1. 生涯
小林覚の個人的な人生の初期段階、家族関係、そして囲碁界への道のりを時系列で説明する。
1.1. 出生と幼少期
小林覚は、1959年4月5日に長野県松本市で生まれた。3歳から、プロに2子を置けば負けないほどの実力を持つ父親からスパルタ教育を受け、囲碁の基礎を築いた。1966年には、本格的な囲碁の修行のために一家で東京へ移住した。
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1.2. 家族
小林家は囲碁一家であり、覚の兄姉もプロ棋士として活躍している。長姉は小林千寿五段、兄は小林健二七段、そしてもう一人の兄に小林孝之準棋士二段がいる。覚はこれらプロ棋士四兄弟の末弟にあたる。なお、同じ木谷道場の兄弟子である小林光一名誉三冠とは血縁関係はない。
1.3. 修業とプロ入り
東京への移住後、小林は姉の千寿と共に木谷實九段の門下に入った。千寿は一時的に木谷の内弟子となっていたが、上京後は四兄弟全員が木谷道場に入門した。覚は8歳になった1967年から内弟子となり、その翌年には通い弟子に戻った。また、瓊韻社の富田忠夫八段や岩本薫九段にも師事した。
覚が内弟子となった1967年頃、木谷道場にはすでに成人していた石田芳夫(現・二十四世本因坊)や加藤正夫(現・名誉王座)、そして入段したばかりの小林光一(現・名誉棋聖・名誉名人・名誉碁聖)、趙治勲(조치훈Cho Chi-hun韓国語、現・名誉名人)といった後のトップ棋士たちがいた。道場には中学生で級位者の信田成仁もおり、年下の覚が7子置かせて打っていたが、信田は1973年に覚を追い越して入段した。この出来事は覚に大きな衝撃を与え、彼は姉の千寿(1972年入段)に続いて1974年にプロ棋士として入段を果たした。
2. プロ棋士としての経歴
小林覚はプロ入り後、その才能を開花させ、数々のタイトルを獲得し、日本囲碁界のトップ棋士の一人として長きにわたり活躍した。
2.1. 初期キャリアと成長
プロ入り後の低段時代から好成績を挙げ、1976年には四段となり、42勝10敗の成績で棋道賞新人賞を受賞した。この頃から、同年代の山城宏、片岡聡、王立誠らと好ライバルとして切磋琢磨し、片岡、王、新垣武、兄の健二らと共に研究会「神楽坂グループ」を結成し、棋力向上に励んだ。
1981年には堀越高等学校で同級生だった女優の村地弘美と結婚した。1984年には「囲碁クラブ」誌の企画で、当時の棋聖・名人であった趙治勲(조치훈Cho Chi-hun韓国語)と、山城、王、覚の3人による「新撰組」が「必殺打込み勝負」を1年間行った。この対局では一時期二子に打ち込まれることもあったが、最終的には互先に戻した。同年には八段に昇段し、1986年の第2回日中スーパー囲碁では5人抜きを達成する快挙を成し遂げた。1987年には九段に昇段した。1992年にはIBM早碁オープン戦で優勝し、同年から兄弟子の小林光一碁聖に3年連続で碁聖戦の挑戦者となるも、いずれもタイトル奪取には至らなかった。
2.2. 主要タイトル獲得履歴
小林覚は、そのキャリアを通じて数多くの国内および国際タイトルを獲得・挑戦した。
1995年は小林にとって飛躍の年となった。最高棋士決定戦では森田道博七段、工藤紀夫九段、兄弟子の加藤正夫王座を破り、決勝三番勝負で同じく兄弟子である小林光一名人に半目負けの後2連勝して優勝。第19期棋聖戦への挑戦権を獲得した。棋聖戦では、本因坊を6連覇し棋聖も含め三冠を保持していた兄弟子の趙治勲(조치훈Cho Chi-hun韓国語)棋聖本因坊王座に挑戦し、1勝2敗から3連勝して4勝2敗で初の七大タイトルとなる棋聖位を獲得した。同年にはNHK杯で決勝で清成哲也九段に勝利し優勝。さらに第20期碁聖戦では林海峰を3勝1敗で破り碁聖位を獲得し、二冠を達成した。この功績により、棋道賞最優秀棋士賞を受賞し、賞金ランキングで自己最高の2位につけた。
翌1996年には趙治勲(조치훈Cho Chi-hun韓国語)に棋聖位を奪還され、その翌年の1997年にも再挑戦するが敗れた。
2005年、第30期名人戦リーグで7勝1敗の成績を収め、山下敬吾天元とのプレーオフに臨んだ。挑戦者決定プレーオフで1目半勝ちを収め、自身初の名人位挑戦者となった。張栩(張栩Zhāng Xǔ中国語)名人王座との七番勝負では、開幕3連敗と苦しい立ち上がりだったが、そこから3連勝し返し、最終第7局まで持ち込んだものの、中押し負けで惜敗した。
2007年には第31期棋聖戦Bリーグを4勝1敗で1位通過し、Aリーグ1位の羽根直樹九段との挑戦者決定戦で中押し勝ちを収め、10年ぶりに棋聖位挑戦者となった。しかし、山下敬吾棋聖に4連敗し、タイトル奪取はならなかった。
小林覚の主要なタイトル獲得および準優勝の記録は以下の通りである。
国内棋戦 | ||
---|---|---|
タイトル | 優勝 | 準優勝 |
棋聖 | 1 (1995) | 3 (1996, 1997, 2007) |
名人 | 1 (2005) | |
碁聖 | 1 (1995) | 4 (1990, 1991, 1992, 1996) |
阿含桐山杯 | 1 (1998) | 2 (1995, 2005) |
竜星戦 | 1 (1996) | |
NHK杯 | 1 (1995) | 2 (1989, 1996) |
NECカップ | 1 (1998) | 3 (1985, 1996, 2006) |
マスターズカップ | 2 (2013, 2017) | 1 (2014) |
新鋭トーナメント戦 | 1 (1982) | 1 (1985) |
NEC俊英戦 | 1 (1987) | |
早碁選手権戦 | 1 (2000) | |
IBM早碁オープン戦 | 1 (1990) | |
留園杯争奪早碁トーナメント戦 | 2 (1980, 1981) | |
鳳凰杯オープントーナメント戦 | 1 (2002) | 1 (2003) |
棋聖戦全段争覇戦 | 1 (1984) | |
棋聖戦各段戦(五段戦) | 1 (1979) | |
棋聖戦各段戦(七段戦) | 1 (1984) | |
棋聖戦各段戦(九段戦) | 2 (1994, 1999) | |
覚聖 | 1 (1996) | |
合計 | 18 | 19 |
国際棋戦 | ||
タイトル | 優勝 | 準優勝 |
テレビ囲碁アジア選手権戦 | 1 (1989) | |
三星火災杯 | 1 (1997) | |
東洋証券杯 | 1 (1997) | |
富士通杯 | 3位 (1999) | |
合計 | 0 | 3 |
キャリア総計 | ||
総計 | 18 | 22 |
2.3. 通算記録とマイルストーン
小林覚は、その長きにわたるキャリアの中で、数々の通算記録とマイルストーンを達成してきた。
- 通算勝利数**:
- 2003年: 通算800勝達成。
- 2006年: 通算900勝達成。この時点での勝率は史上1位を記録した。
- 2011年12月1日: 通算1000勝を達成(507敗1ジゴ)。これは日本棋院棋士として史上14人目の快挙である。
- 2016年: 通算1100勝達成。
- 勝率1位**:
- 1982年: 31勝8敗(勝率.795)
- 1983年: 35勝9敗(勝率.795)
- 1988年: 24勝6敗(勝率.800)
- 1994年: 34勝7敗(勝率.829)
- 連勝記録**:
- 1994年: 18連勝を記録。
- 2002年: 17連勝を記録。
- 賞金ランキング**:
- 1995年: 自己最高の2位。
- 2006年: 6位。
- 2013年: 8位。
2.4. 受賞歴
小林覚は、その功績に対し、数々の賞を受賞している。
- 棋道賞:
- 新人賞: 1976年
- 敢闘賞: 1990年、1991年
- 連勝記録賞: 1995年(18連勝)、2002年(17連勝)
- 最優秀棋士賞: 1995年
- 最多勝: 1995年(44勝13敗)、2005年(46勝16敗)
- 勝率1位: 1982年、1983年、1988年、1994年
- 秀哉賞: 1995年
- テレビ囲碁番組制作者会賞: 1995年
- ジャーナリストクラブ賞: 2005年
2.5. 棋風
小林覚の棋風は、一般的に「厚みを重視した柔軟な棋風」と評されることが多い。しかし、本人は自身の碁を「読みを基調とする碁」と語っており、特に趙治勲(조치훈Cho Chi-hun韓国語)との棋聖戦七番勝負以降は、より鋭い踏み込みのある碁へと変化していったとされる。その独特の対局スタイルは「ピップパースタイル」(pincer style英語)とも称される。
3. 主要な出来事
小林覚のキャリアにおいて、特に注目すべき出来事として、2000年に発生した柳時熏との事件がある。
3.1. 柳時熏事件と処分
2000年12月26日、中国江蘇省泰州市で行われた春蘭杯世界囲碁選手権戦に参加した際、対局後の酒席で柳時熏(유시훈Ryu Si-hun韓国語)九段の頬をグラスを持った手で打ち、負傷させる事件を起こした。喧嘩をしていたわけではなく、ジェスチャーの際にグラスが割れて柳が負傷した偶発的な事故であったものの、この件は大きな問題となった。
これを受け、日本棋院は2001年1月5日、小林に対し1年間の謹慎処分を言い渡した。小林はこの処分に際し、引退願いを提出したが、日本棋院は小林が十分に反省していることを理解し、将来の囲碁界への貢献を期待して引退願いを預かりとした。その後、中国と韓国の囲碁関係者からも小林に対する寛大な措置を求める声が上がったこと、そして小林と柳の間で和解が成立したことを受け、謹慎処分は当初の予定より4ヶ月早い2001年9月に解除された。
4. 私生活
小林覚は、公の場で見せるプロ棋士としての顔とは別に、私生活では様々な趣味を持つ人物としても知られている。
1981年に堀越高等学校の同級生であった女優の村地弘美と結婚した。趣味は競輪であり、「競輪は知力、囲碁は体力」という言葉を残している。また、囲碁専門誌『碁ワールド』では、2005年に「女流プロ、ここが強い!」、2006年から2007年にかけて「サトルの目、アマ有段の目」、2008年に「ビストロサトル 定石選択のレシピ教えます」、2009年に「ビストロサトル 攻防の基本レシピ教えます」といった囲碁講座を長期にわたり連載した。
5. 引退後の活動と影響
小林覚は、現役棋士としての活動を続けながらも、囲碁界の発展に貢献するため、要職に就任している。
5.1. 日本棋院理事長就任
2019年4月2日、小林覚は同年3月に辞任した團宏明の後任として、日本棋院の理事長に就任した。理事長として、囲碁の普及と発展、棋士の育成、そして日本棋院の運営全般にわたる重要な役割を担っている。
また、2019年10月には活動を再開した全日本囲碁連合の理事および副会長にも就任し、日本囲碁界全体の連携強化と国際競争力の向上にも尽力している。
6. 著作
小林覚は、自身の囲碁哲学や棋譜を解説した書籍を多数執筆している。
- 『棋聖 小林覚の世界 囲碁界のニューヒーロー』 日本棋院 1995年
- 『第十九期 棋聖決定七番勝負・激闘譜-趙治勲・小林覚 』読売新聞社
- 『第二十期 棋聖決定七番勝負・激闘譜-小林覚・趙治勲 』読売新聞社
- 『第二十一期 棋聖決定七番勝負・激闘譜-趙治勲・小林覚 』読売新聞社
- 『第三十一期 棋聖決定七番勝負 激闘譜-山下敬吾・小林覚 』読売新聞社
- 『第30期囲碁名人戦全記録-名人位決定七番勝負・挑戦者決定リーグ戦』朝日新聞社
- 『小林覚 (囲碁文庫 打碁鑑賞シリーズ2)』 日本棋院 2003年
- 『星への三々』河出書房新社 2003年
- 『小林覚名局細解』誠文堂新光社 2005年
- 『40歳からの囲碁入門 はじめての挑戦!』棋苑図書 1998年
7. 評価と遺産
小林覚は、その棋力と人間性で、日本囲碁界に多大な影響を与えてきた。木谷道場出身者の中で、七大タイトルを獲得した最後の棋士であり、かつ最年少でのタイトル獲得者という記録は、彼の才能と努力の証である。特に1995年の棋聖・碁聖二冠達成は、彼のキャリアの頂点として記憶されている。
また、柳時熏(유시훈Ryu Si-hun韓国語)事件における誠実な対応と、その後の和解、そして囲碁界への復帰は、彼の人間的な成熟と囲碁への深い愛情を示すものとして評価されている。現役棋士として長く活躍し続ける一方で、日本棋院理事長や全日本囲碁連合の要職に就任するなど、囲碁界全体の発展に尽力する姿勢は、後進の棋士たちにとって大きな模範となっている。彼の著作や連載を通じて示された囲碁への深い洞察力は、多くの囲碁ファンに影響を与え、囲碁の普及にも貢献している。