1. 概要

エベリン・アシュフォード(Evelyn Ashford英語)は、1957年4月15日生まれのアメリカ合衆国の元陸上競技選手です。彼女は1984年のロサンゼルスオリンピックにおける100メートル競走の金メダリストであり、60ヤード走の元世界記録保持者でもあります。アシュフォードは、女子選手として初めてオリンピックで11秒の壁を破った選手であり、キャリアを通じて30回以上も11秒未満の記録を達成しました。彼女は陸上競技史上、最も長く破られなかった記録(60ヤード走)を持つ選手としても知られています。オリンピックでは合計4つの金メダルと1つの銀メダルを獲得し、その回復力と競技への貢献は高く評価されています。
2. 人物
エベリン・アシュフォードは、そのキャリアを通じて数々の偉業を成し遂げた陸上競技選手ですが、彼女の個人的な背景と初期のキャリアもまた、その成功に不可欠な要素でした。
2.1. 生い立ちと教育
エベリン・アシュフォードは1957年4月15日に、アメリカ合衆国ルイジアナ州シュリーブポートで生まれました。彼女はカリフォルニア州のローズビル高校で学び、その後、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)に進学しました。UCLAでは陸上競技選手としての才能をさらに開花させ、1977年には国内最高の女子大学陸上競技選手に贈られる初のホンダ・スポーツ・アワード(当時の名称はブローデリック・アワード)を受賞しました。1990年にはUCLAアスレチックス殿堂入りを果たしています。
2.2. 初期キャリア
アシュフォードは19歳で1976年モントリオールオリンピックに出場し、100メートル競走で5位に入賞しました。1979年にはカナダモントリオールで開催されたIAAF陸上ワールドカップにおいて、100メートル競走と200メートル競走で当時の世界記録保持者を破り、その実力を世界に示しました。これにより、彼女は1980年モスクワオリンピックでのメダル獲得が有力視される選手の一人となりましたが、アメリカ合衆国がオリンピックをボイコットしたため、出場機会を失いました。さらに、1980年には大腿四頭筋を断裂する怪我を負い、そのシーズンの残りを棒に振ることになりました。
3. 主な業績
エベリン・アシュフォードは、そのキャリアを通じて数々の輝かしい業績を達成しました。世界記録の樹立、複数のオリンピックメダル獲得、そして主要な国際大会での活躍は、彼女を陸上競技史における偉大なスプリンターの一人として位置づけています。
3.1. 世界記録
アシュフォードは、複数の種目で世界記録を樹立しました。
- 100メートル競走:
- 1983年7月3日、コロラド州コロラドスプリングスで開催されたナショナル・スポーツ・フェスティバルで、10秒79の記録を樹立し、自身初の100メートル競走世界記録を更新しました。
- 1984年8月22日、スイスチューリヒで開催されたヴェルトクラッセの大会で、自身の世界記録をさらに更新する10秒76を記録しました。この記録は彼女の自己ベストであり、現在でも女子100メートル競走の歴代記録で上位にランクされています。
- 彼女はまた、オリンピックで初めて11秒の壁を破った女子選手であり、キャリアを通じて30回以上も11秒未満の記録を達成しました。
- 60ヤード走:
- アシュフォードは60ヤード走においても世界記録を保持しており、この記録は陸上競技史上最も長く破られなかった記録の一つとして特筆されています。
3.2. オリンピック
アシュフォードは4度のオリンピックに出場し、合計4つの金メダルと1つの銀メダルを獲得しました。
3.2.1. 1984年ロサンゼルスオリンピック
1984年ロサンゼルスオリンピックにおいて、アシュフォードは200メートル競走の予選で軽度の負傷により棄権を余儀なくされました。しかし、100メートル競走では10秒97のオリンピック新記録を樹立し、金メダルを獲得しました。さらに、4×100メートルリレーではアンカーを務め、2つ目の金メダルを獲得しました。このリレーでは、当時の世界チャンピオンであり世界記録保持国であった東ドイツが不参加であったこともあり、アメリカチームは歴史上最速に近いタイムを記録し、オリンピック史上最大の差である1.12秒差をつけて優勝しました。
3.2.2. 1988年ソウルオリンピック
1988年ソウルオリンピックでは、開会式でアメリカ選手団の旗手を務めました。100メートル競走では、大会前に自身の世界記録を更新していたフローレンス・グリフィス=ジョイナーに敗れ、銀メダルを獲得しました。しかし、4×100メートルリレーでは再びアンカーを務め、グリフィス=ジョイナーとの最終バトンパスが完璧ではなかったにもかかわらず、マルリース・ゲールを追い抜く驚異的なラストスパートを見せ、3つ目のオリンピック金メダルを獲得しました。
3.2.3. 1992年バルセロナオリンピック
1992年バルセロナオリンピックは、35歳のアシュフォードにとって最後のオリンピックとなりました。100メートル競走では準決勝でわずか100分の1秒差で敗退しましたが、4×100メートルリレーでは今回は第1走者を務め、3大会連続となる金メダルを獲得しました。これにより、彼女は陸上競技のオリンピック史上、4つの金メダルを獲得した数少ない女子選手の一人となりました。
3.3. 世界選手権および主要大会
アシュフォードはオリンピック以外にも、数々の国際大会で優れた成績を収めました。
年 | 大会 | 場所 | 種目 | 結果 | 記録 |
---|---|---|---|---|---|
1979 | パンアメリカン競技大会 | プエルトリコサンフアン | 100m | 1位 | 記録不明 |
1979 | パンアメリカン競技大会 | サンフアン | 200m | 1位 | 記録不明 |
1981 | IAAF陸上ワールドカップ | イタリアローマ | 100m | 1位 | 記録不明 |
1981 | IAAF陸上ワールドカップ | ローマ | 200m | 1位 | 記録不明 |
1983 | 世界陸上競技選手権大会 | フィンランドヘルシンキ | 100m | DNF | 記録なし |
1984 | オリンピック | アメリカ合衆国ロサンゼルス | 100m | 1位 | 10秒97 |
1984 | オリンピック | ロサンゼルス | 4×100mリレー | 1位 | 41秒65 |
1986 | グッドウィルゲームズ | 記録不明 | 100m | 1位 | 記録不明 |
1988 | オリンピック | 大韓民国ソウル | 100m | 2位 | 10秒83 |
1988 | オリンピック | ソウル | 4×100mリレー | 1位 | 41秒98 |
1991 | 世界陸上競技選手権大会 | 日本東京 | 100m | 5位 | 11秒30 |
1991 | 世界陸上競技選手権大会 | 東京 | 4×100mリレー | - | DNF |
1992 | オリンピック | スペインバルセロナ | 100m | 5位(sf) | 11秒29 |
1992 | オリンピック | バルセロナ | 4×100mリレー | 1位 | 42秒11 |
- 1983年世界陸上競技選手権大会(ヘルシンキ):100メートル競走の優勝候補と目されていましたが、決勝でハムストリングを痛めて転倒し、途中棄権となりました。この大会では、以前アシュフォードを破ったことのある東ドイツのマルリース・ゲールが優勝しました。
- 1986年グッドウィルゲームズ:100メートル競走で優勝しました。この年、彼女は100メートル競走と200メートル競走で一度しか敗れず、短距離で再び「トラック&フィールド・ニューズ」誌の世界ランキング1位に輝きました。
- 1991年世界陸上競技選手権大会(東京):100メートル競走で5位に入賞しました。
3.4. 受賞歴
アシュフォードは、その卓越した功績により、数々の栄誉と賞を受賞しました。
- 1977年:初のホンダ・スポーツ・アワード(全米最高の女子大学陸上競技選手に贈られる賞)を受賞しました。
- 1981年、1984年:「トラック&フィールド・ニューズ」誌の「年間最優秀選手」に2度選出されました。
- 1989年:フロー・ハイマン記念賞を受賞しました。
- 1990年:UCLAアスレチックス殿堂入りを果たしました。
- 1993年:ESPY賞(女子陸上競技部門)を受賞しました。
- 1997年:全米陸上競技殿堂に殿堂入りしました。同殿堂では、彼女は「史上最も偉大な陸上競技選手の一人」と称されています。
3.5. 回復力と再起
アシュフォードのキャリアは、度重なる怪我との闘いでもありました。しかし、彼女はその都度、驚異的な回復力と精神力で競技のトップレベルに返り咲きました。
- 1980年:大腿四頭筋の怪我でシーズンを終えましたが、翌1981年にはワールドカップで短距離2冠を達成し、両短距離種目で世界ランキング1位に返り咲きました。
- 1983年:世界選手権での負傷後、1984年にはロサンゼルスオリンピックで2つの金メダルを獲得しました。
- 1987年:ハムストリングの負傷により世界選手権への出場を断念しましたが、翌シーズンにはオリンピックで銀メダルと3つ目の金メダルを追加しました。
これらの再起は、彼女の不屈の精神とアスリートとしての献身を象徴しています。
4. 私生活
アシュフォードは競技生活と並行して、私生活においても重要な節目を経験しました。1985年5月30日には娘のレイナ・アシュリー・ワシントンを出産しました。出産後も競技に復帰し、1986年には100メートル競走と200メートル競走で一度しか敗れず、グッドウィルゲームズの100メートル競走で優勝するなど、素晴らしい成績を収めました。1985年にコーチのパット・コノリーと袂を分かってからは、主に自己指導でトレーニングを続けていました。
5. 遺産と影響
エベリン・アシュフォードのキャリアと業績は、陸上競技界、特に女子短距離競技に計り知れない影響を与えました。
5.1. 女子陸上競技への影響
アシュフォードは、女子スプリンターとしてスポーツ界の障壁を打ち破った先駆者の一人です。彼女がオリンピックで初めて11秒の壁を破ったことは、女子短距離競技の新たな基準を確立しました。その卓越したパフォーマンスと度重なる怪我からの回復力は、後続の女性アスリートたちに大きなインスピレーションを与え、女子陸上競技の発展に貢献しました。
5.2. 顕彰と記念
彼女の偉大な業績は、様々な形で永続的に認識されています。
- 1990年にはUCLAアスレチックス殿堂入り。
- 1997年には全米陸上競技殿堂に殿堂入りし、「史上最も偉大な陸上競技選手の一人」としてその功績が称えられています。
これらの顕彰は、エベリン・アシュフォードが陸上競技史に残る伝説的な選手であることを物語っています。