1. 概要
オードリー・ヒュー・ハリソンは、1971年 10月26日にイングランド ロンドンのパーク・ロイヤルで生まれた元プロボクサーです。彼はサウスポーのヘビー級選手として活躍しました。
ハリソンはアマチュア時代に、2000年シドニーオリンピックのスーパーヘビー級で金メダルを獲得し、この階級でオリンピック金メダルを獲得した史上初の英国人ボクサーとなりました。この功績により、彼は大英帝国勲章(MBE)を授与されました。
2001年にプロ転向後、彼はBBCスポーツと異例の契約を結び、キャリアの初期段階で高い注目を集めました。プロとしては、世界ボクシング連盟(WBF)ヘビー級王座とヨーロッパボクシング連合(EBU)ヘビー級王座を獲得しました。また、ボクシングトーナメントの「プライズファイター」を2度優勝した唯一の選手としても知られています。
しかし、彼のプロキャリアは、2010年のデビッド・ヘイとの世界タイトル戦での低調なパフォーマンスにより、厳しい批判に晒されることもありました。引退後は、ボクシングキャリアに起因する健康問題、特に外傷性脳損傷と診断されたことを公表しました。
2. 生い立ちと背景
2.1. 出生と幼少期
オードリー・ハリソンは1971年10月26日に、イングランドのロンドンにあるパーク・ロイヤルで誕生しました。彼の家族構成や具体的な幼少期の環境については詳細な情報が少ないものの、後にボクシングの世界で大きな功績を残すことになります。
2.2. ボクシングとの出会い
ハリソンは19歳でボクシングを始めました。ロンドンのベスナル・グリーンにあるレプトン・アマチュアボクシングクラブでトレーニングを積み、アマチュアボクシングの基礎を築きました。この出会いが、後のオリンピック金メダリストとしての輝かしいキャリアへの第一歩となりました。
3. アマチュアキャリア
ハリソンはアマチュアボクシングのキャリアで顕著な成功を収め、特に国際大会でその実力を証明しました。
3.1. 主な実績
1997年にイングランドアマチュアボクシング協会(ABA)のスーパーヘビー級選手権で優勝し、ニック・ケンドールを決勝で破りました。翌1998年にもディーン・レドモンドを破り、同タイトルを防衛しました。
また、1998年コモンウェルスゲームズ(クアラルンプール開催)のスーパーヘビー級では金メダルを獲得しました。この大会では、ニュージーランドのファイ・ファラモエをポイントで下し、オーストラリアのジム・ホワイトヘッドを3回KO、モーリシャスのマイケル・マクウェイを1回KOで破るなど、圧倒的な強さを見せつけました。1998年にはベラルーシのミンスクで開催されたヨーロッパスーパーヘビー級選手権にも出場しましたが、セルゲイ・リャホビッチに敗れています。1999年にはアメリカ合衆国 ヒューストンで開催された世界選手権に出場し、ウズベキスタンのラジズベク・ゾキロフにポイントで勝利しましたが、トルコのシナン・サミル・サムにポイントで敗れました。
3.2. 2000年シドニーオリンピック金メダル
ハリソンのアマチュアキャリアの頂点は、2000年シドニーオリンピックのスーパーヘビー級での金メダル獲得でした。彼は英国代表として出場し、この階級で英国初のオリンピック金メダリストとなるという歴史的な快挙を成し遂げました。
この大会での主な戦績は以下の通りです。
- 2回戦: ロシアのアレクセイ・レジンに4回TKO勝利。
- 準々決勝: ウクライナのアレクセイ・マズィキンにポイントで勝利。
- 準決勝: イタリアのパオロ・ヴィドスにポイントで勝利。
- 決勝: カザフスタンのムフタルハン・ディルダベコフにポイントで勝利。
この金メダル獲得後、ハリソンは大英帝国勲章(MBE)を授与され、その功績が称えられました。
4. プロキャリア
ハリソンのプロボクシングキャリアは、アマチュアでの成功を経て大きな期待とともに始まりましたが、その道のりは栄光と挫折が入り混じる波乱に満ちたものでした。身長は197 cm、リーチは218 cmという体格を持つヘビー級の選手でした。総試合数は38戦で、31勝(23KO)7敗(4KO)の戦績を残しています。
4.1. デビューと初期の成功
2001年、ハリソンは自身の自叙伝『Realising the Dream』(夢の実現)を出版しました。同時に、自身のボクシングプロモーション会社「Aフォース・プロモーションズ」を設立し、自らのキャリアを管理しました。彼は英国で初めて、放送局と直接契約を結んだボクサーとなり、いくつかの著名なスポンサー契約も締結しました。
彼はBBCと、最初のプロ10試合を放送する総額100.00 万 GBPの独占契約を結びました。BBCはその後ボクシング中継から撤退するまでの間、彼の試合を17試合放送しました。
2001年5月9日、ロンドンのウェンブリー・アリーナでマイク・ミドルトンとのプロデビュー戦に臨み、1回TKOで勝利を収めました。この試合はテレビ中継され、600万人が視聴するという高い注目を集めました。デビュー戦の成功後、ハリソンは負傷により数ヶ月間試合から遠ざかりましたが、同年中にはデレク・マカファティにポイント勝ちを収めました。
ハリソンはその後も連勝を続け、2002年11月にはアメリカ合衆国でのデビュー戦を迎え、ショーン・ロビンソンを1回TKOで破りました。2003年2月にはロブ・キャロウェイに4回KO勝ち、ラトコ・ドラシュコビッチにポイント勝ちを収め、さらにマット・エリスを2回KOで下しました。この時期、彼は引退していた元世界チャンピオンのフランク・ブルーノ(当時41歳、引退から7年)との対戦を計画しましたが、ブルーノが精神保健法に基づき措置入院したことで計画は頓挫しました。エリス戦後のヨーク・ホール(ベスナル・グリーン)でハービー・ハイドとの間で騒動が発生し、暴動に発展したため、ハリソンとハイドは英国ボクシング管理委員会から罰則を受けました。
4.2. WBFタイトルとアメリカ進出
エリス戦での騒動後、ハリソンは活動拠点をアメリカ合衆国に移し、プロモーション会社「Aフォース・プロモーションズ」もアメリカへ移転、アル・ヘイモンと契約を結びました。彼はアメリカで11試合無敗(8KO)の戦績を収めました。2003年11月発行の『リングマガジン』では、レノックス・ルイスに続く支配的な世界チャンピオンになる可能性を秘めていると評されました。
2003年にはアメリカでさらに3試合を行い、リサンドロ・ディアスに4回TKO勝ち、クイン・ナバールに3回KO勝ち、ブライアン・ニックスに3回KO勝ちを収めました。この間、彼はヴォーン・ビーンのような経験豊富な世界レベルのヘビー級選手と定期的にスパーリングを行いました。
2004年に英国に戻ったハリソンは、当時の英国チャンピオンであったマイケル・スプロットとの英国タイトル戦ではなく、無敗のオランダ人選手リシェル・ヘルシシアと世界ボクシング連盟(WBF)世界ヘビー級王座をかけて対戦しました。この試合でヘルシシアを4回KOで破り、WBF世界ヘビー級王座を獲得しました。
その後、彼はこのタイトルを2度防衛しました。1度目はジュリアス・フランシスに対する12回ポイント勝ち、2度目は無敗のトマシュ・ボニンに対する9回TKO勝ちでした。しかし、この防衛戦で左手の靭帯に重傷を負い、ニューヨークでの手術を余儀なくされたため、約1年間のブランクを経験することになりました。
4.3. スランプと再起の時期
4.3.1. BBCとの契約終了と初期の挫折
2004年、BBCがプロボクシング中継から完全に撤退することを決定したため、ハリソンとの高額な契約は更新されませんでした。
2005年6月にリングに復帰したハリソンは、ロバート・デイビスに7回TKO勝ち、ロバート・ウィギンズに4回TKO勝ちを収めました。その後、彼は世界クラスの相手と対戦し、タイトルショットを獲得する準備ができたと表明しました。
同年12月、ハリソンは長年のライバルであるダニー・ウィリアムズとロンドンでコモンウェルス王座を賭けて対戦しました。当初マット・スケルトンがウィリアムズと対戦する予定でしたが、5週間前に欠場したため、ハリソンが急遽代役を務めました。この試合は拮抗した展開となり、ハリソンは12回1-2の判定で敗れ、プロキャリア初の黒星を喫しました。
2006年4月にはアメリカでドミニク・グインと対戦し、再びポイントで敗れ、キャリア初の2連敗を喫しました。ハリソンはこの敗北をウィリアムズ戦での自信喪失が原因だとし、再起を誓いました。同年6月、アメリカでのテレビ中継のない試合でアンドリュー・グリーリーを3回KOで破りました。同年12月、彼は再びウィリアムズと対戦しました。この試合も当初はマット・スケルトンとの予定でしたが、スケルトンが直前で負傷したため、急遽ウィリアムズが代役となりました。ハリソンは前戦よりもはるかに攻撃的に戦い、ウィリアムズを2度ダウンさせ、3回TKOで勝利しました。この勝利により、ウィリアムズは鼻骨骨折と重度の裂傷を負い、ハリソンは再び世界タイトルへの挑戦者として称賛されるようになりました。この勝利後、ハリソンはイギリスのプロモーターであるフランク・ウォーレンとプロモーション契約を結び、2007年の世界タイトル戦を目指しました。
しかし、2007年2月17日、ハリソンはマイケル・スプロットにヨーロッパ連合タイトル戦でKO負けを喫しました。このプロ3敗目により、ハリソンの将来は不透明なものとなりました。ハリソン自身は再起を主張しましたが、ウォーレンは世間の関心が薄れていることから、復帰してもファイトマネーが減額されるだろうと示唆しました。
2007年9月29日、シェフィールドでポール・キングと対戦する予定でしたが、同年9月21日にハリソンが同乗していたコーチ運転の車がアメリカで交通事故を起こし、ハリソンが負傷したため試合は中止されました。ハリソンは負傷により手術を受けました。2008年4月19日、ラスベガスのトーマス&マック・センターで行われたバーナード・ホプキンス対ジョー・カルザゲ戦の前座で、ジェイソン・バーネットを5回TKOで破り、14ヶ月ぶりの復帰戦を勝利で飾りました。この試合はハリソンとウォーレンとの間で結ばれた新たな複数試合契約の最初の試合であり、2009年の世界タイトル挑戦を目指すものでした。
その後、サミュエル・ピーターやマーティン・ローガンとの対戦が実現しなかった後、2008年9月6日にはマンチェスターのMENアリーナでジョージ・アリアスをポイントで破りましたが、BBCはこれを「説得力に欠ける勝利」と報じました。この試合は、同日開催されたアミール・カーンのプロ初黒星という別の出来事によって影が薄れてしまいました。2008年12月6日、ハリソンのキャリアは終わりを迎えたかに見えました。彼は最初の「プライズファイター」トーナメントの優勝者であり、ベルファストのタクシー運転手であるマーティン・ローガンに10回判定で敗れたのです。審判はローガンに96-95という僅差のスコアをつけました。
4.3.2. 再起とヨーロッパタイトル獲得
2009年10月2日、ハリソンはエクセル・ロンドンで行われた8人制1日ノックアウトトーナメント「プライズファイター」に出場しました。この大会で彼はスコット・ベルショーをノックアウトし、ダニー・ヒューズにユナニマス判定で勝利した後、決勝でコールマン・バレットを2回KOで破り、優勝を果たしました。この勝利の後、2010年1月15日、ハリソンがアルバート・ソスノフスキーとヨーロッパボクシング連合(EBU)ヘビー級タイトルをかけて対戦することが発表され、試合は同年4月9日に設定されました。しかし、ソスノフスキーはビタリ・クリチコのWBCタイトルへの挑戦が決まったため、この試合を辞退しました。
2010年4月9日、ハリソンはアレクサンドラ・パレスで、かつてのライバルであるマイケル・スプロットと対戦し、空位となっていたEBUヘビー級王座を獲得しました。ハリソンは3人のジャッジ全員のスコアカードで劣勢に立たされていましたが、最終ラウンドでスプロットをノックアウトし、逆転勝利を収めました。ハリソンは試合の早い段階で肩を負傷し、片手で戦わなければならなかったと主張しました。BBCスポーツはこの試合について、「世界タイトル戦でクリチコ兄弟の一人と対戦できるという試合前の主張が馬鹿げたものになりかねない敗戦から数秒のところで、ハリソンは『何とかして勝たなければならなかった』と語った」と報じました。
2010年4月24日、ハリソンはマンチェスターのチェドルで、スプロット戦で断裂した大胸筋を修復する手術を受けました。執刀医は、ハリソンが12~16週間で完全に回復すると予想しました。
4.4. デビッド・ヘイとの世界タイトル戦
2010年6月8日、ハリソンは世界タイトル挑戦を目指す意図を表明し、保持していたEBU王座を返上しました。その後すぐにヘイメーカー・プロモーションズとの交渉を開始し、その結果、2010年11月13日にマンチェスター・イブニング・ニュース・アリーナでWBAヘビー級チャンピオンのデビッド・ヘイとの世界タイトル戦が決定しました。
試合はヘイの一方的な展開となり、ハリソンはヘイの猛攻に対応できず、3回に試合がストップされTKO負けを喫しました。統計によると、ハリソンは試合全体でわずか1発しかパンチをヘイに当てられませんでした。
この試合でのハリソンのパフォーマンスは、試合後も厳しい批判に晒されました。当時の英国およびコモンウェルスチャンピオンであったデレク・チゾラは、「もし私がそんな戦い方をしたら、二度と顔を見せません。情けない限りです。彼は自分自身と英国のヘビー級に恥をかかせました。あんなひどい試合の後で、報道されている100万ポンドのファイトマネーを受け取るべきではありません」と述べました。ヨーロッパライトヘビー級チャンピオンのネイサン・クレバーリーも、この試合に対する不満を表明し、ハリソンは引退すべきだと付け加えました。
ハリソンの敗北の性質上、英国ボクシング管理委員会(BBBofC)は、試合の完全な調査が行われる間、彼のファイトマネーの一部を保留しました。この調査は、ヘイが自分に賭けていたという発言の調査も含め、広範なものでした。2011年1月11日、試合の調査が終了した後、ハリソンには全額のファイトマネーが支払われることになりました。
この試合のテレビ視聴者数は、ドイツの「ダス・エルステ」で平均417万人に達しました。また、英国のペイ・パー・ビュー「スカイ・ボックス・オフィス」では、304,000件の購入がありました。
4.5. 後期キャリアと最終引退
2010年12月3日、引退を求める声にもかかわらず、ハリソンはプロボクサーとしてのキャリアを続けることを表明しました。デレク・チゾラはこの決定に批判的で、「彼はボクシングを続けるつもりだが、誰がチケットを買って彼を見に行くのだろうか?たとえ無料でチケットをもらったとしても、見に行くのだろうか?...まあ、とにかくオードリーに幸運を」と述べました。
2011年11月15日、BBCのリアリティ番組『ストリクトリー・カム・ダンシング』を降板した後のインタビューで、ハリソンは「もう終わりかもしれないが、確認する必要がある」と述べ、2012年に英国ヘビー級チャンピオンのタイソン・フューリーと対戦する意向を表明しました。
ハリソンは2012年5月26日にリングに復帰し、エセックスのブレントウッドセンターでアリ・アダムスとインターナショナル・マスターズ選手権のために戦いました。ハリソンは右のパンチでアダムスをキャンバスに送り込み、アダムスは立ち上がったものの、ハリソンの追撃の猛攻によりレフェリーが試合を止め、TKOでハリソンが勝利しました。
2012年10月13日、ハリソンはデビッド・プライスと対戦し、1ラウンド82秒でKO負けを喫しました。この敗北後も、ハリソンは引退せず、ボクシングを続けることを表明しました。
2013年2月23日、ハリソンは「プライズファイター 29: ザ・インターナショナル・ヘビーウェイトIII」トーナメントで優勝し、決勝でデリック・ロッシーを破りました。この勝利により、彼はプライズファイターを2度優勝した初のボクサーとなりました。このトーナメントでは、マーティン・ローガンにユナニマス判定勝ち、クラウス・ベルティーノに1回TKO勝ちも収めています。
2013年4月27日、ハリソンは無敗のアメリカの有望株であるデオンテイ・ワイルダー(当時27勝無敗、全KO勝ち)と対戦しました。ワイルダーはそれまでのプロキャリアで4ラウンドを超えたことがありませんでした。この試合は1ラウンドわずか70秒で終了しました。ワイルダーが右のパンチをヒットさせてハリソンをぐらつかせると、ワイルダーは怒涛のパンチを連打しました。ハリソンはダウンしましたが、カウントアウトを逃れることに成功しました。しかし、レフェリーはハリソンが続行不能と判断し、試合をストップしました。ワイルダーはTKOで勝利し、28連続KO勝ちを記録しました。このワイルダー戦が、ハリソンの現役最後の試合となりました。
2013年5月1日、ハリソンはボクシングからの引退を発表しました。しかし、わずか20日後には引退を撤回し、現役続行の意向を表明しました。
最終的に、2014年3月26日、ハリソンは自身がもはやプロボクサーではないと発表し、リングには戻らないことを表明しました。2015年3月31日にも改めて引退を確定させました。
No. | 結果 | 戦績 | 対戦相手 | 決着方法 | ラウンド、時間 | 日付 | 場所 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
38 | 敗 | 31-7 | デオンテイ・ワイルダー | TKO | 1 (12), 1:10 | 2013年4月27日 | モータポイント・アリーナ(シェフィールド、イングランド) | |
37 | 勝 | 31-6 | デリック・ロッシー | TKO | 2 (3), 1:25 | 2013年3月23日 | ヨーク・ホール(ロンドン、イングランド) | プライズファイター29:ヘビー級決勝 |
36 | 勝 | 30-6 | マーティン・ローガン | UD | 3 | 2013年3月23日 | ヨーク・ホール(ロンドン、イングランド) | プライズファイター29:ヘビー級準決勝 |
35 | 勝 | 29-6 | クラウス・ベルティーノ | TKO | 1 (3), 0:33 | 2013年3月23日 | ヨーク・ホール(ロンドン、イングランド) | プライズファイター29:ヘビー級準々決勝 |
34 | 敗 | 28-6 | デビッド・プライス | TKO | 1 (12), 1:22 | 2012年10月13日 | エコー・アリーナ(リバプール、イングランド) | 英国およびコモンウェルスヘビー級タイトル戦 |
33 | 勝 | 28-5 | アリ・アダムス | TKO | 4 (10), 0:45 | 2012年5月26日 | ブレントウッド・センター(ブレントウッド、イングランド) | |
32 | 敗 | 27-5 | デビッド・ヘイ | TKO | 3 (12), 1:53 | 2010年11月13日 | MENアリーナ(マンチェスター、イングランド) | WBAヘビー級タイトル戦 |
31 | 勝 | 27-4 | マイケル・スプロット | KO | 12 (12), 1:05 | 2010年4月9日 | アレクサンドラ・パレス(ロンドン、イングランド) | 空位のヨーロッパヘビー級タイトルを獲得 |
30 | 勝 | 26-4 | コールマン・バレット | TKO | 2 (3), 2:40 | 2009年10月2日 | エクセル(ロンドン、イングランド) | プライズファイター8:ヘビー級決勝 |
29 | 勝 | 25-4 | ダニー・ヒューズ | UD | 3 | 2009年10月2日 | エクセル(ロンドン、イングランド) | プライズファイター8:ヘビー級準決勝 |
28 | 勝 | 24-4 | スコット・ベルショー | TKO | 2 (3), 3:00 | 2009年10月2日 | エクセル(ロンドン、イングランド) | プライズファイター8:ヘビー級準々決勝 |
27 | 敗 | 23-4 | マーティン・ローガン | PTS | 10 | 2008年12月6日 | エクセル(ロンドン、イングランド) | |
26 | 勝 | 23-3 | ジョージ・アリアス | PTS | 10 | 2008年9月6日 | MENアリーナ(マンチェスター、イングランド) | |
25 | 勝 | 22-3 | ジェイソン・バーネット | TKO | 5 (8), 1:48 | 2008年4月19日 | トーマス&マック・センター(パラダイス、ネバダ州、米国) | |
24 | 敗 | 21-3 | マイケル・スプロット | KO | 3 (12), 3:00 | 2007年2月17日 | ウェンブリー・アリーナ(ロンドン、イングランド) | ヨーロッパ連合および空位のイングランドヘビー級タイトル戦 |
23 | 勝 | 21-2 | ダニー・ウィリアムズ | TKO | 3 (12), 2:32 | 2006年12月9日 | エクセル(ロンドン、イングランド) | |
22 | 勝 | 20-2 | アンドリュー・グリーリー | KO | 3 (10), 2:32 | 2006年6月9日 | トロピカーナ・カジノ&リゾート(アトランティックシティ、ニュージャージー州、米国) | |
21 | 敗 | 19-2 | ドミニク・グイン | UD | 10 | 2006年4月14日 | アグア・カリエンテ・カジノリゾート・スパ(ランチョ・ミラージュ、カリフォルニア州、米国) | |
20 | 敗 | 19-1 | ダニー・ウィリアムズ | SD | 12 | 2005年12月10日 | エクセル(ロンドン、イングランド) | 空位のコモンウェルスヘビー級タイトル戦 |
19 | 勝 | 19-0 | ロバート・ウィギンズ | TKO | 4 (10), 3:00 | 2005年8月18日 | HPパビリオン(サンノゼ、カリフォルニア州、米国) | |
18 | 勝 | 18-0 | ロバート・デイビス | TKO | 7 (10), 2:21 | 2005年6月9日 | ペチャンガ・リゾート&カジノ(テメキュラ、カリフォルニア州、米国) | |
17 | 勝 | 17-0 | トマシュ・ボニン | TKO | 9 (12), 2:17 | 2004年6月19日 | アレクサンドラ・パレス(ロンドン、イングランド) | WBF(フェデレーション)ヘビー級タイトルを防衛 |
16 | 勝 | 16-0 | ジュリアス・フランシス | UD | 12 | 2004年5月8日 | ウィッチチャーチ・レジャーセンター(ブリストル、イングランド) | WBF(フェデレーション)ヘビー級タイトルを防衛 |
15 | 勝 | 15-0 | リシェル・ヘルシシア | KO | 4 (12), 2:00 | 2004年3月20日 | ウェンブリー・アリーナ(ロンドン、イングランド) | 世界ボクシング連盟(フェデレーション)ヘビー級タイトルを獲得 |
14 | 勝 | 14-0 | ブライアン・ニックス | TKO | 3 (10), 1:41 | 2003年12月12日 | エッジウォーター・ホテル&カジノ(ラフリン、ネバダ州、米国) | |
13 | 勝 | 13-0 | リサンドロ・エセキエル・ディアス | TKO | 4 (8), 1:32 | 2003年10月3日 | マンダレイ・ベイ・イベント・センター(パラダイス、ネバダ州、米国) | |
12 | 勝 | 12-0 | クイン・ナバール | KO | 3 (8), 0:32 | 2003年9月9日 | レベル・ナイトクラブ(マイアミ、フロリダ州、米国) | |
11 | 勝 | 11-0 | マシュー・エリス | TKO | 2 (8), 1:35 | 2003年5月31日 | ヨーク・ホール(ロンドン、イングランド) | |
10 | 勝 | 10-0 | ラトコ・ドラシュコビッチ | PTS | 8 | 2003年3月29日 | ウェンブリー・カンファレンス・センター(ロンドン、イングランド) | |
9 | 勝 | 9-0 | ロブ・キャロウェイ | TKO | 5 (8), 3:00 | 2003年2月8日 | ブレントフォード・ファウンテン・レジャーセンター(ロンドン、イングランド) | |
8 | 勝 | 8-0 | ショーン・ロビンソン | TKO | 1 (6), 2:09 | 2002年11月23日 | ボードウォーク・ホール(アトランティックシティ、ニュージャージー州、米国) | |
7 | 勝 | 7-0 | ウェイド・ルイス | TKO | 2 (6), 0:43 | 2002年10月5日 | リバプール・オリンピア(リバプール、イングランド) | |
6 | 勝 | 6-0 | ドミニク・ネガス | PTS | 6 | 2002年7月10日 | ウェンブリー・カンファレンス・センター(ロンドン、イングランド) | |
5 | 勝 | 5-0 | マーク・クレンス | PTS | 6 | 2002年5月21日 | エクセル(ロンドン、イングランド) | |
4 | 勝 | 4-0 | ジュリアス・ロング | KO | 2 (6), 2:00 | 2002年4月20日 | ウェンブリー・カンファレンス・センター(ロンドン、イングランド) | |
3 | 勝 | 3-0 | ピョートル・ユルチク | TKO | 2 (6), 1:24 | 2001年10月20日 | ケルビン・ホール(グラスゴー、スコットランド) | |
2 | 勝 | 2-0 | デレク・マカファティ | PTS | 6 | 2001年9月22日 | テレウェスト・アリーナ(ニューカッスル、イングランド) | |
1 | 勝 | 1-0 | マイク・ミドルトン | TKO | 1 (6), 2:45 | 2001年5月19日 | ウェンブリー・アリーナ(ロンドン、イングランド) |
5. ボクシング引退後の活動とメディア出演
ハリソンはボクシングキャリアを終えた後も、様々なリアリティ番組に出演するなど、大衆メディアで活動しました。
2011年9月6日、彼はBBCの人気ダンスリアリティ番組『ストリクトリー・カム・ダンシング』の2011年シーズンに出演することが発表されました。ハリソンとダンスパートナーのナタリー・ロウは、コンテストの第7ラウンドまで進出しました。
2014年の夏には、英国版『セレブリティ・ビッグ・ブラザー』の第14シリーズに出演し、準優勝を果たしました。また、2016年には『セレブリティ・マスターシェフ』にも参加しています。
6. 私生活と健康問題
6.1. 家族
ハリソンはレイチェルと結婚しており、夫婦の間には娘と息子がいます。
6.2. 健康問題と最終的な引退
ボクシングキャリアの長期にわたる影響として、ハリソンは深刻な健康問題を抱えることになりました。2015年には、度重なる頭部への打撃が原因であると診断された外傷性脳損傷を患っていることを公表しました。これにより、彼は視力障害やバランス感覚の喪失、過敏症、そして激しい気分の変動といったパンチドランカーの症状に苦しむことになりました。
これらの健康上の困難が、2015年3月26日の最終的なボクシング引退の決断に大きく影響しました。この発表の際、彼はまた、投資の失敗により破産寸前であることも告白しました。ハリソンの事例は、プロボクシングのようなコンタクトスポーツがアスリートの長期的な健康、特に脳の健康に与える深刻な影響を浮き彫りにしています。
7. 評価と影響
オードリー・ハリソンに対する評価は、その輝かしい功績と、期待に応えきれなかったプロキャリアの側面の両方を含んでいます。
7.1. 功績と肯定的評価
ハリソンは英国ボクシング界において、数々の重要な功績を残しました。最も特筆すべきは、2000年シドニーオリンピックのスーパーヘビー級で金メダルを獲得したことです。これは、この階級で英国史上初のオリンピック金メダルという歴史的快挙であり、英国ボクシングの顔として国民の期待を集めるきっかけとなりました。この功績により、彼は大英帝国勲章(MBE)を授与されました。
プロ転向後も、彼はBBCと直接契約を結ぶという画期的な手法を導入し、Aフォース・プロモーションズを設立するなど、スポーツビジネスにおける先駆者としての側面も持ち合わせていました。世界ボクシング連盟(WBF)ヘビー級王座やヨーロッパボクシング連合(EBU)ヘビー級王座を獲得したことも、彼の確かな実力を示すものです。また、ボクシングトーナメントの「プライズファイター」を2度優勝した唯一のボクサーであるという記録も、彼の再起能力と耐久力を示すものとして評価されています。
7.2. 批判と論争
一方で、ハリソンのプロキャリアは、高い期待に応えられなかったことによる批判と論争が常に付きまといました。特に、2010年のデビッド・ヘイとのWBA世界ヘビー級タイトル戦でのパフォーマンスは、彼のキャリアにおける最大の転換点となりました。この試合で彼は一方的に敗北し、試合中にほとんどパンチを出さなかったこと、そして最終的にわずか1発しか有効打を放てなかったことが、ファンやメディア、同業者から「情けない」「英国ヘビー級の恥」といった激しい批判を浴びることになりました。
この試合での低調なパフォーマンスは、彼のファイトマネーの一部が英国ボクシング管理委員会によって一時的に保留される事態にまで発展しました。彼はプロ転向時に「次期レノックス・ルイス」として大きな注目と投資を受けましたが、その後の不安定な戦績と「詐欺師」といった厳しいレッテル貼りが、彼の評価に影を落としました。複数の試合での敗北や、引退表明と撤回を繰り返したことも、彼の精神的な脆さやキャリアへの決断力不足として批判の対象となりました。これらの論争は、彼がアマチュアで築いた輝かしい名声と、プロとしての波乱のキャリアとの間のギャップを浮き彫りにするものでした。