、親王は「おまえは税金で勉強するのだから、人よりもっと頑張らなければならない」と訓戒したという。しかし、彬子女王は後に、親王は自身の学業をあまり褒めることはなく、むしろ祖父の三笠宮崇仁親王が彬子女王の国士舘大学名誉博士号授与の報に対し「神武天皇以来の快挙だ」と称賛してくれたと語っている。これは、親王の厳格な教育観と、子女に対する期待の高さを示すエピソードである。
8. 著作
寬仁親王は、自身の経験や見解を積極的に社会に発信するため、多くの著書を出版した。闘病記から国際問題、趣味に至るまで、その著述活動は多岐にわたる。
8.1. 単著
- 『トモさんのえげれす留学』文藝春秋、1971年
- 『皇族のひとりごと』二見書房、1977年
- 『雪は友だち : トモさんの身障者スキー教室』光文社カッパ・ブックス、1985年3月15日、ISBN 4334004296
- 『ひげの殿下日記』小学館、2022年、ISBN 4093888590
8.2. 共著
- 『思い出の昭和天皇 おそばで拝見した素顔の陛下』光文社カッパ・ブックス、1989年〈平成元年〉12月、ISBN 4334004903
- 山田富也・澤地久枝と、聞き手斎藤武『いのちの時間』新潮社、1995年〈平成7年〉、ISBN 410409501X
- 文庫版『いのちの時間』新潮文庫、1998年〈平成10年〉、ISBN 4101476217
- 『癌を語る』主婦の友社、1999年〈平成11年〉、ISBN 4072211036
- 寬仁親王述、聞き手加瀬英明・櫻井よしこ・小堀桂一郎『皇室と日本人--寬仁親王殿下お伺い申し上げます』明成社、2006年〈平成18年〉、ISBN 4944219415
- 寬仁親王、聞き手工藤美代子『皇族の「公」と「私」-思い出の人、思い出の時』PHP研究所、2009年〈平成21年〉、ISBN 978-4569708915
- 『今ベールを脱ぐ ジェントルマンの極意』小学館、2010年〈平成22年〉、友人3名(くろすとしゆき、黒川光博、服部晋)との紳士服談義、ISBN 4093881111
9. 称号・栄典・公式表記
寬仁親王は、日本の皇族としての正式な称号に加え、国内外から多数の栄典や名誉職を授与された。また、自身の宮号に関する公式な表記についても明確な見解を持っていた。
9.1. 称号と公式表記
寬仁親王の正式な身位は親王であり、敬称は殿下である。お印は柏であった。
存命時は、結婚を機に独立の生計を立てていたものの、父宮(三笠宮崇仁親王)の嗣子としていずれ三笠宮を継承する者とされていたことから、宮号は賜らなかった。報道において「○○宮 ××さま」という表現がしばしば使われたが、宮号は一般国民の「氏」のように同一戸籍内の家族すべてに適用されるものと異なり、当主のみに与えられるものであるため、当主以外の皇族に「○○宮」と冠することは本来正式な呼称ではない。
親王は、2001年〈平成13年〉12月に行われた長女・彬子女王の成人式に伴う記者会見において、全国紙が彬子女王を「三笠宮寬仁さまの長女彬子さま」と記載したことに関し、自身が総裁を務める日本職業スキー教師協会の広報誌「総裁コラム」において、この表記に異議を唱えた。「私は、『三笠宮』(父の宮号)では無く、『寬仁親王』であり、彬子は身位が『女王』で、敬称は『殿下』でなければなりません。従って正しくは、『寬仁親王殿下の第一女子彬子女王殿下には......』となるべき」と記した。また、柏朋会の会報『ざ・とど』でも冗談を交えつつ、「『三笠宮寬仁親王』でなく『寬仁親王』が正しい」と記述している。
1947年〈昭和22年〉10月14日に11宮家51名の旧皇族が離脱する前までは宮家の数が多く、「嗣子であるためあえて宮号を受けていない親王・王」を有する宮家が複数あったため、そのような「嗣子たる親王・王」のことを「○○若宮」(○○のわかみや)と呼ぶ慣習があったが、現日本国憲法下ではこの呼称はほとんど用いられない。政府による正式表記(内閣告示や宮内庁告示など)では寬仁親王に限らず皇族に宮号が冠されることはない(「皇太子」を除く)ため、それらの告示が掲載される官報での表記は必ず「寬仁親王」(妃の場合は「寬仁親王妃信子」)とされ、「三笠宮」が冠されることはない。しかしマスメディアでは「わかりやすさ」を図るために「(昭和天皇の弟の崇仁親王が創設した)三笠宮家の寬仁さま」と報道されることがある。
9.2. 国内外の栄典
親王は、日本国内および海外から以下の勲章や栄典を授与された。
- 大勲位菊花大綬章(1966年〈昭和41年〉1月5日)
- イタリア共和国功労勲章グランド・クロス騎士章(1982年3月9日)
9.3. 名誉学位及び役職
親王は、以下の名誉学位および名誉職、団体での役職を授与された。
- 学習院大学政治学士
- 鈴鹿国際大学名誉客員教授
- アンカラ大学名誉博士
- 社会福祉法人友愛十字会 総裁
- 社会福祉法人ありのまま舎 理事長
- 恩賜財団済生会 会長
- 公益財団法人新技術開発財団 総裁
- 高松宮妃癌研究基金 理事
- 日本ビリヤード協会 会長
- 日本職業スキー教師協会 会長
- 日本学生氷上競技連盟 会長
- 日本・トルコ協会 会長
- 中東文化センター(日本) 会長
- 日本ラグビーフットボール協会 名誉総裁
- 日英協会 名誉総裁
- ノルウェー・日本協会 名誉総裁
- 全国童謡歌唱コンクール 総裁
10. 系譜
寬仁親王は、日本の皇族として、大正天皇の皇孫にあたる。彼の血統は、古くから続く日本の皇室の歴史と深く結びついている。
10.1. 祖先
寬仁親王は、父方に大正天皇、母方に高木正得を祖父に持つ。彼の血統は、古くは神武天皇まで遡ることができる。
寬仁親王 | 父: 崇仁親王(三笠宮) | 祖父: 大正天皇 |
祖母: 貞明皇后 | |
母: 百合子 | 祖父: 高木正得 |
祖母: 高木邦子 |

寬仁親王の父系は、以下の通り神武天皇から連綿と続く日本の皇統に繋がる。
- 神武天皇
- 継体天皇
- 欽明天皇
- 敏達天皇
- 押坂彦人大兄皇子
- 舒明天皇
- 天智天皇
- 志貴皇子
- 光仁天皇
- 桓武天皇
- 嵯峨天皇
- 仁明天皇
- 孝明天皇
- 宇多天皇
- 醍醐天皇
- 村上天皇
- 円融天皇
- 一条天皇
- 後朱雀天皇
- 後三条天皇
- 白河天皇
- 堀河天皇
- 鳥羽天皇
- 後白河天皇
- 高倉天皇
- 後鳥羽天皇
- 土御門天皇
- 後嵯峨天皇
- 後深草天皇
- 伏見天皇
- 後伏見天皇
- 光厳天皇
- 崇光天皇
- 伏見宮栄仁親王
- 伏見宮貞成親王
- 後花園天皇
- 後土御門天皇
- 後柏原天皇
- 後奈良天皇
- 正親町天皇
- 誠仁親王
- 後陽成天皇
- 後水尾天皇
- 霊元天皇
- 東山天皇
- 閑院宮直仁親王
- 閑院宮典仁親王
- 光格天皇
- 仁孝天皇
- 孝明天皇
- 明治天皇
- 大正天皇
- 三笠宮崇仁親王
- 寬仁親王
10.2. 子女
寬仁親王には、妃の信子との間に二人の娘がいる。男子はいない。
- 第1女子 - 彬子女王〈あきこ〉(1981年〈昭和56年〉12月20日 - )
- 第2女子 - 瑶子女王〈ようこ〉(1983年〈昭和58年〉10月25日 - )
上述の通り、当主寬仁親王の薨去を根拠に寬仁親王家は廃止され、寬仁親王妃信子並びに彬子女王、瑶子女王は三笠宮本家の一員となっている。