1. 概要
川口悠子(かわぐち ゆうこ、Юко Кавагутиユーコ・カバグチロシア語、Yuko Kavagutiユーコ・カバグティ英語)は、1981年11月20日に千葉県船橋市で生まれ、後にロシアを代表して国際大会で活躍した元フィギュアスケート選手である。女子シングルとしてキャリアをスタートさせた後、ペアに転向。日本代表としてアレクサンドル・マルクンツォフと組んだ後、アレクサンドル・スミルノフとパートナーシップを結び、ロシア代表として出場した。
スミルノフとのペアでは、2010年と2015年の欧州選手権で2度優勝、2009年と2010年の世界選手権で2年連続の銅メダルを獲得した。また、2010年バンクーバーオリンピックでは4位入賞を果たし、ロシア国内選手権では3度優勝している。特に2015年には、史上初めて1つのプログラムで2つの4回転スロージャンプを成功させ、また史上初めて4回転スローループを成功させたペアとしてフィギュアスケート界に名を刻んだ。
国際競技会での活躍のため、2008年にロシア国籍を取得したが、これにより日本国籍を喪失するという重大な決断を迫られた。引退後は、プロスケーターとしてアイスショーに出演する傍ら、コーチングやテクニカルスペシャリストとしても活動している。彼女のキャリアは、競技における卓越した成果だけでなく、国籍変更という個人的な犠牲を払ってでも自身の目標を追求した強い意志と、国際舞台での架け橋としての役割を示している。
2. 初期生い立ちと背景
川口悠子は、幼少期にフィギュアスケートを始め、やがてその才能を開花させた。彼女のキャリアは、シングルスケーターとして日本で始まり、その後ペアスケートへと転向し、最終的にはロシアを代表する選手として国際舞台で成功を収めるに至った。
2.1. 幼少期と初期トレーニング
川口悠子は1981年11月20日に千葉県船橋市で生まれた。5歳でスケートを始め、小学校3年生から本格的なトレーニングに取り組んだ。当初は女子シングル選手として活動し、日本のジュニア選手権で注目すべき成績を収めている。彼女がペアスケートへの転向を決意したのは、1998年の長野オリンピックでロシアのペアスケーター、エレーナ・ベレズナヤの演技に感銘を受けたことがきっかけだった。「自分もエレーナのようになりたい」という強い思いから、当時ベレズナヤのコーチであったタマラ・モスクビナに手紙を送り、その後も何度もコーチをしてくれるよう嘆願した。モスクビナは当初、ロシアでのトレーニングの難しさや治安の悪さを理由に川口を諦めさせようとしたが、彼女の諦めない姿勢と、モスクビナが課した2つの難しいテストをクリアしたことで、最終的にモスクビナの指導を受けることを許可された。1999年には、モスクビナが当時コーチを務めていたニュージャージー州のハッケンサックへ渡米した。
2.2. 学歴と語学能力
川口悠子は、フィギュアスケートキャリアと並行して学業にも力を入れた。彼女は千葉県船橋市立船橋高等学校を卒業している。
2003年9月には、ロシアのサンクトペテルブルク大学の国際関係学部に進学し、2007年6月に卒業した。この大学での学習経験により、彼女は日本語の母国語に加え、ロシア語と英語を流暢に話すトリリンガルとなった。彼女は引退後のキャリアとして国際外交分野への関心を示しており、多言語能力は将来の活動において重要な資産となっている。
3. 日本での初期キャリア
川口悠子は、フィギュアスケートキャリアの初期を日本で過ごし、女子シングル選手として頭角を現した。その後、ペアスケートに転向し、日本代表として初めてのペアパートナーシップを結んだ。
3.1. シングルスケーティングキャリア
川口悠子のシングルスケーティングキャリアは、1997年の全日本フィギュアスケートジュニア選手権女子シングルで3位入賞という成果で始まった。1998-1999シーズンからはISUジュニアグランプリ(JGP)に参戦し、JGPメキシコ杯では優勝を飾った。しかし、同シーズンの全日本ジュニア選手権ではショートプログラムから精彩を欠き、総合10位にとどまった。この時期に、彼女はペアスケートへの転向を決意するきっかけとなった長野オリンピックでのエレーナ・ベレズナヤの演技に出会う。
3.2. アレクサンドル・マルクンツォフとのパートナーシップ
1999年3月、川口悠子はアレクサンドル・マルクンツォフとペアを結成し、ペアスケートに転向した。彼女自身が「スロージャンプに憧れてペアを始めた」と語っている。二人は主にハッケンサックでタマラ・モスクビナとイゴール・モスクビンの指導を受け、タチアナ・ドルチーニナ、イゴール・ボブリン、モスクビナが振付を担当した。
このペアは、日本フィギュアスケート界にとって歴史的な成果を上げた。2000-2001シーズンにはISUジュニアグランプリに参戦し、JGPメキシコ杯で優勝、JGPハルビンで3位を獲得。初出場となったISUジュニアグランプリファイナルでは、ペアの日本代表選手として初の表彰台となる銅メダルを獲得した。さらに、2001年の世界ジュニア選手権では銀メダルを獲得し、ペア種目における日本勢初の表彰台を達成した。
2001-2002シーズンからはシニアクラスに完全転向し、ISUグランプリシリーズに出場。全日本選手権では2002年と2003年に連覇を果たすなど、日本トップペアとしての地位を確立した。しかし、2003年5月、マルクンツォフが日本国籍を取得してオリンピックに出場することが困難であるという理由から、二人のペアは解消された。川口は「私たちは良好な関係でしたが、アレクサンドルが日本国籍を取得するのは非常に難しく、そのためオリンピックで日本を代表することができませんでした。しばらくして、私たちは別れることにしました」と語っている。
4. ロシアへの転身と新たなパートナーシップ
アレクサンドル・マルクンツォフとのペア解消後、川口悠子は自身のスケートキャリアの継続と発展のため、ロシアへの重要な移住を決断した。この移住は、彼女が新たなパートナーを見つけ、その後の競技生活における長期的な成功の基盤を築く上で極めて重要な転換点となった。
4.1. サンクトペテルブルクへの移住とパートナー模索
マルクンツォフとのペア解消後、川口は2003年にコーチのタマラ・モスクビナが活動拠点を戻したサンクトペテルブルクへ移住し、同地の大学に在籍しながらスケートを続けた。
2004年夏にはアメリカ人スケーターのジョシュ・マーティンとペアを組んだが、同年5月にマーティンが練習に向かう途中ローラースケート中に車にはねられ、負傷したためアメリカに帰国することになり、ペアは解消となった。その後、別のパートナーを求めてアメリカ人スケーターのデヴィン・パトリックと滑り始めた。「彼は私に4回転スローサルコウを教えてくれました。彼は本当に素晴らしいスローを持っていましたが、他の要素がうまくいきませんでした」と川口は述べている。このペアは日本の国内選手権(2004-2005シーズンの全日本選手権で優勝)や、アメリカの国内選手権(2006年の全米選手権で15位)に出場したが、パトリックがアメリカでの生活を望んだのに対し、川口がタマラ・モスクビナの元を離れることを望まなかったため、ペアを解消した。「彼はアメリカに住むことを望んでいましたが、私はタマラ・ニコラエヴナ(モスクビナ)を離れたくありませんでした。勉強を諦めてコーチを離れ、アメリカに行くことなどできませんでした」と川口は語っている。この時期、新しいパートナーが見つからないかもしれないという不安を抱えつつも、少なくとも大学の学位だけは取得しようと決意していた。
4.2. アレクサンドル・スミルノフとのパートナーシップ形成
2006年5月、川口悠子はアレクサンドル・スミルノフとペアを結成し、ロシア代表として競技に臨むことを決意した。これは、優れたパートナーを見つけることが困難であったため、他の国でスケートを続けるという苦渋の決断だった。スミルノフは川口について「私たちは同じリンクでよく練習していたので、彼女がどれほど一生懸命練習しているか見ることができました。私は自分が努力家だと思っていましたが、彼女を見てその仕事ぶりに本当に驚かされました」と語っている。
彼らはサンクトペテルブルクのユビレイニー・スポーツ宮殿でトレーニングを開始した。当初はニコライ・ヴェリコフの指導も受けていたが、川口が1998年以来タマラ・モスクビナの指導を受けてきたことから、モスクビナの元に留まることを希望し、2006年8月からはモスクビナの指導の下で本格的なトレーニングを開始した。この新たなパートナーシップは、彼らのその後の輝かしい競技キャリアの基礎を築くこととなった。

4.3. ロシア国籍取得
川口悠子は、2010年バンクーバーオリンピックにロシア代表として出場するため、2008年12月にロシア国籍を取得した。この決断は、彼女のキャリアにおいて極めて重要な意味を持つものであった。日本は原則として二重国籍を認めていないため、彼女はロシア国籍の取得と引き換えに日本国籍を喪失するという重大な選択を迫られた。この件に関して、川口は「国籍が日本でなくなるということは重大な決断なので、そうするからには五輪でメダルを取りたい」と語り、自身の競技目標達成への強い意志を示した。
国籍変更に伴い、彼女の氏名の表記も変更された。日本語の「Kawaguchi」は、ロシア語の「Кавагути」を経てラテン文字に転写される際に「Kavaguti」となり、以後国際大会では「Yuko Kavaguti」として知られることとなった。日本国籍を再取得するためには、現在の法律では10年後に再申請することが可能とされている。この国籍変更は、彼女が自身のアスリートとしての可能性を最大限に追求するために払った個人的な犠牲を象徴している。
5. アレクサンドル・スミルノフとの競技キャリア
アレクサンドル・スミルノフとのペアを結成して以来、川口悠子はロシア代表として数々の国際大会に出場し、目覚ましい成果を上げた。彼らのキャリアは、革新的な技術の追求、幾多の負傷との闘い、そして常に世界のトップを目指す揺るぎない努力によって彩られている。
5.1. 2006-07シーズン
アレクサンドル・スミルノフとのパートナーシップを結んで最初のシーズン、川口悠子とスミルノフ組は、2006年のグランプリシリーズ初戦であるロシア杯で銅メダルを獲得し、幸先の良いスタートを切った。また、ニース杯では金メダルを獲得している。
しかし、このシーズンは困難も伴った。2006年に4回転スローからの転倒で肩を脱臼し、その後数年間、この問題に悩まされることとなる。さらに、2006年12月25日の練習中に川口が足首を骨折したため、2007年のロシア選手権とヨーロッパ選手権を欠場せざるを得なくなった。彼らにとってペアとして初の世界選手権となった、東京で開催された2007年世界選手権では、ショートプログラムで4位と好位置につけたものの、フリースケーティングで10位となり、総合9位で終えた。
5.2. 2007-08シーズン
2007-08シーズン、川口悠子とスミルノフ組は、ロシア杯で2年連続となる銅メダルを獲得し、スケートカナダでも銅メダルを手にした。ニース杯ではショートとフリーの両方で1位となり、2年連続の金メダルを獲得した。
初のISUグランプリファイナルでは、ショートプログラムで規定要素の違反による2点減点があり6位となった。フリースケーティングでは4回転スローサルコウでの転倒により1点減点を受け、総合5位で大会を終えた。
2008年のロシア選手権では、ショートとフリーの両方で1位となり、初の国内タイトルを獲得した。この大会では、4回転スローサルコウからの転倒で川口が肩を脱臼したが、彼女は痛みに耐えながら演技を続行しようとした。しかし、スミルノフが彼女の腕が上がらないのを見てプログラムを中断。ルールで認められた2分間の休憩後、二人はプログラムを完遂し、2本のトリプルトウループ、トリプルツイスト、スロートリプルループを成功させ、マリア・ムホルトワとマキシム・トランコフ組に10.43点差をつけて初優勝を飾った。
彼らにとって初の欧州選手権は、2008年1月にザグレブで開催された。フリースケーティングでは4回転スローサルコウを着氷させたものの、トリプルジャンプでの転倒や、計画していたダブルアクセルがシングルになってしまうなどのミスがあり、総合で銅メダルに留まった。ヨーテボリで開催された2008年世界選手権では、ショートプログラムで自己ベストとなる71.42点を記録し、3位につけた。フリースケーティングでは4回転スローサルコウを着氷させ、複数の要素でレベル4を獲得したが、僅か1.45点差で銅メダルを逃し、総合4位となった。
5.3. 2008-09シーズン
川口悠子とスミルノフ組は2008-09シーズンも好調を維持し、ニース杯では3年連続となる金メダルを獲得した。スケートカナダでは、グランプリシリーズで自身初となる国際大会での優勝を飾った。続くロシア杯ではショートプログラム2位、フリースケーティング1位となり、総合2位で大会を終えた。
2度目のISUグランプリファイナルでは、ショートプログラムで6位、フリースケーティングで5位となり、総合5位に終わった。
2009年ロシア選手権では、ショートプログラム2位から巻き返し、ムホルトワ/トランコフ組に15点以上の差をつけて2年連続の優勝を飾った。2009年欧州選手権では、ショートプログラム3位から順位を上げ、前年の銅メダルを上回る銀メダルを獲得した。
ロサンゼルスで開催された2009年世界選手権では、ショートプログラムで2位につける好スタートを切った。フリースケーティングでは4回転スローサルコウからの着氷時に川口が顔から氷に激しく転倒したが、すぐに立ち上がり演技を続行。その粘り強い演技により、彼らは自身初となる世界選手権の銅メダルを獲得したが、張丹/張昊組に僅か0.13点差で銀メダルを逃した。
このシーズン、彼らはISU初の国別対抗戦にロシア代表として出場した。ショートプログラムとフリースケーティングでともに2位となり、個人成績では総合2位を獲得。ロシアチームは総合5位で大会を終えた。
5.4. 2009-10シーズン(バンクーバーオリンピック)


2009-10シーズン、川口悠子とスミルノフ組はNHK杯に出場した。ショートプログラムでは龐清/佟健組を抑えて1位となった。しかし、フリースケーティングで川口が再び4回転スローで転倒し、肩を脱臼。演技は2分間の医療休憩のために中断されたが、二人は演技続行を決意した。転倒による3点減点と医療休憩による「過度な中断」の減点があったものの、銀メダルを獲得した。
続くロシア杯では、ショートとフリーともに2位となり、龐清/佟健組に次ぐ銀メダルを獲得した。このグランプリシリーズでの成績により、彼らはグランプリファイナルへの出場権を獲得したが、ショートプログラム6位、フリースケーティング5位となり、3年連続で総合5位に終わった。
2010年ロシア選手権では、ショートとフリーの両プログラムで1位となり、ムホルトワ/トランコフ組に11点以上の差をつけて3年連続の優勝を飾った。タリンで開催された2010年欧州選手権では、ショートプログラムで上位3組が1点差以内にひしめく中で2位につけた。フリースケーティングでは、川口がトリプルトウループで着氷が乱れるミスがあったものの、ほぼ完璧な演技を披露した。演技の途中で川口の肩が脱臼したが、彼女はそれを自力で戻し、残りのプログラムを続行した。この演技で139.29点を獲得し、当時のISU歴代最高フリースケーティング得点を更新。彼らは見事、初の欧州選手権優勝を果たした。
彼らにとって初のオリンピック競技となったバンクーバーでは、ショートプログラムでシーズンベストとなる74.16点を記録し、申雪/趙宏博組に僅か2.5点差の3位と好発進した。しかし、本番のフリースケーティング直前のウォームアップで、コーチから4回転スローを試みないよう指示されたことが、彼らの精神状態に影響を及ぼした。最初のスローはトリプルサルコウで、川口は着氷時に手をついてよろめいた。スミルノフはダブルアクセルで着氷が乱れ、その後のアクセルへのスピードが足りず、シーケンスを完遂できなかった。そして、最後のスローで川口が転倒し、肩を脱臼。二人は演技を続行したが、多くの要素でレベルを十分に獲得できなかった。彼らは暫定1位につけたものの、まだ3組が演技を残しており、結果的に総合4位でメダルを逃した。これはロシアペアにとってソ連時代から続いていたオリンピックでの連続金メダル記録が途絶えた瞬間であった。しかし、彼らはロシアペアの中で最高位の成績を収めた。
トリノで開催された2010年世界選手権では、2009年の世界選手権と同様にショートプログラムで2位につけたが、フリースケーティングでの転倒により3位に順位を落とした。しかし、2位とは1点差以内という僅差であり、彼らは2年連続となる世界選手権の銅メダルを獲得した。
5.5. 2010-11シーズン
2010年4月、川口悠子は肩の手術を受けた。パートナーのスミルノフも股関節の付け根を負傷し、ドイツで治療を受けていたが、帰国後に足首を捻挫した。これらの負傷により、二人は3ヶ月間氷上から離れることを余儀なくされた。このため、グランプリシリーズのスケートカナダを欠場した。
このシーズンの唯一のグランプリ大会となったロシア杯で復帰。ショートプログラムで1位、フリースケーティングで2位に17点以上の差をつけて優勝した。これは彼らにとってロシア杯で5度目のメダル獲得であり、この大会で他のどのペアよりも多くのメダルを獲得したことになる。しかし、スケートカナダを欠場したため、グランプリファイナルへの出場には十分なポイントがなかった。2011年ロシア選手権では、ショートプログラム2位につけたが、サイドバイサイドジャンプでのミスとリフトでの不安定な実施により、1位から約4.50点差をつけられた。フリースケーティングでは最終滑走となり、2位の座を守り切った。
スイスのベルンで開催された2011年欧州選手権では、ショートプログラムでアリオナ・サフチェンコ/ロビン・ゾルコーヴィ組に次ぐ2位につけた。フリースケーティングでは最終滑走となり、フリーでは1位となったものの、2.82点差を埋めることができず、銀メダルを獲得した。両方のプログラムでシーズンベストスコアを記録した。
東京で3月に開催される予定だった2011年世界選手権は、東日本大震災と津波の影響により、4月下旬にモスクワへと開催地が変更された。川口/スミルノフ組はショートプログラムで22組中最終滑走となったが、スミルノフがステップシークエンスで転倒し、フリースケーティングに進む段階で5位に順位を落とした。フリースケーティングでは、スローでの転倒が唯一のミスであったものの、124.82点を獲得し、総合4位で大会を終えた。エキシビションでは日本への思いを込めて「いつも何度でも」を滑った。
5.6. 2011-12シーズン

2011-12シーズン、川口悠子とスミルノフ組は、新たに導入されたグランプリイベント3戦に出場するオプションを選択した。初戦の中国杯では、ショートプログラムとフリースケーティングの両方で1位となり、合計186.74点で優勝を果たした。次の大会は札幌市で開催されたNHK杯であった。ショートプログラムでは、川口のアンダーローテーションのトリプルトウループでの転倒と、いくつかの要素でレベルが低くなったことにより、55.02点で5位と出遅れた。しかし、フリースケーティングでは1位となり、合計177.51点で当時の世界王者であるアリオナ・サフチェンコ/ロビン・ゾルコーヴィ組を破って金メダルを獲得した。この優勝により、彼らはグランプリファイナルへの出場資格を得た。
ロシア杯では、ショートプログラムで65.17点の2位につけた。合計197.84点で最終的に2位となり、この大会で6大会連続のメダル獲得となった。グランプリファイナルでは、ショートプログラムで61.37点の4位となり、フリースケーティングで126.40点の3位を記録し、合計187.77点で銅メダルを獲得した。これはペアにとって初のグランプリファイナルでのメダル獲得であった。
2011年12月20日、コーチのモスクビナは、スミルノフがグランプリファイナル前から膝の負傷を抱えていたため、2012年ロシア選手権を欠場するよう申請したことを発表した。さらに、2012年1月4日には、スミルノフが虫垂炎と腸ヘルニアの緊急手術を受けた。このため、1月23日から29日にシェフィールドで開催される欧州選手権には間に合わず、代わりにクセニヤ・ストルボワ/フョードル・クリモフ組が出場した。
ニースで開催された2012年世界選手権では、ショートプログラムで好調な滑り出しを見せたが、リフトの終盤での大きな転倒により、59.59点で11位に順位を落とした。これはスミルノフの手術からちょうど12週間後のことであった。フリースケーティングでは、リフトが失敗し無得点となるミスがあり、122.83点を獲得してフリーでは4位につけた。両プログラムでのリフトのミスが響き、合計182.42点で総合7位となり、メダルまで7.28点及ばなかった。
5.7. 2012-13シーズン
2012年夏、スミルノフは右膝の半月板手術を受けた。2012年8月のテストスケート後、ペアは当初予定していたミュージカル『キャッツ』のショートプログラムを、シュトラウスのワルツに変更することを決定した。
このシーズンの最初のグランプリ大会である中国杯では、ショートとフリーの両方で2位となり、龐清/佟健組に次ぐ銀メダルを獲得した。これは彼らにとってこの大会で2年連続のメダル獲得であり、前回は金メダルを獲得していた。フランスのエリック・ボンパール杯では、ショートプログラムで66.78点の世界最高点を記録し1位につけた。フリースケーティングではミーガン・デュハメル/エリック・ラドフォード組に次ぐ2位(121.21点)となったが、ショートプログラムのリードにより、フランスでのグランプリ大会で初の金メダルを獲得した。
2012年グランプリファイナルでは、ショートプログラムで川口のスローでの転倒や、サイドバイサイドのトリプルトウループでの両者のミスが響き、58.02点に留まった。フリースケーティングでは最初に演技したが、川口のダブルトリプルトウループでの唯一のミスを除けばほぼ完璧な演技であったものの、いくつかの要素でレベルが低く評価され、120.70点でフリースケーティング5位となった。結果、総合6位で大会を終えた。
その後、ソチで開催された2013年ロシア選手権に出場。ショートプログラムでは最初に滑り、トリプルツイストでレベル3、デススパイラルでレベル2、その他の要素ではレベル4を獲得し、70.19点で2位につけた。フリースケーティングでは、川口がスロージャンプで手をついたミスが唯一であったものの、ほぼ完璧な演技を披露し、137.18点を獲得した。これにより、タチアナ・ヴォロソジャル/マキシム・トランコフ組に次ぐ銀メダルを獲得し、合計207.37点であった。
2013年欧州選手権では、スミルノフがトリプルトウループで転倒し、川口がトリプルループスローで着氷が乱れるなど、ショートプログラムで散々な結果となった。デススパイラルの終わり方も悪く、低いレベル評価に終わり、56.20点で5位に順位を落とした。フリースケーティングではスミルノフがダブルアクセルをシングルにし、さらに転倒。フリースケーティングでは119.28点で5位となり、総合でも5位に終わった。彼らが欧州選手権でメダルを逃したのは、5度目の出場にして初めてのことであった。
ロンドンで開催された2013年世界選手権では、ショートプログラムでシーズンベストとなる69.98点を記録し、4位につけた。しかし、フリースケーティングでは最終リフトの際にスミルノフがフェンスに接触し、リフトを途中で中断。この要素は無得点となり、最終的に4位から6位に順位を落とし、合計191.59点であった。コーチのモスクビナは、会場が異常に狭かったとコメントしている。
5.8. 2013-14シーズン
2013-14シーズン、川口悠子とスミルノフ組は、グランプリシリーズのNHK杯とスケートカナダにアサインされ、どちらの大会も以前に優勝経験のある大会であった。しかし、2013年10月にサンクトペテルブルクで開催されたパニンメモリアル競技会中に、スミルノフが転倒して膝の膝蓋腱を断裂する重傷を負った。このため、彼らは両グランプリ大会を欠場し、シーズン全体を棒に振ることになった。彼らはこのシーズン限りでの引退も検討していたが、2014年4月には、2018年の平昌オリンピックを目指して2014-15シーズンも競技を続ける計画であることを発表し、現役続行を決めた。
5.9. 2014-15シーズン
2014-15シーズン、川口悠子とスミルノフ組は、ISUチャレンジャーシリーズのネーベルホルン杯で競技に復帰し、合計195.89点で金メダルを獲得した。フリースケーティングでは4回転スローサルコウを成功させた。シーズン初のグランプリ大会であるスケートアメリカでも金メダルを獲得。フリースケーティングでは4回転スローサルコウを着氷させ、140.00点という自己ベストを更新した。彼らは史上5組目となるグランプリシリーズ全6戦の優勝者となった。
続くNHK杯では銀メダルを獲得し、グランプリファイナルに進出したが、6位に終わった。その後、2015年ロシア選手権で銅メダルを獲得し、2015年欧州選手権では2度目となる欧州タイトルを獲得した。このシーズンは、2015年世界選手権で5位入賞という結果で締めくくられた。
2015年世界国別対抗戦では、チームの結果で銀メダルを獲得し、個人成績では3位に入った。
5.10. 2015-16シーズン
2015-16シーズン、川口悠子とスミルノフ組はISUチャレンジャーシリーズのモルドヴィアンオーナメントで金メダルを獲得し、好調なスタートを切った。シーズン初のグランプリ大会である中国杯でも金メダルを獲得。地元開催の有力選手である隋文静/韓聰組を破る快挙を達成した。中国でのフリースケーティングでは、合計216.00点という自己ベストを更新し、2つの4回転スローを成功させた。これは史上初の快挙である。次のグランプリ大会であるロシア杯では、チームメイトのクセニヤ・ストルボワ/フョードル・クリモフ組に次ぐ銀メダルを獲得し、2015-16グランプリファイナルへの出場権を得た。
12月にバルセロナで開催されたグランプリファイナルでは、ショートプログラム2位、フリースケーティング3位となり、銅メダルを獲得した。月末の2016年ロシア選手権では、ショートとフリーの両方で2位となり、銀メダルを獲得した。この結果により、2016年欧州選手権と2016年世界選手権への代表に内定した。しかし、2016年1月20日、川口は練習中にアキレス腱を断裂する重傷を負い、欧州選手権を欠場し手術を受けた。この負傷は、彼らのシーズンに大きな打撃を与えた。
5.11. 2016-17シーズンと引退
2016年9月30日から10月2日にかけて開催されたISUチャレンジャーシリーズのオンドレイネペラメモリアルで、川口悠子とスミルノフ組は国際大会に復帰した。この大会では、チームメイトのエフゲニア・タラソワ/ウラジミール・モロゾフ組に次ぐ銀メダルを獲得した。
しかし、このシーズンは彼らにとって厳しいものとなった。グランプリシリーズでは2大会ともに表彰台を逃し、ペア結成以来初めて国際大会でメダルを獲得できないシーズンとなった。また、ロシア選手権でも初めて表彰台を逃し、5位に終わった。
そして2017年9月22日、コーチのタマラ・モスクビナによって、川口悠子とアレクサンドル・スミルノフ組が競技フィギュアスケートからの引退を発表したことが明かされた。この引退は、彼らの長年にわたる輝かしい競技キャリアに幕を下ろすこととなった。
6. 引退後の活動
競技フィギュアスケートから引退した後も、川口悠子はスケート界との関わりを保ちつつ、新たな活動領域を広げている。彼女の引退後のキャリアは、プロスケート活動からコーチング、そして全く異なる分野での職業まで多岐にわたる。
6.1. プロスケート活動とコーチング
引退後、川口悠子はプロスケーターとしてアイスショーに出演し、その優雅な演技で観客を魅了し続けている。また、フィギュアスケート界への貢献として、ジュニア選手の育成にも積極的に関わっている。2018年11月にはサンクトペテルブルクのスケート連盟の承認を受け、テクニカルスペシャリストとしても活動を開始した。これは、競技会の技術審判として、選手の演技における技術要素の判定を専門的に行う役割である。
日本国内においても、彼女は2017年と2018年に朝日カルチャーセンター新宿教室で講座を開き、ロシアでの経験やフィギュアスケートに関する知識を共有した。さらに、2018年と2019年にはNHK杯のペア種目やエキシビションの解説者を務め、その深い知見を日本のファンに伝えている。このように、彼女はプロスケーター、コーチ、そして解説者として、多角的にフィギュアスケート界の発展に貢献している。
6.2. その他の職業活動
2021年のRIAノーボスチの取材に対し、川口悠子は現在、自身の主な職業がフィギュアスケートとは異なる分野にあることを明かしている。彼女の主な仕事は、サンクトペテルブルク中心部の美容サロンでの「フェイシャルマッサージ」であるという。
この職業選択の背景には、コロナ禍の中でスケート以外の仕事の重要性を痛感したことと、選手時代に顔のマッサージを施すと「全く違う気分で氷上に出ることが出来る」ことを実感していた経験がある。彼女は、現役時代から顔のマッサージによる心身へのポジティブな影響を感じており、それが現在の職業選択に繋がったと語っている。アレクサンドル・スミルノフが設立したスケートスクールからの招聘は断っているものの、個人的な依頼を受けて個人レッスンを行うなど、引き続きフィギュアスケートへの関わりも持っている。
7. 受賞と栄誉
川口悠子の輝かしい競技キャリアは、数々の賞と栄誉によって称えられてきた。
- ロシア連邦大統領令による叙勲「スポーツと体育の発展への功績、バンクーバーでの第21回オリンピック競技大会における高い競技成績に対して」(2010年3月5日)
- 「サンクトペテルブルクのスポーツにおける最高栄誉」受賞(2010年2月)
- 「ロシア名誉スポーツマスター」の称号授与(2009年)
8. プログラム使用曲
川口悠子の競技プログラムで使用された音楽は、彼女のキャリアの各段階において、様々な振付師との協力のもとで慎重に選定された。特に、彼女の芸術性とペアとしての表現力を最大限に引き出す曲が選ばれている。
8.1. アレクサンドル・スミルノフとのプログラム
シーズン | ショートプログラム | フリースケーティング | エキシビション |
---|---|---|---|
2016-2017 | オール・アローン 作曲:ジョー・サトリアーニ | 月の光 作曲:クロード・ドビュッシー | |
2015-2016 | アイ・ファイナリー・ファウンド・サムワン (映画『愛の贈りもの』より) 作曲:ブライアン・アダムス、バーブラ・ストライサンド | マンフレッド交響曲 作曲:ピョートル・チャイコフスキー | 黒い瞳 歌唱:イワン・レブロフ |
2014-2015 | タイスの瞑想曲 作曲:ジュール・マスネ | ハバネラ 歌劇『カルメン』より 作曲:ジョルジュ・ビゼー | |
2013-2014 | 歌曲カチューシャの主題による変奏曲 作曲:マルガリータ・アジャソヴァ、編曲:ユーリー・ボロディ | 黒い瞳 歌唱:イワン・レブロフ | |
2012-2013 | 美しく青きドナウ 作曲:ヨハン・シュトラウス2世 | フェブラリー 作曲:レオニード・レヴァシュケヴィッチ | ユー・レイズ・ミー・アップ 歌唱:ケルティック・ウーマン |
2011-2012 | オール・アローン 作曲:ジョー・サトリアーニ | 月の光 作曲:クロード・ドビュッシー | 黒い瞳 歌唱:イワン・レブロフ |
2010-2011 | ツァラトゥストラはこう語った 作曲:リヒャルト・シュトラウス | いつも何度でも 作曲:木村弓 | |
2009-2010 | 白鳥 作曲:カミーユ・サン=サーンス | 感傷的なワルツ Op.51-6 作曲:ピョートル・チャイコフスキー 美しく青きドナウ 作曲:ヨハン・シュトラウス2世 | 美しく青きドナウ 作曲:ヨハン・シュトラウス2世 |
2008-2009 | 歌劇『道化師』より 作曲:ルッジェーロ・レオンカヴァッロ | プロフェット/スティル・ガット・ザ・ブルース 作曲:ゲイリー・ムーア | |
2007-2008 | 序奏とロンド・カプリチオーソ 作曲:カミーユ・サン=サーンス | 映画『ある愛の詩』より 作曲:フランシス・レイ | シータキ (映画『その男ゾルバ』より) |
2006-2007 | ピアノ協奏曲 作曲:カミーユ・サン=サーンス | ブラジル風バッハ 作曲:エイトル・ヴィラ=ロボス |
8.2. アレクサンドル・マルクンツォフとのプログラム
シーズン | ショートプログラム | フリースケーティング | エキシビション |
---|---|---|---|
2002-2003 | スプリング・ウォーター 作曲:セルゲイ・ラフマニノフ | スロー・アー・ザ・ナイツ (ロシア民謡、モダン) | |
2001-2002 | アイーダ 作曲:ジュゼッペ・ヴェルディ | カルメン 作曲:ジョルジュ・ビゼー | バービー・ガール 作曲:アクア |
2000-2001 | ファシネーション 作曲:マクレッティ | スパルタクス 作曲:アラム・ハチャトゥリアン |
9. 競技結果
川口悠子の競技結果を、ペアとシングルのキャリア別に包括的に示します。
9.1. アレクサンドル・スミルノフとの結果(ロシア代表)
国際大会 | |||||||||||
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大会 | 06-07 | 07-08 | 08-09 | 09-10 | 10-11 | 11-12 | 12-13 | 13-14 | 14-15 | 15-16 | 16-17 |
オリンピック | 4位 | ||||||||||
世界選手権 | 9位 | 4位 | 3位 | 3位 | 4位 | 7位 | 6位 | 5位 | |||
欧州選手権 | 3位 | 2位 | 1位 | 2位 | 棄権 | 5位 | 1位 | 棄権 | |||
GPファイナル | 5位 | 5位 | 5位 | 3位 | 6位 | 6位 | 3位 | ||||
GPエリック杯 | 1位 | ||||||||||
GP中国杯 | 1位 | 2位 | 1位 | 6位 | |||||||
GPNHK杯 | 2位 | 1位 | 棄権 | 2位 | |||||||
GPロステレコム杯 | 3位 | 3位 | 2位 | 2位 | 1位 | 2位 | 2位 | ||||
GPスケートアメリカ | 1位 | ||||||||||
GPスケートカナダ | 3位 | 1位 | 棄権 | 棄権 | 5位 | ||||||
CSモルドヴィアン | 1位 | ||||||||||
CSネーベルホルン | 1位 | ||||||||||
CSネペラ記念 | 2位 | ||||||||||
ニース杯 | 1位 | 1位 | 1位 | ||||||||
国内大会 | |||||||||||
ロシア選手権 | 棄権 | 1位 | 1位 | 1位 | 2位 | 棄権 | 2位 | 3位 | 2位 | 5位 | |
団体戦 | |||||||||||
世界国別対抗戦 | 5位 T (2位 P) | 2位 T (3位 P) | |||||||||
WD = 棄権 T = チーム結果; P = 個人結果; メダルはチーム結果のみに授与。 |
2016-17シーズン | ||||
日付 | 大会 | SP | FS | 合計 |
---|---|---|---|---|
2016年12月20日-26日 | 2017年ロシア選手権 | 5位 67.52 | 5位 123.90 | 5位 191.42 |
2016年11月18日-20日 | 2016年中国杯 | 6位 62.90 | 6位 112.63 | 6位 175.53 |
2016年10月28日-30日 | 2016年スケートカナダ | 5位 64.40 | 6位 118.35 | 5位 182.75 |
2016年9月30日-10月2日 | 2016年オンドレイネペラ記念 | 2位 68.56 | 2位 116.86 | 2位 185.42 |
2015-16シーズン | ||||
日付 | 大会 | SP | FS | 合計 |
2015年12月23日-27日 | 2016年ロシア選手権 | 2位 77.26 | 2位 140.38 | 2位 217.64 |
2015年12月10日-13日 | 2015-16グランプリファイナル | 2位 73.64 | 3位 132.95 | 3位 206.59 |
2015年11月20日-22日 | 2015年ロステレコム杯 | 2位 71.70 | 2位 136.32 | 2位 208.02 |
2015年11月5日-8日 | 2015年中国杯 | 2位 72.45 | 1位 143.55 | 1位 216.00 |
2015年10月15日-18日 | 2015年モルドヴィアンオーナメント | 1位 76.02 | 1位 138.03 | 1位 214.05 |
2014-15シーズン | ||||
日付 | 大会 | SP | FS | 合計 |
2015年4月16日-19日 | 2015年世界国別対抗戦 | 3位 66.97 | 4位 127.07 | 2位 T / 3位 P 194.04 |
2015年3月23日-29日 | 2015年世界選手権 | 4位 71.59 | 6位 127.32 | 5位 198.91 |
2015年1月26日-2月1日 | 2015年欧州選手権 | 2位 69.86 | 1位 137.81 | 1位 207.67 |
2014年12月24日-28日 | 2015年ロシア選手権 | 2位 71.81 | 3位 135.87 | 3位 207.68 |
2014年12月11日-14日 | 2014-15グランプリファイナル | 6位 55.97 | 4位 128.57 | 6位 184.54 |
2014年11月28日-30日 | 2014年NHK杯 | 2位 64.60 | 3位 119.00 | 2位 183.60 |
2014年10月24日-26日 | 2014年スケートアメリカ | 1位 69.16 | 1位 140.00 | 1位 209.16 |
2014年9月25日-27日 | 2014年ネーベルホルン杯 | 1位 66.59 | 1位 129.30 | 1位 195.89 |
2012-13シーズン | ||||
日付 | 大会 | SP | FS | 合計 |
2013年3月13日-15日 | 2013年世界選手権 | 4位 69.98 | 7位 121.61 | 6位 191.59 |
2013年1月23日-27日 | 2013年欧州選手権 | 5位 56.20 | 5位 119.28 | 5位 175.48 |
2012年12月25日-28日 | 2013年ロシア選手権 | 2位 70.19 | 2位 137.18 | 2位 207.37 |
2012年12月6日-9日 | 2012-13グランプリファイナル | 6位 58.02 | 5位 120.70 | 6位 178.72 |
2012年11月15日-18日 | 2012年エリック・ボンパール杯 | 1位 66.78 | 2位 121.21 | 1位 187.99 |
2012年11月2日-4日 | 2012年中国杯 | 2位 63.70 | 2位 119.83 | 2位 183.53 |
2011-12シーズン | ||||
日付 | 大会 | SP | FS | 合計 |
2012年3月26日-4月1日 | 2012年世界選手権 | 11位 59.59 | 4位 122.83 | 7位 182.42 |
2011年12月8日-11日 | 2011-12グランプリファイナル | 4位 61.37 | 3位 126.40 | 3位 187.77 |
2011年11月25日-27日 | 2011年ロステレコム杯 | 2位 65.17 | 2位 132.67 | 2位 197.84 |
2011年11月11日-13日 | 2011年NHK杯 | 5位 55.02 | 1位 122.49 | 1位 177.51 |
2011年11月4日-6日 | 2011年中国杯 | 1位 64.45 | 1位 122.29 | 1位 186.74 |
2010-11シーズン | ||||
日付 | 大会 | SP | FS | 合計 |
2011年4月27日-5月1日 | 2011年世界選手権 | 5位 62.54 | 4位 124.82 | 4位 187.36 |
2011年1月24日-30日 | 2011年欧州選手権 | 2位 69.49 | 1位 134.12 | 2位 203.61 |
2010年12月26日-29日 | 2011年ロシア選手権 | 2位 68.15 | 2位 133.29 | 2位 201.44 |
2010年11月19日-22日 | 2010年ロステレコム杯 | 1位 61.91 | 1位 120.79 | 1位 182.70 |
2009-10シーズン | ||||
日付 | 大会 | SP | FS | 合計 |
2010年3月22日-28日 | 2010年世界選手権 | 2位 73.12 | 3位 130.67 | 3位 203.79 |
2010年2月14日-27日 | 2010年冬季オリンピック | 3位 74.16 | 7位 120.61 | 4位 194.77 |
2010年1月18日-24日 | 2010年欧州選手権 | 2位 73.92 | 1位 139.23 | 1位 213.15 |
2009年12月24日-29日 | 2010年ロシア選手権 | 1位 78.01 | 1位 142.60 | 1位 220.61 |
2009年12月3日-6日 | 2009-10グランプリファイナル | 6位 62.30 | 5位 120.71 | 5位 183.01 |
2009年11月5日-8日 | 2009年NHK杯 | 1位 68.90 | 2位 124.15 | 2位 193.05 |
2009年10月22日-25日 | 2009年ロステレコム杯 | 2位 61.62 | 2位 118.52 | 2位 180.14 |
2008-09シーズン | ||||
日付 | 大会 | SP | FS | 合計 |
2009年4月15日-19日 | 2009年世界国別対抗戦 | 2位 65.08 | 2位 120.07 | 5位 T / 2位 P 185.15 |
2009年3月22日-29日 | 2009年世界選手権 | 2位 68.94 | 3位 117.45 | 3位 186.39 |
2009年1月20日-25日 | 2009年欧州選手権 | 3位 65.38 | 2位 117.39 | 2位 182.77 |
2008年12月24日-28日 | 2009年ロシア選手権 | 2位 65.18 | 1位 135.91 | 1位 201.09 |
2008年12月10日-14日 | 2008-09グランプリファイナル | 6位 55.42 | 4位 112.03 | 5位 167.45 |
2008年11月20日-23日 | 2008年ロシア杯 | 2位 58.76 | 1位 110.51 | 2位 169.27 |
2008年10月30日-11月2日 | 2008年スケートカナダ | 1位 65.02 | 2位 111.95 | 1位 176.97 |
2008年10月15日-19日 | 2008年ニース杯 | 2位 51.07 | 1位 103.33 | 1位 154.40 |
2007-08シーズン | ||||
日付 | 大会 | SP | FS | 合計 |
2008年3月16日-23日 | 2008年世界選手権 | 3位 71.42 | 4位 119.91 | 4位 191.33 |
2008年1月21日-27日 | 2008年欧州選手権 | 4位 61.25 | 3位 106.00 | 3位 167.25 |
2008年1月3日-7日 | 2008年ロシア選手権 | 1位 66.30 | 1位 124.30 | 1位 190.60 |
2007年12月13日-16日 | 2007-08グランプリファイナル | 6位 51.74 | 5位 110.01 | 5位 161.75 |
2007年11月22日-25日 | 2007年ロシア杯 | 4位 62.94 | 3位 118.77 | 3位 181.71 |
2007年11月1日-4日 | 2007年スケートカナダ | 3位 60.00 | 3位 105.19 | 3位 165.19 |
2007年10月18日-21日 | 2007年ニース杯 | 1位 61.18 | 1位 107.95 | 1位 169.13 |
2006-07シーズン | ||||
日付 | 大会 | SP | FS | 合計 |
2007年3月19日-25日 | 2007年世界選手権 | 4位 62.07 | 10位 101.55 | 9位 163.62 |
2006年11月23日-26日 | 2006年ロシア杯 | 3位 59.46 | 3位 109.04 | 3位 168.50 |
2006年11月9日-12日 | 2006年ニース杯 | 1位 51.97 | 1位 100.09 | 1位 152.06 |
- 個人最高得点は太字で強調
- 世界最高得点は太字斜体で強調
9.2. アレクサンドル・マルクンツォフとの結果(日本代表)
結果 | |||||||
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国際大会 | |||||||
大会 | 2000-01 | 2001-02 | 2002-03 | ||||
世界選手権 | 15位 | 13位 | 14位 | ||||
四大陸選手権 | 8位 | 9位 | 7位 | ||||
GPNHK杯 | 棄権 | 5位 | |||||
GPスケートアメリカ | 6位 | 5位 | |||||
GPエリック杯 | 6位 | ||||||
国際大会: ジュニア | |||||||
世界ジュニア選手権 | 2位 | ||||||
JGPファイナル | 3位 | ||||||
JGP中国杯 | 3位 | ||||||
JGPメキシコ杯 | 1位 | ||||||
国内大会 | |||||||
全日本選手権 | 1位 | 1位 | |||||
全日本ジュニア選手権 | 1位 | ||||||
WD = 棄権 |
9.3. デヴィン・パトリックとの結果(アメリカおよび日本代表)
国内大会 | ||
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大会 | 2004-05 | 2005-06 |
全米選手権 | 15位 | |
全日本選手権 | 1位 | |
ミッドウェスタンセクショナル | 2位 |
9.4. シングルスケーティングキャリアの結果(日本代表)
国際大会 | |||
---|---|---|---|
大会 | 1996-97 | 1997-98 | 1998-99 |
JGPハンガリー杯 | 8位 | ||
JGPメキシコ杯 | 1位 | ||
国内大会 | |||
全日本ジュニア選手権 | 10位 | 3位 | 10位 |