1. 概要
長谷川治久は、1957年4月14日に兵庫県で生まれた日本の元サッカー選手である。フォワードとして活躍し、特に大阪商業大学在学中から日本代表に選出され、国際舞台で経験を積んだ。プロキャリアはヤンマーディーゼル(現セレッソ大阪)で1980年から1987年まで過ごし、チームのリーグ優勝やJSLカップ獲得に貢献した。現役引退後は、サッカー界に戻りJリーグクラブのフロントスタッフを歴任し、近年はサッカー解説者としても活動している。そのプレースタイルから「釜本2世」と称された時期もあったが、キャリア後半には不振に苦しんだ時期もあった。
2. 生涯と人物
長谷川治久(長谷川 治久はせがわ はるひさ日本語、Haruhisa Hasegawa英語)は、日本の元サッカー選手であり、そのキャリアを通じて日本のサッカー界に貢献した。彼の生涯は、選手としての輝かしい時期と、引退後の多岐にわたる活動に分けられる。
2.1. 出身地と学歴
長谷川治久は1957年4月14日に兵庫県で誕生した。彼は北陽高校でサッカーを始め、その後大阪商業大学に進学した。大学時代もサッカー部に所属し、その才能を開花させた。身長は178 cm、体重は70 kgであった。
2.2. 初期キャリア形成
長谷川は大学在学中の1978年に、すでに日本代表に選出されるという異例の早さで注目を集めた。1978年11月19日のソビエト連邦戦で代表デビューを果たし、同年開催されたアジア競技大会にも出場した。さらに、1980年のモスクワオリンピック予選や1982 FIFAワールドカップ予選にも参加し、国際経験を積んだ。
3. 所属クラブ
長谷川治久は、プロサッカー選手としてのキャリアをヤンマーディーゼル(現在のセレッソ大阪)一筋で過ごした。
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長谷川は大阪商業大学を卒業後、1980年にヤンマーディーゼルに入団した。彼はフォワードとしてチームの攻撃を牽引し、在籍期間は1980年から1987年までの7年間であった。ヤンマーディーゼルは、長谷川が加入した1980年にJSLのリーグチャンピオンに輝いている。また、1983年と1984年にはJSLカップでも優勝を果たした。長谷川は1987年に現役を引退した。
4. クラブでの個人成績
長谷川治久は、ヤンマーディーゼルでのプロキャリアにおいて、リーグ戦、カップ戦、天皇杯で安定した成績を収めた。
日本 | リーグ戦 | JSL杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
年 | 所属クラブ | カテゴリ | 試合 | 得点 | 試合 | 得点 | 試合 | 得点 | 試合 | 得点 | |
1980 | ヤンマー | JSL1部 | 12 | 3 | 3 | 3 | 2 | 0 | 17 | 6 | |
1981 | 9 | 1 | 1 | 2 | 2 | 1 | 12 | 4 | |||
1982 | 15 | 10 | 3 | 3 | 3 | 1 | 21 | 14 | |||
1983 | 17 | 7 | 4 | 3 | 4 | 2 | 25 | 12 | |||
1984 | 13 | 2 | 4 | 3 | 3 | 2 | 20 | 7 | |||
1985 | 7 | 1 | 1 | 0 | 1 | 0 | 9 | 1 | |||
1986-87 | 2 | 0 | 2 | 2 | 0 | 0 | 4 | 2 | |||
JSL1部通算 | 75 | 24 | 18 | 16 | 15 | 6 | 108 | 46 | |||
総通算 | 75 | 24 | 18 | 16 | 15 | 6 | 108 | 46 |
長谷川はリーグ戦で通算75試合に出場し24得点を挙げた。特に1982年にはJSLベストイレブンに選出されている。また、JSL東西対抗戦には1980年、1982年、1983年の3回出場し、1982年と1983年にはそれぞれ1得点ずつ、合計2得点を記録した。1983年にはJSL選抜チームにも選ばれ、3試合に出場したが得点はなかった。
5. 代表歴
長谷川治久は、1978年から1981年にかけて日本代表として国際舞台で活躍した。
日本代表 | ||
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
1978 | 4 | 0 |
1979 | 1 | 0 |
1980 | 9 | 4 |
1981 | 1 | 0 |
合計 | 15 | 4 |
国際Aマッチには通算15試合に出場し、4得点を記録した。彼は1978年のアジア競技大会、1980年のモスクワオリンピック予選、そして1982 FIFAワールドカップ予選など、重要な国際大会に出場した。
5.1. 国際Aマッチ出場詳細
No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦相手 | 結果 | 監督 | 大会 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1. | 1978年11月19日 | 東京都 | 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | ソビエト連邦 | ●1-4 | 二宮寛 | 国際親善試合 |
2. | 1978年11月23日 | 東京都 | 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | ソビエト連邦 | ●1-4 | 国際親善試合 | |
3. | 1978年11月26日 | 大阪府 | 長居陸上競技場 | ソビエト連邦 | ●0-3 | 国際親善試合 | |
4. | 1978年12月11日 | バンコク | クウェート | ●0-2 | アジア大会 | ||
5. | 1979年05月31日 | 東京都 | 国立西が丘サッカー場 | インドネシア | ○4-0 | 下村幸男 | ジャパンカップ |
6. | 1980年03月24日 | クアラルンプール | フィリピン | ○10-0 | オリンピック予選 | ||
7. | 1980年03月28日 | クアラルンプール | インドネシア | ○2-0 | オリンピック予選 | ||
8. | 1980年06月09日 | 広州 | 香港 | ○3-1 | 渡辺正 | 広州国際サッカー大会 | |
9. | 1980年06月11日 | 広州 | 中国 | ●0-1 | 広州国際サッカー大会 | ||
10. | 1980年06月18日 | 広州 | 香港 | ○2-0 | 広州国際サッカー大会 | ||
11. | 1980年12月22日 | 香港 | シンガポール | ○1-0 | 川淵三郎 | ワールドカップ予選 | |
12. | 1980年12月26日 | 香港 | 中国 | ●0-1 | ワールドカップ予選 | ||
13. | 1980年12月28日 | 香港 | マカオ | ○3-0 | ワールドカップ予選 | ||
14. | 1980年12月30日 | 香港 | 北朝鮮 | ●0-1(延長) | ワールドカップ予選 | ||
15. | 1981年03月08日 | 東京都 | 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | 韓国 | ●0-1 | 日韓定期戦 |
5.2. 国際Aマッチ得点詳細
# | 開催日 | 開催地 | 会場 | 相手 | 結果 | 大会 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 1980年03月24日 | クアラルンプール | フィリピン | ○10-0 | オリンピック予選 | |
2 | ||||||
3 | 1980年06月09日 | 広州 | 香港 | ○3-1 | 広州国際サッカー大会 | |
4 | 1980年12月28日 | 香港 | マカオ | ○3-0 | ワールドカップ予選 |
6. 引退後の活動
現役引退後、長谷川治久はサッカー界の様々な分野でその経験を活かしてきた。
長谷川は1987年に現役を引退した後、一時的にヤンマーの関連会社に出向していた。しかし、1994年以降はサッカー界に復帰し、Jリーグクラブのフロントスタッフとして要職を歴任した。
- 1994年11月 - 1997年10月: セレッソ大阪 運営委員
- 1997年10月 - 2000年8月: ヴィッセル神戸 チーム統括部長
- 2001年12月 - 2005年1月: 名古屋グランパスエイト 編成担当部長
- 2005年1月 - 2005年11月: アビスパ福岡 育成統括
- 2005年12月 - 2006年12月: アビスパ福岡 チーム統括グループ長
2007年からは、スカパー!でセレッソ大阪のホームゲームの解説を担当し、近年ではヴィッセル神戸のホームゲーム解説も務めるなど、メディアを通じた活動も行っている。
7. 私生活
長谷川治久の私生活については、公にされている情報は限られているが、特に高校時代の著名な友人との関係が知られている。
長谷川は、元プロ野球選手であり、元オリックス・バファローズ監督、そして現阪神タイガース監督である岡田彰布と高校の同級生であった。この二人は、異なるスポーツ分野でそれぞれ成功を収めたことで知られている。
8. 評価と影響
長谷川治久は、そのプレースタイルと得点能力から、日本のサッカー界において特別な評価を受けていた時期があった。
長谷川は、ゴール前での優れた得点感覚を持っていたことから、かつて「釜本2世」と称された時期があった。これは、日本の伝説的なストライカーである釜本邦茂になぞらえられたものであり、彼の得点能力に対する高い期待と評価を示すものであった。しかし、1984年以降は極度の不振に苦しみ、その後のキャリアに影響を与えた。彼の選手としてのキャリアは、輝かしい時期と困難な時期の両方を経験したものであり、日本のサッカー界における一時代を築いた選手の一人として記憶されている。