1. 生い立ちと学歴
野村謙二郎は、大分県佐伯市で生まれ、幼少期から野球に親しんだ。小学校から高校まで投手としてプレーし、少年時代から右本格派としてストレート、カーブ、スライダーを武器にしていたと語っている。しかし、後年のインタビューでは、野球を始めてからずっとショート(遊撃手)だったと語るなど、情報に差異が見られる。伯父には元広島東洋カープのプロ野球選手である八木孝がおり、その影響で小学校時代から毎年広島のキャンプを見学していた。周囲からは常に高い目標を持つよう促され、練習に励んだ。
1.1. 幼少期と学生時代
大分県立佐伯鶴城高等学校に進学すると、俊足を生かすために右打ちから両打ちに転向した。高校3年間で春・夏の全国大会には出場できなかった。駒澤大学に進学後、当時の監督太田誠にセンスを見込まれて打者に転向し、外野手となる。1年生からリーグ戦に起用され、2年生の春季リーグからは中堅手のレギュラーに定着。同年の秋季リーグで初めて中堅手としてベストナインに選出された。3年生の春季リーグ戦では、大石大二郎(亜細亜大学)の記録を塗り替えるシーズン18盗塁を達成し、2季連続でベストナインに選出された。この頃からプロ入りを意識し始め、日米大学野球とアジア野球選手権大会で日本代表に選ばれている。秋季リーグ戦では二塁手にも挑戦し、二塁手としてもベストナインに選ばれた。
1.2. 大学時代とオリンピック出場
4年生時には主将を務め、再び日米大学野球日本代表に選出された。春季リーグ戦では22年ぶりに東都大学野球リーグ通算盗塁記録を更新する52個目の盗塁を決め、駒澤大学の完全優勝の原動力となり、満票で最高殊勲選手とベストナインに選ばれた。大学での通算成績は、89試合出場、325打数103安打、打率.317、10本塁打、48打点、52盗塁。ベストナインには4回選出されている。
また、4年生時には大韓民国で開催された1988年ソウルオリンピックで野球日本代表に選出された。大森剛(慶應義塾大学)や同期の笘篠賢治(中央大学)ら3人の大学生選出選手の一人として出場。レギュラーには好選手が揃っていたため、主に代打で起用され、決勝戦を含む3試合で9打数2安打の成績を残した。決勝の対アメリカ合衆国戦では途中代打出場し、右打者としてライト前ヒットを放ったが、一打逆転の場面でジム・アボット投手に抑えられた。この大会で日本は銀メダルを獲得した。
大学野球界屈指の野手として高い評価を得て、「石毛宏典2世」とも呼ばれ、1988年のドラフト会議では複数球団からの指名が予想されていた。結果的に広島東洋カープから単独1位指名を受け、プロ入りを果たした。広島は同郷の川崎憲次郎も1位候補として検討していたが、スカウト陣の強い推薦により野村を指名した。担当スカウトは渡辺秀武で、契約金6000.00 万 JPY、年俸600.00 万 JPYで入団契約を結び、背番号は「7」に決まった。
2. プロ野球選手としての経歴
野村謙二郎は、1989年から2005年まで広島東洋カープ一筋でプレーし、そのキャリアを通じて球界を代表する内野手として活躍した。
2.1. ドラフト指名とデビュー
1989年4月9日の対阪神タイガース戦(広島市民球場)で、ロッド・アレンの代走として一軍初出場。同年5月4日の対ヤクルトスワローズ戦では、6回裏に中本茂樹から一軍初安打となる中前適時打を放ち、初打点も記録した。この年は大学時代に経験のある左翼手としてプレーした。最優秀新人賞は、同期でオリンピック以来の友人である笘篠賢治に譲った。
2.2. 主な実績と記録
野村はプロ入り後、数々のタイトルや記録を達成し、広島東洋カープの主力選手として活躍した。
2.2.1. タイトルと受賞歴
1990年からは、前年オフにロッテオリオンズへ移籍した高橋慶彦に代わって、遊撃手のレギュラーに定着。同年は33盗塁を記録し、自身初のタイトルとなる盗塁王を獲得した。
1991年は全試合出場を果たし、31盗塁で2年連続の盗塁王を獲得。170安打を放って最多安打を獲得し、リーグ4位の打率.324を記録した。自身初となるベストナインにも選ばれ、チームのリーグ優勝に大きく貢献した。
1994年には2度目の最多安打(この年から正式タイトル)と3度目の盗塁王を獲得。
1995年には打率.315、32本塁打、30盗塁を記録し、史上6人目となるトリプルスリーを達成。守備面でも高い評価を受け、自身初のゴールデングラブ賞を受賞した。
その他の受賞歴として、日本シリーズ優秀選手賞(1991年)、月間MVP(1993年4月、1995年5月)、優秀JCB・MEP賞(1994年、1995年)、JA全農Go・Go賞(好走塁賞:2004年4月)、IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞(1995年)、セントラル・リーグ会長特別表彰(2005年)がある。また、地元大分県佐伯市から佐伯市民栄誉賞(1996年3月15日)、広島県から県民栄誉賞(2005年)が贈られている。
2.2.2. キャリアのマイルストーン
野村はキャリアを通じて数多くの節目の記録を達成した。
- 1995年9月22日、対横浜ベイスターズ戦(横浜スタジアム)で、デニー友利から右越え2点本塁打を放ち、当時歴代9位の857試合目での通算1000安打を達成した。
- 1996年5月28日、対中日ドラゴンズ戦(ナゴヤ球場)で、山本昌から右越えソロ本塁打を放ち、通算100本塁打を達成した。
- 1997年4月16日、対読売ジャイアンツ戦(広島市民球場)で、1番・遊撃手として先発出場し、通算1000試合出場を達成した。
- 1999年5月19日、対阪神タイガース戦(米子市民球場)で、井川慶から左前安打を放ち、当時歴代5位の1289試合目での通算1500安打を達成した。
- 2001年8月26日、対阪神タイガース戦(阪神甲子園球場)で、6番・三塁手として先発出場し、通算1500試合出場を達成した。
- 2001年10月6日、対中日ドラゴンズ戦(広島市民球場)で、小笠原孝から中越えソロ本塁打を放ち、通算150本塁打を達成した。
- 2005年4月1日、対読売ジャイアンツ戦(東京ドーム)で、佐藤宏志から右中間へ二塁打を放ち、通算300二塁打を達成した。
- 2005年6月23日、対ヤクルトスワローズ戦(広島市民球場)の4回裏に川島亮から左前安打を放ち、プロ野球史上33人目、東都大学野球出身選手では史上初となる通算2000安打を達成した。
- 2005年7月1日、対読売ジャイアンツ戦(東京ドーム)で、高橋尚成から二盗を決め、通算250盗塁を達成した。
その他の記録として、シーズン150安打以上を7回(1991年、1992年、1994年 - 1998年)記録し、これは歴代4位タイである。また、5年連続シーズン150安打以上(1994年 - 1998年)は歴代5位タイ。4年連続リーグ最多内野安打(1991年 - 1994年)も記録した。通算初回先頭打者本塁打は21本で歴代10位、通算初回先頭打者初球本塁打は7本で歴代1位の記録を持つ。シーズン初回先頭打者初球本塁打も3本で歴代2位。2試合連続初回先頭打者本塁打(1997年8月21日 - 8月22日)や、日本タイ記録となる1試合3犠飛(1996年6月30日)も記録している。
2.2.3. 通算成績の概要
野村謙二郎のプロ野球選手としての通算打撃成績は以下の通りである。
| 年 | チーム | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 2塁打 | 3塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 盗塁死 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 故意四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 | 長打率 | OPS |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1989 | 広島 | 88 | 164 | 151 | 29 | 39 | 4 | 5 | 0 | 53 | 12 | 21 | 5 | 2 | 1 | 7 | 0 | 3 | 21 | 1 | .258 | .299 | .351 | .650 |
| 1990 | 広島 | 125 | 576 | 519 | 84 | 149 | 28 | 8 | 16 | 241 | 44 | 33 | 23 | 2 | 1 | 45 | 3 | 9 | 83 | 1 | .287 | .352 | .464 | .817 |
| 1991 | 広島 | 132 | 573 | 524 | 75 | 170 | 22 | 7 | 10 | 236 | 66 | 31 | 5 | 5 | 6 | 29 | 0 | 9 | 62 | 7 | .324 | .363 | .450 | .813 |
| 1992 | 広島 | 130 | 611 | 545 | 89 | 157 | 22 | 5 | 14 | 231 | 63 | 21 | 6 | 2 | 3 | 56 | 5 | 5 | 73 | 5 | .288 | .357 | .424 | .781 |
| 1993 | 広島 | 130 | 602 | 556 | 67 | 148 | 21 | 1 | 14 | 213 | 48 | 12 | 9 | 1 | 1 | 39 | 4 | 5 | 83 | 6 | .266 | .319 | .383 | .702 |
| 1994 | 広島 | 130 | 614 | 558 | 77 | 169 | 20 | 4 | 10 | 227 | 61 | 37 | 14 | 4 | 3 | 45 | 5 | 4 | 75 | 7 | .303 | .355 | .407 | .762 |
| 1995 | 広島 | 131 | 611 | 550 | 109 | 173 | 29 | 5 | 32 | 308 | 75 | 30 | 8 | 0 | 2 | 53 | 7 | 6 | 60 | 4 | .315 | .380 | .560 | .940 |
| 1996 | 広島 | 124 | 562 | 514 | 77 | 150 | 30 | 3 | 12 | 222 | 68 | 8 | 7 | 0 | 5 | 38 | 1 | 5 | 63 | 5 | .292 | .343 | .432 | .775 |
| 1997 | 広島 | 131 | 601 | 540 | 81 | 151 | 25 | 0 | 13 | 215 | 52 | 26 | 5 | 0 | 2 | 54 | 3 | 5 | 68 | 10 | .280 | .349 | .398 | .748 |
| 1998 | 広島 | 135 | 607 | 561 | 75 | 158 | 26 | 4 | 14 | 234 | 49 | 15 | 9 | 0 | 2 | 41 | 6 | 3 | 63 | 8 | .282 | .333 | .417 | .750 |
| 1999 | 広島 | 101 | 387 | 350 | 37 | 102 | 20 | 1 | 6 | 142 | 42 | 2 | 4 | 1 | 1 | 33 | 3 | 2 | 34 | 11 | .291 | .354 | .406 | .760 |
| 2000 | 広島 | 61 | 228 | 208 | 15 | 50 | 4 | 1 | 2 | 62 | 17 | 1 | 1 | 0 | 2 | 13 | 1 | 5 | 22 | 6 | .240 | .298 | .298 | .596 |
| 2001 | 広島 | 117 | 435 | 403 | 35 | 110 | 18 | 1 | 9 | 157 | 53 | 7 | 4 | 0 | 1 | 31 | 2 | 0 | 59 | 13 | .273 | .324 | .390 | .714 |
| 2002 | 広島 | 85 | 187 | 175 | 14 | 37 | 4 | 0 | 3 | 50 | 11 | 1 | 1 | 2 | 1 | 9 | 0 | 0 | 33 | 5 | .211 | .246 | .286 | .532 |
| 2003 | 広島 | 94 | 340 | 310 | 25 | 85 | 8 | 0 | 5 | 108 | 32 | 3 | 1 | 1 | 1 | 27 | 1 | 1 | 49 | 10 | .274 | .332 | .348 | .681 |
| 2004 | 広島 | 107 | 392 | 359 | 27 | 97 | 18 | 2 | 5 | 134 | 43 | 1 | 2 | 3 | 3 | 24 | 5 | 3 | 48 | 8 | .270 | .316 | .373 | .690 |
| 2005 | 広島 | 106 | 297 | 272 | 19 | 75 | 14 | 0 | 4 | 101 | 29 | 1 | 0 | 4 | 2 | 18 | 2 | 1 | 42 | 7 | .276 | .316 | .371 | .688 |
| 通算:17年 | 1927 | 7787 | 7095 | 935 | 2020 | 313 | 47 | 169 | 2934 | 765 | 250 | 104 | 27 | 37 | 562 | 48 | 66 | 938 | 114 | .285 | .340 | .414 | .754 | |
- 各年度の太字はリーグ最高
2.3. 選手としての特徴
野村謙二郎は、打撃、走塁、守備の三拍子揃った選手として知られ、特に現役時代前半は広島のリードオフマンとしてチームを牽引した。
2.3.1. 打撃
野村は、最多安打3回、最多得点2回、トリプルスリー、通算2000安打を達成するなど、強打の遊撃手として活躍した。公称176センチメートル、75 kgと体格に恵まれていたわけではなかったが、地道なトレーニングによる筋力強化でトリプルスリーを達成した際には高く評価された。プロで実働10年間だった遊撃手での通算打率.293は、1,000打席以上ではセントラル・リーグ最高記録(2004年当時)である。思い切りの良い打撃が持ち味で、1番打者として起用されても初球から積極的にストライクを打ちに行った。
深夜のメジャーリーグテレビ中継を欠かさず見るほどの「メジャーリーグ・フリーク」であり、ダイナミックなプレーを意識し、三塁打でのクロスプレーにはこだわりがあった。高校入学と同時に両打ちに転向したが、プロ入り後は左打ちに絞っている。バットはミズノテクニクスの名和民夫の作品を使用していた。
2.3.2. 走塁
野村は俊足を誇る選手として名を馳せた。大学時代は東都大学野球リーグでの最多盗塁記録を残し、4年生の春には完全盗塁を達成するなど、プロ入り前から走塁技術が高かった。4年生時にはベース1周で13秒8の好タイムを記録している。プロ入り後も、1989年4月12日に初盗塁を記録し、5月末までに盗塁企図10に対して成功8と早くから技術が通用した。プロでも通算3回の盗塁王を獲得している。入団から10年間で234盗塁、42三塁打を記録したが、現役時代後半は度重なる脚の故障により走力が落ち、代走を送られるケースが増えた。
2.3.3. 守備
野村は小学校から高校までは投手だったが、大学で外野手となり、プロ入り2年目から内野手となった。プレーでは思いやりを重視し、プロ入り1年目には正田耕三との連係プレーを徹底的に練習した。打球が飛んでくる回数や併殺、中継に絡む機会が多いため、打者が打つ瞬間以外は常に360度全方向に注意を払っていた。
広島がかつて本拠地としていた広島市民球場は土のグラウンドだったため、イレギュラーバウンドが多く、平常心を保ち、腰を落としてしっかり捕球することを心がけた。自身の肩が強くないと考えてスローイングを課題に挙げ、ダッシュなどでカバーすることを意識していたという。必ずしも守備の名手という印象を持たれていないが、1990年代前半にはレンジファクターでリーグトップの数値を複数年にわたって記録(1992年、1994年、1995年)するなど、打球をアウトにする能力は高かった。
グラブについてはプロ入り2年目から同じグラブを7年間も使うほど強いこだわりを持ち、同じタイプのグラブを使った後輩には井生崇光や甲斐雅人、石橋尚登などがいる。この野村のグラブをベースにしたグラブを江藤智と東出輝裕が使用し、木村拓也も野村のグラブを参考にしていた。
2.4. 怪我と逆境
野村の選手キャリアは、度重なる怪我との戦いでもあった。
1996年7月6日の対ヤクルト戦で二盗を試みた際に左足首を負傷し、担架で運ばれて退場。翌日から3試合を欠場した。歩行にも支障を来たす骨折が疑われたが、球団からは捻挫と発表され、痛み止めの薬を飲みながら出場を続けた。監督の三村敏之は休養を考えたが、控えの遊撃手がいないことと、野村本人が出場を直訴したことで出場を続けさせた。しかし、左足首を庇ったことで負担がかかり、両足の太腿やふくらはぎにも痛みが広がり、9月に入ると全力疾走できない状態になった。この負傷が、チーム成績の急激な悪化と巨人のメイクドラマを許す原因になったとも言われている。
1999年には股関節を痛めたことが原因で5月から欠場が多くなり、レギュラーシーズン中盤には三塁手や二塁手としての先発出場が増えた。8月からは遊撃手に戻ったものの、これ以降、度重なる怪我に泣くこととなる。
2000年4月8日の対阪神戦で一塁まで走った際に左足膝裏の肉離れ(実際には筋断裂)を起こし、全治3週間と診断された。5月3日には一軍に復帰したものの、症状が酷く、7月24日の精密検査で左足の筋力が右足の筋力の約半分まで落ちていることが分かり、自身初の出場登録抹消を受けて後半戦は欠場した。8月には同じく故障した前田智徳や緒方孝市と一緒に戦列を離れ、アメリカ合衆国のピッツバーグにわたってリハビリテーションに専念した。この年はプロ入り後最低の打率.240、2本塁打、1盗塁に終わった。
2002年4月末には右太腿を痛めて約1か月間の二軍生活が続き、後半は代打や守備固めで主に起用され、出場試合数が100試合を切ると同時に打率も.211と低迷した。
2003年3月29日の対ヤクルト戦で守備の際に左内腹斜筋に全治3週間の挫傷を負い、4月2日に出場選手登録を抹消された。シーズン終盤には右太腿痛もあって、戦列を離れることが長くなり、オフには野球協約の上限を上回る33%減の1.00 億 JPYで契約を更改した。
2004年も、1月に黒田博樹と一緒にアメリカ合衆国のアリゾナで自主トレーニングを行い、怪我の防止のためのインナーマッスル強化や股関節の柔軟性向上などに取り組んだが、6月19日の対ヤクルト戦で三塁ゴロを処理した際に右膝を痛めて出場選手登録を抹消されるなど、この年も怪我に泣かされた。
2.5. 引退

2005年は、年齢的な衰えと守備の負担軽減のために一塁手にも挑戦し始め、開幕前のキャンプの紅白試合では捕手も務めた。この年の1月から、通算2000安打達成に向けて周囲の期待が高まっていた。5月には故郷の大分県佐伯市内の6ヶ所にカウントダウンボードが設置され、6月に入ると、広島ガスのインフォメーションプラザで入団からの軌跡を辿る写真展が開催された。残り4本で迎えた6月21日からの地元6連戦では、大分県佐伯市の某公園で250インチの野外スクリーンにより、パブリックビューイングが行われた。
そして、2005年6月23日の対ヤクルトスワローズ戦(広島市民球場)の4回裏に川島亮から左前安打を放ち、プロ野球史上33人目となる通算2000安打を達成した。これを記念して、広島県から県民栄誉賞が贈られたほか、広島電鉄が記念のパセオカードを発行している。
2000安打達成以降は代打の切り札としての出場が多くなり、9月16日に同年限りでの現役引退を表明した。シーズン最終戦である10月12日の対横浜ベイスターズ戦が引退試合となり、満員の観客に野村の背番号「7」が入ったポスターが配布された。引退試合では1番・遊撃手として先発出場したが、試合の途中からは大学で守った経験がある中堅手に回った。引退セレモニーのスピーチで、「今日集まってる子供たち、野球はいいもんだぞ。野球は楽しいぞ!」という言葉を残した。
なお、球団からはこの背番号「7」を永久欠番とすることを打診されたが、野村自身が断り、背番号「7」にふさわしい選手が現れるまでの永久欠番預かりとなっていた。その結果、2013年から堂林翔太が背番号「7」を引き継ぐことになった。また、球団幹部は2009年の新球場オープンに合わせて、野村を監督として招聘する方針をこの時点で打ち出していた。
3. 監督としての経歴
野村謙二郎は、選手引退後、広島東洋カープの監督としてチームを指揮し、低迷期にあったチームを再建に導いた。
3.1. 監督就任とチーム運営
2010年から、11年連続でBクラスに低迷していた広島の監督に就任した。監督・コーチ歴はなかったが、前任のマーティ・ブラウン監督の年俸(40.00 万 USD)を大きく上回る契約で就任した。就任会見では「優勝を目指します。選手にもそう言う気持ちで、Aクラスを目指すと言うのはやめてもらいます」と話し、広島市内の病院で行われた講演会では「優勝したら『普通のことをやったまでです』と言うつもりです」と宣言した。
前年まで成績が奮わなかった梵英心、廣瀬純、オープン戦で活躍した天谷宗一郎、そして野村自身がアメリカ合衆国でのコーチ研修中に惚れ込み、駐米スカウトの反対を押し切って獲得したジャスティン・ヒューバーを開幕からレギュラーに固定した。梵と廣瀬は自己最高の成績を残したが、天谷と長打力を期待されたヒューバーは結果を残すことができなかった。この年の先発メンバーのパターンは95通りにも上り、レギュラーシーズンを通して打線を固定できなかった。
チーム犠打数は球団史上最多の140個、チーム盗塁数も過去15年間で最多の119個と機動力が改善し、1試合平均得点は5年ぶりに3点台を脱却して4.1点になった。守備面でも前年リーグ最下位の100個だったチーム失策数が同3位の82に改善した。
投手陣ではコルビー・ルイスの退団が前年12月に急遽決まった。開幕前のキャンプからレギュラーシーズン序盤にかけて大竹寛、横山竜士、マイク・シュルツ、永川勝浩などの主力の故障が相次いだ。特に大竹については、故障直後は慎重な調整を行っていたにもかかわらず、復帰を急がせて再故障させるなど、選手の体調管理面での批判が多かった。また、中継ぎ投手の起用法にも疑問が投げかけられた。前田健太はチーム史上初の投手成績で三冠を達成したが、チーム防御率は前年の3.59から5年ぶりに4点台後半(4.80)へ、前田健を除くチーム防御率は5.33となり、過去最大の悪化幅(1.21)を記録した。同様に失点が162増の737、四死球は137増えて524個、被本塁打も54多い171本と、いずれも最大幅の増加を記録し、「球団史上最悪の『投手力の後退』」と評された。
3.2. 指導哲学と戦略
野村は選手時代の経験を生かし、広島伝統の「走る赤ヘル野球」を標榜した。俊足の選手を積極的に上位打線に起用し、チーム盗塁数を大幅に増加させた。また、ブラッド・エルドレッドら外国人選手との積極的なコミュニケーションも高く評価されている。
その一方で、「左右病」と揶揄される、相手投手の利き腕によって打順を大幅に変える采配が指摘されることも多かった。この傾向は、予告先発制度が導入された2012年度以降で顕著である。野村のこの采配は、相手投手との相性や自軍の選手の状態に関係なく積極的に行っていたため、打順が固定できないという批判が目立った。
2022年8月に古田敦也の冠番組『フルタの方程式』で語ったところによると、野村はバント(特に送りバント)が嫌いであるという。初回からバントすることに疑問を感じ、投手心理を考えるとプレイボール直後に先頭打者を出したのに2番打者で1アウトを自ら献上するのは理解できないと述べた。プロ野球のエンターテインメント性を考慮してバントを嫌っているとも語っており、高校時代までバントばかりの非力な打者であったことによるトラウマではないかと指摘されている。ただし、監督時代においては、自軍の先発投手の質次第では先手を取って攻めようと送りバントを行うこともあり、終盤に決勝点を取るためのバントもある程度肯定していた。
3.3. シーズン別成績と主な出来事
野村謙二郎の監督としてのレギュラーシーズン成績は以下の通りである。
| 年齢 | 年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | 本塁打 | 打率 | 防御率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 44歳 | 2010 | 広島 | 5位 | 144 | 58 | 84 | 2 | .408 | 21.5 | 104 | .263 | 4.80 |
| 45歳 | 2011 | 広島 | 5位 | 144 | 60 | 76 | 8 | .441 | 16.0 | 52 | .245 | 3.22 |
| 46歳 | 2012 | 広島 | 4位 | 144 | 61 | 71 | 12 | .462 | 26.5 | 76 | .233 | 2.72 |
| 47歳 | 2013 | 広島 | 3位 | 144 | 69 | 72 | 3 | .489 | 17.0 | 110 | .248 | 3.46 |
| 48歳 | 2014 | 広島 | 3位 | 144 | 74 | 68 | 2 | .521 | 7.5 | 153 | .272 | 3.79 |
| 通算:5年 | 718 | 322 | 371 | 27 | .465 | Aクラス2回、Bクラス3回 | ||||||
- 2011年、出場停止2試合(6月28日と6月29日の対阪神タイガース戦=1勝1敗)は通算成績に含まない。その期間の代理監督は高信二。
ポストシーズン成績は以下の通りである。
| 年度 | 球団 | 大会名 | 対戦相手 | 勝敗 |
|---|---|---|---|---|
| 2013 | 広島 | セントラル・リーグ クライマックスシリーズ 第1ステージ | 阪神タイガース(セントラル・リーグ2位) | 2勝0敗=第2ステージ進出 |
| セントラル・リーグ クライマックスシリーズ 第2ステージ | 読売ジャイアンツ(セントラル・リーグ1位) | 0勝4敗=敗退 (※1) | ||
| 2014 | セントラル・リーグ クライマックスシリーズ 第1ステージ | 阪神タイガース(セントラル・リーグ2位) | 0勝1敗1分=敗退 (※2) |
: ※ 勝敗の太字は勝利したシリーズ
: ※1 第2ステージは相手チームのアドバンテージ1勝を含め、0勝4敗で敗退。
: ※2 第2戦は前年制定された12回表終了時点でのステージ勝者確定による打ち切り規定が初めて適用され、1敗1分で敗退。
2011年は9月上旬までAクラスを争っていたものの、そこから一気に失速し、リーグ成績は前年と同じ5位に終わった。セ・パ交流戦では10連敗を喫し、その間に50イニング連続無得点という交流戦でのワースト記録を樹立した。6月26日の対中日ドラゴンズ戦では3回裏に中村恭平のゴロの判定を巡って、審判への暴力行為で退場処分を受け、翌日、加藤良三コミッショナーより2試合の出場停止処分を受けた。
2012年のレギュラーシーズン前半は、阪神の失速も手伝って1997年以来、15年ぶりの前半Aクラス(3位)で折り返した。しかし、9月に8連敗を含む6勝17敗1分と失速し、ヤクルトとの3位争いから脱落し、最終的なリーグ成績は4位、15年連続のBクラスとなった。
2013年も継続して指揮をとり、4年連続のレギュラーシーズン負け越しとなるも、1997年以来16年ぶりのAクラス(3位)となり、初のクライマックスシリーズ進出を果たした。しかし、ファイナルステージで巨人に敗退し、日本シリーズ出場を逃した。
2014年は2年連続で巨人、阪神との優勝争いとなり、9月26日に広島が対阪神戦(甲子園)に敗れたことで巨人の優勝が決まったが、同時に広島の2年連続クライマックスシリーズ進出が決定。阪神との2位争いとなったが、シーズン最終戦の10月6日の対巨人戦(マツダ)にも敗れ、3位が確定した。この年の勝利数74は球団史上2番目に多い勝利数となった。
3.4. 監督辞任
2014年10月8日、野村は球団に監督辞任を申し入れ、了承された。進出の決まっていたクライマックスシリーズの指揮を執り、監督生活を終えた。背番号は選手時代の「7」に対し、監督としては「77」を使用していた。
4. 引退後の活動
選手引退後、野村謙二郎は野球解説者や評論家として活動した。2006年から2009年まで広島テレビ放送、日本テレビ放送網、スポーツニッポンで野球解説者を務めた。
2007年の開幕前のキャンプでは広島の臨時コーチとして守備・走塁を指導。2008年にはカンザスシティ・ロイヤルズの開幕前のキャンプに臨時コーチとして白井一幸と一緒に招待された。同年の北京オリンピック野球競技では解説者としてジャパンコンソーシアムの中継に参加し、10月には第2回WBCの日本代表監督選定会議に若い世代の代表として出席した。初回の会議の後には、現役監督・コーチ以外から選ばれることになるのではないのか、との見通しを語っていたが、次回会議の結果を受けて、原辰徳が代表監督に選ばれている。
監督辞任後、再び日本テレビ・広島テレビの野球解説者、スポーツニッポンの野球評論家に復帰した。
2015年2月にはボストン・レッドソックスからオファーを受け、春季キャンプの臨時コーチとして就任した。
2017年4月、広島大学大学院教育学研究科の大学院入試(社会人特別選抜)に合格し、2019年3月、同科(博士課程前期)を修了した。
2022年6月には、広島大学スポーツセンターの客員教授に就任している。
著書には単著として『野村の考え。やる気にさせる組織の作り方』(宝島社、2017年)、『変わるしかなかった。』(ベストセラーズ、2015年)がある。共著には山本浩二との『広島カープの血脈』(KADOKAWA、2016年)、大野豊との『広島カープ最強伝説の幕開け』(宝島社新書、2016年)がある。
テレビ番組では進め!スポーツ元気丸(広島テレビ)、DRAMATIC BASEBALL(日本テレビ)、テレビ宣言→旬感★テレビ派ッ!(現・テレビ派、広島テレビ)などに出演。ラジオ番組ではラジオ日本マリーンズナイター、ラジオ日本ジャイアンツナイター、エキサイトベースボール、CBCドラゴンズナイターなどに出演している。また、森林メモリアルヒルズのCMイメージキャラクターも務めた。
5. 人物像と私生活
野村謙二郎の愛称はノムケンである。小学校からプロまで主将を務め、常にチーム全体や他の選手を気にかけていた。1994年からは主将やチームリーダーとしての素質を認められ、フリーエージェント権の取得時には球団も指導者としての期待をかけて、チームの残留を望んだ。
球場外でのトレーニングの時も他の選手に目を配り、若手だった東出輝裕や新井貴浩が不振に苦しんだ時期には励ましを送っていた。新井は野村について「心から頼れて、とても信用できるんです」と語っている。また、金本知憲がトリプルスリーを記録した際には、経験者としてアドバイスを送り、落ち着きを取り戻させた。
外国人選手と定期的に食事会を催し、常に英語でコミュニケーションをとっている。英語は2006年から2008年にカンザスシティ・ロイヤルズで臨時コーチを務めた際、独学で学んだ。「単語だけで文法はむちゃくちゃ。恥ずかしがらない勇気で通じますよ」と語っており、心をオープンにして外国人選手から信頼を集めていた。2014年の本塁打王エルドレッドは「ケニー(野村監督)のアドバイスのおかげ」と野村に感謝している。
姉には元宝塚歌劇団70期生の秋月志保、弟には元社会人野球選手(投手)で日本石油や駒澤大学、環太平洋大学でコーチや監督を務めた野村昭彦がいる。野村昭彦は2019年の日米大学野球選手権大会日本代表コーチも務めた。
広島市出身で幼少時からカープファンであった柳田悠岐(ソフトバンク)も、憧れの選手に野村の名前を挙げている。
実際に現役を引退したのは2005年だが、2年前の2003年に一度現役引退を申し出ていた。しかし、当時監督だった山本浩二に2000安打まで約150本と迫っていたことを理由に引き止められ、2005年に2000安打を達成し、引退した。
サッカー日本代表監督の森保一とは、広島市南区内の同じ団地に住み、自宅は歩いて2分のところにあり、30年来の友人である。
6. 評価と影響力
野村謙二郎は、選手としても監督としても広島東洋カープ、ひいては日本野球界に大きな影響を与えた。選手としては、俊足強打の遊撃手として長きにわたりチームの顔を務め、トリプルスリーや通算2000安打といった輝かしい記録を達成し、多くのファンを魅了した。特に、怪我に苦しみながらも記録を達成し続けた姿勢は、多くの選手やファンに勇気を与えた。
監督としては、低迷期にあった広島カープを2013年に16年ぶりのAクラス入り、そして初のクライマックスシリーズ進出に導き、チームの再建に貢献した。その指導哲学である「走る赤ヘル野球」は、後のカープの躍進の礎を築いたとも評価されている。外国人選手との積極的なコミュニケーションや、若手選手への細やかな気配りは、チーム内の信頼関係を深め、選手個々の成長を促した。
引退後も野球解説者や大学教授として活動し、野球の普及や若手育成にも尽力している。彼の野球に対する情熱と誠実な姿勢は、野球界に多大な遺産を残し続けている。