1. 初期人生と教育
豊田英二の初期の人生と教育は、彼が日本の自動車産業の未来を形作る上での基盤を築いた。
1.1. 出生と家族背景
豊田英二は、1913年(大正2年)9月12日に愛知県西春日井郡金城村(現在の名古屋市西区堀端町)で、豊田平吉の二男として生まれた。父の平吉は、明治末期に兄であるトヨタグループの創始者豊田佐吉から独立し、織機を据えた布を織る工場を経営していた。英二は佐吉の甥にあたり、トヨタグループの創業者一族の一員として育った。
幼少期から青年期にかけて、彼は従兄であるトヨタ自動車の創業者豊田喜一郎と深く交流し、生涯にわたる友情を育んだ。東京帝国大学在学中には、東京市本郷区曙町(現在の本駒込)にある喜一郎の自宅に下宿し、豊田自動織機製作所自動車部芝浦研究所に勤務した。また、多忙な喜一郎に代わり、後にトヨタ自動車の社長となる豊田章一郎の中学校入学式に父兄代行として出席するなど、若い頃から豊田家の事業に深く関わっていた。
1.2. 学歴
豊田英二は、愛知県立第一中学校、第八高等学校(現在の名古屋大学)を経て、1936年に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業した。この機械工学の専門教育は、彼が後にトヨタ自動車で革新的な生産システムを開発し、自動車製造の技術的基盤を築く上で不可欠な知識と技術を提供した。
2. トヨタ自動車でのキャリア
豊田英二は、トヨタ自動車の成長と国際的な成功において中心的な役割を果たした。彼のキャリアは、初期の工場建設から、トヨタ生産方式の確立、そして世界的なブランドとしての地位確立に至るまで、多岐にわたる。
2.1. トヨタへの入社と初期の活動
東京帝国大学を卒業後、豊田英二は豊田自動織機に入社し、自動車部に配属された。この時期、彼の従兄である豊田喜一郎は、名古屋市にある豊田自動織機製作所内に自動車工場を設立していた。英二は学業を終えるとすぐにこの工場に加わり、喜一郎と共に自動車事業の黎明期を支えた。
1938年、喜一郎は英二に、名古屋から東へ約32 km離れた挙母町(後の豊田市)の赤松林の敷地に新しい工場の建設を監督するよう依頼した。この工場は本社工場として知られ、現在に至るまでトヨタ自動車の生産施設における「マザー工場」と位置づけられている。日中戦争中、彼は菅隆俊、岩岡次郎、齋藤尚一と共に挙母工場の建設構想に携わった。1941年に日本が第二次世界大戦に参戦すると、トヨタの生産能力は軍用トラックの製造に重点が置かれ、航空機開発は中断された。

終戦後、GHQによる財閥解体の動きはトヨタにも影響を及ぼしたが、その後トヨタは自動車製造を通じて日本の復興の一翼を担うこととなる。しかし、終戦直後は需要が増加したにもかかわらず、会社はほとんど破産寸前の状態にあり、大規模なリストラによって危機を乗り越えた。
1945年に取締役、その後常務、専務を歴任した。日本の降伏後の混乱期には、豊田喜一郎から瀬戸物業への転換を命じられ、岐阜県多治見市に通う日々も経験した。
2.2. トヨタ生産方式(TPS)の開発
1950年代初頭、豊田英二はアメリカ合衆国ミシガン州ディアボーンにあるフォードのフォード・リバー・ルージュ工場を視察した。彼はその施設の規模に圧倒された一方で、その非効率性に対して批判的な見方を示した。当時、トヨタ自動車は自動車製造事業に参入して13年が経過していたが、生産台数はわずか2,500台強に過ぎなかった。対照的に、フォード工場は1日に8,000台の車両を製造していた。この視察経験から、豊田はアメリカの自動車大量生産方式を導入しつつも、そこに質的な改善を加えることを決意した。
彼はベテランの織機技師である大野耐一と協力し、後に「トヨタ生産方式(TPS)」として知られることになる核心的な概念を開発した。これには、組み立てラインで使用される部品にラベルを貼るかんばん方式(バーコードの初期の前身)が含まれる。また、彼らは生産および人件費を削減しつつ、全体的な品質を向上させることを目的とした、漸進的かつ継続的な改善プロセスである「カイゼン」の概念を洗練させた。
2.3. 社長および会長としての在任
トヨタ自動車の常務取締役として、豊田英二は1950年代に馬力不足のトヨタ・クラウンセダンでアメリカ市場に参入を試みたが、これは失敗に終わった。しかし、1967年に社長に就任した翌年の1968年には、トヨタ・カローラの小型車で成功を収めた。カローラ開発段階では、当時の副社長であった豊田は、社長の中川不器男の反対を押し切り、新開発の1 Lエンジン、エアコン、オートマチックトランスミッションをカローラに搭載することを決定した。
1967年10月、三井銀行出身の中川不器男社長の急逝に伴い、豊田英二はトヨタ自動車工業株式会社の第5代社長に就任した。彼は1982年6月まで14年9か月にわたり社長を務め、これまでのところトヨタで最も長く最高経営責任者を務めた人物である。この間、彼は1973年から日本自動車研究所の理事長を、また日本自動車工業会の会長なども兼任した。
1982年の工販合併を機に、豊田喜一郎の長男である豊田章一郎に社長職を譲り、自身は代表取締役会長に就任した。会長在任中の1983年には、高級車市場への参入を決定し、これが1989年のレクサスブランド導入へと結実した。豊田は1994年に81歳でトヨタの会長職を退任した。
2.4. 主な業績と戦略
豊田英二のリーダーシップの下、トヨタ自動車は数々の重要な業績を達成し、世界的な自動車メーカーへと飛躍した。
- トヨタ生産方式(TPS)の確立と普及**: 大野耐一との協力により、かんばん方式やカイゼンといったTPSの核心原理を開発・洗練させ、生産効率の向上と品質管理の徹底を実現した。これは、世界の製造業に大きな影響を与え、「トヨタ方式」として広く知られるようになった。
- 国際市場への拡大**: 1968年のトヨタ・カローラの成功は、トヨタが国際市場で競争力を確立する上で決定的な転機となった。カローラは世界中でベストセラーとなり、トヨタのグローバル展開の礎を築いた。
- 高級ブランド「レクサス」の立ち上げ**: 1983年に会長として高級車市場への参入を決断し、1989年にレクサスを導入した。これは、トヨタが単なる大衆車メーカーから、高品質かつ高性能な高級車を提供するブランドへと進化する上で重要な戦略的決定であった。レクサスは、その品質と顧客サービスで高い評価を得て、世界の高級車市場で確固たる地位を築いた。
- 会社の収益性と知名度の向上**: 長期にわたる社長および会長としての在任期間中、彼はトヨタを収益性の高い企業へと成長させ、そのブランドイメージを世界中に確立した。彼の戦略的ビジョンと経営手腕は、トヨタが今日の国際的な自動車産業における主要なプレーヤーとなる上で不可欠であった。
3. 晩年と死
豊田英二は、トヨタ自動車の経営第一線から退いた後も、その影響力は長く続いた。彼の晩年は、個人的な活動と健康問題、そして最終的な逝去に至るまでの日々で特徴づけられた。
3.1. 晩年
豊田英二は、1992年に代表取締役会長を退任し、取締役名誉会長となった。さらに1994年には取締役も退任し、非取締役の名誉会長の地位に就いた。1999年には名誉会長の座を豊田章一郎に譲り、最高顧問として死去するまでその職を務めた。2000年には、妻の寿子と共に豊田市の名誉市民に選ばれている。
2002年に妻の寿子が死去し、その遺産から1.00 億 JPYが豊田市に寄付された。英二自身も2010年2月頃から体調を崩し、豊田市にあるトヨタ記念病院に入院していた。入院中も、見舞いに訪れた当時の社長である豊田章男を叱咤激励するなど、経営に対する情熱は衰えなかったという。彼は股関節の問題で入院し、一時期は車椅子を使用する必要があったものの、常に温和な人柄を保ち、数独パズルを解くことを楽しんでいた。晩年のほとんどを、会社の本社に近いトヨタ記念病院で治療を受けながら過ごした。
3.2. 死
豊田英二は、100歳の誕生日を迎えたわずか5日後の2013年(平成25年)9月17日、トヨタ記念病院で心不全のため逝去した。享年101歳であった。彼の墓所は覚王山日泰寺にある。逝去後の2013年10月8日の閣議において、正三位に叙されることが決定した。また、2014年には、長男の豊田幹司郎(アイシン会長)ら遺族から、彼の遺産のうち10.00 億 JPYが豊田市に寄付され、「ものづくりに役立ててほしい」との意向が示された。
3.3. 死後の評価と追悼
豊田英二の死後、国内外の産業界関係者や専門家から、彼の功績を称える多くの追悼の言葉が寄せられた。
アメリカ合衆国の自動車研究センターの元会長であるデイビッド・コールは、豊田について「彼はトヨタを成功する企業にするために何が必要かを理解していた、真の先見の明を持つ、インスピレーションを与えるリーダーであった」と述べた。また、ピーターセン自動車博物館のキュレーターであるレスリー・ケンドールは、豊田を「ヘンリー・フォードに匹敵する日本の人物」と評し、その影響力の大きさを強調した。
彼は生前から石田退三と共に「トヨタの中興の祖」と呼ばれており、その評価は死後も揺るがなかった。1999年には、アメリカの週刊誌「タイム」誌によって「今世紀最も影響力のあったアジアの20人」の一人に選出された。日本人としては、他に昭和天皇、盛田昭夫、黒澤明、三宅一生、井上大佑が選ばれている。これらの評価は、彼が単なる経営者にとどまらず、日本の産業界、ひいては世界の製造業に与えた計り知れない影響力を示している。
4. 家族と親族
豊田英二は、織機製造業を営む豊田家に生まれ、トヨタグループの創始者一員として、その広範な親族関係の中で生きてきた。彼の家族構成と主要な親族は以下の通りである。
- 父**: 豊田平吉(トヨタ自動車監査役)
- 母**: 不明
- 妻**: 豊田寿子(2002年死去)
- 長男**: 豊田幹司郎(アイシン会長)
- 二男**: 豊田鐵郎(豊田自動織機会長)
- 三男**: 豊田周平(トヨタ紡織社長)
- 弟**: 豊田芳年(豊田自動織機名誉会長)
- 伯父**: 豊田佐吉(トヨタグループ創始者)
- 従兄**: 豊田喜一郎(トヨタ自動車創業者)
- 従妹**: 節子(INAX社長伊奈輝三妻)
- 大甥**: 豊田章男(豊田喜一郎の孫、豊田章一郎の長男。トヨタ自動車取締役会長)
豊田佐吉の子孫は、1937年に法人化されたトヨタ自動車の上層部を長年支配してきた。英二の妻である寿子との間には三人の息子がおり、多くの孫にも恵まれた。
5. 受賞歴と栄典
豊田英二は、その卓越した功績に対し、国内外から数多くの賞や勲章、表彰を受けている。
5.1. 日本国内の栄典
- 1971年4月 - 藍綬褒章
- 1983年11月 - 勲一等瑞宝章
- 1990年11月 - 勲一等旭日大綬章
- 2000年3月 - 豊田市名誉市民(妻の寿子も同時に推挙)
- 2013年10月 - 正三位(逝去後に叙される)
5.2. 海外の栄典
6. その他の活動と役職
豊田英二は、トヨタ自動車での主要な役職に加えて、様々な産業団体や財団においても重要なリーダーシップの役割を担った。
- 日本自動車研究所理事長(第2代、1973年 - 1987年)
- 日本自動車工業会会長(第2代、1972年 - 1980年)
- 自動車技術会会長(第5代、1958年 - 1961年)
- 財団法人トヨタ財団理事長(初代、1974年 - 1990年)
- 財団法人トヨタ財団会長(初代、1990年 - 1998年)
- 学校法人トヨタ東京整備学園理事長(初代、1988年 - 1997年)
- 学校法人トヨタ学園理事長(初代、1979年 - 1998年)
- 助成財団センター理事長(初代)
- 財団法人2005年日本国際博覧会顧問
- 社団法人日本自動車会議所顧問
- 財団法人科学技術交流財団特別顧問
- 財団法人がん研究振興財団理事
- 財団法人助成財団センター顧問
- 財団法人国際文化交換協会評議員
- 社団法人日本ポルトガル協会理事
- 財団法人立松財団評議員
- 財団法人大河内記念会顧問
- 財団法人日本美術協会相談役
7. エピソード
豊田英二の経営哲学や人柄、そして製品開発や企業文化への具体的な貢献を示す、いくつかの注目すべき逸話が残されている。
- 現物現場主義と品質へのこだわり**: 彼は徹底した「現物現場主義」者であり、トヨタ・2000GTの開発やレース部門である第七技術部にも頻繁に顔を出した。また、「一日三回手を洗え」というほどきれい好きであったにもかかわらず、車両実験部に来ると真っ先にゴミ箱に行き、試作品を漁ったという。これは、多数の試作品を直接見ることで、車両に起きている問題をいち早く把握するためであった。
- トヨタ・MR2の開発**: 日本初のミッドシップスポーツカーであるトヨタ・MR2の開発は、豊田が発した「トヨタにはひと味違ったクルマが必要だ」という檄がきっかけで始まった。この一言が、革新的なモデルの誕生を促した。
- 他社への支援**: 1975年、スズキのエンジンが排ガス規制をクリアできず苦境に立たされた際、当時の鈴木相談役(当時専務)がトヨタ自動車の当時の社長であった豊田英二に頭を下げ、エンジンの供給を依頼した。豊田はこれに応じ、スズキにエンジンを供給することで同社の危機を救った。このエピソードは、日本の自動車産業における協力関係と、豊田の産業全体への貢献を示すものとして語り継がれている。
- 著書**: 彼は自身の経験とトヨタの発展を記した著書『Toyota: Fifty Years in Motion英語』(1987年、講談社)を執筆している。
8. 関連人物
豊田英二のキャリアや人生において重要な役割を果たした家族構成員や事業協力者は以下の通りである。
- 豊田佐吉 - 伯父、トヨタグループ創始者。
- 豊田喜一郎 - 従兄、トヨタ自動車創業者。
- 豊田章一郎 - トヨタ自動車社長および会長の後任、豊田喜一郎の長男。
- 大野耐一 - トヨタ生産方式(TPS)開発における協力者。
- 石田退三 - 「トヨタの中興の祖」と称される盟友。
- 中川不器男 - トヨタ自動車社長の前任者。
- 豊田章男 - 豊田章一郎の長男、トヨタ自動車取締役会長。
- 豊田幹司郎 - 長男、アイシン会長。
- 豊田鐵郎 - 二男、豊田自動織機会長。
- 豊田周平 - 三男、トヨタ紡織社長。
- 豊田平吉 - 父、トヨタ自動車監査役。
- 豊田芳年 - 弟、豊田自動織機名誉会長。
- 伊奈輝三 - 従妹の夫、INAX社長。
- 菅隆俊 - 挙母工場建設構想に携わった人物。
- 岩岡次郎 - 挙母工場建設構想に携わった人物。
- 齋藤尚一 - 挙母工場建設構想に携わった人物。
- 鈴木修 - スズキの元相談役、エンジン供給を受けた人物。