1. 初期生い立ちと教育
ギングリッチの幼少期は、軍人である継父の転勤に伴い、様々な場所で過ごされ、その後の彼の政治的関心に大きな影響を与えた。
1.1. 出生と家族背景
ギングリッチは、1943年6月17日にペンシルベニア州ハリスバーグのハリスバーグ病院で、ニュートン・リロイ・マクファーソン(Newton Leroy McPherson英語)として生まれた。母親のキャスリーン・"キット"・ドーアティ(Kathleen "Kit" Daugherty英語; 1925年 - 2003年)と実父のニュートン・サールズ・マクファーソン(Newton Searles McPherson英語; 1923年 - 1970年)は、彼女が16歳、彼が19歳だった1942年9月に結婚したが、数日中に破綻した。
1946年、彼の母親はロバート・ギングリッチ(Robert Gingrich英語; 1925年 - 1996年)と再婚し、彼に養子縁組された。ロバート・ギングリッチは陸軍の職業軍人で、朝鮮戦争とベトナム戦争に従軍した。1956年には家族でヨーロッパに移り住み、フランスのオルレアンやドイツのシュトゥットガルトで一時的に暮らした。彼は幼少期をハリスバーグ近郊のハメルズタウンや、養父が駐屯していた軍事基地で過ごした。家族の宗教はルーテル派であった。
彼の母親からは、3人の年下の異母兄弟がいる。キャンディス・ギングリッチ(1966年生)、スーザン・ギングリッチ(1948年生)、ロベルタ・ブラウン(1950年生)である。また、実父側にも異母姉妹と異母兄弟のランディ・マクファーソンがいる。1960年、高校3年生の時に家族はジョージア州のフォート・ムーアに移住した。
1.2. 学歴
1961年、ギングリッチはジョージア州コロンバスのベイカー高校を卒業し、そこで後に結婚することになる数学教師に出会った。彼は10代の頃から政治に興味を抱いていた。家族とフランスのオルレアンに住んでいた際、ヴェルダン攻防戦の跡地を訪れ、そこで払われた犠牲と政治的リーダーシップの重要性について学んだ。
1965年、アトランタのエモリー大学で歴史学の学士号を取得した。その後、テュレーン大学で大学院に進み、1968年に修士号、1971年にヨーロッパ史の博士号を取得した。1969年から1970年にかけての6ヶ月間はブリュッセルで、論文「コンゴにおけるベルギーの教育政策 1945年-1960年(Belgian Education Policy in the Congo 1945-1960英語)」に取り組んだ。
ベトナム戦争中、彼は学生であり父親であったため、徴兵猶予を受けていた。1985年、彼は「自分の信じるものすべてを考えると、自分の一部は(戦争に)行くべきだったと考えている」と述べた。
1.3. 大学教授としての経歴
1970年、ギングリッチはウェストジョージア大学の歴史学部に加わったが、そこで「歴史を教える時間はほとんどなかった」という。彼は新しい環境学プログラムを調整し、1976年までには歴史学部から地理学部に異動した。大学在籍中、彼は連邦下院議員に立候補するため、3度無給休暇を取得し、2度落選した後に大学を去った。大学の規則では、現職の教授が公職に立候補することは許されていなかった。彼は1977年に終身在職権を拒否された後、大学を退職した。
2. 初期政治キャリア
ギングリッチの初期の政治キャリアは、連邦下院議員への挑戦と、保守派の結集を目指す組織の設立に特徴づけられる。彼は度重なる落選を経験しながらも、その政治的手腕と戦略によって共和党内での影響力を確立していった。
2.1. 議会選挙運動
1974年、ギングリッチはジョージア州北中部の第6選挙区で共和党候補として初めて政治職に立候補した。彼は20年間現職だった民主党のジャック・フリントに2,770票差で敗れた。ギングリッチの相対的な成功は政治アナリストを驚かせた。フリントはこれまで真剣な挑戦者と対峙したことがなく、ギングリッチは彼に立候補した史上2人目の共和党員であった。1974年はウォーターゲート事件の余波で共和党候補にとって全国的に壊滅的な年であったにもかかわらず、彼はフリントに対して善戦した。
1976年、ギングリッチはフリントに再戦を挑んだ。全国的には1974年よりも1976年の下院選挙で共和党はわずかに良い成績を収めたが、1976年の大統領選挙の民主党候補はジョージア州の元州知事ジミー・カーターであった。カーターは故郷のジョージア州で3分の2以上の票を獲得し、ギングリッチは5,100票差で敗れた。
1978年の選挙に向けてギングリッチが再び準備を進める中、フリントは引退を決意した。ギングリッチは民主党の州上院議員バージニア・シャパードを7,500票差で破った。彼はこの選挙区から5回再選された後、再区画によって選挙区が変更された。彼は一度だけ接戦を経験した。1990年の下院選挙では、共和党のハーマン・クラークとの予備選挙で978票差で勝利し、本選挙では民主党のデビッド・ウォーレイにわずか974票差で勝利した。選挙区は全国レベルでは共和党寄りになっていたが、保守的な民主党員は1980年代後半まで、ほとんどの地方公職や州議会の議席を保持していた。
1990年の国勢調査で記録された人口増加により、ジョージア州は1992年の下院選挙で追加の1議席を獲得した。しかし、民主党が支配するジョージア州議会は、トム・マーフィー下院議長の指導の下、ギングリッチを標的にし、彼が代表を務めていた選挙区を廃止した。ゲリマンダーによってギングリッチの選挙区の領土は3つの隣接する選挙区に分割された。ギングリッチの選挙区の南部、彼の自宅があるキャロルトンを含む大部分は、コロンバスを拠点とする5期現職の民主党員リチャード・レイが代表を務める第3選挙区に組み込まれた。ギングリッチは「議長は、資金を調達し、ゲリマンダーを行うことで、私の抹殺に心から人生を捧げてきた」と述べた。ジョージア大学の政治学教授チャールズ・S・ブロック3世は、「マーフィー議長は共和党員が自分を代表するのを好まなかった」と語った。1990年代初頭、ギングリッチはジョージア州の10の連邦下院選挙区で唯一の共和党代表であったが、1992年に第4選挙区が創設され、ジャック・キングストンとマック・コリンズが共和党の議席を獲得したことで状況は変わった。
議会は、アトランタの裕福な北部郊外にあるフルトン郡とコブ郡に、ギングリッチがこれまで代表したことのない、共和党色の強い新しい第6選挙区を創設した。ギングリッチはキャロルトンの自宅を売却し、新しい選挙区のマリエッタに移り住んだ。彼の予備選挙の対立候補である州下院議員ハーマン・クラークは、2年前にギングリッチに挑戦した人物だが、下院銀行スキャンダルにおけるギングリッチの22枚の当座貸越小切手を問題視し、またギングリッチが選挙区に引っ越してきたことを批判した。再集計の結果、ギングリッチは980票差で勝利し、51%対49%の得票率となった。彼が予備選挙で勝利したことで、11月の本選挙での当選はほぼ確実となった。彼はこの選挙区から3回再選され、民主党の対立候補は名ばかりであった。
1995年、ギングリッチが1993年にジョージア州ウェールズカのラインハルト大学で土曜日に教えていた大学の授業「アメリカ文明の再生(Renewing American Civilization英語)」が、ケーブルテレビチャンネルのマインド・エクステンション・ユニバーシティで放映された。
2.2. 保守機会協会 (COS) の創設
1981年、ギングリッチは軍事改革議員団(Military Reform Caucus英語、MRC)と議会航空宇宙議員団を共同で設立した。1983年の議会ページ性スキャンダルでは、ギングリッチはダン・クレインとジェリー・スタッズ両議員の追放を求める声に加わった。ギングリッチは、国際通貨基金から共産主義国への融資を禁止する提案を支持し、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア・デーを新しい連邦祝日とする法案を支持した。

1983年、ギングリッチは若い保守派下院共和党員を含む保守機会協会(Conservative Opportunity Society英語、COS)を設立した。初期のCOSメンバーには、ロバート・スミス・ウォーカー、ジャッド・グレッグ、ダン・コーツ、コニー・マック3世らがいた。このグループは徐々に数十人の議員に拡大し、毎週会合を開いて意見交換やアイデア開発を行った。
ギングリッチの世論調査分析が、このグループの初期の焦点となった。ロナルド・レーガンは1984年の再選キャンペーンで「機会社会(opportunity society英語)」の考えを採用し、経済成長、教育、犯罪、社会問題に関するグループの保守的な目標を支持した。彼は最初の任期中にはこれらを強調していなかった。レーガンは2期目の最初の一般教書演説でも「機会社会」に言及した。
1988年3月、ギングリッチは1987年公民権回復法に反対票を投じ(レーガン大統領の拒否権を支持した)、1988年5月には、ギングリッチは他の77人の下院議員やコモン・コーズとともに、民主党のジム・ライト下院議長に対して倫理規定違反の告発を行った。ライトは書籍取引を利用して選挙資金法や下院の倫理規定を回避したとされた。調査中、ギングリッチ自身も「機会の窓(Window of Opportunity英語)」という自身の書籍取引で不正があったと報じられた。この取引では、宣伝費用が有限責任組合によって賄われ、ギングリッチの書籍販売促進のために共和党の政治的支援者から10.50 万 USDを調達していた。ギングリッチがライトの辞任を強要したことは、共和党議員団内での彼の影響力増大に貢献した。
2.3. 下院少数党院内幹事
1989年3月、ギングリッチはエドワード・レル・マディガンとの接戦を制し、下院少数党院内幹事に就任した。これはギングリッチにとって共和党内での最初の正式な権力職であった。彼は「より攻撃的で活動的な党を築く」ことを意図していると述べた。院内幹事としての初期の役割として、1989年5月、ギングリッチはパナマ運河のパナマ人管理者任命に関する協議に関与した。これは1989年に米国政府の承認を条件として行われる予定であった。ギングリッチは、運河の管理権をパナマの独裁政権が任命する管理者に与えることに公然と反対した。
ギングリッチと、新しく結成された「ギャング・オブ・セブン」を含む下院の他の議員たちは、約40年にわたる民主党の支配下で彼らが倫理的欠陥と見なしたことに対して激しく非難した。下院銀行スキャンダルと議会郵便局スキャンダルは、露呈した腐敗の象徴であった。ギングリッチ自身も、下院銀行で不渡り小切手を発行した議員の一人であった。彼は1990年に内国歳入庁への9463 USDの小切手を含む22枚の小切手で当座貸越をしていた。
1990年、世論調査の専門家フランク・ランツの協力を得てフォーカスグループと協議した後、GOPACはギングリッチが署名した「言葉、統制の主要なメカニズム(Language, a Key Mechanism of Control英語)」というタイトルのメモを配布した。これは共和党員に「ニュートのように話す」ことを奨励するものであった。このメモには、「急進的(radical英語)」「病的な(sick英語)」「裏切り者(traitors英語)」などの否定的な意味合いを持つ「対比語」と、「機会(opportunity英語)」「勇気(courage英語)」「原則的な(principled英語)」などの「楽観的で肯定的な統治の言葉」のリストが含まれており、ギングリッチはそれぞれ民主党と共和党を説明する際に使用することを推奨した。

下院と上院で多数を占める民主党との交渉中、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領は、彼の選挙公約である「新たな税金なし」にもかかわらず、増税を含む財政赤字削減パッケージに合意した。ギングリッチは反乱を主導し、最初の歳出パッケージを否決させ、1990年の連邦政府閉鎖につながった。この合意は、長い交渉の末に大統領と両党の議会指導者によって支持されたものであったが、ギングリッチはホワイトハウス・ローズガーデンでのテレビ中継されたイベント中に退席した。下院少数党院内総務のロバート・H・ミシェルは、ギングリッチの反乱を「千の悪意の点」と評した。
3. 議会経歴と下院議長
ギングリッチの議会経歴は、連邦下院議員としての活動開始から下院議長としての在任期間、そしてその後の辞任に至るまで、劇的な政治的変革と論争に満ちたものであった。
3.1. 連邦下院議員としての活動開始
1978年の選挙で連邦下院議員に初当選を果たしたギングリッチは、1979年1月3日に就任した。彼はジョージア州第6選挙区の代表として、当初は民主党が多数を占める議会で活動を開始した。彼は議会内での共和党の存在感を高めるため、積極的な批判と改革の提唱を行った。
3.2. 「アメリカとの契約」と「共和党革命」
1994年の選挙戦中、民主党の政策に代わる選択肢を提示し、共和党の離れた派閥を結集させるため、ギングリッチと他の数人の共和党員は「アメリカとの契約」を策定した。この契約は、共和党が選挙に勝利した場合、新しい議会の最初の100日間に下院で採決にかけることを約束する10の政策を提示した。この契約には、ギングリッチや他の共和党下院議員候補者が署名した。契約は、福祉改革、任期制限、犯罪、均衡予算/税制制限修正案といった問題から、国際連合ミッションにおけるアメリカ軍の参加制限といったより専門的な法案にまで及んだ。

1994年11月の中間選挙で、共和党は54議席を獲得し、1954年以来初めて下院の支配権を握った。長年下院少数党院内総務を務めていたイリノイ州のボブ・ミシェルは再選に出馬せず、議会に戻る最高位の共和党員であるギングリッチが議長となるための内定を得た。議会の権力を共和党に移行させたこの中間選挙は、首都の「重心を変えた」。『タイム』誌は、この選挙における彼の役割を評価し、1995年の「パーソン・オブ・ザ・イヤー」にギングリッチを選出した。
3.3. 下院議長在任
下院は、ギングリッチの約束通り、会期最初の100日以内に「アメリカとの契約」の10項目すべてを採決にかけることを実行した。ビル・クリントン大統領はこれを「アメリカへの契約(Contract on America英語)」と呼んだ。

第104回アメリカ合衆国議会によって提案された法案には、議会議員の任期制限、減税、福祉改革、均衡予算修正案、さらに下院の財政の独立監査や、下院の理髪店や靴磨きといった不要不急のサービスの廃止が含まれていた。ギングリッチが下院議長を務めた最初の2年間を経て、共和党は1996年の選挙で再選され、共和党が再選されたのは68年ぶりであり、民主党大統領が再選されたのと同時に下院選挙で勝利したのは80年ぶりであった。
議長として、ギングリッチはキリスト教保守主義を共和党に強く結びつけようと努めた。2018年の研究によると、キリスト教保守主義は2000年までに共和党の政策綱領にしっかりと定着していた。イェール大学の議会学者デイビッド・メイヒューは、ギングリッチを非常に影響力のある人物と評し、「ギングリッチにおいて、我々は議会メンバーが公共の場で結果を伴って活動する、これまでに見られた中でも最高の事例を持っている」と述べている。
1997年、ギングリッチ下院議長は台湾と中国の北京を訪問した。
3.3.1. 主要な立法成果
ギングリッチは下院議長として、福祉改革、予算均衡、税制削減など、主要な法案の成立を主導した。これらの政策は、彼の保守的なアジェンダの核心をなすものであった。
3.3.2. 政府閉鎖と弾劾推進
ギングリッチと新しく就任した共和党多数派の政府支出率を抑制するという約束は、大統領のメディケア、教育、環境、公衆衛生に関するアジェンダと衝突し、合計28日間に及ぶ2度の連邦政府の一時閉鎖につながった。

クリントンは、共和党の修正案が財務省から連邦信託基金に手を付けて借入危機を回避する能力を奪うだろうと述べた。共和党の修正案は、死刑囚の控訴を制限し、健康、安全、環境に関する規制の発行をより困難にし、大統領に7年間の均衡予算を約束させるものであった。クリントンは、ほとんどの歳出権限が期限切れになった後も政府が運営を継続することを許可する2番目の法案に拒否権を行使した。
クリントンが反対した共和党の修正案は、メディケア・パートBの保険料を増額するだけでなく、予定されていた減額も取り消すものであった。共和党は1996年1月にメディケア・パートBの保険料を月額53.5 USDに引き上げることを主張した。クリントンは、高齢者が支払う保険料を42.5 USDに引き下げるという当時の現行法を支持した。
政府は閉鎖期間中、ほとんどの不要不急の事務所を閉鎖した。これは当時、アメリカ史上最長の閉鎖であった。閉鎖は、クリントンが議会予算局が承認した均衡予算計画を提出することに合意したときに終了した。
危機の間、ギングリッチの公衆イメージは、共和党の強硬な予算姿勢が、イツハク・ラビンの葬儀のためにイスラエルへのエアフォースワンでの往復のフライト中にクリントンがギングリッチを無視したとされることによるものだという認識によって損なわれた。この認識は、ギングリッチが『クリスチャン・サイエンス・モニター』の朝食会でラース=エリック・ネルソンに質問された際、フライト中にクリントンから予算について話し合う機会を与えられなかったことに不満を述べた後に広まった。彼は、自分とボブ・ドールが飛行機の後部出口から降りるように指示されたことに不平を述べ、この軽視が「より厳しい継続決議案を送ることになった理由の一部だ」と語った。ギングリッチの「後部ドアを使わざるを得なかった」という不満に対し、NBCニュースは、ギングリッチとドールがテルアビブでクリントンのすぐ後ろから前部階段を使って降機するビデオ映像を公開した。
ギングリッチは、政府閉鎖が彼の個人的な不満の結果であると示唆したことで広く嘲笑され、彼が癇癪を起こした赤ん坊として描かれた風刺漫画が広く共有された。民主党の指導者たちは、チャック・シューマーを含め、予算の膠着状態に対するギングリッチの動機を攻撃する機会を捉えた。1998年、ギングリッチはこれらの発言が議長としての彼の「最も避けられた間違い」であったと述べた。
政府閉鎖が共和党に与えた影響について、ギングリッチは後に「ワシントンの誰もがそれが大きな間違いだったと考えている。彼らは完全に間違っている。1928年以来、共和党が再選された多数派は存在しなかった。我々が再選された理由の一部は...我々の支持基盤が我々を真剣だと考えたからだ。そして、彼らは我々が真剣だと考えたのは、対決となったときに、我々がひるまなかったからだ」とコメントした。2011年の『ワシントン・ポスト』の論説で、ギングリッチは、政府閉鎖が1997年の均衡予算合意と、1920年代以来初めての4年連続の均衡予算、そして1928年以来初めての共和党多数派の再選につながったと述べた。
ギングリッチは、クリントン大統領を党派的な投票で弾劾した。
3.3.3. 倫理違反と懲戒
ギングリッチが議長を務めた期間中、民主党によって84件の倫理規定違反の告発がなされた。そのすべては最終的に取り下げられたが、政治目的で運営されていた大学の授業(「アメリカ文明の再生」)に対して免税資格を主張した一件は例外であった。1997年1月21日、下院はギングリッチを公式に懲戒し(賛成395票、反対28票)、調査費用の一部として30.00 万 USDを下院に返済するよう命じた。議長が倫理規定違反で処分されたのはこれが初めてであった。

さらに、アメリカ合衆国下院倫理委員会は、ギングリッチに代わって調査官に提供された不正確な情報が、下院規則に対する「意図的または...無謀な」無視を表していると結論付けた。倫理委員会の特別顧問ジェームズ・M・コールは、ギングリッチが連邦税法に違反し、委員会に苦情を却下させるために倫理委員会に虚偽の証言をしたと結論付けた。しかし、委員会全体は税法が違反されたかどうかについては意見が一致せず、その問題は内国歳入庁に委ねられた。1999年、内国歳入庁は、「アメリカ文明の再生」の授業に関連して税法違反の可能性で調査されていた組織をクリアにした。
この状況に関して、ギングリッチは1997年1月に次のように述べた。「私は、私の代理で委員会に提出される情報を徹底的に指示または審査するほど、その努力を集中させなかった。私の名前で、私の署名の下に、不正確、不完全、信頼できない陳述が委員会に提出されたが、私は委員会を誤解させる意図はなかった...私は、国民が政府に抱く信頼を弱める可能性のある論争を、国民の家にもたらしてしまった。」
3.3.4. リーダーシップの挑戦
1997年夏、数人の下院共和党員が、ギングリッチの公衆イメージが負債となっていると主張し、彼を議長から交代させようと試みた。この「クーデター」未遂は7月9日に、共和党会議議長のジョン・ベイナー(オハイオ州選出)と共和党指導部議長のビル・パクソン(ニューヨーク州選出)の会合から始まった。彼らの計画によると、下院多数党院内総務のディック・アーミー、下院多数党院内幹事のトム・ディレイ、ベイナー、パクソンがギングリッチに最後通牒を突きつけ、辞任するか、投票で解任されるかを迫る予定であった。
しかし、アーミーはパクソンを新しい議長にするという提案に躊躇し、首席補佐官にギングリッチに警告するよう指示した。7月11日、ギングリッチは共和党の幹部指導部と会合し、状況を評価した。彼は、いかなる状況下でも辞任しないと説明した。もし彼が投票で解任された場合、議長の新しい選挙が行われることになり、これにより民主党員と反対派の共和党員が協力して民主党のディック・ゲファルトを議長に選出する可能性が生じると述べた。
7月16日、パクソンは自身の辞任を申し出た。彼は状況を正しく処理できなかったと感じており、指導部のメンバーの中で唯一、選挙で選ばれたのではなく、ギングリッチによって任命された人物であったためである。ギングリッチはパクソンの辞任を受け入れ、パクソンに直ちに指導部の執務室を明け渡すよう指示した。
3.3.5. 議長職辞任
1998年、ギングリッチの私的な世論調査は、クリントン=ルインスキー・スキャンダルを追求すればクリントンの人気が損なわれ、共和党が下院で6から30議席の純増を達成するという印象を共和党員に与えていた。同時に、ギングリッチは当時23歳年下の女性と不倫関係にあった。しかし、議席を獲得するどころか、共和党は5議席を失い、大統領職を保持していない政党としては64年間で最悪の中間選挙結果となった。不人気な書籍取引を含む他の倫理規定違反も彼の不人気に拍車をかけたが、彼自身は自身の選挙区で再選された。
選挙の翌日、彼に反旗を翻す準備ができていた共和党の議員団が、彼の議長職辞任を促した。彼はまた、数週間後に下院から完全に去る意向も発表した。1999年1月、彼は議員職を辞任した。議長職を放棄する際、ギングリッチは他の共和党員について「人食い人種である人々の議長を務めるつもりはない」と述べた。この時点での彼のキャリアを回顧する中で、『ニューヨーク・タイムズ』は1998年11月にギングリッチを「権力を掌握する方法の専門家だが、それを維持することには未熟」と評し、さらに「急進的で分極化を招く人物が指導者として長く続くことの難しさ」を示していると論じた。
1997年12月、ギングリッチは2000年の大統領選挙への出馬の可能性をちらつかせたが、党の中間選挙での不振とそれに続く彼の辞任により、その計画は断念された。
4. 下院議長退任後
ギングリッチは下院議長退任後も、国家政治と公共政策の議論に深く関与し続けた。彼は様々なシンクタンクを設立し、政策提言活動を行うとともに、事業活動やメディア出演を通じてその影響力を維持した。

『アトランティック』誌のマッケイ・コピンズは2018年にギングリッチとの時間を次のように要約している。「ギングリッチは地政学に手を出し、高級イタリアンレストランで食事をする。旅行したいときは、ビジネスクラスで大西洋を横断し、大陸間のテレビスタジオから時事問題について意見を述べ、1分あたり600 USDで講演を行う。読書や執筆、昼間の動物園訪問の時間もあり、彼自身も『とても楽しい人生だ』と認めている。」
4.1. シンクタンクと政策活動
2003年、彼は健康変革センターを設立した。ギングリッチは2003年のメディケア処方薬・改善・近代化法を支持し、これによりメディケア・パートDの連邦処方薬給付プログラムが創設された。一部の保守派は、その費用を理由に彼がこの計画を支持したことを批判している。2011年5月15日の『ミート・ザ・プレス』のインタビューで、ギングリッチは長年の持論である「私たち全員が医療費を支払う責任がある」という考えを繰り返し、これを医療保険加入の義務化、または補償を保証する保証金の預託によって実施できると示唆した。同じインタビューでギングリッチは「右派の社会工学は左派の社会工学よりも望ましいとは考えていない。右派や左派から急進的な変化を押し付けることは、自由な社会が機能する上で非常に良い方法だとは思わない」と述べた。この発言は共和党内で反発を招いた。
2005年、ヒラリー・クリントンとともに、ギングリッチは21世紀健康情報法案の提案を発表した。この法案は、書類作業を機密性の高い電子健康情報ネットワークに置き換えることを目的としていた。ギングリッチはまた、2007年に設立された、アルツハイマー病と闘うために米国で取られた行動の強みと弱みを評価するための健康政策専門家で構成された独立議会研究グループの共同議長を務めた。
ギングリッチは、米国国家安全保障委員会/21世紀として正式に知られるハート・ラッドマン委員会を含むいくつかの委員会で委員を務め、軍隊、法執行機関、情報機関に影響を与える国家安全保障問題を調査した。2005年には、国連改革のためのタスクフォースの共同議長に就任し、米国が国連を強化するための計画を作成することを目指した。2010年時点で、ギングリッチは20年以上にわたりアメリカ空軍の航空大学で教鞭を執っており、統合旗艦将校戦術コースの最長老教師であった。さらに、彼は国防大学の名誉客員学者および教授であり、2012年時点で、すべての国防軍の将校を教えていた。ギングリッチは、ドナルド・ラムズフェルド国防長官にイスラエルとパレスチナの紛争を含む戦略問題や、国務省および国家安全保障会議に外交政策の影響力を「譲らない」よう国防総省を奨励することについて非公式に助言した。ギングリッチはまた、国家安全保障改革プロジェクトの指導連合メンバーでもある。

ギングリッチは、2007年に設立された527団体であるアメリカン・ソリューションズ・フォー・ウィニング・ザ・フューチャーを設立し、その議長を務めた。この団体は、シェルドン・アデルソンや石炭会社ピーボディ・エナジーなどの主要な寄付者から5200.00 万 USDを調達した「資金調達の巨大勢力」であった。この団体は、規制緩和や海洋石油掘削などの化石燃料採掘の増加を推進し、従業員自由選択法に反対した。『ポリティコ』紙は、「世論調査員や資金調達担当者を含むこの組織は、ギングリッチの著書を宣伝し、ダイレクトメールを送り、彼の目的を宣伝する広告を放映し、全国への彼の旅行資金を賄っていた」と報じた。アメリカン・ソリューションズは、彼が2011年に組織を離れた後に閉鎖された。
ギングリッチが設立または議長を務めた他の組織や企業には、妻のキャリスタ・ギングリッチが率いるクリエイティブ制作会社ギングリッチ・プロダクションズや、宗教教育団体アメリカン・リーダーシップの再生が含まれる。
ギングリッチは外交問題評議会の元メンバーである。彼は保守的なシンクタンクであるアメリカン・エンタープライズ・インスティテュートとフーヴァー研究所のフェローである。彼は時折、フォックスニュースチャンネルなどのケーブルニュース番組でコメンテーター、ゲスト、またはパネリストを務める。彼はフォックスニュースチャンネルの寄稿者として記載されており、様々なセグメントにゲストとして頻繁に出演している。また、フォックスニュースチャンネルで時折特別番組のホストも務めている。ギングリッチは、政府支出を削減するためにシックスシグマ手法を推進することを約束する「ストロング・アメリカ・ナウ(Strong America Now英語)」の誓約に署名した。
ギングリッチは、元下院議員パトリック・J・ケネディとバラク・オバマ大統領の元国内政策顧問ヴァン・ジョーンズとともに、オピオイド回復推進者を設立した。
4.2. 事業活動と財政
ギングリッチは1999年に議会を去った後、いくつかの営利企業を立ち上げた。2001年から2010年の間に、彼と彼の妻が完全にまたは部分的に所有していた企業は、約1.00 億 USDの収益を上げていた。2015年時点で、ギングリッチはカナダの鉱業会社バリック・ゴールドの顧問を務めていた。
2011年7月に公開された財務開示フォームによると、ギングリッチと彼の妻は2010年に少なくとも670.00 万 USDの純資産を保有しており、2006年の最大240.00 万 USDから増加していた。彼の純資産の増加のほとんどは、彼の営利企業からの支払いによるものであった。
4.2.1. ギングリッチ・グループと健康変革センター
ギングリッチ・グループは1999年にコンサルティング会社として設立された。時が経つにつれて、非医療分野の顧客は減り、健康変革センターと改称された。この2社は2001年から2010年の間に5500.00 万 USDの収益を上げていた。この収益は300以上の健康保険会社やその他の顧客から得られ、ギングリッチへのアクセスやその他の特典と引き換えに、年間20.00 万 USDもの会費がかかることもあった。2011年、ギングリッチが大統領候補になった際、彼はこの事業への関心を売却し、「可能な限り」顧客の全リストと支払い額を公開すると述べた。
2012年4月、健康変革センターは連邦倒産法第7章を申請し、100.00 万 USDから1000.00 万 USDの負債を返済するために資産を清算する計画を立てた。
2001年から2010年の間に、ギングリッチは政府支援機関である二次住宅ローン会社フレディマックのコンサルタントを務め、議会で検討されていた新しい規制について懸念を抱いていた。コンサルティング料として160.00 万 USDが支払われたことについて、ギングリッチは「フレディマックは、他のコンサルティング会社に支払うのと同じように、多くの従業員と多くのオフィスを持つギングリッチ・グループにコンサルティング料を支払った」と述べた。2012年1月、彼はフレディマックとの契約を公開できないと述べた。フレディマックは許可を与えていたにもかかわらず、健康変革センターのビジネスパートナーもそれに同意するまで公開できないとした。
4.2.2. ギングリッチ・プロダクションズ
ギングリッチの妻キャリスタ・ギングリッチが率いるギングリッチ・プロダクションズは2007年に設立された。同社のウェブサイトによると、2011年5月時点で、「ニュートとキャリスタ・ギングリッチの作品を特集するパフォーマンスおよび制作会社である。ニュートとキャリスタは、歴史および公共政策ドキュメンタリーのホストおよびプロデューサーを務め、書籍を執筆し、オーディオブックやナレーションを録音し、写真エッセイを制作し、テレビやラジオに出演している」。
2008年から2011年の間に、同社は宗教に関する3本の映画、エネルギーに関する1本、ロナルド・レーガンに関する1本、そしてイスラム過激派の脅威に関する1本を制作した。これらはすべて保守団体シチズンズ・ユナイテッドとの共同プロジェクトであった。2011年、ニュートとキャリスタはアメリカ例外主義をテーマにした『丘の上の都市(A City Upon a Hill英語)』に出演した。
2011年5月時点で、同社には約5人の従業員がいた。2010年にはギングリッチに240.00 万 USD以上を支払っていた。
4.2.3. ギングリッチ・コミュニケーションズ
ギングリッチ・コミュニケーションズは、ギングリッチの公開出演、フォックスニュースとの契約、そして彼のウェブサイトnewt.orgの宣伝を担当していた。2011年までに、ギングリッチは1回の講演で6.00 万 USDもの報酬を受け取り、年間80回もの講演を行った。ギングリッチの非営利団体の一つであるアメリカン・リーダーシップの再生は、2009年3月に設立されたが、2年間でギングリッチ・コミュニケーションズに22.00 万 USDを支払った。この慈善団体は、寄付者の名前をギングリッチと共有しており、ギングリッチはそれを自身の営利企業に利用することができた。ギングリッチ・コミュニケーションズは、最大で15人を雇用していたが、ギングリッチが大統領選挙運動を開始した2011年に閉鎖された。
4.2.4. その他の事業
- セレブリティ・リーダーズ(Celebrity Leaders英語)は、ギングリッチの講演依頼だけでなく、元共和党全国委員会議長のマイケル・スティールや元ペンシルベニア州上院議員リック・サントラムなどのクライアントも担当するブッキングエージェンシーである。このエージェンシーは、ギングリッチの娘であるキャシー・ラバーズが社長兼CEOを務めている。ギングリッチはこのエージェンシーの株式を保有しており、2010年には7.00 万 USD以上を支払われた。
- FGH出版(FGH Publications英語)は、ギングリッチが共同執筆したフィクション小説の制作と印税を扱っている。
4.3. メディア活動とコメンテーター
ギングリッチは、下院議長退任後もメディアを通じて積極的に意見表明を行った。彼はフォックスニュースチャンネルのコメンテーターとして頻繁に出演し、自身のウェブサイトnewt.orgを通じて情報発信を行った。また、自身の制作会社ギングリッチ・プロダクションズを通じて、歴史や公共政策に関するドキュメンタリーを制作し、テレビやラジオにも出演した。
4.4. 諮問およびその他の役割
ギングリッチは、政府機関や非営利団体において、様々な諮問や役割を遂行してきた。彼はアメリカ空軍の航空大学で教鞭を執り、国防大学の名誉客員学者および教授を務めるなど、国防・安全保障分野での専門知識を提供した。また、国連改革のためのタスクフォースの共同議長を務めるなど、国際問題にも関与した。
5. 大統領選挙出馬と政治活動
ギングリッチは、下院議長退任後も政治活動に積極的に関与し、2012年には大統領選挙に出馬した。彼の選挙運動は、当初の勢いから失速し、最終的には撤退を余儀なくされた。その後も、ドナルド・トランプ政権との関係を通じて、アメリカ政治に影響を与え続けた。
5.1. 2012年大統領選挙
2005年から2007年の間、ギングリッチは2008年の共和党大統領候補指名争いへの出馬に関心を示した。2005年10月13日、ギングリッチは「私が立候補する状況がある」と示唆し、他の候補者が彼が提唱する政策アイデアを支持しない場合にその状況が生まれると詳しく述べた。2007年9月28日、ギングリッチは、支持者が10月21日までに彼のキャンペーンに3000.00 万 USDを誓約すれば、指名を求めると発表した。
しかし、彼は「かなり強く」出馬を検討したと主張しながらも、9月29日には広報担当のリック・タイラーが、ギングリッチは2008年の大統領選には出馬しないと述べた。その理由として、出馬すればマケイン=ファインゴールド法の選挙資金法規制により、彼がアメリカン・ソリューションズの政治団体を離れざるを得なくなるためだと述べた。ギングリッチは、「キャンペーンが現実的かどうかを検討するためであっても、アメリカン・ソリューションズを放棄する準備はできていなかった」と語った。
2009年のニューヨーク州第23選挙区特別選挙では、ギングリッチは、全国的に著名な共和党員数名が支持していた保守党候補のダグ・ホフマンではなく、中道共和党候補のデデ・スコザファヴァを支持した。この支持は保守派から厳しく批判され、2012年の大統領選への彼の立候補について疑問を呈し、彼をベネディクト・アーノルドと比較する者さえいた。

2008年後半には、『アトランティック』誌のマーク・アンバインダーや『ワシントン・ポスト』紙のロバート・ノヴァクなど、数人の政治コメンテーターが、ギングリッチを2012年の大統領選挙の有力候補として挙げ、アンバインダーはギングリッチが「すでにアイオワ州、ニューハンプシャー州で種をまいている」と報じた。2010年7月にパブリック・ポリシー・ポーリングが実施した世論調査では、ギングリッチが共和党候補指名争いの有力候補であり、共和党の有権者の23%が彼に投票すると答えた。
2009年3月の『オン・ザ・レコード・ウィズ・グレタ・ヴァン・サステレン』出演時、ギングリッチは候補者としての自身の見解について次のように述べた。「多くの共和党員が、この国がイヤーマークにうんざりしていることを理解していないのは非常に悲しい。アメリカ人は政治家が自分たちのことばかり考えていることにうんざりしている。彼らは自分たちのお金がまったく弁護できない方法で使われていることにうんざりしている...アメリカの納税者はますますうんざりしているので、現職議員が対立候補を持つ数が増えるだろう。」
2011年3月3日、ギングリッチは正式な予備委員会に代わり、潜在的な大統領選出馬を探るためのウェブサイト「ニュート探査2012(Newt Exploratory 2012英語)」を発表した。2011年5月11日、ギングリッチは2012年の共和党候補指名を目指す意向を正式に発表した。
2011年6月9日、ギングリッチの選挙運動の上級補佐官グループが大量に辞任し、彼の大統領選出馬の実現可能性に疑問が生じた。2011年6月21日には、さらに2人の上級補佐官が辞任した。これに対し、ギングリッチは共和党候補指名争いから撤退していないと述べ、議会で議席を獲得するために5年間、下院で共和党多数派を築くために16年間、ジョージア州で共和党多数派を築くために数十年を費やした自身の経験を指摘した。一部のコメンテーターは、彼のキャリア全体、特に大統領選挙運動におけるギングリッチの回復力に注目した。
当時有力候補だったハーマン・ケインが過去のセクシャルハラスメント疑惑によって打撃を受けた後、ギングリッチは支持を集め、特にケインが選挙運動を中断した後、すぐに選挙戦の有力候補となった。2011年12月4日までに、ギングリッチは全国世論調査でリードしていた。しかし、12月を通して対立候補が大量のネガティブ広告を流した後、ギングリッチの全国世論調査でのリードはミット・ロムニーとの同率にまで落ち込んだ。
2012年1月3日、ギングリッチはアイオワ州共和党党員集会で4位に終わり、リック・サントラム、ロムニー、ロン・ポールに大きく差をつけられた。1月10日、ギングリッチはニューハンプシャー州共和党予備選挙で5位に終わり、ロムニー、サントラム、ジョン・ハンツマン、ポールに大きく差をつけられた。
ハンツマンとリック・ペリーが選挙戦から撤退し、候補者が絞られた後、ギングリッチは1月21日のサウスカロライナ州共和党予備選挙で約40%の票を獲得して勝利し、ロムニー、サントラム、ポールを大きく引き離した。この驚きの勝利により、ギングリッチは再びフロリダ州に向けて有力候補として浮上した。
2012年1月31日、ギングリッチはフロリダ州共和党予備選挙で2位となり、47%対32%の15ポイント差で敗れた。この結果に貢献した要因としては、ロムニーによる2回の強力な討論会でのパフォーマンス(通常はギングリッチの得意分野であった)、ギングリッチ陣営がテレビ広告で大きく資金を使い果たしたこと、そしてアメリカの宇宙計画を再活性化するために2020年までに月面に恒久的な植民地を建設するというギングリッチの広く批判された提案などが挙げられる。ロムニーはフロリダでの討論会でより良いパフォーマンスをするために討論コーチを雇っていたことが後に明らかになった。
しかし、ギングリッチはサントラムとポールを大きく上回る票を獲得した。2012年2月4日、ギングリッチはネバダ州共和党党員集会で21%の得票率で大きく2位となり、総投票数の50%以上を獲得したロムニーに敗れた。
2012年2月7日、ギングリッチはミネソタ州共和党党員集会で約10.7%の得票率で最下位に終わった。サントラムが党員集会で勝利し、ポールとロムニーが続いた。
スーパー・チューズデーでは、ギングリッチは最も多くの代議員を持つ故郷のジョージア州で勝利したが、「それ以外は彼にとって悲惨な夜」であった。サントラムはテネシー州とオクラホマ州を制したが、ギングリッチは以前の世論調査で好調であったにもかかわらず、ロムニーに僅差で3位に終わった。
4月4日、リック・サントラム陣営は方針を変更し、ギングリッチに選挙戦から撤退し、サントラムを支持するよう促した。
4月10日、サントラムは選挙運動の中断を発表した。この発表後、ニュート2012キャンペーンは「最後の保守派が残った(the last conservative standing英語)」という新しいスローガンを使用した。それにもかかわらず、4月19日、ギングリッチはニューヨークの共和党員に対し、ロムニーが指名を確保すれば本選挙でロムニーを支援するために活動すると述べた。
4月24日のデラウェア州予備選挙で期待外れの2位に終わり、400.00 万 USDを超える選挙資金の負債を抱えたため、ギングリッチは2012年5月2日に選挙運動を中断し、有力候補のミット・ロムニーを支持した。その後、彼はロムニーのために選挙運動(演説やテレビ出演など)を行った。
ギングリッチはその後、2012年共和党全国大会で共和党全国委員会が主催する「ニュート大学(Newt University英語)」と題されたいくつかの政策ワークショップを主催した。彼と妻のキャリスタは、ロナルド・レーガンをテーマにした紹介とともに、大会最終日に演説を行った。
連邦選挙委員会の規制により、選挙運動は負債を清算するまで活動を停止できないため、ニュート・ギングリッチの選挙運動は正式には解散されなかった。2016年、選挙運動は114の企業やコンサルタントへの未払い債務を清算せずに閉鎖する提案を提出したが、連邦選挙委員会はこの提案を却下した。当時、選挙運動はまだ460.00 万 USDの債務を抱えており、前年に選挙委員会が調達した資金はわずか1.70 万 USDであった。
5.2. ドナルド・トランプ政権との関係
ギングリッチは、他の多くの共和党主流派よりも早くドナルド・トランプを支持した。2016年のトランプ陣営のコンサルタントを務めた後、ギングリッチは、すでに共和党の大統領候補指名が確実となっていたトランプの背後に結束するよう、他の共和党員を奨励した。ギングリッチは、トランプが2016年の大統領選挙で副大統領候補として選んだ最終候補3人のうちの1人であったと報じられているが、最終的にマイク・ペンスがその座を得た。

トランプが大統領選挙で勝利した後、ギングリッチが国務長官、首席補佐官、または顧問になる可能性について憶測が飛び交った。最終的に、ギングリッチは閣僚として務めないことを発表した。彼はトランプ政権に関連するいかなる役割も務めることに関心がないと述べ、民間人として「職探し」ではなく「戦略的計画」のために個人と関わることを強調した。
2017年5月、彼は、ヒラリー・クリントンと民主党が2016年の大統領選挙中に民主党全国委員会の職員であったセス・リッチを殺害したという陰謀論を広めた。
ギングリッチは2017年10月にホワイトハウスで行われた妻の駐バチカン米国大使就任宣誓式に出席した。ジャーナリストのロバート・ミッケンズによると、ニュート・ギングリッチは事実上の大使、または「影の大使」として務め、キャリスタ・ギングリッチは『アトランティック』誌のマッケイ・コピンズが paraphrased したように、「一般的に大使館の儀式的な顔と見なされている」という。
2020年の選挙で票が数えられている間、ギングリッチは再選を目指すトランプ大統領を支持し、根拠のない不正疑惑が浮上した後、開票作業を停止するよう求めた。2020年の選挙後、ギングリッチは不正選挙の根拠のない主張を行い、ジョー・バイデンの勝利を認めようとしなかった。彼は選挙後、ペンシルベニア州の開票作業員の逮捕を要求した。
5.3. その他の政治活動
2021年1月、ドナルド・トランプ大統領が退任する前に、トランプはギングリッチを国防総省の国防政策諮問委員会に任命した。これは、著名なトランプ支持者が元メンバーに代わって任命される一連の刷新の一環であった。2021年2月、バイデンが任命したロイド・オースティン国防長官は、ギングリッチを含むトランプが行った委員会へのすべての任命を解任した。
2022年1月、ギングリッチはフォックスニュースの司会者マリア・バーティロモに対し、1月6日の議事堂襲撃事件を調査する下院特別委員会のメンバーは、共和党が議会を掌握した後、投獄される現実的なリスクに直面していると述べた。彼は彼らがどの法律を破ったかを説明することなく、彼らが法律を破っていると非難し、これはCNNなどによって脅迫と解釈された。
2022年7月、彼はアメリカ・ファースト政策研究所の会議に登場し、「2024年の共和党大統領候補のためのトランプに触発された綱領」を推進した。2022年8月時点で、ギングリッチはケビン・マッカーシーと下院共和党員に2022年の中間選挙に向けて助言していたとジャーナリストのダナ・ミルバンクは報じている。
6. 政治的立場とイデオロギー
ギングリッチの政治的立場とイデオロギーは、保守主義を基盤としつつも、その強硬な手法と論争的な発言によって、アメリカ政治に深い分極化をもたらしたと評価されている。
6.1. 主要な政策と信条
ギングリッチは、1994年の「アメリカとの契約」と最も広く関連付けられている。彼はアメリカン・ソリューションズ・フォー・ウィニング・ザ・フューチャーの創設者である。近年、ギングリッチは環境保護庁を提案されている「環境ソリューション庁(Environmental Solutions Agency英語)」に置き換えることを提唱している。
彼は移民国境政策と外国人労働者プログラムを支持している。エネルギー政策に関しては、米国で販売される自動車に対するフレックス燃料義務化を主張し、一般的にエタノールの使用を推進している。2021年8月には、フォックスニュースのインタビューで大いなる交代論を繰り返し述べたとされる。
ギングリッチは多国間主義と国際連合に対して懐疑的な見方をしている。彼は2015年に、「数年間国連を見てきた結果、それは十分に腐敗しており、十分に非効率であり、いかなる理性的判断力を持つ人間もそれに信頼を置くことはない」と述べた。
2007年、ギングリッチは『アメリカにおける神の再発見(Rediscovering God in America英語)』という本を執筆した。
ギングリッチの後期の著書は、『未来を勝ち取る(Winning the Future英語)』や最新作の『アメリカを救うために(To Save America英語)』など、大規模な政策に焦点を当てている。ギングリッチは教育を「我々の将来の繁栄における最大の要因」と位置づけ、アル・シャープトンや教育長官アーネ・ダンカンと教育問題で連携している。彼はかつて同性結婚に反対していたが、2012年12月には共和党がその反対を再考すべきだと示唆した。
2014年、ギングリッチはナショナル・ポピュラー・ボート・インクのジョン・コザ博士に書簡を送り、全国一般投票州際盟約を支持した。この盟約の下では、参加州は選挙人団の票を、米国全体の一般投票の勝者に与えることになる。
2016年7月14日、ギングリッチは、シャリーア法を信じるイスラム教徒系アメリカ人は強制送還されるべきだと述べ、ISILやアルカーイダを宣伝するウェブサイトを訪問することは重罪となるべきだと主張した。一部の観察者は、これらの見解が合衆国憲法修正第1条の言論の自由と信教の自由の条項に違反するかどうか疑問を呈した。
2016年7月21日、ギングリッチはNATO加盟国は米国の防衛へのコミットメントについて「心配すべきだ」と主張した。彼はさらに、「いかなる状況下でのコミットメントについても心配すべきだ。すべての(米国)大統領は、NATO加盟国が公平な負担をしていないと述べてきた」と述べた。また、ロシアがエストニア(NATO加盟国)を侵攻した場合に米国が援助を提供するかどうかについて、「大いに考えるだろう」と述べた。
『サイエンス』誌によると、ギングリッチは気候変動に対する見方を「1980年代後半の慎重な懐疑論者から、2000年代後半の信奉者、そして(2016年の)選挙運動中の再び懐疑論者」へと変化させた。
2022年1月、ギングリッチは1月6日の議事堂襲撃事件を調査する下院特別委員会を「基本的にリンチ集団」と特徴づけ、法律を違反し、市民的自由を踏みにじっていると述べた。彼は、共和党がその年の選挙で下院を掌握すれば、委員会のメンバーが投獄される可能性があると示唆した。
6.2. 政治的影響力と論争
ギングリッチの政治的キャリアは、その影響力の大きさとともに、数々の論争と批判に彩られてきた。彼のリーダーシップは、アメリカ政治の分極化を加速させ、民主主義的規範に深刻な影響を与えたと広く認識されている。
メリーランド大学の政治学者リリアナ・メイソンは、ギングリッチが共和党員に対し、民主党員について「裏切り(betray英語)、奇妙な(bizarre英語)、腐敗(decay英語)、破壊(destroy英語)、貪欲(greed英語)、嘘(lie英語)、哀れな(pathetic英語)、急進的な(radical英語)、利己的な(selfish英語)、恥(shame英語)、病的な(sick英語)、盗む(steal英語)、裏切り者(traitors英語)」といった言葉を使うよう指示したことを、社会規範の侵害と党派的偏見の悪化の例として挙げた。ギングリッチは、コルゲート大学の政治学者サム・ローゼンフェルドによるアメリカ政治システムの分極化と膠着状態への移行に関する2017年の著書『分極化する人々(The Polarizers英語)』の主要人物である。ローゼンフェルドはギングリッチを次のように描写している。「ギングリッチにとって、責任ある党の原則は最重要であった...当初から、彼は議会の少数党の役割を議会制度に見られるものと同様の観点から見ており、統治における多数党のジュニア参加者として関与することよりも、明確なプログラム上の対比を描くことを優先していた。」
ボストンカレッジの政治学者デイビッド・ホプキンスは、ギングリッチがアメリカ政治を国家化するのに貢献し、州や地方レベルの民主党政治家がますます全国の民主党やクリントン大統領と結びつけられるようになったと書いている。ホプキンスは、ギングリッチの見解が「二大政党制における政党は、イデオロギーの中心に近づくにつれて選挙での成功を増すという、政治の常識と真っ向から矛盾していた」と指摘している。しかし、ギングリッチとその同盟者は、議会内の政党間のイデオロギー的対比を強める組織的な努力が、共和党が南部で選挙上の進出を果たすことを可能にすると信じていた。この見解は、時に「ギングリッチ革命」と呼ばれる1994年の米国中間選挙での共和党の成功によって正当化された。ホプキンスは、「ギングリッチは、それ以前もそれ以後も、どの議長よりも、自身の党の戦略的立案者であり、公的な顔であった」と書いている。政治の国家化の増大の結果の一つは、青い州の中道共和党現職議員が選挙で敗北する可能性が高まったことであった。
テキサス大学の政治学者ショーン・M・テリアルトによると、ギングリッチは他の共和党議員、特に彼とともに下院で務めた議員に深い影響を与え、彼らが彼の妨害的な戦術を採用するようになったという。テリアルトとデューク大学の政治学者デイビッド・W・ロードによる『ジャーナル・オブ・ポリティクス』の2011年の研究では、「1970年代初頭以来の上院における党派的分極化のほぼ全体が、1978年以降に下院で務めた共和党上院議員によって説明できる」ことが判明した。
ギングリッチは議長室の権力を強化した。彼は、若手でよりイデオロギー的に極端な下院議員を、歳出委員会などの強力な委員会に昇格させ、それが時間の経過とともに委員会内の内部規範の消滅につながった。委員会委員長の任期制限も課され、共和党の委員長が共和党とは別の権力基盤を築くことを妨げた。その結果、ギングリッチの権力が強化され、共和党議員の間で同調性が高まった。
1995年から1996年の政府閉鎖の際、ギングリッチはイツハク・ラビンの葬儀のためにイスラエルへのエアフォースワンでの往復のフライト中にビル・クリントン大統領から無視されたと主張し、この個人的な不満が政府閉鎖の原因であるかのように示唆した。この発言は広く嘲笑され、彼が癇癪を起こした赤ん坊として描かれた風刺漫画が広く共有された。この出来事により、彼の公衆イメージは大きく損なわれた。
ギングリッチは、政治目的で運営されていた大学の授業に対して免税資格を主張したとして、倫理規定違反で下院から懲戒処分を受け、調査費用の一部として30.00 万 USDの返済を命じられた。これは議長が倫理規定違反で処分された初めての事例であった。下院倫理委員会は、彼に代わって調査官に提供された不正確な情報が「意図的または...無謀な」無視を表していると結論付け、特別顧問は彼が税法に違反し、委員会に虚偽の証言をしたと結論付けた。
彼は最初の結婚中に不倫関係にあり、特にクリントン大統領の不倫関連の偽証罪に対する弾劾を主導していた最中にも、20歳以上年下のスタッフと不倫関係にあったことを後に認めた。最初の離婚後、彼の元妻は、ギングリッチが家族を適切に養う義務を怠ったとして裁判所に訴状を提出した。また、彼は元妻について「彼女は大統領の妻になるには若すぎず、美しくない。それに、彼女は癌を患っている」と発言したとされるが、彼はこれを否定している。
1998年の選挙で共和党が議席を失った後、ギングリッチは議長職を辞任する際、他の共和党員を「人食い人種」と呼んだ。この辞任について、『ニューヨーク・タイムズ』は彼を「権力を掌握する方法の専門家だが、それを維持することには未熟」と評し、「急進的で分極化を招く人物が指導者として長く続くことの難しさ」を示していると論じた。
2017年5月、彼はヒラリー・クリントンと民主党がセス・リッチを殺害したという陰謀論を広めた。2020年の大統領選挙後には、ドナルド・トランプの不正選挙の主張を支持し、ジョー・バイデンの勝利を認めようとせず、ペンシルベニア州の開票作業員の逮捕を要求するなど、根拠のない主張を繰り返した。2022年1月には、1月6日の議事堂襲撃事件を調査する下院特別委員会のメンバーが投獄されるリスクに直面していると述べ、彼らが法律を破っていると非難した。
2016年7月、ギングリッチは、シャリーア法を信じるイスラム教徒系アメリカ人は強制送還されるべきであり、ISILやアルカーイダを宣伝するウェブサイトを訪問することは重罪となるべきだと主張し、その見解は合衆国憲法修正第1条の言論の自由と信教の自由の条項に違反する可能性が指摘された。また、彼はNATO加盟国は米国の防衛へのコミットメントについて「心配すべきだ」と述べ、彼らが公平な負担をしていないと批判した。
Category:アメリカ合衆国の政治家
Category:アメリカ合衆国の作家
Category:アメリカ合衆国の歴史家
Category:アメリカ合衆国下院議長
Category:共和党 (アメリカ合衆国)の政治家
Category:エモリー大学出身の人物
Category:テュレーン大学出身の人物
Category:ペンシルベニア州ハリスバーグ出身の人物
Category:1943年生
Category:存命人物