1. 生涯と背景
リチャード・ルイ・"ディキシー"・ウォーカーの初期の人生は、学問と軍務、そして東アジアへの関心の基盤を築いた。
1.1. 出生と幼少期
ウォーカーは1922年4月13日に、ペンシルベニア州のベルフォンテで生まれた。彼の家族は宣教師としての背景を持ち、この経験が彼の後の人生、特に語学学習や国際的な活動に影響を与えたとされる。
1.2. 教育
ウォーカーは1944年にドリュー大学で学士号(B.A.)を取得した。その後、イェール大学に進学し、1947年に修士号(M.A.)、1950年に博士号(Ph.D.)を取得した。イェール大学での研究は、彼の国際関係学における学問的基盤を形成した。
1.3. 軍務と初期の語学活動
第二次世界大戦中の1943年から1946年にかけて、ウォーカーはアメリカ陸軍に所属して従軍した。軍務中、彼は集中的な語学訓練を受け、マンダリン中国語の通訳としての能力を身につけた。この語学力を活かし、太平洋戦線におけるダグラス・マッカーサー元帥の司令部で中国語通訳を務めた。第二次世界大戦後も軍務を続け、朝鮮戦争にも参戦している。
2. 経歴
ウォーカーのキャリアは、学術界での貢献と、外交官としての重要な役割によって特徴づけられる。
2.1. 学術経歴
軍務を終えた後、ウォーカーは1957年までイェール大学の教員を務めた。同年、彼はサウスカロライナ州のコロンビアに移り、サウスカロライナ大学(USC)で新たな国際学プログラムの組織化に着手し、1972年までその責任者を務めた。1961年には国際学研究所を設立し、1981年まで所長を務めた。この研究所は、研究、会議、コンサルティング、出版活動において国内外で傑出した拠点へと成長した。1996年には、彼の功績を称え、研究所はRichard L. Walker Instituteリチャード・L・ウォーカー研究所英語と改称された。
サウスカロライナ大学では、初の寄付講座教授職を務めた。
サウスカロライナ大学での活動に加え、ウォーカーはワシントン大学、国立台湾大学、日本の京都大学、京都産業大学など、他の大学でも客員教授として教鞭をとった。また、彼自身が卒業生であるナショナル・ウォー・カレッジ(ワシントンD.C.)でも教員を務め、ヨーロッパ、アジア、オーストラリアの学術センターで講演を行った。
2.2. 外交官としての活動
ウォーカーのキャリアにおいて最も注目すべきは、駐韓アメリカ合衆国大使としての活動である。
2.2.1. 韓国駐箚アメリカ合衆国大使への任命と在任
1981年、ウォーカーは当時のロナルド・レーガン大統領によって大韓民国駐箚アメリカ合衆国大使に指名された。アメリカ合衆国上院による満場一致の承認を経て、彼は1981年8月12日から1986年10月25日までその職を務めた。この在任期間は、歴代の駐韓アメリカ合衆国大使の中で最も長いものであった。彼以前の大使はウィリアム・H・グライスティーン・ジュニア、後任はジェームズ・R・リリーであった。

2.2.2. 主要な外交成果と影響
ウォーカーは、その在任中、静かなる外交を通じて重要な成果を上げた。特に注目されるのは、当時逮捕され死刑判決を受けていた反体制派の金大中(後の韓国大統領)の解放に部分的に貢献したことである。この努力やその他の外交活動に対し、彼はレーガン大統領から直接的な評価を受け、アメリカ合衆国国防総省から最高の文民勲章を授与された。レーガン大統領は彼に宛てて、「あなたは静かな外交を素晴らしい芸術へと変貌させた」と記している。
2.3. 退任後の活動
大使としての任期を終えた後、ウォーカーはサウスカロライナ大学に復帰し、ジェームズ・F・バーンズ国際学名誉教授および大使・イン・レジデンスとして活動した。彼は死去するまで学術活動を精力的に継続した。
3. 著作と学術的貢献
ウォーカーは、その生涯を通じて多岐にわたる執筆活動を行い、国際関係学およびアジア研究に多大な学術的貢献を果たした。
3.1. 著作と研究分野
ウォーカーは17冊の著書を執筆し、70冊以上の書籍に寄稿したほか、多数の論文や書評を発表した。彼の研究と執筆活動は、特に国際関係における文化的要因に焦点を当てていた。彼は長年にわたり、家族とともに日本、韓国、台湾に居住するなど、東アジアでの研究、執筆、活動に人生を捧げた。また、アメリカ合衆国国務省やアメリカ合衆国情報局の任務で、東アジアおよび東南アジア諸国を頻繁に訪れた。
3.2. 主要著作の意義
彼の主要著作の一つである1956年の『China Under Communism: The First Five Years共産主義下の中国:最初の5年間英語』は、当時の中華人民共和国の中国共産党体制下で発生していた苦難と残虐行為を早期に認識した点で重要である。この著作の中で、ウォーカーは共産主義が中国文化と長期的には両立し得ないという見解を主張した。その他の著作には、『Hunger in China中国の飢餓英語』や『Letters from the Communes人民公社からの手紙英語』がある。
4. 思想と時代的文脈
ウォーカーの思想は、彼が生きた時代の政治的・社会的な文脈と深く結びついており、特に中国共産主義に対する彼の見解は、その後の研究に大きな影響を与えた。
4.1. マッカーシズム時代の役割と影響
ウォーカーは、1940年代後半から1950年代後半にかけてアメリカ合衆国で激しい反共産主義的疑惑を煽ったマッカーシズムの時代において、対立する二つの勢力の間に立とうと試みた。しかし、1998年の回顧録で彼が述べているように、彼は自身が反共産主義的中国バイアスを持っていると見なされ、学術界での排斥に直面することもあった。
4.2. 中国共産主義に対する見解
彼は、中国共産党体制下での苦難や残虐行為について早期から認識しており、共産主義が中国文化と両立し得ないという見解を強く持っていた。この分析は、当時の西側諸国における中国研究に大きな影響を与えた。
5. 私生活
ウォーカーはセレノ・ケンリー・ウォーカーと45年間結婚生活を送り、3人の子供をもうけた。
6. 死去
ウォーカーは2003年7月22日に、アメリカ合衆国サウスカロライナ州コロンビアで死去した。彼の遺体はメリーランド州のベルリンに埋葬されている。
7. 評価と遺産
ウォーカーの生涯と業績は、学術界と外交分野の両方に永続的な遺産を残した。
7.1. 受賞歴と栄誉
ウォーカーは、その学術的貢献と公務に対して数々の賞と栄誉を授与された。彼はアメリカ合衆国国務省とアメリカ合衆国国防総省の教育プログラムへの貢献に対して賞を受賞した。また、ドリュー大学、シタデル、ソウル大学校、そしてサウスカロライナ大学から名誉学位を授与された。さらに、中華民国(台湾)からは大綬景星勲章を授与され、その功績が国際的に認められた。
7.2. 記念機関と学会活動
彼の名を冠したRichard L. Walker Instituteリチャード・L・ウォーカー研究所英語は、彼の学術的遺産を現在に伝える機関として機能している。また、ウォーカーは1995年から1997年までアメリカ中国学研究会の会長を務め、中国研究の発展に貢献した。
8. 関連項目
- アメリカ合衆国大使の一覧