1. 生い立ちと背景
尾崎秀実は、日本のジャーナリスト、評論家、そしてソ連のスパイとして、その生涯を通じて日本の近代史に深く関わった人物である。彼の思想と行動の根底には、幼少期の経験と教育、そして当時の社会情勢が大きく影響している。
1.1. 出生と幼少期
尾崎秀実は1901年(明治34年)4月29日、現在の東京都港区高輪で、報知新聞記者であった父・秀真の長男として生まれた。尾崎家は岐阜県加茂郡白川町の旧苗木藩領にルーツを持つ士族の家系である。生後わずか5ヶ月で、父が台湾総督府の後藤新平の招きを受け、台湾日日新報社漢文部主筆として台湾に赴任したため、尾崎は日本統治時代の台湾の台北で育った。
台北での幼少期は、彼に中国文化への深い敬意と愛情を育んだ。父は、日本がアジアの先進国として、台湾のみならずアジア全体に「文明化の使命」を持つと息子に教え、尾崎は日本語と中国語の二言語話者として育ち、両国の古典文学に親しんだ。しかし、成長するにつれて、中国人を「蟻」と見なすような日本の超国家主義者たちの粗野な反中感情に直面し、これに反発を覚えるようになる。この経験は、後の彼の思想形成に大きな影響を与え、日本社会に対する疎外感を深めていった。
1.2. 教育と初期の思想形成
1922年(大正11年)に日本へ戻った尾崎は、第一高等学校文科乙類を卒業し、東京帝国大学法学部(現・東京大学法学部)に入学した。彼の思想形成における転換点の一つは、1923年(大正12年)の関東大震災後に起こった出来事であった。震災の混乱の中、極右勢力が朝鮮人や左翼活動家を虐殺する自警団活動を政府が容認したことに、尾崎は大きな衝撃を受け、マルクス主義へと傾倒していく。
大学在学中には、第一次共産党検挙事件や甘粕事件といった社会運動への弾圧を目の当たりにし、社会主義の開拓に英雄的な使命を感じるようになる。彼はカール・マルクスの『資本論』、ウラジーミル・レーニンの『帝国主義論』や『国家と革命』などを読み漁った。特に中国問題への関心は、カール・ウィットフォーゲルの『目覚めつつある支那』を読んだことから深まった。1925年(大正14年)に日本共産党の活動に関与したため、大学を卒業せずに中退し、東京帝国大学大学院に進学。大森義太郎経済学部教授が指導するブハーリンの「史的唯物論」研究会に参加し、共産主義の研究に没頭し、完全な共産主義者としての道を歩み始めた。
1.3. ジャーナリストとしてのキャリア開始
1926年(大正15年)5月、尾崎は朝日新聞社に入社し、社会部に配属された。同期には後にゾルゲ事件で共に検挙される田中慎次郎がいた。この頃、彼は「草野源吉」のペンネームで社会主義研究会や関東出版組合に所属し、ヨシフ・スターリンの『レーニン主義の諸問題』をテキストにした研究会を社内で主催するなど、ジャーナリストとしての活動と並行して共産主義思想の深化を図った。翌1927年(昭和2年)には大阪朝日新聞に転属となり、ウラジーミル・レーニンやヨシフ・スターリンに関する記事を執筆した。
2. 上海時代
1928年(昭和3年)11月、尾崎秀実は大阪朝日新聞社の特派員として中国上海に派遣された。この上海での3年余りの滞在は、彼の人生と情報活動において極めて重要な時期となった。
上海に到着した当初、尾崎はイギリスが中国と寄生的な経済関係にあると考えており、中国の民族主義運動は主に反英的であると信じていた。しかし、中国人デモ隊が「日本を追放せよ!」や「日本製品をボイコットせよ!」と叫ぶのを聞き、大きな衝撃を受けた。上海では、中国共産党のメンバー、左翼ジャーナリストのアグネス・スメドレー、そして上海に拠点を置くコミンテルン幹部らと接触するようになる。
スメドレーは1930年(昭和5年)に尾崎をリヒャルト・ゾルゲに紹介した。尾崎は自身の新聞記事で、中国の民族主義と「不平等条約」を解消しようとする彼らの闘争に非常に共感を示した。1932年(昭和7年)には第一次上海事変を取材し、日本兵が上海の路上で中国人捕虜を「蟻」と見なし、人間ではないとして処刑する光景を目の当たりにし、深い精神的衝撃を受けた。この出来事は、彼が日本政府の政策に反発を強める一因となった。
上海滞在中、尾崎は内山書店に頻繁に通い、店主の内山完造や、そこに出入りする郭沫若、魯迅、中国左翼作家連盟の夏衍ら中国の文化人や共産党員と交流を深めた。また、イレーネ・ワイテマイヤーが経営するツァイトガイスト書店でスメドレーに会い、コミンテルン本部機関の諜報活動に間接的に協力するようになった。ゾルゲとは日本料理店「常盤亭」でスメドレーの紹介で出会い、ゾルゲを通じてモスクワへ送った南京国民政府の動向に関するレポートが高く評価された。その後、ゾルゲから自身がコミンテルンの一員であることを告げられ、協力を求められ、これを承諾した。実際に尾崎をゾルゲに紹介したのは、アメリカ共産党員で太平洋労働組合書記局に派遣されていた鬼頭銀一であるという説もある。なお、尾崎は取り調べで、実際にゾルゲに紹介したのはアメリカ共産党員で太平洋労働組合書記局に派遣されていた鬼頭銀一であると供述しているが、ゾルゲがこのつながりを強硬に否定したため、調書ではスメドレーが最初の紹介者として統一されたという経緯がある。
1931年(昭和6年)春には、「日支闘争同盟」の会合に出席した際、満鉄調査部上海満鉄公処の小松重雄の紹介で川合貞吉と出会い、関東軍の動向を探るため、同年6月に川合を満州に派遣した。
3. 政界への進出と顧問としての活動
1932年(昭和7年)2月末に大阪本社から帰国命令を受けて日本に戻った尾崎秀実は、外報部に勤務した。同年5月末には「南龍一」こと宮城与徳が本社を訪れ、彼を介して奈良県で6月初旬にゾルゲと再会。ゾルゲから諜報活動への参加を要請され、全面的な支援を約束し、ゾルゲ諜報団の一員として本格的に活動を開始した。彼の暗号名は「オットー」であった。また、この時期には鬼頭銀一と神戸や大阪で頻繁に会合を持っていた。
1934年(昭和9年)10月、東京朝日新聞社に新設された東亜問題調査会勤務となり、東京朝日新聞に転じた。彼は中国問題の専門家として、著書や記事を通じてその地位を確立していった。
1936年(昭和11年)、カリフォルニア州ヨセミテで開催された太平洋問題調査会に中国問題の専門家として参加し、西園寺公一と出会い親友となった。この会議にはゾルゲも出席しており、尾崎はオランダ領東インド代表のオランダ人からゾルゲの本名を知らされたという(この時まで尾崎にとってゾルゲは「ジョンスン」であった)。
翌1937年(昭和12年)4月からは、近衛文麿側近の後藤隆之助が主宰する政策研究団体である昭和研究会に佐々弘雄の紹介で参加した。同年7月には東京朝日新聞社を退社し、総理大臣秘書官の牛場友彦の斡旋で第1次近衛内閣の内閣嘱託となった。これにより、尾崎は日本の政治中枢に深く接近することになる。同時に、近衛が主催する政治勉強会「朝食会」のメンバーにも加わり、この関係は第2次近衛内閣、第3次近衛内閣まで続いた。彼は毎週朝食を共にしながら近衛や他の選ばれたメンバーと時事問題について協議する立場にあり、自身が情報を収集すべき決定過程に直接参加する異例の状況にあった。
1939年(昭和14年)6月1日からは満鉄調査部嘱託職員として東京支社に勤務し、ゾルゲ事件で逮捕されるまでこの職に留まった。このように、尾崎はジャーナリストとしての専門知識と、政権中枢へのアクセスを通じて、日本の政策決定に大きな影響力を持つ立場に身を置くことになった。
4. 情報活動
尾崎秀実は、ジャーナリストとしての表の顔とは裏腹に、ソ連のスパイとして日本の政治中枢から機密情報を収集し、ソ連の情報機関と連携して活動していた。彼の情報活動は、日本の対中政策や対外政策に大きな影響を与えたと考えられている。
4.1. ソ連情報機関との連携
尾崎秀実は、リヒャルト・ゾルゲが率いるソ連の諜報組織「ゾルゲ諜報団」において、暗号名「オットー」として活動した。1932年(昭和7年)にゾルゲと再会して以来、彼は本格的に諜報活動に従事するようになった。近衛文麿首相の側近として「朝食会」に参加し、昭和研究会などの政策研究団体に所属することで、日本の最高意思決定に関する情報を入手できる立場にあった。
尾崎は、近衛文麿や他の日本の高官との密接な接触を通じて、機密情報を収集し、秘密文書を複写することが可能であった。例えば、彼は日本がソ連との戦争を避けたいと考えていることを知り、その情報をゾルゲに伝達した。この情報は第二次世界大戦の歴史において極めて重要であることが判明した。ゾルゲがこの情報をソ連軍司令部に伝達した後、モスクワ攻防戦の最も危険な時期に、ソ連はシベリアと極東から18個師団、1,700両の戦車、1,500機以上の航空機を西部戦線に転用することができた。この動きは、ソ連がドイツとの戦いに集中することを可能にし、戦局に大きな影響を与えた。
また、尾崎の知人で外務省嘱託だった西園寺公一が海軍軍令部の藤井茂と親交があったことから、尾崎は近衛文麿の側近として軍の首脳部とも緊密な関係を保ち、軍部の内情を得ることが可能であった。彼の情報活動は、単なる情報収集に留まらず、日本政府の政策決定そのものに影響を与えることを目的とした「獲得工作」の一環であった。
4.2. 日本の対中政策への影響
評論家としての尾崎秀実は、『朝日新聞』、『中央公論』、『改造』といった主要な言論誌で中国問題に関する論陣を張った。彼の主張は、日本の対中政策に大きな影響を与えたと考えられている。
1937年(昭和12年)7月に盧溝橋事件(支那事変)が起こると、尾崎は『中央公論』9月号で「南京国民政府論」を発表し、蔣介石の国民政府を「半植民地的・半封建的支那の支配層、国民ブルジョワ政権」であり「軍閥政治」であると酷評し、これに固執すべきではないと主張した。また、ソ連による中ソ不可侵条約締結と在華ソビエト軍事顧問団やソ連空軍志願隊の派遣に前後し、9月23日付の『改造』臨時増刊号でも、局地的解決も不拡大方針も全く意味をなさないとして講和・不拡大方針に反対し、日中戦争拡大方針を主張した(コミンテルン指令1937年)。11月号では「敗北支那の進路」を発表し、「支那に於ける統一は非資本主義的な発展の方向と結びつく」として中国の共産化を予見した。
こうした主張は、当時「暴支膺懲」の標語のもとで盛り上がった反中感情を扇動し、翌1938年(昭和13年)1月16日の第一次近衛声明に影響を与え、早期和平を目指したトラウトマン工作も打ち切られた。同年『改造』5月号で「長期抗戦の行方」を発表し、日本国民が与えられている唯一の道は戦いに勝つということだけ、他の方法は絶対に考えられない、日本が中国と始めたこの民族戦争の結末をつけるためには、軍事的能力を発揮して、敵指導部の中枢を殲滅するほかないと主張した。また『中央公論』6月号で発表した「長期戦下の諸問題」でも中国との提携が絶対に必要だとの意見に反対し、敵対勢力が存在する限り、これを完全に打倒するしかない、と主張して、講和条約の締結に反対、長期戦もやむをえずとして徹底抗戦を説いた。さらに、蔣介石政権との講和を完全に断つため、南京に汪兆銘を首班とする新政権の樹立や東亜新秩序建設の主張も行った。
ただし、尾崎は当時の蔣介石政権(国民政府)の中国と、中国共産党が指導する(後の)中国のあり方を区別しており、前者が中国を統一することを好ましく思わず、後者が確立して(革命後の)日本と提携することを望んでいたと考えられる。これらの動きは、日中の講和を阻害し、日本軍を中国に張り付け国力の消耗を狙ったものであった。
4.3. 日本の対外政策への影響(南進論など)
尾崎秀実は、日本の対外政策、特に南進論への誘導においても重要な役割を果たした。彼は近衛文麿内閣の嘱託として「朝食会」に参加し、昭和研究会などの政策研究団体を通じて、日本政府の動向に関する情報を入手し、自身の助言や提言という形で政策に影響を与えることができる立場にあった。
尾崎が参加した昭和研究会は、国策の理念的裏付けを行い、大政翼賛会結成を推進して日本の政治形態を軍部・官僚による一国一党の独裁組織に誘導した。昭和研究会のメンバーが独自に結成した「昭和塾」のメンバーは、尾崎ら共産主義者と企画院グループの「革新官僚」によって構成され、その理念的裏付けはことごとくマルクス主義を基にしていた。
ゾルゲの手記によれば、独ソ戦開戦で日本の対ソ参戦の可能性が高まった1941年(昭和16年)には、ゾルゲ諜報団は尾崎の提言により、日本の対外政策を南進論(南部仏印進駐)に転じさせる働きかけを積極的に行ったと述べている。この南進論への誘導は、モスクワからの指示では「不必要」とされていたにもかかわらず、ゾルゲが自身の権限内で差し支えないと判断し、実行されたとされる。結果として、日本は無謀な太平洋戦争を開戦し、アメリカとの戦いに自滅した。帝国主義国家間で相互に戦争を起こし、ブルジョワ政府を転覆させるという方針は、レーニンの敗戦革命論に沿うものであった。
1941年(昭和16年)7月2日、尾崎は「朝食会」の一員として、オランダ領東インドやシンガポールへの日本の拡大、そしてヒトラーのシベリア侵攻要請に対する反対という重要な決定を支持した。また、同年9月6日の御前会議で、アメリカとの戦争が不可避であると結論付けられた決定に対して、強い反対と懸念を表明した。
5. ゾルゲ事件と逮捕・裁判
尾崎秀実の活動は、最終的にゾルゲ事件の発覚によって終わりを告げた。この事件は、戦時下の日本社会に大きな衝撃を与え、彼の運命を決定づけることとなった。
5.1. 事件の発覚と逮捕
1941年(昭和16年)10月15日、尾崎秀実はゾルゲ事件の首謀者の一人として、特別高等警察によって逮捕された。この事件は、ソ連のスパイ網が日本の政治中枢にまで浸透していたことを明らかにし、当時の日本社会に大きな衝撃を与えた。尾崎が逮捕されたことを知った近衛文麿は驚愕し、「全く不明の致すところにして何とも申訳無之深く責任を感ずる次第に御座候」と昭和天皇に謝罪している。
5.2. 裁判と判決
逮捕後、尾崎は取り調べに対し積極的に供述したため、検事・司法警察官訊問調書、予審判事訊問調書など、膨大な量の資料が残された。この時、拘置所で一緒だった伊藤律は、恰幅の良かった尾崎が痩せ衰えていたことに驚いたと回想している。尾崎は1942年(昭和17年)3月8日の第22回調書で、「我々のグループの目的・任務は、狭義には世界共産主義革命遂行上の最も重要な支柱であるソ連を日本帝国主義から守ること」と供述している。
1943年(昭和18年)9月29日、東京刑事地方裁判所で死刑判決を受けた。なお、裁判長を務めた高田正は、尾崎と一高・東京帝大を通じて同級生・友人であった。1944年(昭和19年)4月5日には、大審院が上告棄却の判決を下し、彼の死刑が確定した。
5.3. 死刑執行
1944年(昭和19年)11月7日、ロシア革命記念日にあたるこの日、尾崎秀実は国防保安法違反、軍機保護法違反、治安維持法違反により、巣鴨拘置所でリヒャルト・ゾルゲと共に絞首刑に処された。死刑判決が下されていた時期に獄中で尾崎に遭遇した三田村武夫は、「何事か大事を為し終わったという感じの、少しも動揺の見えない落着いた態度であった」と回想している。
尾崎の墓は東京都府中市の多磨霊園にある。

6. 思想と哲学
尾崎秀実の思想は、単なるマルクス主義者としての枠を超え、当時の東アジアの国際情勢と日本の役割に対する深い洞察に基づいていた。彼の行動は、彼が信じる理想の実現に向けた実践であった。
6.1. マルクス主義と社会主義改革
尾崎は、東京帝国大学法学部在学中にマルクス主義に傾倒し、その後の生涯を通じて「もっとも忠実にして実践的な共産主義者」を自称した。彼は、日本の社会を社会主義的に変革する必要性を強く感じていた。逮捕後の検事訊問調書の中で、彼は自身の思想の根幹を次のように述べている。
「この後の地球戦において、日本は本来から経済が脆弱であり、支那事変に過度に消耗したため、致命的な事態が起こると考えました。日本がそのような破局によって不必要な犠牲を払わず、起死回生するため、そしてイギリスとアメリカに一時的に圧倒されないためにできる唯一のことは、ソ連と提携して援助を受け、日本社会経済の根本的な変化を起こし、社会主義国家として日本を確立していくことである」
この供述は、彼が単にソ連のために情報を収集するだけでなく、日本の未来を社会主義的な方向へと導くことを究極の目標としていたことを示している。彼は、日本の経済的脆弱性と日中戦争による消耗が、日本を破局へと導くと見ており、それを回避するためにはソ連との連携と国内の社会主義的変革が不可欠だと信じていた。
6.2. 東アジア秩序への展望
尾崎秀実は、ソ連を宗主国とし、中国と日本の三者が緊密な提携を築くことが、アメリカとの全面戦争を回避し、東アジアに新たな秩序を構築する代替案であると考えていた。彼は、当時の大東亜共栄圏の構想が、帝国主義的であり、真の民族解放には繋がらないと批判的であった。
彼の構想は、さらに広範な「民族共同体」へと広がっていた。彼は、将来的に西洋列強から解放されるであろうインド、ビルマ、タイ、インドネシア、インドシナ、フィリピンといったすべての民族が、一つの民族共同体を形成し、その中心を成すソ連、中国、日本と連合する必要があると説いた。さらに、モンゴル、イスラム民族、朝鮮民族、満州民族もこの共同体に参加できると考えていた。
これは、共産主義をイデオロギーとした世界共産主義の「大同社会」を目指すものであり、現在の大東亜共栄圏に没頭することは正しくなく、中国に倣って日本を社会主義国家へと改造することが必要であるという彼の信念に基づいていた。尾崎のこの思想は、彼が単なるスパイではなく、独自の東アジアの未来像を描いていた革命家としての側面を示している。
7. 私生活と家族
尾崎秀実の私生活は、その公的な活動と同様に複雑な側面を持っていた。特に家族関係や人間関係は、彼の思想や行動に影響を与えた可能性がある。
7.1. 結婚と家族関係
尾崎秀実は、兄・秀波の妻であった英子と結婚した。英子は秀実の従姉妹(叔母の娘)でもあり、この結婚は当時の社会規範から見れば異例のものであった。
彼の娘・楊子は、後に歴史学者(日本近現代史研究者)の今井清一と結婚し、今井は尾崎の「著作集」などを編纂している。また、作家・文芸評論家で、後に日本ペンクラブの会長を務めた尾崎秀樹は、秀実の異母弟にあたる。秀樹は幼い頃に兄が逮捕されて以来、「スパイの弟」として罵られ、家族には脅迫状が送られたという経験を語っており、兄に関する複数の著作を発表している。
7.2. その他の人間関係
尾崎秀実は、アグネス・スメドレーと深い関係を持っていたことが知られている。スメドレーは1946年(昭和21年)2月、アメリカに在住していた際に石垣綾子から、尾崎が1944年(昭和19年)にすでに刑死していると聞いて、「私の夫は亡くなっていたのか」と絶句したというエピソードが残っている。このことは、二人の間に単なる情報提供者と連絡員以上の関係があったことを示唆している。
8. 著作と出版物
尾崎秀実は、ジャーナリスト・評論家として多くの著作や翻訳書を残しており、その知的業績は彼の思想形成と活動を理解する上で重要な手がかりとなる。彼の死後も、獄中書簡集などが公刊され、大きな反響を呼んだ。
8.1. 単著・共著
尾崎は中国問題の専門家として、多数の単著や共著を発表した。
- Recent developments in Sino-Japanese relations (Japanese Council, Institute of Pacific Relations 1936)
- 『現代支那批判』(中央公論社 1936年)
- 『國際関係から見た支那』(第二国民会出版部 1937年)
- 『嵐に立つ支那 : 転換期支那の外交・政治・経済』(亜里書店 1937年)
- 『現代支那論』(岩波新書 1939年)
- 『支那社会経済論』(生活社 1940年)
- 『東亜民族結合と外國勢力』(中央公論社 1941年)
共著としては、『南京政府の正体』(新日本同盟 編 1937年)、『事變處理と國際關係支那の現状と國際政局』(松本忠雄 [述], 尾崎秀實 [述] 東洋經濟新報社 1940年)などがある。
8.2. 翻訳書
尾崎は翻訳家としても活動し、特にアグネス・スメドレーの著作の翻訳は有名である。
- 『女一人大地を行く』(アグネス・スメドレー著、白川次郎訳(名義)、改造社 1934年) - この翻訳は、後に特別高等警察が尾崎を疑うきっかけの一つとなった。
- 『世界政治と東亜』(G.F.ハドソン著、尾崎秀実訳、生活社 1940年)
8.3. 没後出版物
尾崎の死後、彼の思想や人間性を伝える著作が多数出版された。
- 『愛情はふる星のごとく : 獄中通信』(尾崎英子 編註、世界評論社 1946年) - 妻と娘に宛てた獄中書簡集で、戦後ベストセラーとなった。
- 『尾崎秀實選集 第1巻 中國社會の基本問題-現代中國論、中國社会経済論』(世界評論社、1949年)
- 『尾崎秀実著作集』(全5巻、勁草書房 1977年 - 1979年) - 彼の主要な著作、評論、書簡などを網羅した決定版。
- 『開戦前夜の近衛内閣 : 満鉄『東京時事資料月報』の尾崎秀実政治情勢報告』(今井清一 編著、青木書店 1994年)
- 『ゾルゲ事件 上申書』(岩波現代文庫 2003年) - 逮捕後の供述書をまとめたもの。
- 『尾崎秀実時評集 : 日中戦争期の東アジア』(米谷匡史 編、平凡社東洋文庫 2004年)
9. 評価と遺産
尾崎秀実の死後、戦後の日本では、彼の歴史的評価は大きく二分され、今日に至るまで様々な議論が続いている。
9.1. 肯定的な評価
戦後、尾崎秀実は一部の人々から「殉教者」として見なされるようになった。1975年(昭和50年)からは、毎年多磨霊園にある尾崎とリヒャルト・ゾルゲの墓への訪問が行われている。
同時代の経済学者堀江邑一は、尾崎の著書『嵐に立つ支那』の書評で、彼の中国評論全般を「観察の鋭利と分析の透徹」の点で高く評価した。また、尾崎と親交のあった政治家風見章は、事件発覚後も尾崎を信頼し続け、尾崎=ゾルゲ事件を「卑劣なスパイ事件として片づけてしまうのは間違いである」と述べた。風見は、江戸時代に弾圧されたキリスト教徒や、徳川幕府の方針に反して処刑された吉田松陰や平野国臣といった、歴史の転換期に犠牲となった人々に尾崎を重ね合わせ、その処刑を日本を「あたらしい時代へと、この民族をみちびくべき進軍らっぱではなかったか」と評した。評論家の鶴見俊輔は、尾崎を「国士」と評している。
彼の先見性、中国理解、そして日本社会の社会主義的変革への志向は、肯定的な側面として評価されることが多い。特に、彼の日本の軍国主義に対する批判的な視点や、アジアにおける協調的な秩序を模索する姿勢は、社会自由主義的な観点から再評価されるべき点である。
9.2. 批判と論争
一方で、尾崎秀実に対する批判と論争も根強い。彼は国家反逆罪、スパイ行為、そして治安維持法違反によって処刑されており、その行動は国家に対する裏切りと見なされる。彼が日本の機密情報をソ連に流し、日本の対外政策に影響を与えようとしたことは、国家の安全保障を脅かす行為として厳しく非難される。
尾崎の行動が、結果的に太平洋戦争開戦へと日本を誘導したという批判も存在する。彼の対中強硬論や南進論への誘導が、日本の国力を消耗させ、無謀な戦争へと駆り立てたという見方である。彼が「共産主義者」として、日本の「敗戦革命」を意図していたとされる点も、論争の的となっている。
尾崎を巡る歴史的論争は、「愛国者か売国奴か」「民族主義か国際主義か」といった二項対立で語られることが多い。彼の複雑な思想と行動は、単純な枠には収まらず、今日に至るまで多角的な視点からの考察が求められている。
10. 後世への影響
尾崎秀実の思想や活動は、彼の死後も日本の学術研究や社会運動に大きな影響を与え続けている。彼の獄中書簡集『愛情はふる星のごとく』は、戦後すぐにベストセラーとなり、多くの人々に読まれた。この書簡集は、彼の人間性や思想の一端を伝えるものとして、大きな反響を呼んだ。
彼の生涯とゾルゲ事件は、日本の近代史における重要なテーマとして、歴史学者や政治学者による研究の対象となってきた。彼の思想、特に東アジアの秩序に関する構想や、日本の社会主義的変革への考え方は、戦後の日本の左翼思想や平和運動にも影響を与えた。また、彼の活動が、日本の対外政策に与えた影響についても、多くの研究がなされている。
尾崎の異母弟である作家・文芸評論家の尾崎秀樹は、兄に関する複数の著作を執筆し、ゾルゲ事件の真相解明と兄の再評価に尽力した。これらの著作は、事件の背景や尾崎の人間像を深く掘り下げ、後世の人々が尾崎秀実という人物を理解する上で重要な役割を果たしている。
11. 芸術・メディアにおける描写
尾崎秀実の生涯とゾルゲ事件は、その劇的な展開から、多くの創作物の題材となってきた。
- 黒澤明監督の映画『わが青春に悔なし』(1946年)は、尾崎秀実の生涯をゆるやかにベースにしている。
- 木下順二の戯曲『オットーと呼ばれる日本人』(初演は1962年(昭和37年)劇団民藝)は、尾崎秀実を題材とした代表的な作品であり、日本国内で度々上演されている。
- 篠田正浩監督の映画『スパイ・ゾルゲ』(2003年)では、本木雅弘が尾崎秀実を演じた。
- 斎藤武市監督の映画『愛は降る星のかなたに』(1956年、日活)では、森雅之が尾崎をモデルとした坂崎秀美を演じた。
- イヴ・シャンピ監督のフランス・日本合作映画『スパイ・ゾルゲ/真珠湾前夜』(1961年)では、山内明が尾崎を演じた。
- 太田尚樹の小説『赤い諜報員 ゾルゲ、尾崎秀実、そしてスメドレー』(講談社 2007年)は、彼の生涯を描いている。
これらの作品は、尾崎秀実という複雑な人物の多面的な側面を、様々な解釈で描写しており、彼の歴史的意義について一般の人々が考えるきっかけを提供している。
12. 関連項目
12.1. 関連人物・事件
- リヒャルト・ゾルゲ
- ゾルゲ事件
- 近衛文麿
- アグネス・スメドレー
- 宮城与徳
- 鬼頭銀一
- 川合貞吉
- 西園寺公一
- 牛場友彦
- 後藤隆之助
- 田中慎次郎
- 風見章
- 鶴見俊輔
- 尾崎秀樹
- 今井清一
- 昭和研究会
- 朝食会
- 満鉄調査部
- 企画院事件
- 日中戦争
- 太平洋戦争
- トラウトマン工作
- コミンテルン
- 南進論
- 東亜新秩序
- 汪兆銘を首班とする新政権
- 敗戦革命論
- 日支闘争計画
- ソ連空軍志願隊
- 中ソ不可侵条約
- 在華ソビエト軍事顧問団
- 御前会議
13. 外部リンク
- [https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%B0%BE%E5%B4%8E%E7%A7%80%E5%AE%9F 尾崎秀実 - ウィキソース]
- [https://www.aozora.gr.jp/cards/000242/files/index.html 尾崎秀実:作家別作品リスト - 青空文庫]
- [http://homepage3.nifty.com/katote/mongol.html 国際情報戦の中のゾルゲ=尾崎秀実グループ(加藤哲郎による第4回ゾルゲ事件国際シンポジウム「ノモンハン事件とゾルゲ事件」 2006年5月(モンゴル)報告)]
- [https://www.aozora.gr.jp/cards/000242/files/1322_20768.html 尾崎秀実 遺言]