1. 概要
東郷茂徳は、第二次世界大戦の開戦時および終戦時の外務大臣を務めた日本の外交官、政治家です。彼は拓務大臣、大東亜大臣などの要職も歴任しました。平和主義者としての信念から、日米開戦回避のための努力や、終戦に向けたポツダム宣言受諾への貢献に尽力しました。特に、彼の人生と外交には、豊臣秀吉による文禄・慶長の役の際に日本に連れてこられた朝鮮人陶工の末裔であるという自身の朝鮮半島系日本人としての背景が深く影響を与えています。戦後、極東国際軍事裁判でA級戦犯として有罪判決を受け、収監中に病死しました。彼の生涯は、激動の時代における平和への希求と、国際社会における日本の立場を巡る葛藤、そして個人のアイデンティティが交錯する複雑なものでした。本稿では、彼の生涯と業績を社会自由主義的な視点から考察し、特に民主主義、人権、社会進歩に対する彼の行動が与えた影響に焦点を当てて詳述します。
2. 生い立ちと背景
東郷茂徳のアイデンティティ形成には、彼が生まれ育った環境と、朝鮮半島にルーツを持つ家族の背景が深く影響を与えました。
2.1. 出生と家族
東郷茂徳は1882年12月10日、鹿児島県日置郡苗代川村(現在の日置市東市来町美山)で、「朴茂徳」として生まれました。苗代川村は、文禄・慶長の役の際に島津義弘の部隊に連行され、日本に連れてこられた朝鮮人陶工の一部が薩摩藩によって集められて形成された集落でした。これらの陶工の子孫たちは、薩摩藩によって朝鮮の風俗を保持すること、日本名の使用禁止、他所との通婚の規制などが命じられる一方、外部からの「乱暴狼藉」に対しては厳罰が課されるなど、保護と統制が一体となった政策の下にありました。
苗代川の住民の多くは、郷士よりも下の地位に位置づけられましたが、手厚く遇されていました。しかし、明治維新後の壬申戸籍では「平民」とされ、1880年には彼の祖父にあたる朴伊駒を含む苗代川の男子364人が連名で「士籍編入之願」を鹿児島県庁に提出しましたが、1885年の最後の請願まで却下され続けました。この嘆願は結局聞き入れられることはありませんでした。
その翌年の1886年、朴家は「東郷」を名乗る士族の家禄を購入し、その戸籍に入りました。これにより、当時4歳になる3ヶ月前だった茂徳は9月6日付で「東郷茂徳」となりました。なお、鹿児島では「東郷」姓は珍しいものではなく、朴家が入籍した東郷家は東郷平八郎とは無関係でした。
茂徳の父である朴寿勝は陶工ではありませんでしたが、雇った陶工の作品を横浜の外国人など県外に向けて販売し、財を築いた事業家でもありました。母親の朴トメも朝鮮系日本人で、朴氏の末裔でしたが、並外れた知力と努力で読み書きを学び、夫の陶器店の経理と記録を担当しました。彼女は誰がいつ訪問し、何を話したか、金銭のやり取りまで全てを記憶し、夫の陶器店の経理と記録を完璧に担当しました。茂徳が生まれる3年前には姉が生まれており、最初の子供が男子でなかったため、彼の曽祖母は非常に落胆したと伝えられています。曽祖母は長男を産めなかった幼い孫嫁トメに対し、露骨に残念がっていたといいます。しかし、後に茂徳が生まれると、曽祖母は飛び上がるほど喜び、その喜びようは近所の人々が呆れるほどだったと伝えられています。茂徳自身は、自分が朝鮮人の血を引いていることに深く悩み、この背景が彼のコンプレックスとなりました。彼は表向きは朝鮮系であること隠していましたが、未踏の地である朝鮮に憧れを抱いていたとされます。
2.2. 教育と初期のキャリア
茂徳は1889年に下伊集院村立尋常高等小学校(後の美山小学校)に入学しました。幼少期から非常に勉強熱心で、学校の授業の他に私塾で読書指導を受け、論語なども学びました。彼の外姪(姉の娘)である山口トシは、彼が「服が擦り切れるほど机に向かい、本をめくる少年だった」と回想しています。
学校では日本人同級生からいじめられ、農夫の息子である崎元義雄だけが彼の唯一の友人でした。崎元は後に医者になりますが、茂徳について「士族の子供たちへの対抗意識、反抗心があり、その反動で私たち二人は勉強に没頭した。士族の子供たちは私たちが勉強するのを嫌がり、いじめをしたので、静かな照国神社の境内で予習と復習に励んだ」と語っています。茂徳は常にポケットに英和辞典を入れて単語を暗記し、1ページを覚えると破り取って飲み込んでいたといいます。彼はいつも寡黙で、必要なこと以外は話しませんでした。
茂徳は鹿児島県尋常中学校(現・鹿児島県立鶴丸高等学校)を経て、1901年9月に新設されたばかりの旧制第七高等学校造士館(現・鹿児島大学)に進学しました。高校時代からの親友に、後に鈴木貫太郎内閣で農相を務める石黒忠篤がいました。彼はこの学校に赴任していた片山正雄に師事し、ドイツ文学への理解を深めていきました。この頃、父の強い反対を押し切り、文学部志望を明確にしました。父は法学部への進学と将来の内務省入省、県知事就任を望んでいました。
1904年9月、東郷は東京帝国大学文科大学独逸文学科に進学しました。彼の師である片山も同時期に学習院大学教授として赴任し、片山は自身の師であるドイツ文学者の登張信一郎を東郷に紹介し、3人で「三代会」を結成しました。1905年5月、大学の文芸雑誌『帝国文学』にフリードリヒ・フォン・シラーの戯曲『マリア・スチュアルト』を題材とした文芸批評が掲載され、これは東郷唯一の文芸批評となりました。また、翌年1月には片山が著した『男女と天才』に登張とともに序文を寄せ、この時に初めて「青楓」の雅号を用いています。東大時代前半は登張の影響でドイツ文学者を志していました。
しかし、大学生活は順調ではなく、主査教授との相性が合わず、授業成績は振るいませんでした。教授はドイツ文献を中心に教え、会話形式での発表を重視しましたが、東郷はドイツ語での応答が得意ではなく、文学本来の夢を追求したい彼にとって、文献解釈に終始する教授のやり方は学習スタイルに合いませんでした。そのため、講義内容は理解できず、授業にはほとんど出席せず、図書館にこもって読書にふけりました。
1908年7月、東京帝国大学文科大学独文科を卒業しました。病気療養のため休学したため、通常より1年多くかかりました。卒業時は小宮豊隆と同期でしたが、東郷は後に小宮を知らなかったと述べています。成績は同期6人中ビリで、彼にとっては初の屈辱でした。さらに、下宿が火事で全焼し、本も全て失うという事件を経験しました。この事件を機に、彼は東京帝国大学独文科教授や文芸評論家、ドイツ語小説家になるという夢を諦めました。
1909年(明治42年)には明治大学でドイツ語講師を務めるなどしたのち、1912年(大正元年)に外交官及領事官試験に3度目の受験で合格し、外務省に入省しました。彼の同期には後に内閣情報局総裁を務める天羽英二がいました。父の寿勝は、内務官僚の道ではないにしても、身分を変えるという偉業を成し遂げた息子を非常に喜び、村人を招いて一週間にわたる祝宴を開いたといいます。祝宴後、官報に合格者発表が出ると、父寿勝は本籍地を「鹿児島市西千石町82番地の2」に移し、苗代川村との縁を完全に断ち切りました。これは、300年近く続いてきた朝鮮の血統との完全な決別を意味しました。
外務省に採用された直後、腎臓病を患い入院し、待機発令を受けましたが、その後政務局と通商局で7ヶ月間勤務しました。当時は公文書を全て筆で書く時代でしたが、茂徳は漢文、中国語、英語、ラテン語、ドイツ語に堪能で、特に古典を学んでいたため漢文の能力が非常に高かったと評されました。勤務初期には「漢字の駆使や筆力に優れ、問題把握と対応能力が鋭い」と評価されています。彼は頑固ではなく寡黙であったため、むしろ高位の上司たちが彼を気楽に扱い、常に仕事を与えていました。しかし、彼は不平不満を一切漏らすことはありませんでした。同僚の北田正元は後に「西洋的な思想を持ちながらも東洋的な人格修養、儒教的な鍛錬もできており、そこに文学的な素養まで兼ね備えた友人だった」と回顧しています。
3. 外交官としての経歴
東郷茂徳は、そのキャリアを通じて様々な国際的な局面で日本の外交を担い、特にドイツやソビエト連邦での勤務において、その手腕を発揮しました。
3.1. 海外勤務と初期の外交活動
東郷の最初の海外赴任は1913年の満洲瀋陽にある日本領事館の領事官補としてでした。その後、1916年にはスイスベルンの日本公使館に赴任しました。1919年から1921年にかけては、第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約締結に伴う日独関係再構築のため、対独使節団の一員としてワイマール共和国下のベルリンに赴任しました。この時期のドイツはカップ一揆が勃発するなど混乱期にありましたが、日独関係は比較的安定していました。彼はこの赴任中に、後に妻となるエディ・ド・ラロンドと出会いました。
1921年に日本へ帰国し、外務省欧米局一課事務官(後に同課長)に配属され、主に対ソ交渉を担当しました。1926年にはアメリカのワシントンにある日本大使館の主席書記官として赴任しました。1929年に日本へ帰国後、短い満洲出張を経て、再びドイツ大使館の参事官として赴任しました。
1932年にはジュネーブで開催された世界軍縮会議に日本代表部事務総長として参加しましたが、この会議はほとんど成果を上げませんでした。1933年には日本へ帰国し、外務省欧米局長に就任しました。この年、彼は自動車事故で1ヶ月以上入院する重傷を負いました。
3.2. ソ連との交渉と条約締結
1938年、東郷はソ連駐在大使としてモスクワに赴任しました。この時、日本とソ連の関係は、1936年に締結された防共協定の影響で悪化しており、前任の重光葵大使が赴任していた間も改善の兆しは見えませんでした。
しかし、東郷は当時のソ連外相ヴャチェスラフ・モロトフとの間で、ソ連・日本漁業協商やノモンハン事件勃発後の停戦交渉を進める中で、互いに認め合う関係を築いていきました。モロトフは東郷を「日本の国益を熱心に主張した外交官」として高く評価しました。このような関係改善の兆しを背景に、東郷は悪化するアメリカとの関係を改善し、泥沼化する日中戦争(支那事変)を打開するため、日ソ中立条約の交渉を開始しました。日本側はソビエトが蔣介石政権への援助を停止すること、ソ連側は日本が北樺太の権益を放棄することを条件とし、交渉はほぼまとまりかけていました。
しかし、第2次近衛内閣が成立し、松岡洋右が外務大臣に就任すると、北樺太の権益放棄に反対する陸軍の意向を受けて、東郷には帰朝命令が出されてしまいました。松岡は暗に東郷の外務省退職を求めましたが、東郷はこれを拒否し、逆に懲戒免職を求めて抵抗しました。
その後、松岡が締結した日ソ中立条約は、既に日独伊三国同盟が成立しており、北部仏印進駐によってアメリカの対日経済制裁が強化されていたことなどから、東郷が当初意図したようなアメリカとの関係改善には繋がりませんでした。結果として、この条約はソ連がナチス・ドイツの侵攻に備えるための意味と、日本の大陸での南進への間接的な援護としての意味しか持たなくなりました。加えて、日本側の北樺太権益の放棄もない代わりに、ソ連側の蔣介石政権への援助停止も盛り込まれない内容となり、東郷には不満が残る結果となりました。外相経験もある元老西園寺公望は、東郷が松岡によって駐ソ連大使を更迭され、外務省から追われそうだと聞き、深く慨嘆したと伝えられています。
3.3. 主要な大使としての役割
東郷は1937年から1938年にかけて、日本の駐ドイツ大使としてベルリンに赴任しました。この時期、ナチスが台頭しており、状況は一変していました。ドイツは対外的にはオーストリアやチェコスロバキアへの侵攻を進める状況にあり、国内ではベルリンのシナゴーグがナチスによって焼き討ちされるなど、ユダヤ人迫害が顕在化していました。元々ドイツ文学に傾倒し、ドイツ文化に深い理解があった東郷はナチスの全体主義的な思想や人権侵害に嫌悪感を抱かざるを得ませんでした。そのため、日独伊三国同盟締結を強く望む陸軍の意向を受けていたベルリン駐在陸軍武官大島浩や、日本との同盟を熱望するナチス・ドイツの外交担当ヨアヒム・フォン・リッベントロップと激しく対立しました。この対立の結果、東郷は駐独大使を罷免されました。
その後、1938年から1940年まで駐ソ連大使としてモスクワに赴任しました。彼は、当時のソ連外相ヴャチェスラフ・モロトフとの間で、ノモンハン事件後の平和的解決のための交渉を行い、1941年4月にはソ連・日本中立条約を成功裏に締結しました。この時期、東郷はモロトフから「日本の国益を熱心に主張した外交官」として高く評価されました。
4. 政治家としての経歴
東郷茂徳は、外交官としての経験を基に、日本の政治において重要な役割を担いました。特に第二次世界大戦中、外務大臣として日本の外交政策を左右する立場にありました。
4.1. 大臣としての任官
東郷は東條内閣において、1941年10月18日から同年12月2日まで第21代拓務大臣を務めました。その後、1945年4月9日からは鈴木貫太郎内閣において、第4代大東亜大臣と外務大臣を兼任し、同年8月17日の鈴木内閣総辞職までその職にありました。
拓務大臣としては、開戦直前の時期に、植民地行政に関する政策決定に携わりました。また、大東亜大臣としては、戦争末期の疲弊した日本の状況下で、大東亜共栄圏の理念に基づく外交政策の最終局面を担いました。彼は、大東亜省がアジア諸国を日本の植民地のように扱うと内外から見られることを危惧し、その設置には反対の立場をとりました。
4.2. 外務大臣として
1941年10月、東郷は東條内閣の外務大臣として入閣しました。当時、昭和天皇は東條に対し、対米参戦回避に尽力するよう直接命じていたとされ、これを受けて東條は対米協調派の東郷を外相に起用しました。
外務省内では、東郷は職業外交官としての手腕には定評があったものの、主流派とは言えず、打ち解けない性格から省内人脈も少ないとされていました。しかし、外相に就任した東郷は、次官に西春彦、アメリカ局長に山本熊一、アメリカ課長に加瀬俊一を迎え、対米交渉の布陣を強化しました。また、省内の統制を取り戻すため、枢軸派の大使1名に辞表提出を求め、その他課長2名・事務官1名を休職させるなど、毅然とした態度で臨みました。
東郷は、天皇と東條の意を受け、日米開戦を避けるための交渉を開始しました。まず、北支・満洲・海南島からの5年以内、その他地域からの2年以内の撤兵を条件とする妥協案「甲案」を提出しましたが、陸軍の強硬な反対とアメリカ側の強硬な態度から、交渉妥結は困難でした。このため、幣原喜重郎が立案し、吉田茂と東郷が修正を加えた「乙案」が提出されました。この案は、在米資産凍結以前の状態に戻すことを目的とし、日本側の南部仏印からの撤退とアメリカ側の石油対日供給を条件としましたが、中国問題に触れていなかったため、統帥部が「アメリカ政府は日中和平に関する努力をし、中国問題に干渉しない」という条件を加えることを求めました。この修正案は、来栖三郎特使と野村吉三郎駐米大使を通じて、アメリカのコーデル・ハル国務長官に提示されました。
しかし、その後にアメリカ側から提示されたハル・ノートを読み終えた東郷は「目も暗むばかり失望に撃たれた」と述べたとされます。彼は開戦を避けることができなくなったと考え、ハル・ノートを「最後通牒」であると御前会議に上奏し、結果として太平洋戦争開戦の決定に至りました。実際にはハル・ノート自体に最後通牒であることが明記されておらず、試案であり拘束するものではないと書かれていましたが、戦後の極東国際軍事裁判で東郷は自身の弁護において、この条件では日本が自殺するか戦争するしかないと考えたと主張しました。これは「ハル・ノート=米国の最後通牒」説の最初のものとなりました。
吉田茂は東郷に辞職を迫りましたが、東郷は今回の開戦は自身が外交の責任者として行った交渉の結果であり、他者に開戦詔書の副署をさせるのは無責任であると考え、また自分が辞任しても親軍派の新外相が任命されるだけだと考えてこれを拒みました。彼は、早期の講和実現に全力を注ぐことを決意しました。
1941年12月7日の真珠湾攻撃で太平洋戦争が開始されると、東郷は直ちにタイ王国との同盟締結(1941年12月23日)に尽力しました。また、西方諸国に対するより協調的な政策の一環として、1942年1月21日、日本政府はジュネーヴ条約を締結していなかったにもかかわらず、これを遵守することを発表しました。
しかし、1942年9月1日、彼は占領地のための特殊な省(大東亜省)を日本政府内に設置することに反対し、外務大臣の職を辞任しました。この新しい省は、同年11月に設置されました。彼は、外務省とは別に大東亜省が設置されることで、日本がアジア諸国を自国の植民地と同じように扱っていると国内外から見られることを危惧したのです。また、これは「早期講和」に消極的な東條内閣に対する一種の倒閣運動であったとも見られています。その後、彼は貴族院議員に任命されましたが、戦争の大部分を隠遁生活で過ごしました。
1945年4月に鈴木貫太郎提督の内閣が成立すると、東郷は再び外務大臣の職に復帰するよう要請されました。鈴木首相は「戦争の見通しはあなたの考え通りで結構であるし、外交は凡てあなたの考えで動かしてほしい」と述べ、東郷の入閣を強く望みました。この職務において、彼はポツダム宣言の受諾を強く主張した主要な推進者の一人でした。彼は、ポツダム宣言が日本が期待できる最高の平和条件を含んでいると確信していました。東郷は最後までソ連からの有利な条件を期待し、彼の提案により、日本は当初、宣言に対して公式な回答を控えました。しかし、連合国指導者たちはこの沈黙を宣言の拒否と解釈し、爆撃の継続を許可しました。
5. 第二次世界大戦と外交政策
東郷茂徳は、第二次世界大戦開戦前後の日本の外交政策において中心的な役割を担い、特に開戦回避への努力と、戦争終結に向けた交渉において重要な存在でした。
5.1. 開戦回避への努力
東郷は、アメリカ合衆国や他の西方諸国との戦争に断固として反対しており、それは概して勝てない戦争であると感じていました。彼は近衛文麿首相とフランクリン・ルーズベルト米大統領との直接会談を最後の手段として調整しようとしましたが、これは失敗に終わりました。
1941年10月、東條内閣の外務大臣に就任した東郷は、天皇と東條の意を受けて日米開戦を避ける交渉を開始しました。しかし、ハル・ノートの提示により、東郷は開戦回避が不可能であると判断し、御前会議で「最後通牒」であると上奏しました。日本が開戦を決定すると、東郷は外交の責任者としての立場から、責任を他人に押し付けることを嫌い、自ら対米英宣戦布告に署名しました。
1941年12月1日の御前会議において、戦後極東国際軍事裁判で東條英機が尋問に対し語ったところによると、昭和天皇は東條首相に対し「最終通告の手交前に攻撃開始の起こらぬよう気をつけよ」と注意を与えていました。また、野村吉三郎駐米大使からも11月27日付で「交渉打ち切りの意思表示をしないと、逆宣伝に利用される可能性があり、大国としての信義にも関わる」との意見具申がありました。
このため東郷は、永野修身軍令部総長、伊藤整一軍令部次長ら、交渉を戦闘開始まで打ち切らない方針だった海軍側との交渉を開始しました。山本五十六連合艦隊司令長官も上京し「無通告攻撃には絶対に反対」と表明したとされ、海軍側も事前通告に同意し、ワシントン時間12月7日午後1時(日本時間8日午前3時)に通告、ワシントン時間7日午後1時20分攻撃、と決定されました。しかし、実際の交付は当初予定より1時間20分遅れ、ワシントン時間7日午後2時20分に通告される形となりました(真珠湾攻撃開始の1時間後)。日本の通説では駐ワシントン日本大使館の事務上の不手際が原因とされますが、異説も存在します。一方、これらの日本側の状況をアメリカ側の首脳陣は「マジック」と呼ばれる暗号解読によって外交通電内容をほぼ把握していましたが、アメリカ各地へ事態を知らせる警告は、至急手段をとらずに行われていました。
ただし、この時に日本が実際にアメリカに手交した「帝国政府ノ対米通牒覚書」は、宣戦布告の通牒でも何らかの最終通告でもありませんでした。しかし、後の東京裁判で東郷は自身の弁明のために、自分の意見としてはこの通告は宣戦布告と同様に考えていると主張しました。公になったものとしては、この東京裁判における東郷の言説が、「日本は宣戦布告を開戦前にするはずであったが、手違いで通告が遅れた」とする主張の最初のものとなっています。
開戦直前まで日米交渉を継続したことが、アメリカ側からは開戦をごまかす「卑劣極まりないだまし討ち」として、終戦後に東郷が極東国際軍事裁判で起訴される要因の一つとなりました。もともと東郷は国際検事局の尋問に海軍は無通告で攻撃するよう働きかけていたことを語っていましたが、これについて、法廷で外務省の責任ではないかとするブラナン弁護人(海軍永野修身の弁護人)の東郷に対する執拗な尋問が続くうちに苛立ち、海軍の永野と嶋田繁太郎がこれについて話せばためにならないと自分を脅していたことを暴露しました。嶋田は言った事実は認めたものの、これは文字通り東郷の身を心配して言ったものだと主張しました。
5.2. 戦争遂行と早期講和の模索
東郷は開戦後も「早期講和」の機会を探るために外務大臣を留任しましたが、翌年の大東亜省設置問題を巡って東條英機首相と対立して辞任しました。外務省と別個に大東亜省を設置することで、日本がアジア諸国を自国の植民地と同じように扱っていると内外から見られることを危惧したことや、「早期講和」に消極的な東條内閣に対する一種の倒閣運動だったと見られます。
5.3. ポツダム宣言受諾と終戦交渉
1944年7月9日のサイパン島陥落にともない、日本の敗戦が不可避だと悟った東郷は、世界の敗戦史の研究を始めました。獄中で記した手記『時代の一面』には「日本の天皇制は如何なる場合にも擁護しなくてはならない。敗戦により受ける刑罰は致し方ないが、その程度が問題である。致命的条件を課せられないことが必要であり、従って国力が全然消耗されない間に終戦を必要と考えた」と記しています。
1945年4月、東郷は終戦内閣である鈴木貫太郎内閣の外務大臣に就任しました。鈴木貫太郎首相から「戦争の見透かしはあなたの考え通りで結構であるし、外交は凡てあなたの考えで動かしてほしい」との言葉を受けて入閣した東郷は、昭和天皇の意を受け終戦交渉を探りました。当時、ヨーロッパでは既にドイツの敗北が必至の情勢まで悪化しており、アメリカが太平洋戦争へ戦力をさらに投入してくることや、ソ連が攻めてくる可能性があるなどの状況となっていたにもかかわらず、陸軍を中心に本土決戦が叫ばれ、事態は猶予のない状態になっていました。
5.3.1. 対ソ交渉
東郷は和平に向けた意見交換の場を設けるため、総理大臣・外務大臣・陸海軍の大臣および統帥の長(参謀総長・軍令部総長)の6人による会合を開くことを他の5人に提案しました。当時、最高意思決定機関としては、この6人に加えて次官級が出席する最高戦争指導会議がありましたが、この席では軍の佐官級参謀が作成起案した強硬な原案を審議することが多く、それを追認する形になりがちでした。東郷はトップが下からの圧力を受けずに腹蔵なく懇談できる会議を求めました。他の5人もこれに賛同し、内容は一切口外しない条件で、最高戦争指導会議構成員会合として開かれることになりました。
1945年5月のドイツ敗戦後、日本国内ではソ連を通じた「無条件降伏ではない和平」の仲介を求める動きが起きるようになりました。5月中旬に開かれた最初の最高戦争指導会議構成員会合で、陸軍参謀総長の梅津美治郎が、ドイツの敗戦後、日本とは中立状態にあったソ連が極東に大兵力を移動しはじめていることを指摘し、ソ連の参戦を防止するための対ソ交渉の必要性が議題になりました。そこで東郷は、ソ連を仲介して和平交渉を探るという方策を提案しました。これに対し陸軍大臣の阿南惟幾は、日本は負けたわけではないので和平交渉よりもソ連の参戦防止を主目的とした対ソ交渉とすべきだとして東郷の見解に反対しました。結局、米内光政海軍大臣が間に入り、まずソ連の参戦防止と好意的中立の獲得を第一目的とし、和平交渉はソ連の側の様子をみておこなうという方針が決定されました。この会議では、ソ連の参戦防止のため、代償として樺太の返還、漁業権の譲渡、南満州の中立化などを容認することで一致しました。
この決定を受けて東郷は、ソ連通の広田弘毅元総理を、疎開先の箱根に滞在していたマリク駐日ソ連大使のもとに派遣し、ソ連の意向をさぐることにしました。マリクと広田は旧知の間柄でした。しかし2度の会談ではお互いが自らの意見は明確にせず、相手の具体的要求を探る形に終始しました。マリクにはソ連の対日参戦の意向は知らされていませんでしたが、モロトフ外相に対する会談の報告には「具体的な要求を受け取らない限りいかなる発言もできないと回答するつもりだ」と記しました。これに対してモロトフはこの立場を支持し、今後は広田からの要請でのみ会談をおこない、一般的な問題提起しかなければその報告は外交クーリエ便だけにとどめよと訓令しました。この訓令はスターリンも承認したもので、歴史家の長谷川毅はソ連首脳が日本の戦争を長引かせるのに広田・マリク会談を利用したと記しています。その後、広田とマリクは2度の会談をおこない、6月29日の最後の会談では日本の撤兵を含む満州国の中立化・ソ連の石油と日本の漁業権との交換・その他ソ連の望む条件についての議論の用意を条件として挙げましたが、成果をあげることなく終わりました。モスクワにあってソ連の動向を探っていたソ連大使の佐藤尚武はソ連を仲介とした和平交渉の斡旋を求める東郷の訓令に反対する意見を具申しましたが、東郷の受け入れるところとはなりませんでした。
この最高戦争指導会議構成員会合の対ソ交渉の決定により、それまでスウェーデン、スイス、バチカンなどでおこなわれていた陸海軍・外務省などの秘密ルートを通じておこなわれていた講和をめぐる交渉はすべて打ち切られることになりました。東郷はソ連大使時代に苦労をした経験からソ連外交の狡猾さを知り尽くしていたはずにもかかわらず、結果的にはソ連に期待する外交を展開してしまったわけです。これについては、当時外務省で東郷に直接仕えていた加瀬俊一が証言するように、強硬派の陸軍が、ソ連交渉だけなら(中立維持のための交渉という前提で)目をつぶるというふうな態度だったため、東郷はそれに従ったのだ、というふうに解釈されるのが一般的です。また昭和天皇がソ連交渉には好意的であったことも東郷の考えに影響していました。東郷自身はポツダム宣言受諾後の8月15日に枢密院でおこなった説明の中で、米英が「無条件降伏ではない和平」「話し合いによる和平」を拒否する態度だったために話し合いに事態を導きたかったが、バチカン・スイス・スウェーデンを仲介とした交渉はほぼ確実に無条件降伏が前提になるとみられたので放棄し、ソ連への利益提供で日本の利益にかなうよう誘導して終戦に持ち込むことが得策とされたと述べています。
ソ連側の態度が不明なまま時間は推移していく中、6月22日、天皇臨席の最高戦争指導会議構成員会合の場で、参戦防止だけではなく、和平交渉をソ連に求めるという国家方針が天皇の意思により決定されました。鈴木・東郷・陸海軍は近衛文麿元総理をモスクワに特使として派遣する方針を決め、7月に入り、ソ連側にそれを打診しました。しかしソ連側は近々開催されるポツダム会談の準備のため忙しいということで近衛特使案の回答を先延ばしにするばかりでした。こうして7月26日のポツダム宣言に日本は直面することになります。
ポツダム宣言を知った東郷は、「1.この宣言は基本的に受諾した方がよい 2.但しソ連が宣言に参加署名していないことや内容に曖昧な点があるため、ソ連とこの宣言の関係をさぐり、ソ連との交渉と通じて曖昧な点を明らかにするべきである」という結論を出し、参内して天皇と話しあいました。このとき、昭和天皇がポツダム宣言に対してどのような反応を示したかは不明確です。東郷自身のメモでは「このまま受諾するわけにはいかざるも、交渉の基礎となし得べしと思わる」と述べたといいます。一方、東郷の部下だった加瀬俊一は「原則的に受諾可能と考える」と述べたと記していますが、纐纈厚はこの発言は確認不可能で、「天皇は、特に宣言に重大な関心を示さなかったという」と記述しています。纐纈は、たとえ「原則的に受諾可能」だったとしても、天皇も外務省当局もソ連との交渉による和平実現の期待を依然として持ち続けていたため、その結果を見るまでは宣言を即座に受け入れるところまで踏み切れなかったとも記しています。天皇は宣言の具体的な点についてはソ連を通じた折衝で明らかにしたいという東郷の意見に賛同し、木戸幸一との会談の後、モスクワでの交渉の結果を待つという東郷の意見を認めました。
しかし阿南陸相は東郷の見解に猛反対し、ポツダム宣言の全面拒否を主張しました。また、もともと和平派的立場だった鈴木貫太郎首相と米内光政海軍大臣は、「この宣言を軽視しても大したことにはならない。ソ連交渉で和平を実現する」という甘い認識のもと、ポツダム宣言には曖昧な見解でした。結局、ポツダム宣言に対しては「受諾も拒否もせず、しばらく様子をみる」ということになりました。しかし、アメリカの短波放送がすでに宣言の内容を広く伝えたためこれを無視できないとして、コメントなしの小ニュースとして国内には伝えることとしました。だが、7月28日朝刊には「笑止」(読売新聞)「黙殺」(朝日新聞)といった表現が現れました。28日午前に東郷が欠席した大本営と政府の連絡会議では、阿南と豊田副武軍令部長・梅津美治郎参謀総長が政府によるポツダム宣言非難声明を強硬に主張し、米内海相が妥協案として「宣言を無視する」という声明を出すことを提案し、これが認められました。同日、鈴木首相の会見は「三国共同声明はカイロ会談の焼直しと思ふ、政府としては何等重大な価値あるものとは思はない、ただ黙殺するのみである。われわれは戦争完遂に飽く迄も邁進するのみである」という表現で報じられました。連合国はこの日本語を「reject(拒否)」と訳し、これに対し東郷は鈴木の発言が閣議決定違反であると抗議しています。
こうして8月6日のアメリカの広島への原子爆弾投下、8月8日のソ連の対日参戦という絶望的な状況変化が日本に訪れることになります。
5.3.2. 終戦の実現
事態の急変を受けて、8月9日午前、最高戦争指導会議が開催されました。東郷は「皇室の安泰」のみを条件としてポツダム宣言受諾をすべきと主張し、米内海相と平沼騏一郎枢密院議長がこれに賛成しました。しかし阿南陸相は、皇室の安泰以外に、武装解除は日本側の手でおこなう、占領は最小限にし東京を占領対象からはずす、戦犯は日本人の手で処罰する、との4条件説を唱え、これに梅津美治郎陸軍参謀総長と豊田副武海軍軍令部総長が同意して議論は平行線になりました。特に東郷・米内と阿南の間では激しい議論が続きました。「戦局は五分五分である」という阿南に対し「個々の武勇談は別としてブーゲンビル、サイパン、フィリピン、レイテ、硫黄島、沖縄、我が方は完全に負けている」と米内は反論しました。また「本土決戦は勝算がある」と主張する阿南・梅津に対し「もし仮に上陸部隊の第一波を撃破できたとしても、我が方はそこで戦力が尽きるのは明白である。敵側は続いて第二波の上陸作戦を敢行するに違いない。それ以降まで我が方が勝てるという保証はまったくない」と東郷は主張しました。
この会議の中、長崎に第二の原子爆弾が投下されました。会議は深夜にいたり、天皇臨席の御前会議となりました。陸軍大臣阿南は、将来の確実な楽観が持てないまま降伏すれば、「大和民族は精神的に死ぬことと同じだ」と強く主張し、軍部からは「徹底抗戦」を叫ぶ声が上がりました。軍部では皇室の安泰に加えて、日本軍の自主的な撤退、占領地の最小限化(特に東京の除外)、戦争犯罪者の日本人による処罰という多条件降伏論が大勢を占める中、東郷の「皇室の安泰」のみを条件とする単一条件降伏論は少数派に追いやられました。
この議論は8月9日午後の臨時閣僚会議に引き継がれましたが、会議は結局決裂しました。この頃、天皇を動かす側近であった木戸幸一宮内大臣は、近衛文麿元総理らが多条件降伏論に懐疑的であること、そしてアメリカが天皇制維持の要求を受け入れるかどうかに懸念を抱いていることを把握していました。
東郷は「最早、暴走する軍部を抑える力は政府内閣にはない。天皇陛下が直接ご決断を下すことでしか事態を収拾できない」と主張し、天皇による聖断(終戦の意思決定)を強く求めました。このため、東郷は「売国奴」であるとして右翼からの非難や抗議デモが発生しました。
その夜の午後11時50分から天皇臨席の御前会議が開かれました。会議は、天皇が直接降伏を決定するのではなく、あくまで鈴木首相が東郷外相の「天皇制維持という条件付き降伏」案を提案し、天皇がそれを受け入れる形が取られました。天皇は外務大臣の案に同意であると発言、またその理由として陸海軍の本土決戦準備がまったくできていないこと、このまま戦いを続ければ日本という国がなくなってしまうことなどを述べました。こうしてポツダム宣言の受諾は決まりました。その受諾案において東郷は「皇室の安泰」という内容を(国体護持を講和の絶対条件とする抗戦派への印象を和らげるため)「天皇の国法上の地位を変更する要求を包含し居らざることの了解の下」としていたのに対し、平沼の異議を受け「天皇の国家統治の大権に変更を加うるが如き要求は之を包含し居らざる了解の下」と変更が加えられた上で、天皇が受諾を決定しました。
東郷は原爆投下について、スイス政府などを通じて抗議するように駐スイスの加瀬俊一公使へ指示するに促し、「大々的にプレスキャンペーンを継続し、米国の非人道的残忍行為を暴露攻撃すること、緊急の必要なり... 罪なき30万の市民の全部を挙げてこれを地獄に投ず。それは「ナチス」の残忍に数倍するものにして...」と述べました。また宣戦布告を通告してきたマリク・ソ連大使に向かって直接、中立条約に違反したソ連の国際法違反に厳重に抗議をしています。
日本の降伏に関して、天皇や皇室は終戦後の日本の混乱を収拾するために必要な存在であるとの認識は、連合国の政府に少なからず存在しました。しかし「天皇の統治大権に変更を加えない」という受諾案はアメリカ首脳の間に波紋を与えました。トルーマン大統領は、ホワイトハウスで開いた会議で「天皇制を維持しながら日本の軍国主義を抹殺することができるか、条件付きの宣言受諾を考慮すべきか」と問いかけました。出席者の中でフォレスタル海軍長官やスティムソン陸軍長官、リーヒ海軍元帥は日本側回答の受諾を主張しましたが、外交の中心人物であるバーンズ国務長官が「なぜ日本側に妥協する必要があるのかわからない」と反論して、トルーマンがこれに賛同しました。フォレスタルが「(連合国側が)降伏の条件を定義する形で日本の受諾を受け入れる」という妥協案を示し、トルーマンがこれを受け入れてバーンズに回答文の作成を命じ、天皇皇室に関しては曖昧にこれを認めるという回答文が日本側に8月12日に提示されることになりました。
この「バーンズ回答」によると、天皇は「連合国最高司令官の権限に従属する subject to英語」こと、そして「天皇制度など日本政府の形態は日本国民の意思により自由に決定すること」と記されていました。これは巧みな形で天皇・皇室の維持を認めている曖昧な文章でした。阿南陸相、梅津参謀総長などはこの回答に対し、天皇皇室に関して曖昧なので連合国に再照会すべきだと強硬に主張し、ふたたび政府首脳は議論の対立に陥りました。東郷と米内海相は再照会は交渉の決裂を意味するとして反論しましたが、当初はポツダム宣言受諾に賛成していた平沼騏一郎枢密院議長が陸軍に同意するなどして事態は混乱し、12日深夜、失意と疲労に満ちた東郷はいったん辞任を表明しかけてしまいました。東郷の辞意に驚いた鈴木首相は再度の御前会議により事態の収拾をはかることを東郷に約束、辞意を翻させました。
しかし14日、昭和天皇が「前と同じく、私の意見は外務大臣に賛成である」という二度目の「聖断」として東郷支持を涙を流して表明したことにより、陸軍の強硬派もようやく折れ、ポツダム宣言受諾を迎えることになりました。阿南は終戦の手続きに署名したのち論敵だった東郷を訪れ、「激論を繰り返しましたが、陸軍大臣としての職責からです。色々とお世話になりました」とにこやかに礼を述べ、東郷も「無事に終わって本当によかったです」と阿南に礼を述べました。あらゆる意味で几帳面な東郷は宣言受諾に際し、連合軍先方に、日本陸軍の武装解除は最大限名誉ある形にしてもらいたいと厳重に注意通告し、阿南はそのことを東郷に感謝していると述べて立ち去りました。阿南は鈴木首相にも別れを告げたのち、翌15日未明「一死ヲ以ッテ大罪ヲ謝シ奉ル。神州不滅ヲ確信シツツ」の遺書を残して割腹自決しました。人前で涙など見せたことのない東郷ですが、阿南自決の報に「そうか、腹を切ったか。阿南というのは本当にいい男だったな」と落涙しました。
6. 戦後と極東国際軍事裁判
第二次世界大戦終結後、東郷茂徳は戦犯容疑者として逮捕され、極東国際軍事裁判でその外交活動が裁かれることとなりました。

6.1. 逮捕と収監
戦争終結後、東郷は東久邇宮内閣に外務大臣として留任するよう要請されましたが、「戦犯に問われれば、新内閣に迷惑がかかる」としてこの依頼を断りました。その後、妻と娘のいる軽井沢の別荘に隠遁しました。
しかし、1945年9月11日、彼は東條英機元首相とともに、連合国軍最高司令官総司令部から真っ先に訴追対象者として名前を挙げられました。海外記者との会見において、東郷は、自身が8月9日の会議で終戦の決定を勝ち取ったこと、東條内閣には日米懸案の解決に努力するという条件で外相を引き受けたのだと語りました。東郷が開戦に賛同したことを知る海外記者らから「戦争中に意見を変えたのか」と問われると、自身はあくまで一貫して対英米開戦反対論者であったと主張しました。彼は、ハル・ノートを見て開戦に舵を切ったのは、単なる自己保身のためではなく、内閣に残ることで開戦しても早期停戦を目指したためだと述べました。
連合軍総司令部から逮捕命令が出されましたが、病気により拘束は免れ、回復後の9月末に出頭し、取調べを受けました。
6.2. 裁判と判決
終戦翌年の1946年4月17日、東郷は戦犯として裁判対象となることが確定し、4月29日に起訴され、5月1日に巣鴨拘置所に拘置され、同年5月3日には極東国際軍事裁判が開廷されました。最終的には対英米蘭の戦争に限らず侵略戦争全体の共同謀議及び対中国を含む戦争遂行の責任、並びに通例の戦争犯罪及びその防止怠慢の責任で連合国側から訴追される形となりました。
彼の弁護人には、同じ鹿児島県出身であり、最初の外務大臣時代の外務次官だった西春彦(後の駐英大使)と、アメリカ人弁護団唯一の日系人であるジョージ山岡らが付き、娘婿の東郷文彦が事務を担当しました。
裁判は1947年12月15日に東郷の個人反証に入りました。この日、彼は「電光影裏、春風を斬る」とその心境を色紙にしたためて臨みました。検事側と東郷・弁護人らの激しい応酬が繰り広げられました。東郷は、開戦論を主張したのは東條英機首相、嶋田繁太郎海相、鈴木貞一企画院総裁の3人であると主張しました。さらに、特に巣鴨拘置所での嶋田繁太郎元海軍大臣とのやり取り(開戦の時の証言で「摺り合せを要求された」と東郷が受け取った件)について紛糾して当時の話題となりました。開戦時及び終戦時に外相の地位にあった東郷は、対米開戦の際海軍は無通告攻撃を主張したが「余は烈しく闘った後、海軍側の要求を国際法の要求する究極の限界まで食い止めることに成功した。余は余の責任をいささかも回避するものではないが、同時に他の人々がその責任を余に押し付けんとしても、これに伏そうとするものではない」と、いかに軍国主義者と対立してきたかを口述書に述べました。これに対して、永野修身の担当弁護人ジョン・ブラナンが、皆が無通告攻撃の主張については知らないと言っていると追究し、対して東郷は「私はこれらの人々の記憶力を信頼しない。現にあれほど重大な11月5日の御前会議(対米交渉で要求が通らない場合は12月初めに開戦することを決定した会議)のことを私が言うまで忘れていたではないか」と返しました。また、ブラナンは海軍が無通告攻撃を主張した証拠があるのかと東郷に質問した際、東郷は「裁判が開廷してから、嶋田と永野から、海軍が奇襲をしたがっていたことは言わないでくれ、いえばためにならない」と脅迫を受けたと暴露しました。マスコミは、裁判開始後、これを初めての重大な対立と捉え、高橋弁護人(嶋田の弁護人)が「これで何もかも吹き飛んだ」と茫然としていたことを一部マスコミは報道しています。この発言について嶋田は、翌1月の証言台において、語った事実は認めたもののそれは文字通り東郷の身を心配したもので「よほど彼の心中にやましいところがなければ、私の言ったことを脅迫ととるはずかない。すなわち彼の心の中にはよほどやましいところがある。と言うのが一つの解釈」また「まことに言いにくい事ではありますけども、彼は外交的手段を使った。すなわち、イカのスミを出して逃げる方法を使ったと。すなわち言葉を変えれば、非常に困って、いよいよ自分の抜け道を探すためにとんでもない、普通使えないような『脅迫』という言葉を使って逃げたと」と反論しました。マスコミはこれをイカスミ論争と揶揄しました。東郷個人としては、昭和において自分が体験・経験した事を全て公にする事によって日本、そして自分自身の行動が連合国側の指摘するような「平和に対する罪」に該当する事を否定する事を主眼においていましたが、もともと決して悪意あるものではありませんでした。しかし、被告人の間でも見解が異なる事も決して少なくなく、嶋田の弁護人だった法制史学者の瀧川政次郎を始め、被告人・弁護人達の批判の対象となりました。
それ以外にも、木戸幸一が天皇が和平を望む発言を自分に伝えなかったこと、梅津美治郎が前述の通り本土決戦を主張し、和平を拒み続けたことも述べました。特に梅津とは声を荒げてやり合う場面も見せ、木戸に対しても、木戸の担当弁護人のウィリアム・ローガンが尋問を開始しても発言を止めず、しびれを切らしたローガンが「貴方は木戸を好かないのでしょう」と言う場面もありました。
このように、結果的には自分の立場のみを正当化する主張に終始したと見られたことを、重光葵は「罪せむと 罵るものあり 逃れむと 焦る人あり 愚かなるもの」と、歌に詠んで批判しています。
1948年11月4日、裁判所は東郷の行為を「欧亜局長時代から戦争への共同謀議に参画して、外交交渉の面で戦争開始を助けて欺瞞工作を行って、開戦後も職に留まって戦争遂行に尽力した」と認定して有罪とし、禁錮20年の判決を下しました。この刑は重光葵に次いで軽いものでした。
東郷は後に、裁判が法の遡及を行い、敗戦国を戦勝国が裁く「復讐・見せしめ」であると強く批判しました。彼は「私には罪がある。戦争を防げなかった罪だ。しかし東京裁判であげつらった罪は何も犯してはいない。戦争が罪と言うならイギリスのインド併合、アメリカのハワイ併合の罪も裁け」と述べ、東京裁判の不公平さを訴えました。一方で、彼は国際社会が法的枠組みによって戦争を回避する仕組みの必要性があり、新しい日本国憲法第9条がその流れに結びつく第一歩になることへの期待を吐露しています。しかし、1960年の日米安全保障条約改訂において、憲法第9条の精神を尊重することを重視して軍事的な同盟では平和がもたらされないと考える西春彦や石黒忠篤(東郷の親友、当時参議院議員)らと、交渉の担当課長として日本の平和と安全のためには条約改訂は欠かせないとする東郷文彦らが激しく対立し、後に文彦が著書で暗に西を非難するという、東郷の遺志を継ぎたいと願う人達が対立するという事態も発生しています。
東郷は以前から文明史の書を執筆して戦争がいかにして発生するのかを解明したいという考えを抱いていましたが、心臓病の悪化と獄中生活のためにこれを断念し、替わりに後日の文明史家に資するために自己の外交官生活に関わる回想録の執筆を獄中で行い、『時代の一面』と命名しました。しかし、原稿がほぼ完成したところで病状が悪化し、転院先の米陸軍第361病院(現同愛記念病院)で病死しました。
7. 私生活
東郷茂徳は、そのキャリアの華やかさとは対照的に、私生活においては国籍や出自を超えた家族関係を築きました。
7.1. 結婚と家族

1922年、東郷は家族の猛烈な反対を押し切り、カーラ・ヴィクトリア・エディタ・アルベルティーナ・アンナ・ド・ラランド(旧姓ギーゼッケ、1887-1967)と結婚しました。彼女は著名なドイツ人建築家ゲオルグ・デ・ラランデ(1872-1914)の未亡人でした。ゲオルグ・デ・ラランデは特に朝鮮の朝鮮総督府庁舎の基本設計を担うなど、日本とその植民地で数多くの行政建築を設計しました。彼らの結婚式は帝国ホテルで行われました。
エディタはユダヤ人女性アンナ・ギーゼッケとドイツ貴族の私生児として生まれましたが、出生後まもなく母が自殺したため、母の妹夫婦の養女となり、養父のピチュケ姓を名乗りました。養父が露清銀行の日本支店に転任したことで15歳で来日しましたが、養父の急死により養母が神戸で闇民宿を営んで生計を立てました。17歳のとき、滞日中だった16歳年上のユダヤ人建築家ゲオルグ・デ・ラランデに見初められ、1905年に結婚しました。この時、嫉妬した養母がエディタの出生の秘密を口外したといいます。彼女はゲオルグとの間に5人の子(ウルスラ、オッティリエ、ユキ、ハイディ、グイド)をもうけましたが、9年後に夫と死別し、ドイツに帰国しました。子供たちを施設などに預けて働き始めましたが、東郷と恋仲になり、東郷がベルリンに家を借りて子供たちを呼び寄せ同棲しました。その後、子供たちを寄宿学校や他家に預け、単身日本に向かい、1922年に東郷と結婚しました。ゲーテのロマン詩集が二人の縁を結んだとされます。
東郷は、朝鮮人の血が流れていることに深く悩んでおり、日本人女性との結婚を試みるたびに、両親の強い反対に遭い、挫折していました。そのため、40歳という年齢でドイツ人未亡人であるエディタと結婚することとなりました。
エディタとの間に、彼らには一人娘のいせ(1923-1997)が生まれました。いせは著書に『色無(いろなき)花火-東郷茂徳の娘が語る「昭和」の記憶』があります。
1943年、娘いせは日本の外交官である本城文彦と結婚しました。本城文彦は妻の家族への敬意から東郷姓を名乗り、東郷文彦となりました。東郷文彦(1915-1985)は、後に1976年から1980年まで駐米大使を務めました。彼は金大中事件や文世光事件の際、韓国国内の反日感情と日本国内の反韓感情の拡大を防ぎ、事態の収拾に尽力しました。特に1973年の日韓閣僚会議では外務省審議官として韓国を訪問し、金大中拉致事件の処理にあたりました。1974年の文世光による陸英修女史狙撃事件後には再度韓国を訪問し、事態収拾に努めました。
東郷茂徳の孫には、元ワシントン・ポスト記者の東郷茂彦と、元オランダ大使で京都産業大学教授の東郷和彦(1945年生まれ)の双子がいます。
8. 栄典
東郷茂徳は、そのキャリアを通じて数々の位階と勲章を授与されました。
種類 | 位階/勲章名 | 授与日 |
---|---|---|
位階 | 従七位 | 1913年1月30日 |
正七位 | 1917年1月31日 | |
従六位 | 1919年8月11日 | |
正六位 | 1922年1月20日 | |
従五位 | 1924年2月15日 | |
正五位 | 1929年7月15日 | |
従四位 | 1934年7月16日 | |
正四位 | 1937年11月15日 | |
従三位 | 1940年12月2日 | |
正三位 | 1942年9月29日 | |
勲章等 | 勲六等瑞宝章 | 1916年4月1日 |
勲五等双光旭日章 | 1920年9月7日 | |
勲四等旭日小綬章 | 1926年2月10日 | |
勲三等瑞宝章 | 1931年11月7日 | |
勲二等瑞宝章 | 1934年4月29日 | |
旭日重光章 | 1938年11月2日 | |
勲一等旭日大綬章 | 1940年4月29日 | |
紀元二千六百年祝典記念章 | 1940年8月15日 | |
勲一等瑞宝章 | 1941年5月9日 | |
外国勲章佩用允許 | ドイツ国:ドイツ鷲勲章大十字章 | 1938年4月6日 |
イタリア王国:王冠勲章グランクロア | 1939年2月20日 | |
タイ王国:白象第一等勲章 | 1942年2月9日 | |
イタリア王国:聖マウリッツィオ・ラザロ勲章大十字騎士大綬章 | 1943年4月6日 |
9. 著作、評価、および影響
東郷茂徳は外交官、政治家として多くの功績を残しましたが、その行動や思想は様々な評価の対象となってきました。
9.1. 著作活動
東郷茂徳の主な著作は、獄中で執筆された回想録『時代の一面』です。この著作は、彼自身の外交官としての経験と、第二次世界大戦中の日本の外交政策、特に開戦から終戦に至るまでの経緯について詳細に記されています。彼が元々抱いていた文明史の研究という壮大な目標は病のために断念されましたが、この回想録はその代わりとして、後世の歴史家への貢献を意図して書かれました。
『時代の一面』は、戦後の1952年に改造社から出版され、その後原書房や中公文庫から再版されています。英語版は『The Cause of Japan英語』、ドイツ語版は『Japan im Zweiten Weltkriegドイツ語』、ロシア語版は『Воспоминания японского дипломатаロシア語』として翻訳されています。英訳版は、彼の元弁護人であるベン・ブルース・ブレーケニーと娘婿の東郷文彦が翻訳を手がけました。
9.2. 歴史的評価
東郷茂徳は一般に平和主義者・和平派として知られています。彼は日米開戦に最後まで反対し、終戦時にはポツダム宣言受諾を強く主張しました。彼の外交官としての手腕は高く評価されており、特にソ連のヴャチェスラフ・モロトフ外相からも「日本の国益を熱心に主張した外交官」として認められていました。
しかし、彼の対ソ交渉を巡る判断には批判的な見解も存在します。彼は第二次世界大戦で中立国であったソ連を介した「無条件降伏ではない和平」を模索しましたが、ソ連はヤルタ会談で対日参戦の密約を米英と結んでいたことを知る由もありませんでした。元駐ソ大使であった佐藤尚武は、戦後に東郷のこの判断について「貴重な一ヶ月を空費した事は承服できない」と語っています。また、東郷は小磯内閣で重光葵外相が進めていたスウェーデンを仲介とする和平工作を打ち切り、ソ連を仲介者に選び続けたことが批判の対象となっています。
ポツダム宣言発表後、東郷が宣言は拒絶せず、少なくともソ連から返事が来るまで回答を延ばすように待つという意見を述べ、それが採用されたため、結果として日本側の対応が遅れ、連合国からは「黙殺」されたと見なされ、その後の2発の原爆投下とソ連の対日参戦を招いたとする見解もあります。ただし、アメリカ海軍元帥で大統領主席補佐官であったウィリアム・リーヒは、トルーマンがソ連を介した和平交渉を意図的に無視したと非難しています。
東郷自身は、戦後に記した回想『時代の一面』の中で、アメリカからの仄聞として「ジョセフ・グルーらが作成した対日講和宣言案がポツダムに携行されたところに、ソ連側から日本に講和の意思ありと伝えられたため、準備した案がポツダム宣言として出された」とし、「それなら天皇の大御心はソ連首脳に通じただけではなく、連合国首脳に伝達されてポツダム宣言という"有条件の講和"に導き得たといえるのだから、あのときの(ソ連に対する)申し入れは結果として大体において功を奏したといって差し支えないだろう」と弁明しています。しかし、実際にはアメリカ側はソ連から知らされるよりも先に、東郷と佐藤駐ソ大使の間で交わされた外交電報の傍受解読によって、日本がソ連を仲介とした和平交渉に乗り出したことを察知していました。
ただし、ソ連の仲介によって「無条件降伏」ではないよりよい条件の講和を得られるのではないかという期待は、東郷個人にとどまらず、鈴木や米内、木戸や昭和天皇自身も含めた政府の「和平派」に共通したものであったという見解も存在します。長谷川毅は「まさにモスクワの斡旋は日本の為政者にとって、苛酷な現実から逃避する阿片であった」「天皇制の維持についてより有利な条件を引き出そうとする欲張った期待がモスクワへの道という誘惑に彼ら(和平派)を誘ったのである」と記しています。
鹿児島県第一中学校出身の歴史研究家である原口虎雄鹿児島大学名誉教授は、「東郷は苗代川村の出身であるため、自分の出身背景を言い立てることも、誰かに頼ることもできなかった。そのため常に目を大きく開いて世界を見つめ、周囲の俗評にとらわれず、他人に驕ることもなかった。おべっかを言うこともなく、他人に威圧感や脅威を与えることもなかった。次第に、自らの知力と気力、信念だけを信じる人間へと変わっていった。こう考えると、差別され、辛い思いをした鹿児島の苗代川出身という事実が、東郷にとってはむしろ(大成に繋がった)幸運であったとも言える」と評しています。また、高校の同級生である岸本肇(後に海軍中将)は、「一クラスで東郷は人格や人品において断然光る存在であった」と評しています。
9.3. 社会的影響
東郷茂徳の外交政策、特に平和への貢献は、第二次世界大戦中の日本社会に大きな影響を与えました。彼は開戦回避に尽力し、終戦交渉においては一貫して和平を模索しました。
また、彼の朝鮮系日本人としてのアイデンティティは、彼自身の人生に深く影響を与えました。彼は表面上は朝鮮人の血筋であることを隠していましたが、未だ訪れたことのない朝鮮に故郷のような郷愁を抱いていたとされます。彼は国長時代、朝鮮で初めて外交官試験に合格し、日本外務省の課長として赴任した社員に対し、自身も朝鮮人の血を引いていることを明かし、励ましたといいます。彼は慶州市出身のこの外交官に対し、独立した韓国のために尽力するならば、熱心に学ぶべきだと助言しました。
東郷は、極東国際軍事裁判において、その判決を「法の遡及」であり、「敗戦国を戦勝国が裁く復讐・見せしめ」であると強く批判しました。しかし同時に、彼は国際社会が法的枠組みによって戦争を回避する仕組みの必要性を認識し、日本の新憲法第9条がその第一歩となることに期待を寄せていました。しかし、彼の死後、1960年の日米安全保障条約改定を巡っては、憲法第9条の精神を尊重し軍事同盟が平和をもたらさないと考える親友の西春彦や石黒忠篤(当時参議院議員)らと、日本の平和と安全のためには条約改訂が不可欠と考える娘婿の東郷文彦らが激しく対立するという事態も発生しました。
10. 死
東郷茂徳は、極東国際軍事裁判で禁錮20年の判決を受け、巣鴨拘置所に収監されていました。彼は以前から動脈硬化を患っており、急性胆嚢炎を併発していました。病状が悪化したため、米陸軍第361病院(現同愛記念病院)に転院しましたが、1950年7月23日、胆嚢炎による合併症で死去しました。享年67歳でした。
彼の死後、回想録『時代の一面』が没後出版され、元弁護人であるベン・ブルース・ブレーケニーによって編集されました。彼の墓所は青山霊園にあります。1978年10月17日には、「昭和殉難者」として靖国神社に合祀されました。