1. 王族としての生涯と亡命
シメオン・サクスコブルクゴツキの王族としての生涯は、ブルガリア王国の王位継承者として始まり、共産主義体制の確立とともに亡命へと転換した。
1.1. 誕生と幼少期
シメオン・サクスコブルクゴツキは、1937年6月16日にブルガリア王国の首都ソフィアにあるヴラナ宮殿で、ブルガリア王ボリス3世と王妃Giovannaイオアンナイタリア語の長男として誕生した。彼はマリヤ・ルイザ王女に次ぐ第2子であり、弟妹はいなかった。誕生後、父ボリス3世はヨルダン川から聖水を空輸させ、正教会の信仰に基づいた洗礼がシメオンに行われた。母イオアンナはサヴォイア家出身のイタリア王女であり、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世とエレナ王妃の娘であったため、シメオンは出生時から当時のヨーロッパの多くの王族と血縁関係にあった。
1.2. 即位と摂政


第二次世界大戦中の1943年8月28日、父王ボリス3世がアドルフ・ヒトラーとの会談からブルガリアに帰国後、急逝したことを受けて、わずか6歳でシメオン2世として王位を継承した。幼少のため、ブルガリア陸軍のプレスラフ公キリル王子(シメオンの叔父)、ボグダン・フィロフ首相、ニコラ・ミホフ中将からなる摂政団が政務を代行した。
ボリス3世の下、ブルガリアは枢軸国に加わっていたが、ソビエト連邦との外交関係は維持していた。しかし、1944年9月5日にスターリンがブルガリアに宣戦布告し、その3日後に赤軍が無抵抗で国内に侵攻した。翌9月9日、ソ連の支援を受けたクーデターにより、キリル王子と他の摂政は解任され逮捕された。この3人の摂政は、その後の1947年2月に共産主義者によって処刑された。
1.3. 亡命生活
王族、すなわち母のイオアンナ王妃、シメオン、妹のマリヤ・ルイザ王女は、ソフィア近郊のヴラナ宮殿に留まった。その後、トドル・パヴロフ、ヴェネリン・ガネフ、ツヴェトコ・ボボシェフスキという3人の新たな共産主義者の摂政が任命された。1946年9月15日、ソ連軍が駐留する中で国民投票が実施され、王政廃止と共和制宣言が提案された。公式発表では、68年間の王政廃止に対して95.6%が賛成したとされたが、この国民投票は、国家形態の変更は国王が招集する大国民議会によってのみ実施できると定めたタルノヴォ憲法に違反するものであった。

1946年9月16日、王室は大量の動産を持ち出すことを許されながらも、ブルガリアを追放された。一家はまずエジプトのアレクサンドリアへ向かった。そこでは、シメオンの母方の祖父である元イタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世が亡命生活を送っていた。シメオンはヴィクトリア大学で学び(アルバニアのレカ王太子も共に学んだ)、一時は家族一人あたりわずか200 USDで生活する苦難を経験した。
1951年7月、フランシスコ・フランコ将軍の独裁政権がスペインへの亡命を認め、一家はそこへ移住した。1954年にはギリシャ国王パウルスとフレデリカ王妃が主催した「国王たちのクルーズ」として知られる船旅に参加し、ヨーロッパ各地から100人以上の王族が出席した。
2. 教育と私生活
亡命期間中のシメオンは、学業に励み、実業家としてのキャリアを築くとともに、家族を築いた。
2.1. 教育と軍事経験
マドリードではリセ・フランセで学んだ。1955年6月16日、18歳を迎えたシメオンは、タルノヴォ憲法に基づき、ブルガリア国民に向けた宣言を読み上げた。この中で彼は自身がブルガリア国王であると主張し、全てのブルガリア人の国王であり、当時のブルガリアを支配していた共産主義政権とは異なる原則に従う意思があることを確認した。彼は王位を正式に放棄することはなかった。
1958年にはアメリカのヴァリー・フォージ軍学校に入学し、「カデット・リルスキ第6883号」として知られ、少尉として卒業した。その後、1959年から1962年まで再びスペインに戻り、法律と経営学を学んだ。
2.2. 実業家としての経歴
学業を終えた後、シメオンは実業家としての道に進んだ。彼はフランスの防衛・エレクトロニクスグループであるトムソンのスペイン子会社で13年間(別の情報源では30年間)、会長を務めた。また、銀行、ホテル、エレクトロニクス、ケータリングの分野で顧問も務め、多岐にわたる経済活動に従事した。亡命中に、彼は在外政府の樹立を試みたが、これは実現しなかった。
2.3. 結婚と子供
1962年1月21日、シメオンはスペイン貴族のMargarita Gómez-Acebo y Cejuelaマルガリータ・ゴメス=アセボ・イ・セフエラスペイン語と結婚した。シメオンが正教会信徒、マルガリータがカトリック信徒であったため、当初結婚には困難が伴ったが、シメオンがローマ教皇と3度会談した後、両宗派の教会での挙式が許可された。
夫妻の間には、4男1女の合計5人の子供が生まれた。彼らの子供たちは全員、後にスペイン人と結婚している。シメオンの息子たちにはブルガリアのツァーリの名前が付けられ、娘もブルガリア名を持っている。しかし、11人の孫のうちブルガリア名を持つのは、ボリス、ソフィア、ミルコ、シメオンの4人だけである。
- カルダム(1962年 - 2015年) - タルノヴォ公。Miriam Ungría y Lópezミリアム・ウングリア・イ・ロペススペイン語と結婚し、ボリスとベルトランの2人の息子をもうけた。
- キリル(1964年生) - プレスラフ公。María del Rosario Nadal y Fuster de Puigdórfilaマリア・デル・ロサリオ・ナダル・イ・フステル・デ・プイグドルフラスペイン語と結婚し、マファルダとオリンピアの2人の娘、タシロの1人の息子をもうけた。
- クブラト(1965年生) - パナギュリシテ公。Carla María de la Soledad Royo-Villanova y Urrestarazuカーラ・マリア・デ・ラ・ソレダード・ロヨ=ヴィラノバ・イ・ウレスタラズスペイン語と結婚し、ミルコ、ルカス、ティルソの3人の息子をもうけた。
- コンスタンティン=アセン(1967年生) - ヴィディン公。María García de la Rasilla y Gortázarマリア・ガルシア・デ・ラ・ラシージャ・イ・ゴルタザールスペイン語と結婚し、ウンベルトとソフィアの双子をもうけた。
- カリーナ(1972年生) - スペインの探検家Antonio José "Kitín" Muñoz y Valcárcelキティン・ムニョススペイン語と結婚し、シメオン・ハッサン・ムニョスという息子をもうけた。
3. ブルガリアへの帰国と政治活動
共産主義体制崩壊後、シメオン・サクスコブルクゴツキは祖国ブルガリアへ帰国し、政治家として新たな役割を担うこととなった。
3.1. ブルガリアへの帰国
1990年、共産主義体制崩壊からわずか数ヶ月後、シメオンはブルガリアの新たなパスポートを取得した。1996年、王政廃止から50年を経て、シメオンはブルガリアに帰国し、多くの場所で歓喜する群衆に迎えられた。群衆は「我々はツァーリを望む!」と叫び、その帰国は東欧革命後の民主化を象徴する出来事の一つとなった。この時、彼は政治的な表明や行動はせず、1990年のテレビインタビューではブルガリアに対して何の物質的財産請求も行わないと否定していた。

しかし、彼の首相在任後、これらの社会感情は徐々に薄れていった。シメオンは、王政時代の1945年以前に王室の管理下にあった大規模な土地や不動産を取り戻す動きを見せた。これにはヴラナ宮殿やツァルスカ・ビストリツァ宮殿などが含まれるが、彼はこれらの財産の一部を国民の財産として政府に返還している。
3.2. 「安定と進歩のための国民運動」(NMSP)の結成

2001年、シメオンは本名であるСимеон Борисов Сакскобургготскиシメオン・ボリソフ・サクスコブルクゴツキブルガリア語の名で、新たな政治勢力としてNational Movement Simeon II「シメオン2世国民運動」英語を結成すると発表した。この政党は後に「安定と進歩のための国民運動」(National Movement for Stability and ProgressNDSV英語)と改称された。彼は「改革と政治的誠実」を掲げ、ブルガリア国民に対し、800日以内に彼の政府の目に見える良い効果を実感し、生活水準が大幅に向上すると公約した。
3.3. ブルガリア首相在任
2001年6月17日に行われた国民議会選挙において、NDSVは240議席中120議席を獲得し、既存の二大政党を破って圧勝した。同年7月24日、シメオンは首相に就任し、権利と自由のための運動(MRF)と連立政権を樹立した。彼の内閣は主にテクノクラートや西洋で教育を受けた経済専門家で構成された。
首相在任中、ブルガリアはNATOに加盟し、イラク戦争における米国主導の連合に参加した。2002年には「平和への道財団」から「平和への道賞」を受賞した。彼のリーダーシップの下、ブルガリア経済は以前の汚職による傷から回復に向かい、経済改革は回復基調に転じた。

元国王が祖国の首相として民主的に復帰したというニュースは、東欧革命時に王位を追われた他の元国王や王族たちに希望を与えたが、シメオン2世に続いて祖国の政界に影響を与えるような存在になった人物は他に現れていない(旧オーストリア皇帝家のオットーやカール親子が欧州議会議員になった例は存在するが、首相職への就任は異なる)。首相就任に際し、彼は共和国憲法を遵守することを宣誓し、王政復古の是非については「ブルガリア国民が決定すること」と述べるに留まり、自身の復位に関する直接的な言明は避けた。これは、ブルガリアにおける民主主義の安定と国民の意思を尊重する彼の姿勢を示している。
3.4. 首相退任後
2005年6月20日の国民議会選挙では、NDSVは20%の得票に留まり、31%を獲得した社会党に次ぐ第2党となった。社会党の組閣は難航したが、最終的に8月15日に社会党のセルゲイ・スタニシェフを首班とする大連立政権にNDSVが参加することで合意し、シメオンは首相の座を退任した。彼は非公式の「連立評議会議長」という儀礼的な役職を与えられた。
2009年7月5日の国民議会選挙では、NDSVの得票率はわずか3.01%にとどまり、議会で議席を獲得できなかった。その直後の7月6日、シメオンはNDSV党首を辞任し、政界から引退した。
2015年4月7日には、長男のタルノヴォ公カルダムが死去した。これにより、シメオン2世の王位請求権の継承者は、カルダムの長男である嫡孫のボリスとなった。
2015年4月29日、ブルガリア正教会は教区内の教会や修道院で行われる奉神礼において、「ブルガリア皇帝(ツァール)シメオン2世」のための祈りを加えることを決定した。同年5月2日、シメオン2世はブルガリア総主教ネオフィトからリラの聖イオアン勲章1等を授与された。しかし、同日、ロセン・プレヴネリエフ大統領は、この決定が「ブルガリアのキリスト教徒を君主制支持者と共和制支持者に分裂させる恐れがある」として、ブルガリア正教会に対し再考を求める考えを表明した。これを受け、シメオン2世は5月6日にブルガリア総主教へ書簡を送り、「ブルガリア王シメオン2世」のための祈りを加える決定を取り止めるよう求めた。この行動は、彼が王政復古をめぐる国民の分断を避け、国家の安定を優先する姿勢を示している。
4. 思想と影響力
シメオン・サクスコブルクゴツキは、ブルガリアの王政復古に対する微妙な立場を維持しつつ、その政治的行動を通じてブルガリア社会と政治に大きな影響を与えた。
4.1. 王政復古に関する見解
シメオンはブルガリアの王位に対する主張を正式に放棄してはいないものの、ブルガリアへの帰国以来、王政復古に対する自身の見解を明確にすることを一貫して避けてきた。彼が結成した政党の初期の名称が「シメオン2世国民運動」であったにもかかわらず、その立場は曖昧であった。首相就任の際には、共和国憲法を遵守することを宣誓し、王政復古の是非はブルガリア国民が決定すべき問題であるとの見解を表明している。
2015年にブルガリア正教会が彼の名で祈りを加えることを決定した際、シメオンが自らその取りやめを要請したことは、彼が王位をめぐる議論が国民の間に新たな分裂を生むことを望んでいないという、より実際的な政治的配慮を示している。彼のこの行動は、個人の王位への執着よりも、国家の統一と安定を重視する姿勢の表れと解釈できる。
4.2. 政治的影響力と評価
シメオン・サクスコブルクゴツキの政治的歩みは、ブルガリアの民主主義の発展、社会改革、および国民生活に多大な影響を与えた。彼は、かつて君主であった人物が民主的な選挙によって国家の指導者となるという、現代史において非常に稀有な事例を確立した。彼の政権は、ブルガリアのNATO加盟(2004年)とEU加盟(2007年)への道を切り開く上で決定的な役割を果たした。これは、ブルガリアが共産主義体制から自由民主主義と市場経済へと移行する上で不可欠なステップであった。
彼の経済改革は、ブルガリアを長年の不況と汚職から脱却させ、生活水準の向上に貢献した。彼は「800日」という具体的な期間を掲げて国民に希望を与え、その期間中に経済状況が実際に改善の兆しを見せたことで、彼のリーダーシップは一定の評価を得た。
しかし、彼の首相退任後、王政時代の財産返還をめぐる動きが見られたことについては、国民の間に失望や懐疑的な感情を生じさせた側面も指摘されている。それでもなお、彼の政治家としての活動は、ブルガリアが国際社会に統合される上で重要な礎を築いたと広く認識されている。彼の存在は、過去の象徴が現代の政治において果たす役割と、民主主義国家における王族の市民としての関わり方について、国際的な議論を喚起するものであった。
5. 称号、スタイル、および栄典
シメオン・サクスコブルクゴツキは、王族および政治家として、国内外から多くの称号、スタイル、および栄典を受けている。
5.1. 王族としての称号と家門の栄典
- 1937年6月16日 - 1943年8月28日: 殿下 タルノヴォ公
- 1943年8月28日 - 1946年9月15日: 陛下 ブルガリア国王
- 1946年9月15日 - 現在: 陛下 ブルガリア国王シメオン2世(僭称の称号、儀礼的)
ブルガリア正教会は、2015年5月1日にウェブサイトで発表した声明において、ブルガリア正教会の教区で開催される全ての公的および私的儀式において、シメオン・サクスコブルクゴツキを「ブルガリアのツァーリ(皇帝)シメオン2世」と呼称すると発表した。
また、シメオンはザクセン=コーブルク=ゴータ=コハーリ家の家長として、以下の王家の勲章のグランドマスターを務めている。
- 聖キュリロス・メトディウス勲章騎士およびグランドマスター
- 聖アレクサンダル王室勲章グランドマスター
- 勇気王室勲章グランドマスター
- 市民功労王室勲章グランドマスター
- 軍事功労王室勲章グランドマスター
- ツァーリ・シメオン2世成年記念メダル受章者
5.2. 政治家としての栄典と表彰
シメオンは、ブルガリアの首相としての在任中やその政治活動に関連して、国内外から以下の勲章や表彰を受けている。
国家栄典 (ブルガリア)
- スタラ・プラニナ勲章大十字
- ブルガリア国防省: 正義勲章カラー
外国の国家勲章および王家勲章
- ベルギー: レオポルド2世勲章大十字
- フランス: レジオンドヌール勲章グランドクロス
- オルレアン=フランス王家: 聖ラザロ勲章騎士大十字
- ギリシャ王室: 救世主王室勲章騎士大十字
- イタリア王家(サヴォイア家): 聖アヌンツィアータ最高勲章騎士
- マルタ騎士団: マルタ主権軍事騎士団名誉と献身のバイリフ騎士大十字
- 両シチリア王家(ブルボン=両シチリア家):
- 聖ヤヌアリウス王室勲章騎士
- 両シチリア王室聖軍聖ゲオルギウス勲章バイリフ騎士大十字
- ヨルダン: 最高ルネサンス勲章大綬
- ヨルダン: 独立勲章大綬
- パレスチナ: パレスチナ勲章大カラー
- ポルトガル王家(ブラガンサ家): ヴィラ・ヴィソーザの無原罪懐胎勲章騎士大十字
- ロシア帝国皇室(ロマノフ家): 聖アンドレイ帝国勲章騎士
- スペイン: カルロス3世勲章騎士大十字
- スペイン: 金羊毛勲章騎士
国家表彰 (ブルガリア)
- 国民衛兵隊名誉学位
- ブルガリア・チタリシチェ共同体のジュビリー名誉バッジ
外国の表彰
紋章
紋章 | |
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パトロン
国内パトロン
- ブルガリアの祝日のパトロン
国外パトロン
- スロバキア: ディヴィーナの聖ヤン・ネポムク像修復のパトロン(2017年、スロバキアのドイツ連邦共和国大使館の後援により)
6. 家系
シメオン・サクスコブルクゴツキは、ヨーロッパの複数の王家と深いつながりを持つ血統である。
- 父:ボリス3世(ブルガリア国王)
- 母:イオアンナ(イタリア王女)
彼の祖父母は以下の通りである。
- 父方祖父:フェルディナント1世(ブルガリア国王)
- 父方祖母:パルマ公女マリー・ルイーズ
- 母方祖父:ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世(イタリア国王)
- 母方祖母:モンテネグロ公女エレナ
さらに遡ると、彼の曾祖父母には以下の人物が名を連ねる。
- 曾祖父:ザクセン=コーブルク=ゴータ公子アウグスト
- 曾祖母:オルレアン公女クレマンティーヌ
- 曾祖父:パルマ公ロベルト1世
- 曾祖母:両シチリア王女マリア・ピア
- 曾祖父:ウンベルト1世(イタリア国王)
- 曾祖母:サヴォイア公女マルゲリータ
- 曾祖父:モンテネグロ公ニコラ1世
- 曾祖母:ミレナ・ヴコティッチ