1. 概要

キューバの元陸上競技選手であるアルベルト・ファントレナは、短距離と中距離の両種目で国際的な名声を確立しました。特に1976年のモントリオールオリンピックでは、男子400メートル競走と800メートル競走の両方で金メダルを獲得するという歴史的な二冠を達成し、スポーツ界にその名を刻みました。彼は、オリンピックの公式大会でこの二冠を達成した唯一の男子選手であり、800mで金メダルを獲得した初の非英語圏の選手でもあります。
この偉業により、ファントレナは1976年と1977年に権威ある「トラック・アンド・フィールド・ニュース年間最優秀選手」に選出され、世界の陸上界における支配的な存在としての地位を確立しました。彼の活躍は、特にカリブ海諸国や発展途上国の選手たちにとって大きな希望と刺激となり、スポーツを通じた国家の誇りの象徴としても高く評価されています。引退後もキューバのスポーツ行政や国際陸上競技組織で要職を務め、スポーツの発展に貢献し続けています。
2. 生い立ちと競技への転向
アルベルト・ファントレナは、キューバのサンティアゴ・デ・クーバで生まれ育ち、幼少期からその非凡な運動能力を発揮していました。当初はバスケットボール選手としての将来を嘱望されていましたが、運命的な出会いを経て陸上競技の世界へと転向し、その才能を開花させます。
2.1. 出生と幼少期
アルベルト・ファントレナ・ダンヘール(Alberto Juantorena Dangerスペイン語)は、1950年12月3日にキューバのサンティアゴ・デ・クーバで生まれました。幼い頃からスポーツに親しみ、14歳の時には身長が188 cmに達し、バスケットボール選手として注目を集めました。彼は国立のバスケットボール学校に送られ、後にキューバのナショナルチームのメンバーにも選ばれるなど、バスケットボールの分野で将来を期待される存在でした。しかし、その一方で、すでに地域高校レベルの800m走と1500m走のチャンピオンでもありました。
2.2. 陸上競技への転向
ファントレナの陸上競技への転向は、ポーランド人陸上コーチであるジグムント・ザビエフスキとの出会いがきっかけでした。ザビエフスキは彼の隠れた陸上競技の才能を見抜き、真剣に陸上を始めるよう説得しました。ファントレナ自身は、自分が「下手な」バスケットボール選手であると感じており、キューバの短距離走選手エンリケ・フィゲロラを自身のアイドルとしていたため、この転向を喜んで受け入れました。わずか1年後には、彼は1972年ミュンヘンオリンピックの400m走に初出場し、準決勝に進出しましたが、決勝進出にはわずか0.05秒届きませんでした。
3. 競技者としての経歴
アルベルト・ファントレナの陸上競技選手としてのキャリアは、数々の国際大会での成功と、怪我との闘いの歴史でもありました。彼は特に1976年のモントリオールオリンピックで、陸上競技の歴史に残る偉業を成し遂げました。
3.1. 初期キャリアと成長
1972年のミュンヘンオリンピックでのデビュー後、ファントレナは国際舞台でその実力を証明し始めます。1973年にはユニバーシアードの400m走で金メダルを獲得し、1973年と1974年には400m走で無敗を誇りました。1974年の中央アメリカ・カリブ海競技大会では400m走と4×400mリレーで金メダルを獲得しています。しかし、1975年には足の手術を2回受け、キャリアの危機に瀕しました。それでも、1975年パンアメリカン競技大会では400m走で銀メダル、4×400mリレーでも銀メダルを獲得し、復調の兆しを見せました。
彼は1976年になって初めて800m走を本格的に始めました。コーチのザビエフスキは、他の選手がペースメーカーを必要としているとファントレナをだまして800m走のレースに出場させたとされています。このため、多くの人々は彼が同年のオリンピックで金メダルを獲得する候補であるとは考えていませんでした。
3.2. 1976年モントリオールオリンピック

1976年のモントリオールオリンピックにおいて、アルベルト・ファントレナは陸上競技史における不滅の金字塔を打ち立てました。男子800m決勝では、大方の予想を覆し、レースの大半をリードして、最終的に1分43秒50という世界記録で優勝を果たしました。この勝利により、彼は800m走でオリンピック金メダルを獲得した初の非英語圏の選手となりました。
さらに3日後には、男子400m決勝にも出場。ここでは、前年度の世界ランキングで2位につけていた実力と、全米予選で本命視されていたアメリカのR・R・レイが落選したことで、ファントレナが優勝候補の筆頭と見なされていました。彼はこの期待に応え、44秒26という低地での世界記録を樹立して優勝しました。
これにより、ファントレナは公式なオリンピック競技大会で、400mと800mの二冠を達成した唯一の男子選手となりました。これは、1906年の中間大会でポール・ピルグリムが同様の二冠を達成して以来の快挙であり、その歴史的意義は計り知れません。モントリオールオリンピックではカリブ海諸国の陸上競技での活躍が目立ちましたが、ファントレナはその象徴的な存在として広く認識されました。
3.3. オリンピック後のキャリア
モントリオールオリンピックでの輝かしい二冠達成後も、ファントレナは競技キャリアを続けましたが、度重なる負傷に悩まされ、モントリオールでのような全盛期のレベルに達することはできませんでした。
1977年には、ソフィアで行われたユニバーシアードで800mの世界記録を1分43秒44に更新しました。同年には、デュッセルドルフで開催されたIAAFワールドカップでも400mと800mの両種目で優勝を飾っています。特に400mのレースでは、彼の「スタートの合図が聞こえなかった」という抗議が認められ、レースが再実施されるという異例の事態となりました。再レースでは、前年のオリンピックをアフリカ諸国のボイコットのために欠場したライバルのマイク・ボイト(ケニア)との壮絶な一騎打ちが繰り広げられました。
この頃から、彼は故郷で「エル・カバジョ(El Caballoスペイン語、スペイン語で『馬』の意)」という愛称で親しまれるようになりました。ファントレナは扁平足として生まれつき足と背中の問題を抱えており、1977年には矯正手術を受けました。1978年には400m走では無敗を維持しましたが、800m走ではキャリア初の敗北を喫しました。
ハムストリングの負傷など、度重なる怪我は彼のトレーニングとレースに支障をきたし、1980年モスクワオリンピックでは400m走で4位に終わり、メダルを惜しくも逃しました。1983年の世界陸上競技選手権大会が彼の主要な国際大会での最後の出場となりましたが、800m走の予選を通過した後、トラックの内側を踏んでしまい、足の骨を折り靭帯を損傷するという不運に見舞われました。彼は1984年ロサンゼルスオリンピックへの出場を目指してトレーニングを再開しましたが、東側諸国によるボイコットにより、オリンピックに出場する最後の機会を失いました。代わりに、彼は公式オリンピックの代替大会として開催されたフレンドシップゲームズに出場し、800m走でリシャルト・オストロフスキと金メダルを分け合いました。
ファントレナは1973年から1982年までの10シーズンにわたり、トラック・アンド・フィールド・ニュースの専門家による世界ランキングで、400mと800mの両種目で世界のトップアスリートとして評価されていました。
年 | 400m | 800m |
---|---|---|
1973 | 3位 | - |
1974 | 1位 | - |
1975 | 4位 | - |
1976 | 1位 | 1位 |
1977 | 1位 | 1位 |
1978 | 1位 | 6位 |
1979 | 5位 | - |
1980 | 10位 | - |
1981 | - | - |
1982 | - | 2位 |
また、彼は以下の国際大会でメダルを獲得しています。
キューバ代表 | |||||
---|---|---|---|---|---|
1972 | オリンピック | 西ドイツ、ミュンヘン | 11位 (sf) | 400m | 46秒07 |
1973 | 中央アメリカ・カリブ選手権 | ベネズエラ、マラカイボ | 1位 | 400m | 46秒4 |
2位 | 4 × 400mリレー | 3分10秒1 | |||
ユニバーシアード | ソビエト連邦、モスクワ | 1位 | 400m | 45秒36 | |
1974 | 中央アメリカ・カリブ海競技大会 | ドミニカ共和国、サントドミンゴ | 1位 | 400m | 45秒52 |
1位 | 4 × 400mリレー | 3分06秒36 | |||
1975 | パンアメリカン競技大会 | メキシコ、メキシコシティ | 2位 | 400m | 44秒80 |
2位 | 4 × 400mリレー | 3分02秒82 | |||
1976 | オリンピック | カナダ、モントリオール | 1位 | 400m | 44秒26 |
1位 | 800m | 1分43秒50 (世界記録) | |||
7位 | 4 × 400mリレー | 3分03秒81 | |||
1977 | 中央アメリカ・カリブ選手権 | メキシコ、ハラパ | 2位 | 400m | 45秒67 |
1位 | 4 × 400mリレー | 3分09秒24 | |||
ユニバーシアード | ブルガリア、ソフィア | 1位 | 800m | 1分43秒44 (世界記録) | |
ワールドカップ | 西ドイツ、デュッセルドルフ | 1位 | 400m | 45秒36 | |
1位 | 800m | 1分44秒04 | |||
3位 | 4 × 400mリレー | 3分02秒77 | |||
1978 | 中央アメリカ・カリブ海競技大会 | コロンビア、メデジン | 1位 | 400m | 44秒27 |
1位 | 800m | 1分47秒23 | |||
3位 | 4 × 400mリレー | 3分05秒57 | |||
1979 | パンアメリカン競技大会 | プエルトリコ、サンフアン | 2位 | 400m | 45秒24 |
2位 | 800m | 1分46秒4 | |||
3位 | 4 × 400mリレー | 3分06秒3 | |||
1980 | オリンピック | ソビエト連邦、モスクワ | 4位 | 400m | 45秒09 |
1981 | 中央アメリカ・カリブ選手権 | ドミニカ共和国、サントドミンゴ | 1位 | 800m | 1分47秒59 |
1982 | 中央アメリカ・カリブ海競技大会 | キューバ、ハバナ | 1位 | 800m | 1分45秒15 |
1位 | 4 × 400mリレー | 3分03秒59 | |||
1983 | 世界選手権 | フィンランド、ヘルシンキ | 28位 (h) | 800m | 1分48秒40 |
1984 | フレンドシップゲームズ | ソビエト連邦、モスクワ | 1位 | 800m | 1分45秒68 |
3位 | 4 × 400mリレー | 3分04秒76 |
彼の自己ベストと年間の世界ランキングは以下の通りです。
年 | 記録 | 世界ランク | 場所 | 日付 |
---|---|---|---|---|
1973 | 45秒36 | 6位 | モスクワ | 8月18日 |
1974 | 44秒7 | 1位 | トリノ | 7月24日 |
1975 | 44秒80 | 2位 | メキシコシティ | 10月18日 |
1976 | 44秒26 (PB) | 1位 | モントリオール | 7月29日 |
1977 | 44秒65 | 1位 | ハバナ | 9月13日 |
1978 | 44秒27 | 1位 | メデジン | 7月16日 |
1979 | 45秒24 | 10位 | サンフアン | 7月12日 |
1980 | 45秒09 | 6位 | モスクワ | 7月30日 |
1982 | 45秒51 | 25位 | コブレンツ | 8月25日 |
年 | 記録 | 世界ランク | 場所 | 日付 |
---|---|---|---|---|
1976 | 1分43秒50 | 1位 | モントリオール | 7月25日 |
1977 | 1分43秒44 (PB) | 1位 | ソフィア | 8月21日 |
1978 | 1分44秒38 | 4位 | ケルン | 6月22日 |
1979 | 1分46秒4 | 24位 | サンフアン | 7月9日 |
1981 | 1分46秒0 | 20位 | ハバナ | 7月4日 |
1982 | 1分45秒15 | 14位 | ハバナ | 8月11日 |
1983 | 1分45秒04 | 18位 | ハバナ | 6月17日 |
1984 | 1分44秒88 | 22位 | フィレンツェ | 6月13日 |
4. 引退後の活動

1984年に競技生活から引退した後も、アルベルト・ファントレナはスポーツ界で多岐にわたる公職を務め、キューバ国内外のスポーツの発展に尽力しました。
彼はキューバの国立スポーツ・体育・レクリエーション研究所の副所長を務めたほか、キューバのスポーツ副大臣にも就任しました。さらに、キューバオリンピック委員会の副会長、後に上級副会長も務めるなど、キューバのスポーツ行政において重要な役割を担いました。国際的な舞台では、国際陸上競技連盟(IAAF、現ワールドアスレティックス)の評議会委員を務め、選手委員会の委員長やグランプリ委員会の委員も歴任し、世界の陸上競技の運営と発展に貢献しました。
5. 私生活
アルベルト・ファントレナの私生活は、彼の家族との関係と、彼の人生を題材にしたドキュメンタリー映画によっても知られています。
彼は1972年に元体操選手であるイリアと最初の結婚をし、二人の子供をもうけました。その後、彼はさらに二度結婚し、現在の妻であるヨランダ(クバーナ航空の従業員)と出会いました。彼には合計で7人の子供がいます。ファントレナの甥には、プロのバレーボール選手であるオスマーニ・ファントレナがいます。
2021年には、イギリス人映画監督マーク・クレイグがプロデュースしたドキュメンタリー映画『Running for the Revolution』の題材となりました。この映画は、彼の競技人生と引退後の活動に焦点を当てています。
6. 功績と影響
アルベルト・ファントレナは、その卓越した競技成績と引退後の多大な貢献により、陸上競技界とキューバ社会に計り知れない功績と影響を残しました。
彼の愛称である「エル・カバジョ(El Caballoスペイン語)」は、「馬」を意味し、その力強く優雅な走りと、レースにおける圧倒的な支配力を象徴するものでした。特に1976年のモントリオールオリンピックで達成した400mと800mの二冠は、陸上競技史上他に類を見ない偉業であり、彼の名を不滅のものとしました。この二冠は、彼が単なるスプリンターでもミドルディスタンスランナーでもなく、その両方で世界の頂点に君臨できる稀有な才能を持っていたことを証明しています。
彼のキャリアは度重なる怪我によって中断されがちでしたが、それでも世界記録を更新し、主要な国際大会でメダルを獲得し続けた事実は、彼の不屈の精神と回復力の証です。競技引退後も、彼はキューバのスポーツ行政における要職や、ワールドアスレティックス評議会の委員として、スポーツの普及と発展に尽力しました。これは、彼の競技者としての成功だけでなく、社会に対する深い貢献意欲を示すものであり、キューバ国民にとってのヒーローとしての地位を確固たるものにしました。ファントレナは、スポーツを通じた国家の誇りと連帯の象徴として、現在も語り継がれています。