1. 概要
崇仁親王妃百合子(たかひとしんのうひ ゆりこ、旧名:高木百合子)は、大正天皇の第四皇子である三笠宮崇仁親王の妃として、日本の皇室の一員でした。1923年に大正時代に生まれ、2024年に101歳で薨去するまで、皇室最高齢の成員であり、大正時代に生まれた最後の皇族として、激動の時代を生き抜きました。その身位は親王妃、敬称は殿下で、お印は桐でした。
百合子妃は、夫である崇仁親王を支えながら、日本赤十字社名誉副総裁や恩賜財団母子愛育会総裁など、数々の公的・慈善活動に尽力し、特に母子の福祉や日本の伝統文化の保存・普及に多大な貢献をしました。その長寿と公的な活動は、多くの人々に敬愛され、皇室の歴史において重要な存在として記憶されています。
2. 生涯と背景
2.1. 出生と家族
百合子妃は1923年(大正12年)6月4日、東京府東京市赤坂区高樹町(現在の東京都港区南青山)にあった高木子爵邸で、子爵・高木正得(1894年 - 1948年)と妻の邦子(旧姓:入江、1901年 - 1988年)の次女として誕生しました。
父の高木正得は、かつて河内国丹南藩1万石を領した大名家である高木氏の末裔であり、幕末の老中として知られる堀田正睦の玄孫にあたります。母の邦子は、冷泉家の流れを汲む堂上家である入江家の出身で、入江為守子爵の次女でした。邦子の叔父にあたる入江相政は昭和天皇の侍従長を務めました。また、邦子の祖母は大正天皇の生母である柳原愛子(二位の局)の姪にあたるため、邦子は昭和天皇の再従兄弟にあたります。百合子妃には姉の衣子と、妹の桃子、小夜子がいました。
父の高木正得は昆虫学者でもありましたが、第二次世界大戦中の東京大空襲で貴重な蔵書や標本を失い、戦後の華族制度廃止による生活苦とインフレーションに直面しました。その心労から1948年(昭和23年)に失踪し、東京都と山梨県の県境にある奥多摩町の七ツ石山中で縊死体となって発見されました。彼は遺書に生活苦を綴っており、これは戦後の元華族が直面した厳しい現実を世間に知らしめる出来事となりました。
2.2. 教育
百合子妃は1928年(昭和3年)4月に女子学習院幼稚園に入園し、1931年(昭和6年)4月には女子学習院本科(現在の学習院初等科・学習院女子中等科・高等科)に進学しました。そして1941年(昭和16年)に女子学習院本科を卒業しました。
3. 結婚と皇室生活
3.1. 結婚

1941年(昭和16年)3月29日、百合子妃は再従兄弟にあたる三笠宮崇仁親王との婚約が発表されました。同年10月3日に納采の儀が執り行われ、10月22日に結婚の儀が行われました。この結婚は、日本が第二次世界大戦に参戦する真珠湾攻撃のわずか2ヶ月前という、緊迫した時代に行われました。結婚後、百合子妃は「三笠宮妃殿下」の身位となりました。
1945年(昭和20年)5月、夫妻が住んでいた青山東御殿(東京市赤坂区)は東京大空襲により全焼しました。百合子妃は当時1歳だった長女の甯子内親王を抱え、防空壕での生活を余儀なくされました。彼女は戦時中の雰囲気を「非常に恐ろしい」と表現し、防空壕の中では「弾が飛び交うような激しい議論と緊張」があったと語っています。戦後は、宮家も財政的に苦しい時期を経験し、百合子妃は家事にも深く関わりました。

1970年(昭和45年)11月には、東京都港区の赤坂御用地に新築された三笠宮邸へ移り住みました。夫妻は2016年(平成28年)10月22日に、崇仁親王が入院中の病室で結婚75周年を祝いました。崇仁親王はその5日後の10月27日に薨去し、百合子妃は夫の最期を看取りました。夫の葬儀では、百合子妃が喪主を務めました。
夫妻には5人の子供がいました。2人の娘は結婚により皇室を離れ、3人の息子は全員が夫妻に先立って薨去しました。2022年時点で、夫妻には9人の孫と8人の曾孫がいました。孫のうち3人の女王が皇室に残っていますが、他の2人の孫娘は結婚により皇室を離れています。
3.2. 皇室における役割
百合子妃は三笠宮妃として、夫を支えながら数々の公務や活動に従事しました。1963年(昭和38年)から1967年(昭和42年)まで皇室会議の予備議員を務め、1991年(平成3年)からは4期にわたり皇室会議議員を務めました。その後、2007年(平成19年)9月からは再び予備議員となり、2015年(平成27年)9月まで、そして2019年(令和元年)9月からは再度予備議員を務めました。
4. 子女
百合子妃は夫の三笠宮崇仁親王との間に、3男2女の計5人の子女をもうけました。
諱・身位 | 読み | 生年月日 | 没年月日 | 続柄 | 備考 | |
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![]() | 甯子内親王 | やすこ | 1944年(昭和19年) 4月26日 | 第一女子 (第1子) | 近衞忠煇(日本赤十字社名誉社長)と結婚。 皇籍離脱後、近衞甯子となる。 子女:近衞忠大。 | |
![]() | 寬仁親王 | ともひと | 1946年(昭和21年) 1月5日 | 2012年(平成24年) 6月6日 | 第一男子 (第2子) | 寬仁親王 麻生信子と結婚(→寬仁親王妃信子)。 子女:彬子女王、瑶子女王。 |
![]() | 宜仁親王 | よしひと | 1948年(昭和23年) 2月11日 | 2014年(平成26年) 6月8日 | 第二男子 (第3子) | 桂宮宜仁親王 配偶者および子女:無し。 |
容子内親王 | まさこ | 1951年(昭和26年) 10月23日 | 第二女子 (第4子) | 千宗室と結婚 皇籍離脱後、千容子となる。 子女:千明史、千敬史、坂田真紀子。 | ||
![]() | 憲仁親王 | のりひと | 1954年(昭和29年) 12月29日 | 2002年(平成14年) 11月21日 | 第三男子 (第5子) | 高円宮憲仁親王 鳥取久子と結婚(→憲仁親王妃久子)。 子女:承子女王、千家典子、守谷絢子。 |
5. 公的な活動
百合子妃は、様々な公的活動や慈善活動を通じて、社会に多大な貢献をしました。
5.1. 社会貢献活動
百合子妃は、数々の慈善組織の名誉総裁を務め、特に日本赤十字社では名誉副総裁として積極的に活動しました。1948年(昭和23年)には恩賜財団母子愛育会の総裁に就任し、2010年(平成22年)9月に退任するまでの60年以上にわたり、母子の福祉と健康増進に尽力しました。この間、東京をはじめ日本各地で母子保健に関連する様々な公的行事に出席しました。
また、1956年(昭和31年)8月から10月にかけて、スリランカ建国2500年記念祭典参列のため、三笠宮とともに戦後初の海外訪問を行い、イランやイラクにも立ち寄りました。1989年(平成元年)5月には、旧李王家の李方子の葬儀に参列するため、三笠宮とともに大韓民国を訪問しました。
5.2. 文化活動
百合子妃は、日本の伝統文化の保存と普及にも深く関わりました。1979年(昭和54年)3月からは民族衣裳文化普及協会の名誉総裁を、また中宮寺奉賛会の名誉総裁も務め、2010年(平成22年)3月まで活動を続けました。これらの活動を通じて、日本の豊かな文化遺産を次世代に伝えることに貢献しました。
6. 後期生活と健康

百合子妃は1999年(平成11年)からペースメーカーを使用しており、2007年(平成19年)には大腸癌の摘出手術を受けました。2019年(令和元年)の徳仁天皇の即位の礼には、健康上の理由から出席を見合わせました。
2020年(令和2年)9月には、97歳で心不全と肺炎の症状により入院しましたが、2週間後に退院しました。2021年(令和3年)3月には不整脈のため聖路加国際病院に入院しましたが、容体は深刻ではなく、数日で退院しました。2022年(令和4年)7月には、99歳でCOVID-19の陽性反応が出て聖路加国際病院に入院しました。
2023年(令和5年)6月4日には、百寿(100歳)の誕生日を迎えました。この際、百合子妃は文書を寄せ、結婚後は皇族としての公務を果たす傍ら、「家族一人一人の歩みが分かるように写真アルバムを作成したり、5人の子供たちの育児日誌をつけたりと、時間に追われながらも充実した毎日を過ごしておりました」と回想しました。また、孫や8人の曾孫の成長を楽しみにしていると述べ、「これからも人々の幸せを祈念しつつ、日々を過ごしてまいりたい」と語りました。宮内庁によると、百合子妃は健康維持のため、午前中に15分程度の体操を日課とし、天気の良い日には宮邸の庭で日光浴をしたり、車椅子で赤坂御用地内を散策したりしていました。また、複数の新聞や雑誌を読むことを日課とし、テレビでニュースや野球中継を見ることを楽しみにしていると報じられました。
2024年(令和6年)3月上旬、百合子妃は軽度の脳梗塞と誤嚥性肺炎の疑いで聖路加国際病院に入院しました。当初は集中治療室に入っていましたが、症状が落ち着いたため3月11日には一般病棟に移りました。しかし、数日後には心不全の症状と新たな脳梗塞の症状が確認され、引き続き聖路加国際病院で治療を受けました。6月4日には101歳の誕生日を病院で迎え、高円宮妃久子、彬子女王、瑶子女王、承子女王ら皇族方が見舞いに訪れました。一般病棟では、毎日30分から1時間ほど車椅子に乗るなどのリハビリに取り組み、新聞を読むなどして過ごしていました。
同年8月には、外孫(次女の長男)である千明史が急性呼吸不全により39歳で死去しました。
8月16日には肺炎と診断され、再び集中治療室に入りましたが、症状が改善したため9月9日には一般病棟に戻りました。11月7日の検査では、心臓や腎臓など全身の機能低下が進んでいることが判明し、容体が悪化していることが発表されました。11月9日には、容体悪化の報を受け、彬子女王がイギリスから急遽帰国し、高円宮妃久子、瑶子女王、近衞甯子ら近親者が病院を訪れました。寛仁親王妃信子も京都への訪問を取りやめ、百合子妃を見舞いました。11月11日には、宮内庁が百合子妃の意識が「低下した状態」にあると発表し、さらに多くの皇族方が見舞いに訪れました。徳仁天皇と皇后雅子も百合子妃の容体を案じている旨を伝えられました。11月14日には、宮内庁の西村泰彦侍従長が百合子妃が意識を失いつつあると報告しました。
7. 死没と葬儀

2024年(令和6年)11月15日午前6時32分(日本標準時)、百合子妃は101歳で入院先の聖路加国際病院(東京都)で薨去しました。薨去の際には、孫の彬子女王、瑶子女王、承子女王、そして義理の娘である憲仁親王妃久子が最期を看取りました。宮内庁は公式な死因を「老衰」と発表しましたが、日本の報道機関は肺炎が死因であったと報じました。葬儀に際しては、2023年の百寿の際に撮影された写真が遺影として祭壇に飾られました。
百合子妃の遺体は11月15日午前9時30分に聖路加国際病院から三笠宮邸に移送されました。皇室では百合子妃の薨去に伴い、服喪期間に入りました。徳仁天皇も公務を取りやめました。
私的な儀式として、11月16日午後5時には納棺にあたる「御舟入」が三笠宮邸で執り行われ、皇族方が拝礼しました。11月24日午後2時には、棺を祭壇に移す「正寝移柩の儀」が行われました。同日午後6時からは通夜が始まり、11月25日午後5時には御霊を権舎に安置する「霊代安置の儀」が執り行われました。
本葬にあたる「斂葬の儀」は11月26日に執り行われました。午前9時30分に葬列が出発する「霊車発引の儀」が、午前10時からは「葬場の儀」が豊島岡墓地(東京都文京区)で執り行われ、481人が参列しました。喪主は孫の彬子女王が務め、尚友倶楽部の坊城俊在が司祭長を務めました。百合子妃の遺体は「葬場の儀」の後、落合斎場で火葬に付され、遺骨は夫である崇仁親王の隣に豊島岡墓地の三笠宮家墓所に埋葬されました。副葬品としては、家族の写真、故人が大切に保管していた5人の子供たちの乳歯、母・高木邦子手縫いの着物のほか、晩年に親しんだ漢字パズルなどが納められました。
政府は、百合子妃の葬儀費用が約3.25 億 JPYかかると発表し、そのうち約3.20 億 JPYが予備費から充当されました。また、10月に支給された皇族費の半分にあたる約1016.00 万 JPYが国庫に返納されることになりました。3月から11月までの入院費用は「皇室費」から支払われました。
天皇、皇后、上皇、上皇后は慣例により斂葬の儀には参列せず、勅使や皇后宮使らを差遣しました。しかし、11月16日の「御舟入」前と11月24日の「正寝移柩の儀」の後には、四陛下がそれぞれ三笠宮邸に行幸啓し、弔問を行いました。天皇と皇后は11月27日の「斂葬後一日墓所祭の儀」の後、三笠宮家墓所で拝礼しました。
斂葬の儀の後も、11月27日午前10時から三笠宮邸で「斂葬後一日権舎祭の儀」が、同日午後2時から豊島岡墓地で「斂葬後一日墓所祭の儀」が執り行われました。2025年(令和7年)1月3日午後4時30分には豊島岡墓地で「墓所五十日祭の儀」が行われる予定です。百合子妃の喪儀は、戦前の「皇室喪儀令」をほぼ踏襲し、2025年(令和7年)11月15日に豊島岡墓地で行われる「墓所一周年祭の儀」まで1年間続くことになります。
8. 栄典
百合子妃は生涯を通じて、国内外から数々の栄誉を授与されました。
8.1. 日本
- 勲一等宝冠章(宝冠大綬章)(1941年(昭和16年)10月22日)
- 日本赤十字社名誉社員章
- 日本赤十字社有功章
8.2. 外国
8.3. 名誉役職
- 皇室会議予備議員(通算4期:1963年(昭和38年)9月16日 - 1967年(昭和42年)9月15日、2007年(平成19年)9月16日 - 2015年(平成27年)9月15日、2019年(令和元年)9月16日 - 2023年(令和5年)9月15日)
- 日本赤十字社名誉副総裁
- 恩賜財団母子愛育会総裁(1948年(昭和23年)4月 - 2010年(平成22年)9月30日)
- 民族衣裳文化普及協会名誉総裁(1979年(昭和54年)3月 - 2010年(平成22年)3月)
- 中宮寺奉賛会名誉総裁
- 皇室会議議員(連続4期:1991年(平成3年)9月16日 - 2007年(平成19年)9月15日)
9. 系譜
百合子妃の生家である高木家は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた武家であり、江戸時代には河内国丹南藩1万石の大名でした。
母方の入江家は藤原北家の支流である冷泉家の流れを汲む歌道の家で、中世の歌人藤原俊成や藤原定家を祖先としています。母の邦子の父は東宮侍従長や侍従次長を務めた入江為守子爵であり、その母である信子は大正天皇の生母である柳原愛子の姪にあたります。
百合子妃の父方の曾祖父は上野国高崎藩第9代藩主の松平輝聴、母方の曾祖父は羽林家・冷泉家第20代当主の冷泉為理、そして大正天皇の伯父にあたる柳原前光伯爵です。
百合子妃の家族構成は以下の通りです。
- 父:高木正得(子爵、貴族院議員、丹南高木家第14代当主)
- 母:邦子(入江為守子爵令嬢)
- 姉:衣子(木越安綱男爵令息・正順を継嗣に迎える)
- 妹:桃子(旧丸亀藩京極家 京極高晴子爵夫人)
- 妹:小夜子(高丘季昭子爵夫人)
- 父方の祖父:高木正善(河内国丹南藩第13代藩主)
- 父方の祖母:高木銑子
- 母方の祖父:入江為守(子爵、東宮侍従長、侍従次長、皇太后宮大夫)
- 母方の祖母:信子(柳原前光伯爵令嬢)
- 母方の叔父:入江相政(昭和天皇の侍従長)