1. 概要
原田雅彦は、1968年5月9日に北海道上川郡上川町で生まれた日本の元スキージャンプ選手、指導者、解説者である。特に、1994年リレハンメルオリンピックでの団体戦での失敗と、その後の1998年長野オリンピックでの劇的な復活と金メダル獲得によって、そのキャリアは日本中を感動させた。彼はオリンピックと世界選手権を合わせて日本人最多となる9個のメダルを獲得し、またスキージャンプ・ワールドカップで個人通算9勝を挙げている。その明るい人柄から「ハッピー・ハラダ」の愛称で親しまれ、引退後も雪印メグミルクのコーチや監督、全日本スキー連盟理事などを務め、日本スキー界に貢献し続けている。
2. 生い立ちと初期のキャリア
原田雅彦は北海道上川町の豪雪地帯で、小さな建設会社を経営する父と母、そして6歳上の兄の4人家族の元で育った。家のすぐ近くにスキー場があったため、幼い頃から「スキーは生活の一部」と言うほど、冬にはほぼ毎日スキーを滑っていた。
2.1. 幼少期と教育
小学校3年生の時に地元のジャンプ少年団に入団し、スキージャンプの虜となった。初めて飛んだ距離はわずか7 mほどだったが、当時の本人にとっては大空を飛んでいるように感じられ、生涯最高の快感だったと振り返っている。上川中学校時代には全国中学選手権で2度優勝し、東海大学付属第四高等学校(現東海大学付属札幌高等学校)ではインターハイを制覇した。学生時代は企業スポーツが全盛期であり、原田は札幌オリンピックの銅メダリストである青地清二や、彼が所属する雪印乳業に憧れを抱いていた。
2.2. プロキャリアの開始
高校卒業後、原田は1987年に志望していた雪印乳業に入社した。当時の彼のジャンプの実力は日本代表に選ばれるレベルではあったものの、世界のトップレベルには及ばなかった。この状況を打破するため、彼は当時まだ一般的ではなかったV字ジャンプに挑戦した。この新しいスタイルを取り入れたことで飛距離が飛躍的に伸び始め、23歳で1992年アルベールビルオリンピックに初出場を果たすことになる。ワールドカップには1986/87シーズンに初出場し、その後1989/90シーズンから2002/03シーズンまで継続的に参戦した。
3. スキージャンプ選手としてのキャリア
原田雅彦は、1990年代以降の日本を代表するスキージャンプ選手として活躍し、数々の国際大会で輝かしい成績を収めた。
3.1. オリンピック
原田は冬季オリンピックに計5回出場し、金メダル1個、銀メダル1個、銅メダル1個の計3個のメダルを獲得している。
3.1.1. 1994年リレハンメルオリンピック
1994年リレハンメルオリンピックのラージヒル団体戦は、原田のキャリアにおいて大きな転機となった。日本チームは第3グループまで2位のドイツに55点の大差をつけ、原田の最後のジャンプを残すのみで金メダルが確実視されていた。原田は前回のジャンプで122 mを飛んでおり、優勝にはわずか105 mを飛べば十分であった(ジャンプ台のK点は120 m)。しかし、この圧倒的なプレッシャーが重荷となり、ラストジャンパーとしてジャンプ台に立った原田は、普段とは異なる感覚に襲われ、結果としてわずか97.5 mの失敗ジャンプに終わった。これにより日本はドイツに逆転され、銀メダルを獲得した。
着地直後、頭を抱えてうずくまる原田のもとに、チームメイトの葛西紀明、西方仁也、岡部孝信が駆け寄り、「銀メダルなんだから胸を張りましょうよ」と励ました。原田自身は後年、この言葉が立ち上がる大きな支えになったと回想している。この大会では、個人ノーマルヒルでも2本目に54.5 m、個人ラージヒルでも2本目に101 mという失敗ジャンプでそれぞれ順位を落としていた。
金メダルを逃した要因と見なされた原田は、マスメディアからの批判に加え、一部の一般人からは「へらへら笑うな」「お前のせいで負けた」といったバッシングを受け、1年以上もの間、自宅などへの嫌がらせに苦しんだ。このバッシングと、当時活躍していた船木和喜のフォームを意識しすぎたことでスランプに陥り、しばらく結果が出せない時期が続いた。しかし、妻の「自分らしく飛べばいいんじゃない?」という言葉が大きな支えとなり、1995-96シーズンに本来のフォームを取り戻したことで調子を上げ、ワールドカップで度々優勝するようになる。
3.1.2. 1998年長野オリンピック
1998年長野オリンピックは、原田にとって故郷の日本で開催される大会であり、リレハンメルでの失敗から再起を期す重要な舞台となった。世界選手権王者として臨んだものの、国内ニュースでは「本番に弱い」と原田を不安視する論調も見られ、開催国での悲願の金メダル獲得という相当な重責を背負っての出場となった。
個人ノーマルヒルでは、1本目に最長不倒となる91.5 mを記録し1位につけたが、2本目は不可解な中断と風の不運が重なり距離を落とし、5位入賞に終わった。個人ラージヒルでは、1本目に強い向かい風に助けられながらも120 mと距離を伸ばしきれず6位と出遅れた。しかし、2本目には「両足を複雑骨折してもいい」という覚悟で137 mの最長不倒ジャンプを決め、最終的に4位のアンドレアス・ビドヘルツルをわずか0.1ポイント上回り、逆転で3位銅メダルを獲得した。このジャンプは飛距離が自動計測可能な135 mを超えたため、記録発表は最終ジャンパーが飛んでから約10分後のことだった。このコメントは元々個人ラージヒル2本目のものだが、後に団体戦2本目のコメントとしても広く知られるようになった。
団体戦では、第3グループを担当した原田の1本目は、運悪くほとんど前が見えないような大雪の中で行われた。助走路への積雪によりスキーが滑らず助走速度も落ちたが(2018年現在は送風機が導入され、助走路の雪を随時吹き飛ばしているが、当時は導入されていなかった)、その中でも原田は他の選手より遅い87.1 km/hの助走速度で飛び出し、79.5 mにとどまった。この結果に日本国民の多くが4年前のリレハンメルでの悪夢を思い浮かべた。しかし、この飛距離は悪条件下で最大限の技術を発揮したものであり、後に岡部孝信が「悪天候のあの状況は原田さんでなければ金メダルには届かなかった」と擁護するコメントを残している。なお、この時ヘッドコーチだった小野学は、1本目終了直後にこの速度差に関して競技委員会に抗議したが却下されてしまった。1本目終了時点で日本は4位まで後退したが、1位との差はわずか13.6点であり、逆転優勝の可能性は十分に高い状況であった。
大雪による悪天候のため、1本目終了での競技打ち切りの可能性もあったが、西方仁也、高橋竜二、吉泉賀子ら25名のテストジャンパーたちが悪天候の中で一人の転倒者も出すことなく試技を続け、競技再開が可能なことを証明した。2本目、原田は覚悟の137 mという最長不倒ジャンプを決め、金メダルへの立役者となった。NHKのテレビ実況では和田源二アナウンサーが『別の世界へ飛んでいった原田!』と実況し、伝説的な瞬間となった。ジャンプ後は、凄まじいプレッシャーから解放されて全身の力が抜け、嗚咽しながらも次のジャンパーである船木和喜へ「ふなき~、ふなきい...」と声援を送った。この声援は、インタビュアーに「金メダルを獲る瞬間だよ」「船木(のジャンプ)を見ようよ」と伝えたかったものだと後に明かしている。金メダル決定直後のインタビューでは「でもね、今日は長野だから」「みんな迷惑かけてんのかなと思ってた...辛かった...」「でもね...屋根ついてないからしょうがないよね」などと、嗚咽しながらも率直な言葉を口にし、その人間的な姿が多くの感動を呼んだ。心理学的にはこの時の原田の精神状況は「破壊」と呼ばれている。
この長野オリンピックで、原田は個人ノーマルヒル、個人ラージヒル、団体と合わせて3種目全てで最長不倒を記録した。
3.1.3. その他のオリンピック出場
原田は長野オリンピック以外にも3度のオリンピックに出場している。
- 1992年アルベールビルオリンピック**:初のオリンピック出場となったこの大会では、個人ラージヒルで4位に入賞し、日本勢としては3大会ぶりの入賞を果たした。本人は後年、「プレッシャーもなくわくわくしながら飛ぶことができ、世界の大舞台で自分をアピールできたことが嬉しかった」と語り、この時が一番楽しいオリンピックだったと振り返っている。
- 2002年ソルトレークシティオリンピック**:33歳で4大会連続の日本代表入りを果たしたが、個人種目では入賞を逃し、個人ノーマルヒル、個人ラージヒルともに20位、団体ラージヒルでは5位に終わった。
- 2006年トリノオリンピック**:2003-04シーズン以降はワールドカップへの出場がなく、2005-06シーズンも低迷していたものの、ワールドカップの下部大会であるスキージャンプ・コンチネンタルカップのサンモリッツ大会(個人ノーマルヒル)で2位に入るなど、トリノオリンピックの直前に調子を上げ、37歳で5大会連続の日本代表メンバーに選出された。
ジャンプ競技開催地の強風を理由に個人種目の出場選手枠が減らされたが、原田は最後の出場枠に入ることができた。しかし、出場した個人ノーマルヒル予選で95 mの記録を残したものの、ジャンプ終了後の抜き打ち検査により、スキー板がFISの規定に違反していることが判明し失格となった。これは2005年に導入されたBMIルールによるもので、身長に対し体重が軽すぎる選手のスキー板を短くするという規定であった。原田の登録身長174 cmに対し、使用できる板の長さは身長の146%(254 cm)までであり、かつこの場合はスーツとブーツを着用した体重が61 kg以上でなければならなかった。しかし、検査での原田の体重は60.8 kgと、わずか200 g不足していた。一方で、雪印スキー部や全日本スキー連盟に公式登録されている同年シーズンの原田の身長は173 cmであり、173 cmの選手は体重が60 kg以上であればちょうど253 cmまでのスキー板を使用できる規定であった。過去4度のオリンピックでの登録身長も全て173 cmであり、また本大会の公式練習日には予選と同じスキー板を使用して検査に合格していた。原田は「自分の初歩的ミス」とコメントしたが、なぜ本大会の予選で身長が1 cm高く登録されたのかは不明なままである。
3.2. FISノルディックスキー世界選手権
FISノルディックスキー世界選手権では、個人で金メダル2個、銀メダル1個、銅メダル1個、団体で銀メダル2個の計6個のメダルを獲得している。特に、世界選手権の個人戦で通算2度の優勝は日本人選手で唯一である。
- 1991年ヴァル・ディ・フィエンメ大会**:個人ノーマルヒル15位、個人ラージヒル17位。
- 1993年ファールン大会**:個人ノーマルヒルで優勝し、自身初の世界一に輝いた。個人ラージヒル4位、団体ラージヒル5位。
- 1995年サンダーベイ大会**:個人ノーマルヒル52位。
- 1997年トロンハイム大会**:個人ラージヒルで優勝し、オリンピック・世界選手権を通じて日本人初のラージヒル優勝を達成した。個人ノーマルヒルで2位、団体ラージヒルでも2位となり、出場した全種目でメダルを獲得した。
- 1999年ラムソー大会**:個人ノーマルヒルで3位に入賞し、優勝した船木和喜、準優勝の宮平秀治とともに日本人で表彰台を独占した。個人ラージヒル6位、団体ラージヒル2位。
- 2001年ラハティ大会**:個人ノーマルヒル5位、個人ラージヒル33位、団体ノーマルヒル4位、団体ラージヒル4位。
3.3. FISスキージャンプ・ワールドカップ
スキージャンプ・ワールドカップでは、個人戦で通算9勝(日本人歴代4位)、団体戦で通算3勝を記録している。
3.3.1. シーズン総合順位
ワールドカップにおける各シーズンの個人総合順位、およびスキージャンプ週間、スキージャンプ・フライング、ノルディックトーナメントの順位を以下に示す。
シーズン | 個人総合 | スキージャンプ週間 | スキージャンプ・フライング | ノルディックトーナメント | スキージャンプカップ |
---|---|---|---|---|---|
1986/87 | 85 | - | N/A | N/A | N/A |
1987/88 | - | 80 | N/A | N/A | N/A |
1989/90 | 52 | - | N/A | N/A | N/A |
1990/91 | - | 61 | - | N/A | N/A |
1991/92 | 29 | - | - | N/A | N/A |
1992/93 | 16 | 6 | - | N/A | N/A |
1993/94 | 15 | 21 | - | N/A | N/A |
1994/95 | 59 | 64 | - | N/A | N/A |
1995/96 | 5 | 18 | - | N/A | - |
1996/97 | 29 | 42 | - | 13 | 24 |
1997/98 | 4 | 10 | 21 | 13 | 2 |
1998/99 | 9 | 8 | 8 | 18 | 9 |
1999/00 | 11 | 6 | 15 | 53 | 11 |
2000/01 | 26 | 21 | 50 | 53 | N/A |
2001/02 | 38 | 31 | N/A | 59 | N/A |
2002/03 | - | - | N/A | - | N/A |
3.3.2. 個人戦優勝
ワールドカップ個人戦では通算9勝を挙げている。
No. | シーズン | 日付 | 開催地 | ヒル | 種別 |
---|---|---|---|---|---|
1 | 1995/96 | 1995年12月8日 | ヴィラッハ | Villacher Alpenarena K90 | NH |
2 | 1996年2月18日 | アイアンマウンテン | Pine Mountain Ski Jump K120 | LH | |
3 | 1996年3月1日 | ラハティ | Salpausselkä K90 | NH | |
4 | 1996年3月3日 | ラハティ | Salpausselkä K114 | LH | |
5 | 1997/98 | 1997年12月8日 | ヴィラッハ | Villacher Alpenarena K90 | NH |
6 | 1997年12月12日 | ハラホフ | Čerťák K90 | NH | |
7 | 1997年12月21日 | エンゲルベルク | Gross-Titlis-Schanze K120 | LH | |
8 | 1998年1月11日 | ラムソー | Mattenschanze K90 | NH | |
9 | 1998年3月13日 | トロンハイム | Granåsen K120 | LH |
3.3.3. 団体戦優勝
ワールドカップ団体戦では通算3勝を挙げている。
回数 | シーズン | 開催日 | 開催地 | 種目 | メンバー |
---|---|---|---|---|---|
1 | 1992/93 | 1993年3月27日 | プラニツァ | LH | 原田雅彦 葛西紀明 岡部孝信 安崎直幹 |
2 | 1995/96 | 1996年3月2日 | ラハティ | LH | 原田雅彦 西方仁也 岡部孝信 斉藤浩哉 |
3 | 2000/01 | 2001年1月19日 | パークシティ | LH | 船木和喜 吉岡和也 原田雅彦 葛西紀明 |
3.4. ジャンプスタイルと技術
原田雅彦のジャンプスタイルは他の選手と比べ独特で、踏み切りの際に上に高くジャンプし、飛行曲線が他の選手に比べ高い軌道から落下するスタイルであった。これは、原田の高い跳躍力があるからこそ可能なスタイルで、助走速度が遅い条件でも飛距離が落ちにくいという長所があった。一方で、踏み切りのタイミングが合わない場合、大失敗ジャンプにつながりやすいという欠点があり、これがリレハンメルオリンピックでの失敗ジャンプの要因の1つとなった。
スランプ時は、当時の日本の主流であった船木和喜のような低いジャンプスタイルに挑戦したが、かえって泥沼にはまってしまう結果となった。しかし、サンダーベイ世界選手権で惨敗した後の1995年夏頃から原点に立ち返り高いジャンプを心がけるようになると、それまで船木型を目指して得た良い部分と合わさり、インパクトをつける高いジャンプでありながらタイミングが多少合わなくても飛距離を落とさない「原田型」というスタイルを会得した。一流選手でも踏切のタイミングの許容範囲は80 cm程度と言われるが、この頃の原田は1 m近くあったと言われていた。1996-97シーズンに一時軽い不調に陥るも、同年のトロンハイム世界選手権までに復活を遂げると、その夏からは他の選手より2 m近く短い助走でK点を大きく超えるジャンプを見せるほど圧倒的な強さを見せるようになった。しかし、他の選手に比べて飛びすぎてしまうため、他の選手が軽々大ジャンプを見せるようなアプローチ速度の速い試合運営が続いた時には実力を抑えざるを得なくなり、順位に結びつかないケースも増えた。一方で、この技術が長野オリンピック団体戦1本目の大雪の中、飛距離には現れなかったものの最大限のジャンプを可能にする要因となった。
その後、原田は当時活躍していた日本人選手の主流だった、できるだけ踏み切りの動作を抑えたスタイルに移行したが、これが長くスランプに陥る原因となった。しかし、2006年トリノオリンピックの直前に、助走姿勢でのひざの角度をこれまでより鋭角にするようにした。このスタイルは、従来の立ち幅跳びで中腰で飛ぶ場合に比べ、より多くひざを曲げることができパワーを得られるが、方向性やタイミングの取り方が難しくなる。つまり、このスタイルは方向性よりもインパクトを重視した姿勢である。
皮肉にも、この頃より世界のジャンプスタイルの主流は、かつて原田が実践していた「低速でも距離を伸ばす高いジャンプ」に移行し、世界の技術が当時の原田にやっと追いついたと言える。この頃にジャンプ界を席巻したシモン・アマンも典型的な原田型のジャンパーである。
また、飛距離が出すぎて着地でテレマーク姿勢を入れられないことが多いため、飛型点では不利というイメージを持たれがちだが、飛距離を抑えた試合運営で原田でもテレマークを入れられる飛距離で飛んだ場合の飛型点は決して低くなく、1998年9月12日のサマーグランプリ白馬大会では、飛型審判5人全員が20点満点を記録している。
4. 引退と指導者としてのキャリア
原田雅彦は2006年3月20日に現役引退を表明し、3月25日の伊藤杯シーズンファイナル大倉山ナイタージャンプ大会を最後に選手としてのキャリアを終えた。引退後も引き続き雪印メグミルクに残り、同スキー部のコーチに就任した。以降、スキージャンプ中継の解説者も務めている。
2014年4月には、同スキー部の斉藤浩哉前監督の退任を受けて監督に就任。さらに2015年10月には、全日本スキー連盟理事に就任した。2021年4月には雪印メグミルクスキー部総監督に昇進し、同年10月には2022年北京オリンピックの日本選手団総監督に就任することが明らかになった。2023年4月からは雪印メグミルクスキー部のアドバイザーとして活動している。また、2006年7月12日には、札幌市で開催された2007年ノルディックスキー世界選手権札幌大会の特別広報大使にも任命されている。
5. 人物とパブリックイメージ
原田雅彦は、その豪快なジャンプスタイルと、いかなる苦境でも悲壮感を見せないユーモアとウィットに富んだ人柄から、ヨーロッパでは「Happy Haradaハッピー・ハラダ英語」と呼ばれ、オーストリアのアンドレアス・ゴルトベルガーと人気を二分するほどの人気を誇った。また、その人柄と国際的知名度から2007年ノルディックスキー世界選手権札幌大会の特別広報大使に任命されている。血液型はA型。
北海道でも特に豪雪地帯として知られる上川町で育ち、幼い頃は泣き虫で人見知りだったが、ジャンプを始めたことで精神的にも成長し、現在の明るい笑顔につながっている。しかし、長年の重圧から解放された1998年長野オリンピックの団体戦直後には、幼い頃の「泣き虫原田」に戻って嗚咽する姿を見せた。
その反面、内面はいたって真面目で、言い訳や不平不満は一切言わず、悩みも自分で抱え込んでしまう性格である。これが裏目に出て、スランプ時に適切な指導を受けられなかったり、2006年トリノオリンピックでの失格時にはコーチやスタッフにも非があったとの指摘もあった中、すべての責任を自分で背負おうとする場面もあった。
長年日本のジャンプ界を支え、多くの失敗と多くの大ジャンプを通して、ジャンプの豪快さ、難しさ、すばらしさ、そして切なさを余すところなくファンに伝えてきたことから、「ミスタージャンプ」の呼び声も高い。
現役引退後に、原田に因んで上川町で「NPO法人スマイル原田」が設立された。原田は直接同法人の運営には関わっていないものの、同法人が主催する「チビっ子原田杯ジャンプ大会」などのイベントに主賓として参加することが多い。
長野オリンピックで金メダルを獲得し注目された選手の中で、船木和喜や清水宏保(スピードスケート)が所属企業から独立してプロ選手への道を歩んだのに対し、原田はサラリーマンとして所属する雪印乳業への愛社精神が非常に強く、現役引退後も引き続き社員として会社に残った。その愛社精神は、雪印主催のオリンピック祝勝会での「金メダルを取れたのは、わが社の牛乳のおかげです」という冗談交じりの発言にも現れている。彼の活躍は雪印グループ社員の士気を高めたが、2000年に発生した雪印集団食中毒事件では原田も謝罪会見を行い、同社によるスポーツ活動の自粛は原田自身にも悪影響を及ぼした。経営再建の一環で雪印乳業は各スポーツ活動から撤退したが、スキージャンプ部のみは存続させ、原田は引き続き同社の社員として競技に携わることになった。
2006年に自分のジャンプに限界を感じて引退を決意し、最後の大会はホームグラウンドともいえる札幌市の大倉山ジャンプ競技場で行われた。引退後、雪印メグミルクスキー部コーチに就任し支える側になったことで、現役時代に自分が支えられてきたことを実感し、感謝の気持ちが湧き上がった。この思いから、日本スキー界に恩返ししたいという気持ちが強まり、その後2015年に全日本スキー連盟の理事に就任することを決めた。青地は札幌オリンピックで笠谷幸生、金野昭次と共に日本人でメダルを独占し、後にスキージャンプ陣が「日の丸飛行隊」と呼ばれるようになった最初の人物の一人である。
6. 主な競技記録
6.1. 冬季オリンピック
- 1992年アルベールビルオリンピック**(フランス)
- 個人ノーマルヒル 14位
- 個人ラージヒル 4位
- 団体ラージヒル 4位(上原子次郎、原田雅彦、葛西紀明、須田健仁)
- 1994年リレハンメルオリンピック**(ノルウェー)
- 個人ノーマルヒル 55位(2本目は失敗ジャンプとなり54.5 mに終わった。)
- 個人ラージヒル 13位
- 団体ラージヒル 2位(西方仁也、岡部孝信、葛西紀明、原田雅彦)
- 1998年長野オリンピック**(日本)
- 個人ノーマルヒル 5位
- 個人ラージヒル 3位
- 団体ラージヒル 優勝(岡部孝信、斉藤浩哉、原田雅彦、船木和喜)
- 2002年ソルトレークシティオリンピック**(アメリカ合衆国)
- 個人ノーマルヒル 20位
- 個人ラージヒル 20位
- 団体ラージヒル 5位(宮平秀治、山田大起、原田雅彦、船木和喜)
- 2006年トリノオリンピック**(イタリア)
- 個人ノーマルヒル 失格
6.2. FISノルディックスキー世界選手権
- 1991年ヴァル・ディ・フィエンメ大会**(イタリア)
- 個人ノーマルヒル 15位
- 個人ラージヒル 17位
- 1993年ファルン大会**(スウェーデン)
- 個人ノーマルヒル 優勝
- 個人ラージヒル 4位
- 団体ラージヒル 5位(須田健仁、岡部孝信、葛西紀明、原田雅彦)
- 1995年サンダーベイ大会**(カナダ)
- 個人ノーマルヒル 52位
- 1997年トロンハイム大会**(ノルウェー)
- 個人ノーマルヒル 2位
- 個人ラージヒル 優勝
- 団体ラージヒル 2位(船木和喜、岡部孝信、原田雅彦、斉藤浩哉)
- 1999年ラムソー大会**(オーストリア)
- 個人ノーマルヒル 3位
- 個人ラージヒル 6位
- 団体ラージヒル 2位(葛西紀明、宮平秀治、原田雅彦、船木和喜)
- 2001年ラハティ大会**(フィンランド)
- 個人ノーマルヒル 5位
- 個人ラージヒル 33位
- 団体ノーマルヒル 4位(宮平秀治、岡部孝信、原田雅彦、葛西紀明)
- 団体ラージヒル 4位(宮平秀治、吉岡和也、葛西紀明、原田雅彦)
6.3. FISスキージャンプ・ワールドカップ
- スキージャンプ・ワールドカップの個人戦および団体戦の詳細記録を整理する。
6.3.1. シーズン総合順位
ワールドカップにおける各シーズンの個人総合順位、およびスキージャンプ週間、スキージャンプ・フライング、ノルディックトーナメントの順位を以下に示す。
シーズン | 個人総合 | スキージャンプ週間 | スキージャンプ・フライング | ノルディックトーナメント | スキージャンプカップ |
---|---|---|---|---|---|
1986/87 | 85 | - | N/A | N/A | N/A |
1987/88 | - | 80 | N/A | N/A | N/A |
1989/90 | 52 | - | N/A | N/A | N/A |
1990/91 | - | 61 | - | N/A | N/A |
1991/92 | 29 | - | - | N/A | N/A |
1992/93 | 16 | 6 | - | N/A | N/A |
1993/94 | 15 | 21 | - | N/A | N/A |
1994/95 | 59 | 64 | - | N/A | N/A |
1995/96 | 5 | 18 | - | N/A | - |
1996/97 | 29 | 42 | - | 13 | 24 |
1997/98 | 4 | 10 | 21 | 13 | 2 |
1998/99 | 9 | 8 | 8 | 18 | 9 |
1999/00 | 11 | 6 | 15 | 53 | 11 |
2000/01 | 26 | 21 | 50 | 53 | N/A |
2001/02 | 38 | 31 | N/A | 59 | N/A |
2002/03 | - | - | N/A | - | N/A |
6.3.2. 個人戦優勝
ワールドカップ個人戦では通算9勝を挙げている。
No. | シーズン | 日付 | 開催地 | ヒル | 種別 |
---|---|---|---|---|---|
1 | 1995/96 | 1995年12月8日 | ヴィラッハ | Villacher Alpenarena K90 | NH |
2 | 1996年2月18日 | アイアンマウンテン | Pine Mountain Ski Jump K120 | LH | |
3 | 1996年3月1日 | ラハティ | Salpausselkä K90 | NH | |
4 | 1996年3月3日 | ラハティ | Salpausselkä K114 | LH | |
5 | 1997/98 | 1997年12月8日 | ヴィラッハ | Villacher Alpenarena K90 | NH |
6 | 1997年12月12日 | ハラホフ | Čerťák K90 | NH | |
7 | 1997年12月21日 | エンゲルベルク | Gross-Titlis-Schanze K120 | LH | |
8 | 1998年1月11日 | ラムソー | Mattenschanze K90 | NH | |
9 | 1998年3月13日 | トロンハイム | Granåsen K120 | LH |
6.3.3. 団体戦優勝
ワールドカップ団体戦では通算3勝を挙げている。
回数 | シーズン | 開催日 | 開催地 | 種目 | メンバー |
---|---|---|---|---|---|
1 | 1992/93 | 1993年3月27日 | プラニツァ | LH | 原田雅彦 葛西紀明 岡部孝信 安崎直幹 |
2 | 1995/96 | 1996年3月2日 | ラハティ | LH | 原田雅彦 西方仁也 岡部孝信 斉藤浩哉 |
3 | 2000/01 | 2001年1月19日 | パークシティ | LH | 船木和喜 吉岡和也 原田雅彦 葛西紀明 |
6.4. 国内大会
日本国内の主要大会での優勝歴や成績を整理する。
- 全日本スキー選手権大会ノーマルヒル 優勝(1995年、1998年、2000年、2001年、2005年)
- 全日本スキー選手権大会ラージヒル 優勝(1992年、1997年、1998年、2001年)
- 雪印メグミルク杯全日本ジャンプ大会成年の部 優勝(1992年、2001年)
- 自己ベスト記録:197 m(1999年3月18日 - 21日 プラニツァ)
7. 受賞と栄誉
原田雅彦が受けた主要な賞や栄誉について扱う。
- 1997年度 JOCスポーツ賞 優秀賞
- 1998年度 JOCスポーツ賞 最優秀賞
8. 大衆文化における描写
原田雅彦の人生やキャリアは、映画などの大衆文化作品で描かれている。
- 濱津隆之(映画『ヒノマルソウル~舞台裏の英雄たち~』、2021年) - 原田雅彦を演じた。