1. Early Life and Background
アンリ・ラングロワの初期の人生は、彼の映画保存への情熱と深く結びついており、特に故郷の破壊という個人的な経験がその後の活動に大きな影響を与えた。
1.1. Birth and Childhood
アンリ・ラングロワは1914年11月13日、オスマン帝国のスミルナ(現トルコのイズミル)で生まれた。彼の両親は海外に居住するフランス人であった。彼が生まれた頃、世界は第一次世界大戦の最中にあり、彼の故郷であるスミルナは激動の時代を迎えていた。
スミルナはかつてギリシャ語名を持つギリシャの都市であり、ドイツと同盟を結んでいたオスマン帝国の一部であった。第一次世界大戦で中央同盟国が敗北し、1920年のセーヴル条約によってスミルナがギリシャに編入されると、新たに建国されたトルコ共和国はギリシャに対して戦争を仕掛け、スミルナを含むアナトリア地方を奪還した。この戦乱により、スミルナは1922年9月にその大部分が破壊され、ギリシャ系住民のほとんどが追放されるか殺害された。多くのヨーロッパ人もまたこの都市を離れざるを得なくなり、ラングロワ一家もフランスへの帰国を余儀なくされた。彼らはパリの9区、ラフェリエール通りに居を構えた。
この故郷の破壊と略奪という経験は、後に彼が忘れ去られようとしている映画フィルムを救い、保存しようとする強い動機となったと考えられている。
1.2. Education and Entry into Film
アンリ・ラングロワはパリのリセ・コンドルセで学業を修めた。1933年、父親が彼を法学部に入学させようとしたことに反発し、彼は意図的にバカロレア試験で白紙を提出し、映画界への道を志した。彼は「私は家族の厄介者だった。映画をあまりにも愛しすぎたのだ」と語っている。
試験に失敗した後、父親は彼に印刷業者の仕事を見つけた。この仕事を通じて、ラングロワは2歳年上のジョルジュ・フランジュと出会い、二人は友人となった。フランジュはラングロワについて「彼を通じて、無声映画が何であるかを真に学ぶことができた」と語っている。二人は協力して短編映画『Le Métro』(1985年に再発見され、現在はシネマテークに所蔵されている)を制作しようとしたが、映画人としての道を歩んだのはフランジュのみであった。
1935年、ラングロワはポール・オーギュスト・アルレが所有する週刊誌『フランス映画技術』に記事を寄稿しようとした。彼はトーキーの台頭が無声映画を消滅させるだろうと考え、無声映画を保護する必要性を訴えた。同年10月、ラングロワは女性映画クラブで35歳の映画史家ジャン・ミトリと出会った。ラングロワはこの映画クラブを無声映画専門のクラブにするというアイデアを提案し、会員たちを鼓舞した。
女性映画クラブは1935年12月に「映画サークル」と改名された。ラングロワは「このクラブは映画上映のみを目的とし、映画を観た後に議論するクラブではない。論争は無意味だ」と語った。映画上映で得られた収益は、最初のコレクションの購入に充てられた。ポール・オーギュスト・アルレは1.00 万 FRFの資金を支援し、この資金でラングロワとフランジュは10数本の35mmフィルムの複製フィルムを購入した。翌月には、シネマテークを設立するための適切な雰囲気が醸成された。20歳にして、アンリ・ラングロワは映画界で名声ある専門家となり、映画分野に関する百科事典のような知識を持つに至った。
2. Founding and Activities of the Cinémathèque Française
アンリ・ラングロワの生涯の中心的な業績は、シネマテーク・フランセーズの設立と運営である。彼は映画フィルムの保存と普及に尽力し、その活動は世界の映画文化に計り知れない影響を与えた。
2.1. Founding of the Cinémathèque Française
1936年9月2日、当時21歳のアンリ・ラングロワは、24歳のジョルジュ・フランジュ、28歳のジャン・ミトリと共に、パリにシネマテーク・フランセーズの前身となるシネマ・アーカイヴを設立した。シネマテーク・フランセーズは、映画博物館と上映館として構想された。シネマテークの本部はパリ12区のマルスラン通り29番地に位置した。
ポール・オーギュスト・アルレはシネマテークの初代会長となり、アンリ・ラングロワとジョルジュ・フランジュは書記長を務めた。著名な画家たちの絵画を販売していたマリー・メーソンは主要な財政支援者となり、ジャン・ミトリは記録保管者として活動した。設立当初のフィルムはわずか10本であった。当時、映画フィルムは公開後に切断され、マニキュアなどの原料として再利用されることが多かったが、ラングロワたちはそうしたフィルムを買い集めてコレクションを始めた。
2.2. Film Collection and Preservation
シネマテーク・フランセーズのコレクションは、1936年のわずか10本のフィルムから始まり、1970年代初頭には6万本を超える膨大な数へと成長した。ラングロワは単なるアーキビスト以上の存在であり、消滅の危機に瀕していた数多くの映画を救い出した。所蔵されていたフィルムの大部分は劣化しやすいセルロースナイトレート製であり、長期間保存するためには厳しく管理された環境を必要とした。
ラングロワはフィルムの保管だけでなく、破損したフィルムの修復や復元、そして上映にも力を入れた。彼はフィルムに加えて、カメラ、映写機、衣装、セット、脚本、ポスターなど、映画に関連するあらゆる品物を収集・保存の対象とした。彼は最終的に非常に多くの品物を収集し、1972年にはそれらをシャイヨ宮内の映画博物館に寄贈した。このコレクションは、約3.2 kmにわたる映画の遺物や記念品を網羅していた。しかし、1997年の火災による損傷のため、コレクションは移転された。1959年7月10日には、シネマテークのコレクションの一部がナイトレートフィルムの火災で失われたが、その原因と損失の程度については情報源によって見解が分かれている。
第二次世界大戦後、写真家ドゥニズ・ベロンはシネマテーク・フランセーズに関するユニークなルポルタージュを執筆し、仕切りで区切られた鑑賞室だけでなく、馬車が通る通りにまでフィルムがぎっしり詰まっていた様子を永遠に記録した。
国際フィルム・アーカイブ連盟(FIAF)とシネマテークの間には、1959年9月に意見の相違が生じた。ラングロワはFIAFの設立にも関与していたが、この両組織間の紛争はラングロワの死後数年を経てようやく解決された。
2.3. Activities during World War II
第二次世界大戦中、ナチス・ドイツによるフランス占領下において、ラングロワと彼の同僚たちは、破壊される危険に晒されていた数多くの映画を救うために尽力した。ラングロワはシネマテーク・フランセーズのジュール・フェリー館で映画上映を続け、同僚たちと共にナチスの支配に抗い、多くの映画を保護した。
映画が忘れ去られることに抗って保存しようとするラングロワの強い願望は、彼の出生地であるスミルナが第一次世界大戦後に部分的に破壊され、深刻な略奪を受けた経験に由来すると考えられている。この個人的な経験が、彼を文化遺産の守護者へと駆り立てる原動力となった。
3. Influence on the Film World
アンリ・ラングロワは、フランス・ヌーヴェルヴァーグの監督たちに決定的な影響を与え、映画理論の発展にも大きく貢献した。彼の活動は、単なるフィルムの保存にとどまらず、映画芸術そのものの理解と創造を深める基盤を築いた。
3.1. Influence on the French New Wave
ラングロワは、フランソワ・トリュフォー、ジャン=リュック・ゴダール、ジャック・リヴェット、クロード・シャブロル、アラン・レネ、エリック・ロメールなど、1960年代のフランス・ヌーヴェルヴァーグの監督たち、そしてそれに続く世代の映画製作者たちに多大な影響を与えた。
彼ら若き映画製作者たちは、ラングロワのシネマテークで映画を貪るように鑑賞し、自らのシネクラブを立ち上げ、映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』の批評家となり、やがて映画監督の道を歩むこととなった。彼らの中には、自分たちを「les enfants de la cinémathèqueシネマテークの子どもたちフランス語」と称する者もいた。彼らはしばしば満員の映画上映の最前列で見かけることができた。ラングロワと彼のシネマテークの名声は高まり、世界中の映画人からも一目置かれる存在となった。
3.2. Contribution to Film Theory and Criticism
アンリ・ラングロワの映画上映方法や批評的視点は、「作家理論(politique des auteursフランス語)」の発展に大きな影響を与えた。彼の映画への「ロマンチックな態度」は、イギリスの国立映画アーカイブのアーネスト・リンドグレンが採用した「科学的なアプローチ」とは対照的であった。ラングロワの方法は型破りであり、彼は記録管理に合理的なアプローチがないと非難されることもあった。
1962年、アンリ・ラングロワはミシェル・マルドールやエリック・ロメールとのインタビューで、『カイエ・デュ・シネマ』(第135号、9月)において、映画の保存、修復、そして哲学に関するテーマを展開した。このインタビューの出版は、シネマテークの歴史における画期的な出来事とされている。
ラングロワは、キューバのシネマテーク設立にも貢献した。1950年、写真家でアマチュアの映画製作者のヘルマン・プイグはパリを訪れてラングロワと出会った。この短い出会いは、キューバ・シネマテーク設立において決定的なものであった。この会談でラングロワは、ハバナ映画クラブ(キューバ・シネマテークの前身)にフランス映画のフィルムを送ることを約束した。
1966年2月1日から14日、および3月14日から27日にかけて、草月会館ホールで「世界アバンギャルド映画祭」が開催された。プログラムはラングロワによって選定され、上映プリントの多くはシネマテーク・フランセーズ所蔵のものが使用された。ラングロワは映画祭に参加するため来日し、クリス・マルケルの『ラ・ジュテ』や『不思議なクミコ』、アラン・レネの『ゲルニカ』、『夜と霧』、『世界のすべての記憶』、また『アンダルシアの犬』、『貝殻と僧侶』、『白い馬』などが上映された。来日中、ラングロワは熊井啓の『日本列島』と五所平之助の『恐山の女』を鑑賞し、帰国後、『日本列島』をシネマテークで上映した。
4. The Langlois Affair (1968)
1968年の「ラングロワ事件」は、アンリ・ラングロワの解任未遂とその後の激しい抗議活動、そして最終的な復職に至る一連の出来事を指す。この事件は、単なる組織内部の問題に留まらず、フランスの文化政策と芸術の自由を巡る広範な議論を巻き起こし、その後の五月革命の先駆けとも見なされた。
4.1. Dismissal and Reinstatement Process
シネマテークはラングロワ独自のやり方で運営されており、彼は組織管理の意識が希薄であったため、財政援助を行う政府からは問題視されていた。1968年2月7日、フランスの文化大臣アンドレ・マルローは、ラングロワの運営上の不手際とアーカイブされたフィルムの不適切な保管を公式な理由として、彼をシネマテークの理事会から解任し、ピエール・バルバンを後任に据えようとした。
この突然の解任に対し、国内外から激しい反発と抗議活動が巻き起こった。チャールズ・チャップリン、エリッヒ・フォン・シュトロハイム、ジョン・フォード、オーソン・ウェルズ、黒澤明、アルフレッド・ヒッチコック、フェデリコ・フェリーニ、ジャンニ・セッラといった著名な映画監督たちから、ラングロワの復職を求める電報や署名が寄せられた。パリでは、フランソワ・トリュフォー、ジャン=ピエール・レオ、アラン・レネ、ジャン=リュック・ゴダール、ジャン・マレー、カトリーヌ・ドヌーヴ、ジャンヌ・モローらが「シネマテーク・フランセーズ擁護委員会」を結成し、デモに参加してラングロワの復職を訴えた。学生運動家のダニエル・コーン=ベンディットも抗議活動に加わった。
この抗議の波は、権威あるカンヌ国際映画祭までもが中止に追い込まれる事態に発展した。当初は強硬な姿勢で臨んだ政府であったが、同年4月22日には激しい議論の末、ラングロワと解雇された職員たちをすべて元のポストに復職させるという、映画人たちの全面的な勝利に終わった。一方で、ラングロワの恣意的な運営によるシネマテークの問題も明るみに出され、ラングロワ個人のカリスマ性がシネマテーク・フランセーズを支配する時代は終わりを告げた。この「affaire Langloisラングロワ事件フランス語」は、後に五月革命の大きな前奏曲と見なされている。トリュフォーは1968年の自身の映画『夜霧の恋人たち』をラングロワに捧げ、映画は閉鎖され鍵のかかったシネマテークのショットから始まる。
5. Later Life and Awards
ラングロワは晩年も映画界における活動を続け、その功績は国際的に高く評価された。
5.1. Major Exhibitions and Projects
1970年、ラングロワはメトロポリタン美術館の創立100周年を記念する展覧会「メトロポリタン美術館のシネマテーク」のために、シネマテークのコレクションから70本の映画を選定した。この展覧会は、メトロポリタン美術館とニューヨーク・シティ・センター・オブ・ミュージック・アンド・ドラマの共催で、1970年7月29日から9月3日まで35夜連続で、映画媒体の最初の75年間を網羅する70本のフィルムが上映された。
ラングロワは、公式な映画産業の作品だけでなく、現代および初期のアバンギャルドの監督の作品も含む、映画製作の歴史におけるその意義と貢献に基づいて映画を選んだ。このプログラムは、当時アメリカ合衆国で開催された最も多様な映画展であり、メトロポリタン美術館にとって初の主要な映画事業であった。
1970年には、イギリスでドキュメンタリー番組『アンリ・ラングロワ』が製作された。その中で彼は、イングリッド・バーグマン、リリアン・ギッシュ、フランソワ・トリュフォー、カトリーヌ・ドヌーヴ、ジャンヌ・モローらとのインタビューを通じて、自身の仕事と人生について語っている。
1972年6月14日には、シャイヨ宮に映画博物館が創設された。
5.2. Academy Honorary Award
1974年4月2日、アンリ・ラングロワはシネマテークでの長年の功績に対し、第46回アカデミー賞でアカデミー名誉賞を受賞した。この賞は、彼の映画保存と発展への多大な貢献に対する公式な評価であり、その意義は極めて大きい。
6. Death and Legacy
アンリ・ラングロワの死は映画界に大きな喪失感をもたらしたが、彼の遺産は今日まで生き続けている。彼の名を冠した場所や、彼を扱った数々のドキュメンタリー映画は、映画保存分野における彼の継続的な影響力を示している。
6.1. Death
アンリ・ラングロワは1977年1月13日、病気のためパリで死去した。死の直前まで、ラングロワはシネマテークの仕組みをアメリカなど他の国にも広めようと尽力していた。
6.2. Commemoration and Legacy
ラングロワの墓はパリのモンパルナス墓地にある。墓石には、古今東西の映画のワンシーンがコラージュされて埋め込まれており、「呪われた映画祭」の共催者であるジャン・コクトーが彼を称えた言葉「Ce dragon qui veille sur nos trésors我らの財宝を守る竜神フランス語」が刻まれている。パリの13区には、彼の名を冠したアンリ・ラングロワ広場がある。

ラングロワの生涯と業績を称える数々のドキュメンタリー映画が製作されている。
- 1970年製作のイギリスのドキュメンタリー『アンリ・ラングロワ』は、イングリッド・バーグマン、リリアン・ギッシュ、フランソワ・トリュフォー、カトリーヌ・ドヌーヴ、ジャンヌ・モローらのインタビューを収録している。この作品はロベルト・ゲラとエイラ・ハーションが製作・監督を務めた。
- エドガルド・コザリンスキー監督の1994年のドキュメンタリー『シチズン・ラングロワ』は、ラングロワがアマチュアのコレクターからヌーヴェルヴァーグの英雄、そしてスターたちの友人へと進んでいく様子を描いたエッセイ風の伝記である。
- ベルナルド・ベルトルッチ監督の2003年の映画『ドリーマーズ』は、ラングロワの解任事件を取り上げており、当時の出来事の映像も含まれている。
- 2004年には、ジャック・リシャール監督による3時間半におよぶドキュメンタリー映画『アンリ・ラングロワ ファントム・オブ・シネマテーク』が製作された。この作品は、1936年のシネマテーク・フランセーズ創設から1977年のラングロワ死去までの偉業を生き生きと綴っている。友人、同僚、学者、そしてシモーヌ・シニョレ、ジャン=リュック・ゴダール、クロード・シャブロル、フランソワ・トリュフォー、ジャン=ミシェル・アルノルドといった映画界の著名人へのインタビューが収録されている。
- 2014年、シネマテークは短編ドキュメンタリー『アンリ・ラングロワが見たもの』を公開した。この作品では、アニエス・ヴァルダ、フランシス・フォード・コッポラ、ロマン・ポランスキー、マノエル・デ・オリヴェイラ、ベルナルド・ベルトルッチ、黒沢清、ヴィム・ヴェンダースを含む13人の映画製作者が、ラングロワと彼らとの関係について語っている。
ラングロワが亡くなった年、ドイツの映画監督ヴィム・ヴェンダースは自身の映画『アメリカの友人』を彼に捧げた。この作品には、草創期の映画に対する数々のオマージュが捧げられている。
7. Filmography
アンリ・ラングロワは、自身の映画製作活動は少なかったものの、いくつかの作品で監督や出演を務めている。
7.1. Director
- 『Le Métro』 (1934年)短編、ジョルジュ・フランジュとの共同監督。
7.2. Actor
アンリ・ラングロワが出演した作品は、主に彼自身をテーマとしたドキュメンタリー映画である。