1. 生い立ちと教育
海部俊樹は、1931年1月2日に愛知県名古屋市東区七曲町(現在の東区東桜1丁目)で、6人兄弟の長男として生まれました。彼の家族は、祖父が明治時代に創業した「中村写真館」を営んでおり、店は松坂屋名古屋店の本館の隣に位置していました。
1.1. 幼少期と学生時代
1943年3月、名古屋市立南久屋国民学校(現在の名古屋市立栄小学校)を卒業。旧制愛知一中(現在の愛知県立旭丘高等学校)の入学試験を受けましたが、同じ学校から受験した11人中9人が合格する中で、海部を含む2人が不合格となりました。同年4月、旧制東海中学(現在の東海中学校・高等学校)に入学。第二次世界大戦中の学徒動員により、名古屋市東区大幸町にあった三菱重工業の工場で、航空機のエンジン部品製造に昼夜を問わず従事しました。
1945年には少年飛行兵学校に合格し、10月に入校が予定されていましたが、その前に終戦を迎えました。その後、旧制中央大学専門部法科を卒業し、河野金昇の秘書となります。新制早稲田大学第二法学部法律学科に編入学し、中央大学在学中は中央大学辞達学会に、早稲田大学在学中は早稲田大学雄弁会に所属して弁論術を磨きました。1956年には早稲田大学大学院法学研究科修士課程を中途退学し、学生時代から務めていた河野金昇の秘書業に専念しました。
1957年11月17日、旧岐阜1区の柳原三郎衆議院議員の秘書を務めていた岐阜県美濃市出身の女性、柳原幸世と結婚しました。夫妻には長男の海部正樹と長女の睦がいます。1958年3月29日に河野金昇が急逝すると、海部は後継候補の一人に推されますが、三木武夫の判断により河野の妻である河野孝子が地盤を引き継ぐことになりました。同年4月20日、海部は孝子の秘書となり、孝子は同年5月22日に行われた第28回衆議院議員総選挙で初当選しました。
2. 初期政治キャリア
海部俊樹は、1960年9月16日に河野孝子の後継として、次期衆議院議員総選挙の旧愛知県第3区からの立候補が決定しました。同年11月20日に行われた第29回衆議院議員総選挙で、全国最年少の29歳で初当選し、以降16期48年間にわたり衆議院議員を務めました。
1960年12月には自民党青年局学生部長に就任。1964年には青年海外協力隊の構想をまとめ、アフリカを横断調査するなど、同団体の創設に尽力しました。1965年には自民党青年局長となりました。
彼は一宮市新生に借家住まいをした後、同市平和一丁目に自宅兼事務所を構えました。三木派が河本派に移行してからは、1994年に離党するまで、名実ともに河本敏夫を支える派閥のナンバー2として活動しました。しかし、河本とは対照的に資金的な貢献が少なかったため、「財布閉じ器」と渾名されました。橋本龍太郎、藤波孝生らと共に「ネオ・ニューリーダー」と呼ばれ、竹下登ら早稲田大学雄弁会の先輩との親交が深かったことから、「現住所河本派・本籍竹下派」とも言われました。
1966年に労働政務次官、1972年に衆議院議院運営委員長、1973年に自民党人事局長、1974年に自民党副幹事長などの要職を歴任しました。
1974年には、三木内閣の内閣官房副長官に就任しました。内閣官房長官の井出一太郎の代わりにランブイエ・サミットの調整を行い、1975年のスト権スト問題では、政府の窓口として労政交渉や野党対応、マスコミ討論を担当し、その弁舌で「自民党に海部あり」と言わしめ、その後の出世街道の端緒となりました。1976年9月には自民党国会対策委員長に就任しました。
3. 政治キャリアと公職
海部俊樹は、長年にわたり日本の政治の中枢で活動し、数々の重要な公職を歴任しました。
3.1. 文部大臣・大蔵大臣時代
1976年12月、福田赳夫内閣で文部大臣として初入閣を果たし、石原慎太郎とともに昭和生まれで初めての大臣となりました。その後、1985年には第2次中曽根内閣で再び文部大臣を務めました。文部大臣時代の主要な業績としては、大学入試制度の改革として「共通一次試験」の導入が挙げられます。
1991年には、第2次海部改造内閣において、内閣総理大臣と兼任する形で大蔵大臣を務めました。
3.2. 自由民主党総裁・内閣総理大臣時代
1989年7月24日、宇野宗佑首相が第15回参議院議員通常選挙での敗北の責任を取り辞意を表明しました。当時、主要な有力議員の多くがリクルート事件に関与しており、中曽根康弘は責任を取って離党、安倍晋太郎、宮澤喜一、渡辺美智雄といったニューリーダーたちは自民党の内規により謹慎中でした。このため、四大派閥(竹下派・安倍派・宮澤派・旧中曽根派)はいずれも総裁候補を擁立できない状況にありました。
竹下登は、早稲田大学雄弁会の後輩で親しい関係にあった海部を後継候補として意中に抱いていました。海部のクリーンなイメージはリクルート事件後の自民党にとって相応しく、また中小派閥の出身で独自の政治基盤を持たない海部は、竹下にとって統制しやすい存在でもありました。7月26日、竹下に呼ばれた海部は人目を忍んで竹下事務所を訪れ、竹下から橋本龍太郎の擁立が難しいことを伝えられました。
海部は当初、家族全員から反対されますが、「俺も政治家として死ななきゃならんのだから、その前に精一杯のことをしたい」と家族に伝え、最終的に妻の理解を得て立候補を決意しました。7月30日、金丸信邸に竹下派幹部が顔を揃えましたが、橋本の姿はありませんでした。金丸は橋本への一本化が派閥の分裂につながりかねないとして、「橋本君にはもう少し人間修業をしてもらう」と述べ、7月31日には竹下派が自派からの候補者擁立見送りを正式に確認し、橋本も不出馬を表明しました。
河本派内では、当時78歳の河本敏夫が最後のチャンスと総裁選出馬への意欲を見せましたが、8月2日に説得され出馬を断念しました。同日、海部は記者会見で出馬を表明しました。1989年8月8日に行われた自由民主党総裁選挙では、海部のほか、宮澤派の支援を受けた林義郎、安倍派の石原慎太郎が立候補しましたが、最大派閥である竹下派の支持を得た海部が両者をおさえて自由民主党総裁に選ばれました。
3.2.1. 第1次・第2次海部内閣
1989年8月、海部俊樹は第76代内閣総理大臣に就任しました。彼は初の昭和生まれの首相であり、ねじれ国会下での就任となりました。首班指名選挙では、衆議院で海部が、参議院では日本社会党委員長の土井たか子が指名されましたが、日本国憲法第67条第2項の規定に基づき、衆議院で指名された海部が首相に就任しました。
就任当初、日本はバブル景気の真っただ中で経済は好調でしたが、リクルート事件などによる国民の政治不信が強まっていました。海部はクリーンなイメージで登場し、組閣においてはリクルート事件に関わったとされる政治家を避け、関係の薄い政治家を優先的に登用しました。しかし、これが党内の不満を高め、後の政治改革法案が廃案になる遠因ともなりました。
第1次海部内閣発足直後、内閣官房長官山下徳夫の女性スキャンダルが発覚すると、海部は迅速に山下を更迭し、環境庁長官森山眞弓を横滑りさせて女性初の官房長官を誕生させました。各種行事に夫婦同伴で出席するなどして女性層の支持拡大を目指しました。
海部にとって最初の大きな課題は、迫る総選挙での勝利でした。自民党は参議院選挙と同様の敗北を避ける必要がありましたが、1990年の第39回衆議院議員総選挙で自民党を大勝に導き、単独で275議席、保守系無所属を含めると286議席を獲得し、過半数を上回りました。1990年には首相として即位の礼を成功裏に執り行いました。
海部内閣は、党内基盤が脆弱であり、自民党にとって「看板」という側面も持ち合わせていました。例えば、第1次海部内閣の発足時には、首班指名の1時間後にまず党三役が決定し、小沢一郎新幹事長らが海部抜きで組閣を進め、海部は一切関与しませんでした。石原信雄の回顧録には、海部が重大な法案などを決める際には金丸、竹下両氏の判断を仰いでいたと記されており、金竹小(金丸、竹下、小沢)が海部以上に強い影響力を持っていました。
3.2.2. 政治改革の試み
海部俊樹は、内閣総理大臣として政治改革に強い意欲を燃やしました。特に、小選挙区比例代表並立制の導入を目指す政治改革関連法案の成立に力を注ぎました。これは、リクルート事件などで失墜した政治への信頼を取り戻すための重要な課題と位置づけられていました。
しかし、党内には小選挙区導入に反対する加藤紘一、山崎拓、小泉純一郎の「YKK」をはじめとする勢力からの猛烈な抵抗を受けました。法案は国会で審議未了のまま廃案となり、これを受けて海部は「重大な決意で臨む」と発言し、衆議院の解散を示唆しました。しかし、自民党内の反海部勢力から解散への大反対が起こり、最終的には海部をバックアップするはずだった竹下派の親小沢勢力でさえ明確に解散不支持を表明しました。これにより、海部は解散に踏み切ることができず、総裁選での再選の道も閉ざされました。
3.2.3. 外交政策
海部内閣の外交は、国際情勢が激動する中で重要な役割を果たしました。

1991年の湾岸戦争では、多国籍軍に対し130.00 億 USDという巨額の資金提供を決定しました。当初、戦後クウェートの新聞に掲載された感謝広告に日本の国旗が掲示されなかったことが問題視されましたが、後に改められました。しかし、巨額の資金援助にもかかわらず、人的な貢献が戦争終結後の自衛隊による掃海艇派遣にとどまったことから、「小切手外交」や「トゥーリトル、トゥーレイト」(少なすぎ、遅すぎる)という批判を国内外から受けました。停戦後、海上自衛隊掃海部隊をペルシャ湾に派遣し、これは自衛隊創設以来初の海外実任務となりました。
六四天安門事件後、世界から孤立しかけていた中国との関係改善にも取り組みました。1990年のヒューストンでの第16回先進国首脳会議で円借款再開を表明し、1991年8月10日には西側先進国首脳として初めて中国を公式訪問し、中国の外交的孤立を破りました。この訪問で、日本は中国に対する経済制裁への参加を終了し、9.50 億 USDの借款と、同年6月・7月の中国南部での洪水被害に対する150.00 万 USDの緊急援助を供与しました。海部自身は、「中国に対して原則を貫いた」と語り、訪中時に天安門広場で献花を行ったとされています。当時のアメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領も、議会と対立するほど対中制裁の全面化に消極的であり、秘密裏にヘンリー・キッシンジャーやブレント・スコウクロフトを中国に派遣して民主化運動家の方励之の出国をめぐる交渉を行っていました。日本は方励之の出国を条件に融資再開を中国に持ちかけたとも言われ、ブッシュ大統領は第16回先進国首脳会議で海部の対中円借款再開の表明に同調しました。
1991年には、民主化後初の大韓民国大統領である盧泰愚と会談し、長年の懸案であった在日韓国人の指紋押捺の廃止を約束し、その後実施されました。また、1991年にはソビエト首脳として最初で最後の来日となったミハイル・ゴルバチョフと会談しました。
3.2.4. 内閣総辞職
湾岸危機や国連平和協力法案の廃案といった困難に直面しながらも、海部内閣の支持率は概ね高水準で推移し、海部自身も政権運営に自信を深めていました。しかし、政治改革関連法案が国会で審議未了廃案となったことを受け、「重大な決意で臨む」と発言し、衆議院の解散を示唆しました。この発言は、首相の専権事項である解散権の発動を意味すると受け取られましたが、自民党内の反海部勢力から大反対の合唱が起こりました(海部おろし)。また、佐川急便事件の継続的な影響も問題を引き起こしました。
最終的には、これまで海部を支持してきた竹下派の親小沢勢力でさえ明確に解散不支持を表明しました。これにより、海部を支持するのは自身の小派閥である河本派だけとなり、総裁選に再選できる道は閉ざされました。宮澤喜一、三塚博、渡辺美智雄ら反海部の派閥の領袖たちが総裁選に立候補を表明したことも、海部の退陣を決定づけました。
1991年11月5日、海部は内閣総辞職により総理大臣を辞任しました。在任中、彼は竹下派に手足を縛られ、思い通りの政権運営はままならず、PKOや政治改革といった重要課題は次期政権に持ち越されることになりました。バブル景気末期や冷戦体制の終焉といった激動の時期に総理の座にありながら、海部本人が政治的なイニシアチブを取った形跡は少なく、政権として目立った実績は乏しいと評価されることもあります。しかし、決定的な失政があったとみなされたわけではなく、本人のクリーンで爽やかなイメージは根強い国民の支持を得続けました。在任中の内閣支持率は高い時で64%、退任直前でさえも50%を超えており、煮え切らない不完全燃焼の中での退陣となりました。
首相在任日数818日間は、日本国憲法下において衆議院で内閣不信任決議が採決されなかった内閣の首相としては最長日数記録です。
4. 政党活動と指導力
海部俊樹は、自由民主党内での活動に加え、他党の党首も務めるなど、日本の政党政治において特異な経歴を歩みました。
4.1. 新進党党首時代
1994年6月29日、自民党総裁の河野洋平が日本社会党、新党さきがけとの自社さ連立政権構想で合意し、首班指名で社会党の村山富市に投票することを決定すると、海部はこれを拒否して自民党を離党しました。同じく造反した津島雄二の説得により、旧連立与党であった新生党や日本新党から首班指名の統一候補として担がれましたが、自民党からの造反は期待されたほどは起こらず、決選投票で敗れました。
同年7月18日、公職選挙法違反による裁判で参議院議員の新間正次の有罪判決が確定し、新間の当選無効に伴う再選挙が行われることになりました。野党9党派が労働官僚の都築譲を擁立すると、海部は7月27日に都築の総合選対本部長に就任しました。対する自民党は国連職員の水野時朗に出馬要請し、党県連会長の村田敬次郎は海部と絶縁する宣言を行いました。海部の番頭格であった服部光孝県議も「25年間の縁を切る」と述べ、自民党との溝は一層深まりました。また、同日、海部は自由改革連合を結成して代表に就任しました。
同年12月10日、海部は新進党を結党し、初代党首に就任しました。自民党総裁を務めた人物が離党し、他党の党首となるのは極めて異例の事例であり、2024年現在唯一の事例となっています。同じ旧愛知3区の江崎鐵磨も新進党結成に参加しました。
1994年11月21日には政治改革四法における小選挙区の具体的な区割り法案が国会で可決されました。海部と江崎鉄磨はともに一宮市を含む愛知10区の公認を主張して譲りませんでしたが、1995年3月17日、新進党本部の調整により海部は愛知9区、江崎は愛知10区と決まり、両現職の争いは回避されました。
4.2. 自由民主党への復党
新進党分党後は、1年1ヶ月の無所属暮らし(院内会派「無所属の会」)を経て、自民党との連立政権に加わった自由党に入党しました。2000年の同党分裂の際には、自民党との連立継続派である保守党に所属しました。
保守新党に改組して臨んだ2003年の第43回衆議院議員総選挙では、民主党の新人岡本充功に比例復活を許しましたが、小選挙区で勝利し連続当選記録を伸ばしました。選挙直後に保守新党が吸収合併される形で自民党に復党しました。復党後は古巣の河本派の後継である高村派には戻らず、二階俊博ら一緒に復党した旧保守新党議員らと二階グループを結成しました。自民党復党の際には自民党幹事長安倍晋三から復党を「諸手をあげて歓迎します」と言われ、離党した際に撤去された海部の肖像画も再び掲額されました。
2009年の第45回衆議院議員総選挙にて、小選挙区で民主党の岡本に8万票以上の大差をつけられ惨敗し、党の73歳定年制もあって重複立候補できなかったため、比例復活もできず落選しました。同日、政界引退を表明し、1960年の初当選以来49年間にわたる政治生活を終えました。海部は総理大臣在任中の成果を強調し選挙に挑みましたが、海部の首相時代を知らない若い世代の有権者が増えたことも落選の一因とされます。首相経験者が落選したのは、1963年の第30回衆議院議員総選挙の石橋湛山、片山哲以来46年振り、自民党総裁経験者としては石橋以来2人目でした。解散時点で海部の連続当選回数は16回、勤続年数48年9ヶ月と衆議院議員としては現職トップでした。このとき当選していれば、尾崎行雄や師匠である三木などに続いて衆議院議員在職五十年に到達するところでした。
政界引退後は、世界連邦運動協会会長、日本ソフトテニス連盟会長、大正琴協会理事長、日本ティーボール協会会長などを務めました。また、三木睦子が理事を務める中央政策研究所では最高顧問を務めました。2010年には回想録『政治とカネ』を新潮新書から出版しました。
2011年には桐花大綬章を受章。同年6月29日、愛知県一宮市名誉市民を授与されました。同年12月3日、愛知県名誉県民を授与されました。2012年3月、中華民国の国立中央大学より名誉博士称号を授与されました。同年9月、自民党総裁選に立候補した町村信孝の表敬訪問を受け、激励しました。2014年から中日新聞県内版(愛知県向け紙面)に『海部俊樹回想録』を連載しました。また、清華大学の出資を受ける道紀忠華シンクタンクの顧問を務めていました。
2019年11月29日に中曽根康弘が死去したことにより、海部は首相経験者で最古参となりました。また、この時存命の首相経験者としては村山富市(1924年3月3日生まれ)に次ぐ高齢者となりました。最高齢の総理大臣経験者と最古参の総理大臣経験者が異なるのは、1993年12月16日に田中角栄が死去して以来のことでした。
5. 私生活
海部俊樹は1957年11月17日、衆議院議員の秘書を務めていた柳原幸世と結婚しました。夫妻の間には長男の海部正樹と長女の睦がいます。
彼の曽祖父である海部昂蔵は、尾張徳川家の家令、御相談人を務めていました。また、外交官の海部篤は彼の甥にあたります。天文学者の海部宣男、2008年にノーベル物理学賞を受賞した小林誠、そしてシンコーホーム詐欺事件で2002年に有罪判決を受けたシンコーホーム元常務の海部俊一は、彼の従弟にあたります。さらに、名古屋コーチンの生みの親として知られる、旧尾張藩士の海部壮平・海部正秀兄弟は遠い親戚にあたります。
6. 死去
海部俊樹は2022年1月9日午前4時、東京都内の病院で肺炎のため死去しました。91歳でした。彼の死去は、1月14日までメディアへの発表が遅れました。政府は1月18日の閣議で、正二位叙位と大勲位菊花大綬章追贈を決定しました。海部の死去に伴い、細川護熙が最古参の首相経験者となりました(最高齢は村山富市のまま)。葬儀は遺族の意向により、私的に執り行われました。
7. 評価と遺産
海部俊樹の政治家としてのキャリアは、日本の政治が転換期を迎える中で、そのクリーンなイメージと誠実な人柄が国民の支持を集めた一方で、党内基盤の弱さから改革の実現には困難を伴いました。
7.1. 肯定的な貢献
海部俊樹は、リクルート事件などで政治不信が高まる中で、「クリーンな政治家」として登場し、国民の期待を背負いました。彼の誠実なイメージは、汚職にまみれた政治状況において、国民からの根強い支持を得る要因となりました。
内閣総理大臣としては、1990年の第39回衆議院議員総選挙で自民党を大勝に導き、党勢回復に貢献しました。また、同年には即位の礼を成功裏に執り行いました。文部大臣時代には「共通一次試験」の導入を推進し、教育制度の現代化に尽力しました。
外交面では、六四天安門事件後の中国への西側先進国首脳として初の公式訪問を実現し、中国の外交的孤立を破るとともに、巨額の円借款を提供して関係改善を図りました。また、大韓民国の盧泰愚大統領との会談では、長年の懸案であった在日韓国人の指紋押捺廃止を約束し、人権問題の解決に貢献しました。
彼は青年海外協力隊の創設にも尽力するなど、国際協力の分野でも先見の明を示しました。政治と金の問題とは無縁の「財布閉じ器」という渾名が示すように、その清廉潔白な政治姿勢は、日本の政治に肯定的な影響を与えました。
7.2. 批判と論争
海部俊樹の政治キャリアには、いくつかの批判や論争も存在しました。
特に、湾岸戦争における日本の貢献は「小切手外交」と批判されました。多国籍軍に巨額の資金を提供したものの、人的な貢献が戦争終結後の自衛隊による掃海艇派遣にとどまったため、「トゥーリトル、トゥーレイト」(少なすぎ、遅すぎる)と国内外から評価されました。これは、日本の国際貢献のあり方について大きな議論を巻き起こしました。
また、彼の内閣は、党内基盤が脆弱であったため、金丸信、竹下登、小沢一郎といった金竹小と呼ばれる実力者たちの影響を強く受けていました。海部自身が政治的なイニシアチブを取ることが難しく、重要な政策決定において彼らの判断を仰ぐ場面が多かったとされます。小沢一郎からは「担ぐ神輿は軽くてパーがいい」(神輿は軽くて愚かな方が担ぎやすい)と評されたという逸話も残されており、これは海部の政治的影響力の限界を示すものとして語られることがあります。
彼が意欲を燃やした政治改革も、党内の強い抵抗に遭い、最終的には解散に踏み切ることができずに挫折しました。この「海部おろし」と呼ばれる一連の動きは、首相の権限が党内派閥の力学に縛られる当時の自民党政治の構造的な問題を浮き彫りにしました。
7.3. 日本政治への影響
海部俊樹の政治的遺産は、その後の日本政治に多大な影響を与えました。
彼はリクルート事件後の政治腐敗が蔓延する中で、「クリーンな政治家」として登場し、国民の政治不信を一時的に払拭する役割を果たしました。これは、その後の政治家たちが清廉性を重視する風潮を強めるきっかけの一つとなりました。
また、海部は初の昭和生まれの首相であり、世代交代の象徴でもありました。彼の政治改革への挑戦は、党内からの強い反発によって挫折したものの、日本の政治構造改革の必要性を改めて浮き彫りにし、その後の細川護熙内閣による政治改革へとつながる道筋を作りました。
新進党初代党首への就任は、自民党総裁経験者が離党して他党の党首となるという、日本の政党政治史上極めて異例の出来事でした。これは、当時の政界再編の動きを象徴するものであり、日本の多党化の流れを加速させました。
2009年の第45回衆議院議員総選挙での落選は、1963年の石橋湛山、片山哲以来46年ぶりの首相経験者の落選であり、自民党が長期にわたる政権の座を失う時代の到来を象徴する出来事となりました。彼の政治キャリアは、バブル経済の崩壊と冷戦終結という激動の時代における日本の政治的課題と、その解決に向けた試行錯誤の過程を示すものとして、日本政治史に重要な足跡を残しました。
8. 栄典
海部俊樹は、その生涯を通じて国内外から数々の栄誉を受けました。
- ペルー太陽勲章グランドクロス(1989年)
- ニューヨーク大学名誉博士号(1990年)
- ボストン大学名誉法学博士号(1991年7月10日)
- 桐花大綬章(2011年)
- 愛知県一宮市名誉市民(2011年6月29日)
- 愛知県名誉県民(2011年12月3日)
- 中華民国の国立中央大学名誉博士称号(2012年3月)
- 正二位(没後叙位、2022年1月18日)
- 大勲位菊花大綬章(没後追贈、2022年1月18日)
9. 選挙記録
選挙 | 年齢 | 選挙区 | 政党 | 得票数 | 結果 |
---|---|---|---|---|---|
第29回衆議院議員総選挙 | 29 | 旧愛知3区 | 自由民主党 | 49767 | 当選 |
第30回衆議院議員総選挙 | 32 | 旧愛知3区 | 自由民主党 | 57586 | 当選 |
第31回衆議院議員総選挙 | 36 | 旧愛知3区 | 自由民主党 | 80874 | 当選 |
第32回衆議院議員総選挙 | 38 | 旧愛知3区 | 自由民主党 | 82695 | 当選 |
第33回衆議院議員総選挙 | 41 | 旧愛知3区 | 自由民主党 | 87733 | 当選 |
第34回衆議院議員総選挙 | 45 | 旧愛知3区 | 自由民主党 | 151151 | 当選 |
第35回衆議院議員総選挙 | 48 | 旧愛知3区 | 自由民主党 | 119049 | 当選 |
第36回衆議院議員総選挙 | 49 | 旧愛知3区 | 自由民主党 | 145322 | 当選 |
第37回衆議院議員総選挙 | 52 | 旧愛知3区 | 自由民主党 | 123415 | 当選 |
第38回衆議院議員総選挙 | 55 | 旧愛知3区 | 自由民主党 | 133829 | 当選 |
第39回衆議院議員総選挙 | 59 | 旧愛知3区 | 自由民主党 | 195713 | 当選 |
第40回衆議院議員総選挙 | 62 | 旧愛知3区 | 自由民主党 | 194863 | 当選 |
第41回衆議院議員総選挙 | 65 | 愛知9区 | 新進党 | 111578 | 当選 |
第42回衆議院議員総選挙 | 69 | 愛知9区 | 保守党 | 122175 | 当選 |
第43回衆議院議員総選挙 | 72 | 愛知9区 | 保守新党 | 104075 | 当選 |
第44回衆議院議員総選挙 | 74 | 愛知9区 | 自由民主党 | 130771 | 当選 |
第45回衆議院議員総選挙 | 78 | 愛知9区 | 自由民主党 | 100549 | 落選 |
10. 著書
- 『模範スピーチ385選』有紀書房、1968年1月1日
- 『未来への選択 : 創造と充実の時代へ』徳間書店、1981年3月19日
- 『21世紀を目指す : 海部俊樹鼎談集』共同通信社、1985年6月24日
- 『志ある国家日本の構想』東洋経済新報社、1995年7月27日
- 『政治とカネ-海部俊樹回顧録』新潮新書、2010年11月20日
- 『海部俊樹回想録-自我作古』垣見洋樹編、人間社、2015年12月1日
- 初出は『中日新聞』2014年6月24日~2015年3月25日連載、全57回。
10.1. 共編
- 『ニューメディア・ルネッサンス 多彩な執筆陣が見通すニューメディアの未来像』自由民主党昭和会共編. 紀尾井書房, 1985年6月
- 『モンゴル馬ダライフレグの奇跡 日本とモンゴル友好のかけ橋になった名馬の物語』志茂田景樹共著, 笹森識 絵, 籾山彩恵子英訳,宮田修企画・監修. Kiba book, 2006年7月
11. エピソードと個人的特徴
海部俊樹は、その政治的手腕だけでなく、親しみやすい人柄やユニークなエピソードでも知られています。
11.1. 中国訪問
南京事件については、日本軍による虐殺を認めた立場を取っています。2010年に中国の招待で訪中した際に南京事件論争に触れ、「日本は歴史上、南京市民に対して許されない過ちを犯してしまった。1人の政治家として、南京市民に深くお詫びを申し上げたい」と市民への謝罪を行いました。訪中時には天安門広場で献花を行ったともされています。
11.2. ネクタイ

水玉模様のネクタイをトレードマークとしていることで知られています。これは、三木内閣の官房副長官時代に国鉄のスト権スト問題でテレビの討論番組に出演した際、多忙で帰宅もままならぬ時期であったことから、たまたま水玉模様の同じネクタイを連日着用し続けていたことに関して視聴者からツッコミが入ったことがきっかけです。これを機に意図的に自らのトレードマークとしました。首相時代には水玉模様のネクタイばかり600本以上も持っていたと語っており、広島市と長崎市の平和記念式典にも黒地に黒の水玉模様のネクタイをして出席するほどの徹底ぶりでした。昭和天皇の大喪の礼でも同じく黒地に黒の水玉模様のネクタイをして注目を浴びました。
11.3. 弁論
旧制東海中学時代には自ら弁論部を創設し地区大会で優勝するなど早くから弁論で頭角を現しました。旧制中央大学専門部法科入学と共に中央大学辞達学会(弁論部)に所属し、数々の弁論大会で活躍しました。同大学卒業後、一旦は法務省に事務官として入省するも退職し、同郷の代議士河野金昇の書生(議員秘書)を務め、河野の母校でもある早稲田大学第二法学部法律学科へ編入学し、早稲田大学雄弁会に所属しました。早稲田大学在学中は雄弁会で弁論術の研鑽及び人脈作りに勤しみました。学生弁論大会で優勝した折には、審査委員の一人だった早稲田大学総長の時子山常三郎から「海部君(の演説)に勝る者はいない。海部の前に海部なし、海部のあとに海部なしだ」と評されています。同年代の雄弁会仲間には渡部恒三などがおり、この時代に培った人脈が政界入り後に大きな力となり、小派閥の番頭格でありながら首相のポストを得る原動力となりました。
11.4. 「29」との縁

1960年に行われた第29回衆議院議員総選挙に、河野金昇の死後、後継として出馬して一期務めた未亡人河野孝子の後継者として出馬。応援演説に来た井出一太郎が放った「サイフは落としてもカイフは落とすな」というキャッチフレーズで人気が沸騰し当選しました。このとき海部の年齢は29歳であり、また初めて入った議員会館の部屋も29号室であったことから、「29回総選挙に29歳で当選したから、29年後、総理大臣になって恩返しする」と公言していました。自民党内では傍流である三木派に属していたため、当時は総理になること自体が現実味のある話とは見做されておらず、また本人も講演会などの挨拶における半ば冗談交じりのネタとして用いていました。ところが、後に前述の条件が重なったことにより、初当選から奇しくも29年後の1989年、公言通り総理大臣就任が実現しました。
11.5. ヒューストン・サミット

1990年、アメリカ・ヒューストンで開催された第16回先進国首脳会議における首脳記念撮影の際、海部が身振りを交えて英語で軽い冗談を飛ばしたところ大受けとなり、アメリカ合衆国大統領ブッシュ、イギリス首相サッチャー、カナダ首相マルルーニーが爆笑している場面の写真が全世界に配信されました。海部によれば、以下のようなやり取りがあったといいます。
とにかく、暑くてね。屋外で記念写真を撮影した時ですが、カナダのマルルーニー首相が、「アメリカは田舎だから、暑くてたまらない。カナダはこんなに暑くない」なんて、言っておるんですよ。冗談の好きな男でね。撮影のために並んだら、「暑い、暑い。俺はぶっ倒れる」なんて言うんだ。私はちょうど、マルルーニーの左隣にいましてね。あっち側(マルルーニー首相の右隣)はサッチャー英首相だった。だから「カナダが倒れたら、日本は支えきれないぞ。あっち側に倒れろ、鉄の女になんとかしてもらえ」と言ったんですね。これが、ブッシュ米大統領、サッチャー英首相、マルルーニー加首相の爆笑を誘った。
11.6. パフォーマンス
内閣総理大臣就任後は、国民の人気を得るためにさまざまなパフォーマンスを行いました。体育の日には国民とともに体力テストとして反復横跳びを行ったことや、首相公邸へ高齢者を招待してゲートボールを遊んだこともありました。
11.7. その他
- 首相就任中の1991年に放映されたテレビアニメ『ルパン三世 ナポレオンの辞書を奪え』に登場するゲストキャラクター「海辺(うみべ)首相」のモデルとなっています。ちなみに、海辺首相の口癖は「幹事長とも相談しますが」であり、当時の自民党幹事長小沢一郎との力関係を揶揄したパロディとなっています。
- 首相退任後、バラエティ番組『三枝の愛ラブ!爆笑クリニック』に夫婦で出演しました。
- 若年のころから三木武夫を政治家として尊敬して親交を持ち、三木睦子からは息子のように可愛がられました。睦子から「俊樹ちゃん」と呼ばれている姿がテレビなどで報じられるうち、いつしか視聴者の間でも「俊樹ちゃん」が愛称として定着しました。
- 記録的な長寿で話題となった双子姉妹、成田きんと蟹江ぎんは生前、「尊敬する政治家」として海部の名を挙げていました。海部はきんの葬儀委員長を務めています。
- 元名古屋市長で、地域政党減税日本の代表及び政治団体「日本保守党」の共同代表でもある河村たかしとは、河村の母親が海部の姉と友人で、名古屋市にあった母親の実家が海部の自宅と隣同士であり、河村が案内して一緒にかつて家があった場所を訪れる約束をしていました。また、新進党時代には初代党首に就いた海部と河村は同僚で、河村はよく指導頂いたと言い、海部が自民党に復党した時、「俺の処に来い」と声を掛けられ、河村は悩んだが断ったと言います。
- 長渕剛の曲「親知らず」の歌詞の中に、ミハイル・ゴルバチョフ、サッダーム・フセイン、ジョージ・H・W・ブッシュと共に登場します。
- 映画『小説吉田学校』(1983年)では、福田勝洋が海部を演じました。
- 総理として国民栄誉賞を授与した千代の富士との因縁もあってか、1990年5月26日には大相撲夏場所14日目を国技館の貴賓席で観戦しました。2016年7月31日に千代の富士が逝去した際には弔電を送っています。
- 2度目の文部大臣就任直後に岡田有希子が自殺。衆議院文教委員会で江田五月が採り上げ質問した際に「アイドルは皆に夢を与える存在。どうか命を大切にして欲しい、強くたくましく生きて欲しいものです」と答弁しました。
11.8. 秘書
首相の座を射止めたことから、多くの秘書が政治家として勇躍しました。
- 田中志典 - 元犬山市長、元愛知県議会議員。
- 熊田裕通 - 衆議院議員、元愛知県議会議員。
- 長坂康正 - 衆議院議員、元愛知県議会議員。
- 岩村進次 - 元愛知県議会議員、元議長。
- 西川学 - 名古屋市会議員。大学在学中に海部の事務所見習いとなりました。