1. 概要
コスティーニャは、タックル、ポジショニング、運動能力、体力、活動量の豊富さで知られる守備的ミッドフィールダーでした。選手としてのキャリアでは、ポルトガル、フランス、ロシア、スペイン、イタリアのクラブでプレーし、特にFCポルトでは2004年のチャンピオンズリーグを含む8つの主要タイトルを獲得しました。ポルトガル国家代表としては50試合以上に出場し、UEFA EURO 2000、UEFA EURO 2004、2006 FIFAワールドカップなどの主要国際大会に出場し、UEFA EURO 2004では準優勝に貢献しました。引退後は、ベイラ・マル、パソス・デ・フェレイラ、アカデミカ、ナシオナルなどで監督を務めました。
2. 幼少期と背景
コスティーニャはリスボンで、1960年代にポルトガルに移住したアンゴラ人の父のもとに生まれました。幼少期はスポルティングCPのファンでした。
2.1. 幼少期と初期のキャリア
コスティーニャのサッカーキャリアは、ポルトガルの3部リーグに所属するクルーベ・オリエンタル・デ・リジュボアで始まりました。その後、ADマシコ、CDナシオナルといったクラブで経験を積みました。クルーベ・オリエンタル・デ・リジュボアでは1994-1995シーズンに26試合3得点、ADマシコでは1995-1996シーズンに30試合5得点、CDナシオナルでは1996-1997シーズンに27試合4得点を記録しました。
3. 選手キャリア
コスティーニャの選手キャリアは、ポルトガル国内の下部リーグから始まり、その後フランスのASモナコで国際舞台に躍り出ました。FCポルトでの成功を経て、ロシア、スペイン、イタリアのクラブを渡り歩き、ポルトガル国家代表としても輝かしい成績を収めました。
3.1. クラブキャリア
コスティーニャは、ポルトガル国内での初期キャリアの後、フランスのASモナコで注目を集め、その後FCポルトで全盛期を迎えました。
3.1.1. モナコ
1997年の夏、コスティーニャはラ・リーガのバレンシアCFと5年契約を結びましたが、監督のホルヘ・バルダーノが彼をビジャレアルCFに期限付き移籍させようとしたため、契約を破棄しました。その後、ジョルジュ・メンデスの仲介により、フランスのASモナコからの関心を受けて移籍しました。最初のシーズンは不慣れな部分もありましたが、その後は主力選手として定着し、1999-2000シーズンのリーグ・アン優勝に貢献し、28試合に出場し1得点を挙げました。また、1998年のUEFAチャンピオンズリーグでは、アウェーゴールルールによってマンチェスター・ユナイテッドを破るなど、才能豊かなチームの一員として活躍しました。モナコでは1997年から2001年まで在籍し、リーグ戦84試合出場3得点を記録しました。
3.1.2. ポルト
2001年5月、コスティーニャはFCポルトと5年契約を結びました。同年8月12日、27歳を目前にしてプリメイラ・リーガデビューを果たしましたが、スポルティングCPとのアウェー戦で退場処分を受け、チームは0-1で敗れました。しかし、その後はポルトの中盤の要として、2年連続のリーグ優勝に貢献しました。特に、ジョゼ・モウリーニョ監督(当時)の下では、攻撃的な役割を担うマニシェの抜けた穴をコスティーニャがカバーするという、抜群の相性を見せました。2004年3月9日のUEFAチャンピオンズリーグ決勝トーナメント1回戦では、再びマンチェスター・ユナイテッドを相手に得点を挙げ、効果的に彼らを大会から退けました。ポルトはその後、決勝で古巣のASモナコを3-0で破り、チャンピオンズリーグ優勝を果たしました。ポルトには2001年から2005年まで在籍し、リーグ戦109試合出場13得点を記録しました。
3.1.3. その後のクラブ
2004-05シーズンも主力として活躍した後、コスティーニャは2005年5月にチームメイトのマニシェ、ギオルゴス・セイタリディスと共にFCディナモ・モスクワへ移籍しました(デルレイは1月に移籍済み)。移籍金は推定400.00 万 EURでした。しかし、翌月にはイスラエルでのトレーニングキャンプ中に発生した事件により出場停止処分を受け、チームに定着できませんでした。
その後、2006-07シーズンを前に、2年契約でアトレティコ・マドリードへ移籍しました。ここでは出場機会に恵まれなかったものの、豊富な経験を活かしてロッカールームで若手選手に良い影響を与えました。アトレティコ・マドリードでは2006年から2007年まで在籍し、リーグ戦24試合に出場しました。
2007年8月にはアトレティコ・マドリードとの契約を解除し、セリエAのアタランタBCに加入しました。しかし、ここでは深刻な負傷により出場機会がほとんどなく、最初のシーズンにわずか1試合に出場したのみでした。高額な年俸(年間70.00 万 EUR)を受け取っていたにもかかわらず、競技レベルでのプレーに適していないと判断されたため、クラブは契約の相互解除を試みましたが、イタリアサッカー連盟を通じての契約解除も成功しませんでした。最終的に、2010年2月23日にアタランタとの相互合意により契約を解除し、そのまま現役を引退しました。アタランタでの公式戦出場は通算1試合にとどまりました。
3.2. 国家代表キャリア
コスティーニャはポルトガル国家代表として、1998年10月14日のUEFA EURO 2000予選スロバキア代表戦でデビューしました。この試合ではルイ・コスタとの交代選手として67分から出場し、チームは3-0で勝利しました。本大会でも代表に選出され、ルーマニア代表戦ではアディショナルタイムにヘディングで得点を挙げ、1-0の勝利に貢献しました。
その後、UEFA EURO 2004と2006 FIFAワールドカップにも出場しました。特に2006 FIFAワールドカップでは、6月25日のオランダ代表との決勝トーナメント1回戦(通称「ニュルンベルクの戦い」)に出場しました。この試合では、2度の警告により退場処分を受けた4人の選手の一人となり、ポルトガルは1-0で勝利しました。
コスティーニャはEURO2008予選期間中はほとんど招集されることがなく、国際キャリアを終えました。最終的に、ポルトガル代表として通算53キャップを記録し、2得点を挙げました。
4. プレースタイル
コスティーニャは主に守備的ミッドフィールダーとしてプレーし、そのプレーはタックルの強さ、的確なポジショニング、卓越した運動能力、豊富なスタミナ、そして献身的な活動量によって特徴づけられました。特にFCポルトでは、攻撃的な役割を担うマニシェとのコンビにおいて、マニシェが攻撃に加わった際のスペースをカバーするという役割を頻繁に担い、その守備的な貢献はチームの成功に不可欠でした。
5. 監督及びディレクターキャリア
選手としてのキャリアを終えたコスティーニャは、サッカー界でディレクターや監督として活動を続けました。
5.1. ディレクターとしての役割
2010年2月23日にアタランタを相互合意で退団し、すぐに現役を引退しました。その後まもなく、解任された元代表チームメイトのリカルド・サ・ピントの後任として、スポルティングCPのフットボールディレクターに就任しました。しかし、2011年2月9日、Sport TVでのインタビューでクラブの取締役会を批判した翌日、彼は解任されました。
2011年6月には、同じくディレクターとしてスイスのセルヴェットFCに加入しました。この時、チームは同胞のジョアン・アウヴェスが監督を務めていましたが、両者は特定の点で意見が合わないと報じられました。2011年11月、アウヴェスは職を解かれ、ジョアン・カルロス・ペレイラが後任となりました。しかし、ペレイラ体制下でチームの成績は悪化し、2012年4月にはペレイラとコスティーニャの両名が解任され、アウヴェスが監督に復帰しました。コスティーニャは、自身の契約が2013年6月まで延長されていたとして、その解任条件に異議を唱えたと報じられています。
5.2. 監督としての役割
2013年2月18日、コスティーニャはベイラ・マルの監督に就任し、ウリッセス・モライスの後任を務めました。就任から5日後のヴィトーリア・デ・セトゥーバル戦でのデビューは1-0の敗戦でした。チームの1部リーグからの降格が決定した後、5月22日にクラブを去りました。
2013年6月12日、コスティーニャは同じく1部リーグのパソス・デ・フェレイラの監督に任命されました。このクラブは史上初めてチャンピオンズリーグ予選に進出していました。この時、ポルトガル代表および3つのクラブで彼と共にプレーしたマニシェがアシスタントとして招かれました。しかし、成績不振のためわずか4ヶ月で解任されました。
2016年6月20日、コスティーニャはトップリーグから降格したばかりのアカデミカ・コインブラの監督に就任しました。ここでもマニシェがアシスタントを務めましたが、10月に個人的な理由で退任しました。
2017年5月30日、コスティーニャはナシオナルの監督に就任しました。就任初年度には、チームをリーガプロ(2部リーグ)のチャンピオンに導き、トップリーグへの昇格を果たしました。
しかし、その1年後、マデイラのチームが2番目の順位での降格となったため、双方合意のもとでクラブを去りました。特に、2019年2月10日には、最終的に優勝することになるSLベンフィカに10-0で大敗するという不名誉な記録も残しました。コスティーニャはこれについて「10-0は屈辱であり、責任は私にある」と述べました。
再びトップリーグから降格したばかりのナシオナルに、コスティーニャは2021年6月28日に1年契約で復帰しました。しかし、5試合で1勝1引き分けという成績にとどまり、9月20日に退任しました。
6. 獲得タイトルと業績
コスティーニャは選手および監督として、以下の主要なタイトルと栄誉を獲得しました。
6.1. 選手
モナコ
- リーグ・アン: 1999-2000
- トロフェ・デ・シャンピオン: 1997, 2000
ポルト
- プリメイラ・リーガ: 2002-03, 2003-04
- タッサ・デ・ポルトガル: 2002-03
- スーペルタッサ・カンディド・デ・オリベイラ: 2003, 2004
- UEFAチャンピオンズリーグ: 2003-04
- UEFAカップ: 2002-03
- インターコンチネンタルカップ: 2004
ポルトガル
- UEFA欧州選手権準優勝: 2004
6.2. 監督
ナシオナル
- リーガプロ: 2017-18
7. キャリア統計
7.1. クラブ統計
クラブ | シーズン | リーグ | 国内カップ | リーグカップ | 大陸大会 | 合計 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
ディビジョン | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||
ASモナコ | 1997-98 | リーグ・アン | 11 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 11 | 0 |
1998-99 | 21 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 21 | 2 | ||
1999-00 | 28 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 28 | 1 | ||
2000-01 | 24 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 24 | 0 | ||
通算 | 94 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 94 | 3 | ||
FCポルト | 2001-02 | プリメイラ・リーガ | 29 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 29 | 3 |
2002-03 | 23 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 23 | 5 | ||
2003-04 | 27 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 27 | 2 | ||
2004-05 | 30 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 30 | 3 | ||
通算 | 109 | 13 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 109 | 13 | ||
FCディナモ・モスクワ | 2005 | ロシア・プレミアリーグ | 10 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 10 | 0 |
アトレティコ・マドリード | 2006-07 | ラ・リーガ | 24 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 24 | 0 |
アタランタBC | 2007-08 | セリエA | 1 | 0 | 0 | 0 | - | - | - | - | 1 | 0 |
2008-09 | 0 | 0 | 0 | 0 | - | - | - | - | 0 | 0 | ||
2009-10 | 0 | 0 | 0 | 0 | - | - | - | - | 0 | 0 | ||
通算 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | ||
キャリア通算 | 238 | 16 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 238 | 16 |
7.2. 国家代表統計
国家代表チーム | 年 | 出場 | 得点 |
---|---|---|---|
ポルトガル | 1998 | 1 | 0 |
1999 | 0 | 0 | |
2000 | 8 | 1 | |
2001 | 1 | 0 | |
2002 | 2 | 1 | |
2003 | 8 | 0 | |
2004 | 15 | 0 | |
2005 | 6 | 0 | |
2006 | 12 | 0 | |
通算 | 53 | 2 |
得点と結果はポルトガルの得点数を先に表示し、スコア欄はコスティーニャの各得点後のスコアを示します。
No. | 日付 | 会場 | 対戦相手 | スコア | 結果 | 大会 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2000年6月17日 | ヘレドーム (アーネム, オランダ) | ルーマニア | 1-0 | 1-0 | UEFA EURO 2000 |
2 | 2002年9月7日 | ヴィラ・パーク (バーミンガム, イングランド) | イングランド | 1-1 | 1-1 | 親善試合 |
7.3. 監督統計
チーム | 就任 | 退任 | 記録 | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試合 | 勝 | 分 | 負 | 得点 | 失点 | 得失点差 | 勝率 % | |||
ベイラ・マル | 2013年2月18日 | 2013年5月22日 | 11 | 2 | 2 | 7 | 12 | 18 | -6 | 18.2 |
パソス・デ・フェレイラ | 2013年6月11日 | 2013年10月28日 | 14 | 2 | 2 | 10 | 15 | 31 | -16 | 14.3 |
アカデミカ | 2016年6月20日 | 2017年5月30日 | 48 | 20 | 13 | 15 | 48 | 38 | +10 | 41.7 |
ナシオナル | 2017年5月30日 | 2019年5月24日 | 81 | 29 | 22 | 30 | 123 | 140 | -17 | 35.8 |
ナシオナル | 2021年6月28日 | 2021年9月20日 | 5 | 1 | 1 | 3 | 6 | 9 | -3 | 20.0 |
キャリア通算 | 159 | 54 | 40 | 65 | 204 | 236 | -32 | 34.0 |
8. 評価と影響
コスティーニャは、その守備的ミッドフィールダーとしての能力、特にタックル、ポジショニング、豊富な活動量が高く評価されています。FCポルトでのUEFAチャンピオンズリーグ優勝や、ポルトガル代表としてのUEFA EURO 2004準優勝など、主要な成功に貢献しました。
選手引退後、ディレクターや監督として活動した際も、アトレティコ・マドリードでは出場機会が少なかったものの、その経験とリーダーシップでロッカールームに良い影響を与えたとされています。しかし、スポルティングCPやセルヴェットFCでのディレクター職、そして複数のクラブでの監督業では、成績不振やクラブ幹部との軋轢により短期間で解任されることもありました。
コスティーニャは、そのサッカー界への貢献に対し、ポルトガル政府からエンリケ航海王子勲章を、またブラガンサ家からはヴィラ・ヴィソーザ無原罪の御宿り勲章の功労勲章を授与されています。