1. 概要
シャーリー・テンプル・ブラック(Shirley Temple Blackシャーリー・テンプル・ブラック英語、旧姓シャーリー・ジェーン・テンプル、Shirley Jane Templeシャーリー・ジェーン・テンプル英語、1928年4月23日 - 2014年2月10日)は、アメリカ合衆国の女優、歌手、ダンサー、そして外交官である。1934年から1938年にかけてハリウッドで最も興行収入を上げた子役として世界的な名声を得た。
テンプルは3歳だった1931年に映画キャリアを開始し、1934年公開の『輝く瞳』での演技で広く知られるようになった。1935年2月には、1934年の映画における子役としての卓越した貢献に対し、特別アカデミー子役賞を受賞し、1930年代の残りの期間も人気映画に出演し続けた。しかし、成長するにつれてその後の映画の人気は低下していった。彼女は1949年の『コリスの口づけ』が最後の映画出演となった。
女優業引退後、彼女は公職の道に進んだ。1969年には国際連合総会の米国代表として任命され、チャールズ・ヨスト大使の下で米国代表部で勤務した。その後、駐ガーナアメリカ合衆国大使、駐チェコスロバキアアメリカ合衆国大使を歴任し、初代女性アメリカ合衆国儀典長も務めた。1988年には自伝『チャイルド・スター』を出版した。
テンプルは、ケネディ・センター名誉賞や全米映画俳優組合賞生涯功労賞など、数々の賞と栄誉を受けている。彼女はアメリカン・フィルム・インスティチュートの「アメリカ映画の偉大な女性スクリーンレジェンド」リストで18位にランクインしている。
2. 初期生活と背景
シャーリー・テンプルは、カリフォルニア州サンタモニカで生まれ育ち、幼少期から母親の指導のもとで歌、ダンス、演技の才能を伸ばし、そのキャリアの基礎を築いた。
2.1. 幼少期と教育
シャーリー・ジェーン・テンプルは1928年4月23日、カリフォルニア州サンタモニカのサンタモニカ病院(現在のUCLAサンタモニカ医療センター)で、主婦のガートルード・テンプルと銀行員のジョージ・テンプルの三番目の子供として生まれた。家族はオランダ人、イングランド人、ドイツ人の血を引いていた。彼女にはジョンとジョージ・ジュニアという二人の兄がいた。一家はその後、ブレントウッドのロッキンガム・アベニューに引っ越した。
テンプル家は厳密にはペンシルバニア・ドイツ人が混ざった家系でありながら、ワスプに数えられた。一族はキリスト教の宗派の長老派清教徒で、代々医者か弁護士か銀行員を職業としてきた。清教徒には伝統的に実業を重んじ、演劇や映画を軽視する傾向があるため、シャーリーが少女スターになった時、一族の反応には複雑なものがあったと伝えられる。父ジョージは銀行員(後に実業家)で、娘が生まれたとき当時の大手銀行30社のひとつカリフォルニア銀行のサンタモニカ支店長を務めていた。母ガートルードは専業主婦である。二人の兄はそれぞれスタンフォード大学と陸軍士官学校を卒業し、FBIの幹部と海兵隊の士官を務めている。
テンプルの母親は、彼女の歌、ダンス、演技の才能を伸ばすことを奨励した。母親は妊娠中、音楽や美しい絵、きれいな風景に接して胎教につとめた。生まれてきた娘が赤ん坊の時からダンスと音楽に強い関心を示したという「シャーリー・テンプルの胎教」のエピソードは、アメリカではよく知られている。家庭は円満で両親に愛情を注がれて育った。栄養を考えた食事、適度な運動と日光浴、規則正しい生活によって3歳までほとんど病気をしていなかった。既に10代だった2人の兄に手がかからなかったため、母親はもっぱらシャーリーの世話をして一緒に歌ったり踊ったりして過ごした。3歳の頃(1931年)、娘がダンスと音楽に強い関心を示すと母親はハリウッドのメグリン・ダンス学校に入学させた。ちなみにジュディ・ガーランドもこの学校の卒業生である。
目の色は茶色、髪の色は生後7歳ぐらいまで金髪で、8歳ぐらいから赤みを帯びておよそ10歳の時には茶色になった。やがて大人になるとほぼ黒髪といっていい。この頃、母親はテンプルの髪をリングレットにスタイリングし始めた。
2.2. 初期活動
ダンス学校にいる間、テンプルはエデュケーショナル・ピクチャーズのキャスティングディレクターであるチャールズ・ラモントに目をつけられた。ラモントがスタジオにいる間、彼女はピアノの後ろに隠れていたが、ラモントはテンプルを気に入り、オーディションに招待した。彼は1932年に彼女と契約を結んだ。エデュケーショナル・ピクチャーズは、すべての役に未就学児を起用し、最近の映画や出来事を風刺する10分間のコメディ短編映画シリーズ『ベビー・バーレスク』を開始した。1933年、テンプルはメイ・ウェスト主演の『私は女になりたい』のパロディである『グラッド・ラグズ・トゥ・リッチズ』に酒場の歌手として出演した。同年、彼女はジャングルで危険にさらされる子供として『キッド・イン・アフリカ』に、前年の『フロント・ページ』のパスティーシュである『ラント・ページ』に出演した。

テンプルはこのシリーズのブレイクアウトスターとなり、エデュケーショナルは彼女をフランク・コフラン・ジュニアとの20分コメディシリーズ『フロリックス・オブ・ユース』に昇格させた。テンプルは現代の郊外の家族の末娘、メアリー・ルー・ロジャースを演じた。テンプルと彼女の子役共演者は、制作費を賄うために朝食シリアルや他の製品のモデルを務めた。彼女は1932年のスタジオ初の長編映画『赤毛の口実』の小さな役のためにタワー・プロダクションズに貸し出され、1933年にはユニバーサル、パラマウント、ワーナー・ブラザース・ピクチャーズに様々な役のために貸し出された。これにはランドルフ・スコットとエスター・ラルストン主演の1933年の『最後の男』でのクレジットなしの役も含まれる。
テンプルはハル・ローチのコメディシリーズ『ちびっこギャング』(後に『リトル・ラスカルズ』として知られる)の主役オーディションに参加したと報じられたが、契約には至らなかった。監督兼プロデューサーのロバート・F・マクゴーワンは、スタジオがテンプルを起用したがっていたものの、彼女の母親がスターと同じ高額な出演料を要求したため契約できなかったと語った。しかし、テンプルは自伝『チャイルド・スター』の中で、『ちびっこギャング』のオーディションを受けたことを否定している。
3. 子役としてのキャリア
シャーリー・テンプルは、1930年代にフォックス・フィルム・コーポレーションの看板女優として、その愛らしい演技と歌、ダンスで一世を風靡した。彼女の作品は大恐慌下の国民に希望を与え、その人気は社会現象となった。
3.1. 子役としてのキャリアの始まり
テンプルの『フロリックス・オブ・ユース』の映画の一つを観た後、フォックス・フィルム・コーポレーションのソングライターであるジェイ・ゴーニーは、劇場のロビーで彼女が踊っているのを見かけた。スクリーンで彼女を認識したゴーニーは、1934年の映画『歓呼の嵐』のスクリーンテストをテンプルに手配した。テンプルは1933年12月7日にオーディションを受け、役を獲得した。彼女はフォックスと週150ドルで2週間保証の契約を結んだ。この役はテンプルにとって画期的な演技となった。彼女の魅力はフォックスの幹部にとって明らかであり、ジェームズ・ダンと共演した歌とダンスのナンバー「ベイビー・テイク・ア・ボウ」を終えた直後から、彼女はすぐに会社のオフィスに招かれるようになった。

伝記作家のジョン・カッソンは次のように述べている。「ほとんど全ての映画で、彼女は感情的な癒し手の役割を演じ、かつての恋人たち、疎遠になった家族、伝統的なものと現代的なもの、そして戦争中の軍隊間の亀裂を修復した。典型的には片親または両親を欠いていた彼女は、自分を最も愛し守るに値する人々で新しい家族を構成した。プロデューサーたちは、彼女の小柄な体格、輝く瞳、えくぼのある笑顔、そして56本のブロンドの巻き毛を、ゲイリー・クーパー、ジョン・ボウルズ、ヴィクター・マクラグレン、ランドルフ・スコットといったたくましい主演男優と対比させることを喜んだ。しかし、彼女のお気に入りの共演者は、偉大なアフリカ系アメリカ人のタップダンサー、ビル・ロビンソンであった。彼とは1935年の『小連隊長』を皮切りに4本の映画で共演し、その中で有名な階段ダンスを披露した。」
伝記作家のアン・エドワーズは、テンプルの映画の雰囲気について次のように書いている。「これは大恐慌の真っ只中であり、困窮した人々を救済し、堕落した人々を更生させるための計画が多数存在した。しかし、それらはすべて無限の書類仕事と屈辱的な何時間もの行列を必要とし、その果てには疲弊し苛立ったソーシャルワーカーが各個人を顔のない番号として扱っていた。シャーリーは自然な解決策を提供した。それは、心を開くことだった。」
フランクリン・D・ルーズベルト大統領は彼女の演技を称賛し、「たった15セントで、アメリカ人が映画館に行き、赤ん坊の笑顔を見て悩みを忘れることができるのは素晴らしいことだ」と述べた。
1933年12月21日、テンプルの契約は週150 USDのままで1年間に延長され、7年間のオプションが付けられた。彼女の母親ガートルードは、彼女の美容師兼パーソナルコーチとして週25 USDで雇われた。1934年5月に公開された『歓呼の嵐』はシャーリーのブレイクスルー映画となった。彼女は人気のあるフォックスのスター、ジェームズ・ダンと共に映画の短い寸劇に出演し、歌とタップダンスを披露した。フォックスの幹部は彼女をダンとの別の映画『ベビイお目見得』(『歓呼の嵐』での彼らの歌にちなんで命名された)に急いで出演させた。テンプルの3作目の映画もダンと共演した『輝く瞳』(1934年)で、これは彼女のために特別に書かれた映画だった。

最初の3本の映画の成功後、テンプルの両親は彼女の報酬が十分ではないことに気づいた。彼女の肖像は、法的許可なく、また報酬なしで多数の商業製品に登場し始めた。彼女の肖像の使用を管理し、フォックスと交渉するために、テンプルの両親は弁護士のロイド・ライトを雇って代理を務めさせた。1934年7月18日、テンプルの契約上の給与は週1000 USDに引き上げられ、母親の給与は週250 USDに引き上げられた。さらに、完成した映画ごとに1.50 万 USDのボーナスが支払われることになった。多くの企業に停止命令書が送られ、認可された企業ライセンスが発行され始めた。
彼女の演技スタイルを念頭に置いて書かれた『輝く瞳』は1934年に公開された。この映画には「オン・ザ・グッド・シップ・ロリポップ」という歌が含まれており、彼女の代表曲とされている。彼女は1935年にミニチュアの子役オスカーを受賞した。
3.2. 全盛期とポップカルチャーアイコン
テンプルの両親が1934年7月に署名した契約では、各暦年の映画の割り当てが3本から4本に増加した。『今と永遠に』(ゲイリー・クーパーとキャロル・ロンバード主演、テンプルはクーパーとロンバードの下に名前が記載され、3番目のビル)、『小連隊長』、『我らの小さな少女』、『カーリー・トップ』(代表曲「アニマル・クラッカーズ・イン・マイ・スープ」を含む)、『ちびっこ反乱軍』が契約締結後に公開された。『カーリー・トップ』は、20世紀ピクチャーズとフォックス・フィルム・コーポレーションの合併前のテンプルの最後の映画となった。

テンプルの給与は1935年末までに週2500 USDになった。有名なアイヴァーソン・ムービー・ランチでの制作のために精巧なセットが建設され、その場所の岩の地形は最終的にシャーリー・テンプル・ロックと名付けられた。
1937年に公開されたテンプルの映画は『ハイジ』のみだった。映画の撮影途中で、夢のシーケンスが脚本に追加された。テンプル自身が夢のシーケンスを熱心に推進したと報じられたが、彼女は自伝でこれを強く否定している。彼女の契約では、両親にも彼女にも映画の創造的コントロールは与えられていなかった。彼女はこれを、ザナックが『テンプルの軍使』での彼女のドラマチックな役の成功を基に、真剣な試みをすることに拒否したと見なしていた。
当時、テンプルがいかに大衆文化に浸透していたかを示す多くの例の一つに、1937年の映画『スタンド・イン』での彼女への言及がある。新任の映画スタジオのボス、アッターベリー・ドッド(レスリー・ハワード演)はテンプルのことを聞いたことがなく、元子役のレスター・プラム(ジョーン・ブロンドル演)はショックと不信感を抱く。プラムは自分を「私の時代のシャーリー・テンプル」と表現し、彼のために「オン・ザ・グッド・シップ・ロリポップ」を歌って見せる。
1938年5月、独立劇場所有者協会は『ハリウッド・リポーター』に広告を出し、テンプルを「給与に値する」俳優のリストに含めた。このリストには、キャサリン・ヘプバーンやジョーン・クロフォードなど、他の俳優たちの「興行収入がゼロ」であるとされた。
1939年、彼女はサルバドール・ダリの絵画『シャーリー・テンプル、その時代の映画界最年少にして最も神聖な怪物』の主題となり、『サインハウンド』ではドナルドダックと共にアニメ化された。
1940年、独立映画プロデューサーのレスター・カウアンは、F・スコット・フィッツジェラルドの『バビロン再訪』の映画化権を80 USDで購入した。フィッツジェラルドは自身の脚本家としてのキャリアは終わったと考えていたが、カウアンの短編小説に基づく「コスモポリタン」という脚本執筆の申し出をためらいながらも受け入れた。脚本を書き終えた後、フィッツジェラルドはカウアンから、テンプルが若者ホノリアの主役を演じない限り映画は制作しないと告げられた。フィッツジェラルドは、12歳では女優がその役に世間ずれしすぎているため、ホノリアのキャラクターが本来持っていた無垢な雰囲気を損なうだろうと異議を唱えた。しかし、7月にテンプルと会った後、フィッツジェラルドは考えを変え、彼女の母親に映画への出演を説得しようとした。しかし、母親は難色を示した。いずれにせよ、カウアンのプロジェクトはプロデューサーによって棚上げされた。フィッツジェラルドは後に、エリザベス・テイラー主演の『パリで一緒に』の原作としてクレジットされた。
### 代表作と演技 ###
テンプルの持ち味は、生真面目で勤勉な性格である。映画の出演が決まると撮影が始まる前に必ず台本に載った登場人物全員の台詞を暗記し、台本には書き込みやマーク等は一切しない。決してNGを出さず一回の撮影で監督を満足させたことから、ジョン・フォードに「一回撮りのシャーリー」("One-take Shirley")と褒められるほどだった。決して遅刻をせず予定より少し早めにセットに入る几帳面さは成人してもそのままで、終生、時間に正確だった。
アメリカの国立機関ケネディ・センターは次のように称えている。「シャーリー・テンプルには最初から映画のカメラに愛されるなにかがあった。輝く瞳に巻き毛、魔法のような存在感と溢れる魅力--そして驚くべき才能である。」
1930年代の5、6歳の子役で大人のプロダンサーでも難しいステップを楽々と踊り、正確な音程とリズムで難しい曲を歌い、気難しい批評家すら唸らせる絶妙な間合いで台詞が言えて自然な演技が出来る者は、彼女しかいなかったといえよう。映画監督のデイヴィッド・バトラーが「あの子と話をした者はみんな人柄に感動した」と語ったとおり、生まれつき人々を惹きつけ相手の心を明るくしてしまう強い魅力がシャーリーにはあり、どんな時でも快活で不機嫌そうにしたりすねたりグズったりしたことはない。1930年代に「世界最高のタップ・ダンサー」と言われた俳優ビル・ボージャングル・ロビンソンは、「神様はシャーリーを唯一無二の存在として創られた。あの子に続く者は二度と現れないであろう」と述べている。
『可愛いマーカちゃん』(1934年)のころ、シャーリーは両親とホテルに滞在中に、紳士からメダルを贈られ、数千人の信者が集まる会場で挨拶を求められた。わずか5歳だったにもかかわらず、笑顔でメダルのお礼を述べ、「大会が成功しますように」「皆さんが大好きです」と投げキスで締めくくると、大きな拍手が鳴り止まなかった。この出来事以来、彼女はどんな時にも自然な自分を出すことで、アメリカのファンに感動を与え続けた。
そのころ受け取ったファンレターは週に4000通以上。同じ時期、アメリカで最もファンレターの多いスターである。たちまち週1万通を超えるとフォックス・フィルム社はフルタイムの専属秘書を10人付けている。サインを求められることも多く、あるクリスマスの時期に母親とデパートに行ったところ、アルバイトのサンタクロースがサインをほしがったという。サンタクロースはほんとうにいると信じていたのに、このときからそう思わなくなったと後に語っている。
『可愛いマーカちゃん』公開の翌年、映画界であげた功績に対してアカデミー賞特別賞を受賞。初のトーキー映画を公開したワーナー・ブラザース、チャーリー・チャップリン、ウォルト・ディズニーについで4番目である。シャーリーはこのとき6歳、アカデミー賞のすべての分野における最年少記録は2015年現在も破られていない。午前1時半過ぎにようやく授賞の番が巡ってくると、大人でも仕事の疲れで眠いはずであるが、にこやかに受賞の挨拶を済ませている。ところがステージから降りて母親に「ママ、もう帰っていいの?」とささやいた声がマイクに拾われて会場に大きな音で流れてしまった。会場は爆笑に包まれ、やがてこんなに幼い女の子が疲れや眠気を全く表に出さないことを称えて拍手喝采を送った。
母のガートルードは映画デビューした娘にぴったりと付き添い、「映画界の悪い影響」を受けないように守った。フォックス・フィルム社も同じく保護が必要だと認め、撮影所内に専用の家とおもちゃを用意している。会社は他の子役や裏方と遊ぶことを禁じた。法律上、1日4時間しか働かせてはならないため仕事に専念させたがり、切実な事情として西部劇のウィル・ロジャースの事故死で看板俳優を失ったことからシャーリー・テンプル一人に社運を託すほかはなく、子役や裏方と遊ぶうちに病気や怪我をしないかとひどく用心した。成功を妬んだ他の子役の母親が硫酸を顔に浴びせようとしたり、毒入りのキャンディーを送りつけたりしてからはなおさらである。『輝く瞳』で共演した子役のジェーン・ウィザースとも友だち付き合いはなかった。撮影のとき、毎日シャーリーが彼女に物真似でからかわれ、撮影の本番では台詞を先回りして横で大声で言われ、とても演技がやりにくかったという理由による。
撮影所では仕事が4時間、勉強が3時間。1時間の昼休みにさえ名士の訪問を受けることもしばしばだった。帰宅は毎日4時か5時ごろで夕食まで近所の子供たちと遊び、最も親しかったのはナンシー・メジャーズ。夕食後はごく普通に遊んだりラジオを聴いたり、家のお手伝いをしたりして、寝る前には必ず次の日の撮影の準備をした。母ガートルードも会社も他の早熟な子役から悪い影響を受けて「品行方正な子供」というイメージに傷がつかないように心を配り、彼女は大人に守られ明るく品行方正に育った。
フォックス・フィルム社は20世紀ピクチャーズと合併、1935年から20世紀フォックスとなる。合併祝賀パーティの席上、ある脚本家が6歳のシャーリーを抱いて「高い高い」をしたところ、パーティの出席者全員、怪我をさせるのではと恐怖で凍りついた。そのとき両手で高く差し上げている少女は会社の全財産にも等しいと気づくと、脚本家は恐ろしさにめまいを起こして危うく彼女を取り落としそうになったという。
看板俳優の座を継いだシャーリーにはスタンドインが付き、マリリン・グラナスやメリー・ルー・イズライブ等が務めた。初期の担当だったマリリンは1歳年上、以前にベビー・バーレスク作品(『キッド・ラスト・ファイト』や『キッド・イン・ハリウッド』ほか)で競演した仲である。『ベビイお目見得』(1934年)や『輝く瞳』ほかのスタンドインを務め、やがてキャスティング・ディレクターに転身。メリー・ルー・イズライブはマリリンの後に付き、撮影所では他の子役から離されたシャーリーにとってただのスタンドインではなく、学友であり親友でもある。シャーリーは小学校入学の年齢になっても通学はせず、20世紀フォックスの撮影所で専任の家庭教師を付けられて数学年上の授業内容を勉強したという。6歳のときの知能検査でIQは10歳相当。12歳では155以上、「天才」の範疇に分類される評価である。
子役の少女は成長するとマーガレット・オブライエンやナタリー・ウッド、テータム・オニールのようにどこか影のある子供あるいはブルック・シールズやジョディ・フォスターなど妖艶さが売り物という性格づけがされる。しかしシャーリー・テンプルは20世紀のアメリカ映画唯一の大物少女スターとして、どこまでも純粋で無邪気で明るく、子どもらしい子どもを演じ続けた。
1930年代、アメリカ映画界最高のスターであり、1935年から1938年まで4年連続で興行収益1位という歴史的な記録を打ち立てる。これは子役としては不動の記録であり1940年代に史上最高の5回を獲得したビング・クロスビーに破れるものの、女優でこの記録を抜き去る者は2009年にいたるまで現れていない。また他のスターは俳優業に一生を捧げ、その総決算として興行収益トップの座を手に入れるのであって、彼女のケースは10歳未満で易々と4回も取ると別の分野に転進して顕著な功績を挙げ、非常に際立っていると言えよう。
この時期の代表的な映画作品にはファンの多いものが連続している。このうち『テンプルの福の神』と『農園の寵児』は公的機関であるアメリカン・フィルム・インスティチュート (AFI) が「ミュージカル傑作180選」(ミュージカル映画ベスト)に選んだ。また『輝く瞳』は正確に言えば準ミュージカルであり、イギリスのチャンネル4テレビが選ぶ「傑作ミュージカル100選」 (2003) の97位を占める。
この時期、ゲイリー・クーパーとスペンサー・トレイシー、キャロル・ロンバードとジャネット・ゲイナー、フランク・モーガンとライオネル・バリモア、アリス・フェイ、ランドルフ・スコット等、錚々たるトップスターと共演している。また世界最高のタップ・ダンサーといわれたビル・ボージャングル・ロビンソンとの共演は特筆すべきで、この二人はアメリカ史上初の黒人と白人のダンス・ペアである。彼女は共演した相手の中でロビンソンが最も好きだったと語った。
有名なユーモア作家アービン・コッブが「(子供たちへの)サンタクロースの最大の贈り物」と呼んだように、シャーリーは世界中の少女から熱狂的に支持された。アイデアル・トイ・カンパニーが発売したシャーリー・テンプル人形は爆発的な売れ行きを示し、シャーリー・テンプルにちなむ少女向け子供服やアクセサリーも飛ぶように売れ、アメリカ・ヨーロッパ・日本だけでなく文字通り世界中の少女たちがこういう商品を欲しがった。その陰でシャーリーは何度か誘拐事件がらみの脅迫を受けたり、気のおかしい女性から射殺されそうになったりしたが、いずれも間一髪で難を逃れた。
1937年にニューヨーク・タイムズはシャーリーを「アメリカ国民の天使」に選出。同じ年に『テンプルの軍使』が撮影され、ガッツを見せて長くジョン・フォード監督に高く評価された。後にフォードは彼女の長女の名付け親にもなる。『テンプルの軍使』については大物小説家のグレアム・グリーンが9歳のシャーリー・テンプルに中年男性の観客は欲情を感じるという趣旨の批評を書き、イギリス世論の怒りと20世紀フォックスの告訴を招いた。
1939年の『オズの魔法使』のドロシー役もシャーリーが演じる予定だった。非公式にメトロ・ゴールドウィン・メイヤーがカメラテストをして衣装をつけて主題歌を歌わせてみたところ出来が素晴らしく、ルイス・メイヤー社長は彼女以外にこの役を演じられる者はないと惚れ込んだ。しかし20世紀フォックスとの話し合いがつかず、結局ジュディ・ガーランドに役が回った。
だがシャーリー個人の語る降板理由は、アシスタントプロデューサーのアーサー・フリードがまだ12才だった彼女が一人でフリードの部屋に面接に入った時に、彼は下半身を出して陰部を見せ付けたというセクシャルハラスメントがあったことが原因だと自伝で明かしている。フリードは女優相手に「キャスティング・カウチ(セックスをした相手に役や契約を回すこと)」を頻繁に行う悪名高いな人物であった。フリードにような倫理観に乏しい人物の魔の手を逃れたシャーリーは、もはやただの少女子役にとどまらず、「アメリカン・イノセンス(無垢なアメリカ)」の象徴となった。
### 財政と商品化 ###
シャーリー・テンプルが得た収入の高さは伝説として語り継がれている。
1937年を例に挙げよう。この年のアメリカ成人の平均年収は860 USD、彼女のスタンドインを務めた親友のメリー・ルー・イズライブは週給50 USDだった。映画俳優の出演料第1位はシャーリーで30.70 万 USDである。大物俳優と比べてみよう。
- クラーク・ゲーブル:27.20 万 USD
- グレタ・ガルボ:27.00 万 USD
- フレッド・アステア:26.68 万 USD
- スペンサー・トレイシー:21.20 万 USD
- ジンジャー・ロジャース:20.80 万 USD
制作陣はというと、プロデューサーで脚本家のダリル・ザナックは26.50 万 USD、同じくセルズニックが10.60 万 USDだった。ふつう俳優は映画会社からの報酬を除くと副収入はほとんどなく、それでも大恐慌下のアメリカで最も豊かな層に属していた。その点、シャーリーにはそれに加えて人形等の商品からライセンス料450.00 万 USDがあり、映画会社から受ける出演料のじつに約15倍に相当する。こうして見ると1930年代、彼女がどれほど図抜けて裕福な存在だったか明らかである。
年代順に映画会社から受け取った収入を並べた場合である。
- 1932年 『赤毛の口実』:50 USD(端役・撮影は2日間)
- 1932年 『キッド・イン・ハリウッド』:週休150 USD
- 1934年フォックス・フィルム社と契約
- 『歓呼の嵐』:週給4150 USD
- 『パードン・マイ・パップス』:週給1000 USD、契約金3.50 万 USD(受け取りは契約終了後)
- 母ガートルードの手当ては週250 USDに昇給
- 1936年 『テンプルの福の神』:週給1.50 万 USD、契約金5.00 万 USD
20世紀フォックスと契約が終了しセルズニックと契約すると、1944年から1年の試用期間が始まり、『君去りし後』は週給2200 USD。この作品の成功により契約期間は7年に、週給は5000 USDにそれぞれ伸び、1本当たり契約金5.00 万 USDが上乗せされる。『アパッチ砦』が契約金11.00 万 USDだった1948年、シャーリーは「アメリカの恋人(アメリカン・スイートハート)」と呼ばれ、娘役の人気をジューン・アリソンと二分するまでになった。収入はティーン・アイドル・スターの最高額に達する。エリザベス・テイラーはまだ後ろから彼女を追う存在だった。
女優業にカムバックした1958年、テレビシリーズ2本の出演料は1話あたり10.00 万 USD、これに歩合給として販売益の4分の1を加えることが決まった。合計41話で出演料の総計410.00 万 USD。テレビ界の最高額であることは言うまでもない。同時期の映画女優の出演料と比べるなら、シャーリーのテレビ出演料がどれほど別格の扱いだったことか。例えば同じティーン・アイドル出身のエリザベス・テイラーの場合、撮影に足掛け4年を費やした『クレオパトラ』(1963年)により、ようやく100.00 万 USDに達する(歩合収入含まず)。その金額はその当時、映画女優のトップでもあった。
出演料を含むシャーリーの財政状態が明かされるのは、チャールズと結婚したばかりのころである。未成年のあいだの出演料およそ320.00 万 USD(実収入)を含む資産のほとんどは父ジョージ名義にしてあり、父が投資に失敗、資産は大きく目減りして総額81.00 万 USDばかりが残っていた。この話題は今も多くの本やネット上の記事で大きく取り上げられるものの、子役のジャッキー・クーガンほか親が蓄えを使い切り無一文になった例とは、全く状況が異なる。
シャーリーは豊かだった。22歳で父から引き継いだ資産の内訳は首都ワシントン郊外に敷地約2.5 acre(約1.20 万 m2・東京ドームのグラウンドよりやや狭い面積)の土地と邸宅、自分名義に書き換えた預貯金と有価証券をあわせて8.90 万 USD。それ以前も以後も、父から毎週75 USDほど仕送りを受けている。
シャーリー・テンプル人形はアイデアル・トイ・カンパニーが製造し、1930年代を通じて最も売れた玩具だった。人形が着用する服は、スターが映画で着た衣装に似せて作られていた。現在、オリジナルのシャーリー・テンプル人形はアンティーク市場で数百ドルもの価値がある。シャーリー・テンプルブランドのドレスやリボンも人気商品だった。
ライセンス商品の他に、テンプルの名声を利用して彼女の肖像を無許可で使用した模倣品も出回った。人形、衣類、その他のアクセサリーから、彼女の顔がラベルに印刷された葉巻まであった。テンプルは回顧録で、無許可の商品を製造した者に対して訴訟を起こすことは「経済的に意味がなかった」と嘆いている。アイデアル・トイ・カンパニーは、シャーリー・テンプル人形を無許可で製造・販売したレノラ・ドール・カンパニーに対して訴訟を起こし、テンプル自身もその有名人の地位にふさわしく共同原告として名を連ねた。
### 10代 시절と転換期 ###
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thumb|right|1944年、カナダ首相キングと。
20世紀フォックスとの契約が終わりに近づくにつれて、テンプルの母親は1939年9月に彼女をウェストレイク女子校に入学させた。そこでテンプルは7年生として入学した。テンプルは、幼少期のほとんどを大人や家庭教師と過ごしたため、学校環境に適応するのが難しいと感じたと述べている。しかし、同級生のジューン・ロックハートは、彼女が「すぐに溶け込み」、「そこにいることを喜んでいるようだった」と述べている。テンプルは頻繁に学校のダンスや課外活動に参加し、ロックハートによると、「生徒たちは彼女の映画での成功にもかかわらず、彼女を特別扱いしなかった」という。テンプルは1945年5月に同校を卒業した。
20世紀フォックスの最後の2作品『青い鳥』と『ヤング・ピープル』は興行的に赤字である。『青い鳥』はMGMの『オズの魔法使』の大成功を受けて急いで作られ、大作だが脚本の象徴主義が時代を先取りしすぎて観客には理解できない部分があった。さらにグリム童話の雰囲気を出そうと衣装や小道具をドイツ風にしたところ、おりしもナチス・ドイツのポーランド侵攻が勃発し観客の不興を買い、脚本もシャーリーのイメージと大きくずれていると受け取られる。『ヤング・ピープル』も筋立てがひたすらセンチメンタルでお粗末である。ただし彼女の回想録によれば『青い鳥』は1970年代になって再評価の動きがあったという。
シャーリーは20世紀フォックスを去った後、MGMと契約した。しかし、アーサー・フリードとの予備面接で、MGMのプロデューサーは彼女に自身の性器を露出した。これに対してテンプルが神経質な笑いを漏らすと、フリードは彼女を追い出し、映画が制作される前に契約を打ち切った。次のアイデアは、彼女をガーランドとルーニーと組ませてミュージカル『ブロードウェイの赤ちゃん』に出演させることだった。しかし、MGMはそれらの二人がテンプルを簡単に食ってしまうことを恐れ、彼女をヴァージニア・ワイラーに置き換えた。その結果、MGMでの彼女の唯一の映画は、1941年に公開された比較的失敗作の『キャスリーン』だった。1942年にはユナイテッド・アーティスツから『ミス・アニー・ルーニー』が続いたが、これも失敗に終わった。ケーリー・グラント主演の『独身者と未成年』と、ジョン・ウェインとヘンリー・フォンダ主演の『アパッチ砦』は、1940年代の彼女の数少ないヒット作だった。当時の夫ジョン・エイガーも『アパッチ砦』に出演している。彼女と後の米国大統領ロナルド・レーガンは共に『ヘイゲン・ガール』(1947年)に出演した。彼女は1950年まで長編映画からの引退を正式に発表しなかった。
4. 後期の俳優キャリア
シャーリー・テンプルは、子役引退後もテレビ番組の司会やコンサルタントとして芸能界に関わり続けた。
### 映画界引退後 ###
テンプルは一時的にCBSで自身のラジオシリーズを持っていた。『ジュニア・ミス』は1942年3月4日にデビューし、彼女はタイトルロールを演じた。このシリーズはサリー・ベンソンの物語に基づいていた。プロクター・アンド・ギャンブルがスポンサーを務め、『ジュニア・ミス』はゴードン・ヒューズが監督し、デヴィッド・ローズが音楽監督を務めた。このシリーズは1942年8月26日に終了した。


1958年から1961年まで、テンプルは『シャーリー・テンプル物語』というおとぎ話のアンソロジーシリーズの司会、ナレーター、そして時折女優を務めた。1958年には、1時間の番組がABCで一連のスペシャル番組として放送された。1959年からは、このシリーズは3週間に1度月曜の夜に、『シャイアン』と交互に放送されるようになった。1960年には、このシリーズはNBCに移り、『シャーリー・テンプル・ショー』というタイトルで1961年9月10日まで放送された。
1999年、彼女はCBSで放送された「AFI's 100 Years...100 Stars」授賞式を司会した。
2001年、テンプルは自身の自伝『チャイルド・スター』のABC-TV映画化作品『チャイルド・スター:シャーリー・テンプル物語』のコンサルタントを務めた。オーストラリアの監督ナディア・タスが監督し、彼女の夫デヴィッド・パーカーが撮影したこの映画には、テンプル役でアシュリー・ローズ・オー、ティーンエイジャーのシャーリー役でエミリー・アン・ハート、ガートルード・テンプル役でコニー・ブリットン、ジョージ・テンプル役でコリン・フリエルズ、ビル・ボージャングル・ロビンソン役でヒントン・バトルが出演した。この映画はオーストラリアのポートメルボルンで撮影された。
アメリカの子供向け番組の開始にあわせてゴールデン・アワーに繰り返し放送された番組がある。『シャーリー・テンプル・フェスティバル』という題で人気絶頂だった1930年代の映画を見せ、毎回高い視聴率を得た。人気に導かれて第2波のブームが起きると、デザインを変えたシャーリー・テンプル人形(アイデアル社)、『ベビイお目見得』でシャーリーが着た水玉模様の服にそっくりの子供服ほか、彼女の名前を冠した少女向けの服飾品やアクセサリーが再び売上を大きく伸ばし、さらに絵本やぬり絵も加わった。人形は発売6か月で30万体、絵本のシリーズは3か月で22万5000冊を売り上げた。夏休みやクリスマス休暇、イースター休暇には少女スター時代の作品をテレビで放送するのが恒例になっていく。
子役時代の出演作が1980年代にすべてカラー化されるとディズニー・チャンネルで放送するたび高視聴率で、ビデオやLDも人気を集めた。第3のブームである。シャーリー・テンプル人形はまたも大ヒット。テレビ放送を引き継いだフォックス放送は来る年も来る年もクリスマス当日にシャーリーの映画を放映、彼女の誕生日には恒例の特集番組を見せた。すると放送日前後に20世紀フォックス版DVDの売れ行きが伸びたという。テレビ番組『大草原の小さな家』シリーズで人気子役だったメリッサ・ギルバート(1964年生まれ)も大ファンで、毎日ビデオを見てはシャーリーに合わせて歌ったり踊ったりしたと2005年に語っている。アメリカ人は成長過程のどこかで必ずディズニーのアニメ、1939年の映画『オズの魔法使い』、シャーリー・テンプルの映画に接するという。小さなファンはあらわれ続けた。
子役時代の映画は家族向けのDVDとして世界中で発売されている。子供にも理解できるように音声を吹き替えた各国語版にはイタリア語・スペイン語・チェコ語・中国語・デンマーク語・ドイツ語・ヒンディ語・フランス語・ロシア語がある。ただし、日本向け商品だけは例外で日本語音声はなく字幕のみである。
5. 外交官および公職キャリア
シャーリー・テンプルは、女優業引退後、共和党の活動に参加し、外交官としてのキャリアを築いた。彼女は国際連合、ガーナ、チェコスロバキアの大使を歴任し、その勤勉さと人間的魅力で「アメリカ外交の秘密兵器」と称された。
### 政界進出 ###
義父は世界最大の企業USスチールの重役を兼ねており、親交のあった同社の副社長に連れられてシャーリー夫妻はアメリカ最高のパワーエリートの内輪の会合に加わる。子供のときから名士たちと親交のあった彼女は、すんなりとその会にとけこんでいった。
結婚後、共和党の活動に参加、一貫して共和党中道派に属する一方で環境保護に関して熱心に活動をしたことで知られる。1967年にはドワイト・D・アイゼンハワー元大統領のバックアップで共和党から下院選挙に出馬するが落選。共和党が掲げたベトナム戦争の北爆続行を選挙区の有権者が嫌ったこと、彼女の立場を無所属で立候補した共和党員ピート・マクロスキーから徹底したネガティブ・キャンペーンを受けたためである。
結果的にはマクロスキーが当選するが、彼女自身は選挙公約の第一条にベトナムからの早期の名誉ある撤退を掲げたように、戦争拡大を続ける民主党のリンドン・ジョンソン大統領に強く反対した。また減税、環境保護、ドラッグおよびポルノの規制強化を訴えている。女性の地位向上には賛成していたものの、その進展を妨げる女性解放運動の過激化には懐疑的だった。
### 外交官としての活動 ###
テンプルは1967年の議会選挙での落選後、外交官としてのキャリアをスタートさせた。ヘンリー・キッシンジャーがパーティーで南西アフリカについて話している彼女を偶然耳にし、彼女がそれについて何か知っていることに驚いたことがきっかけとなった。彼女はリチャード・M・ニクソン大統領によって国際連合総会第24回会期(1969年9月~12月)の代表に任命され、チャールズ・ヨスト大使の下で米国代表部で勤務した。彼女は環境、青少年、人権に関わる問題を担当し、多くの国際会議でアメリカ代表を務めた。まもなく持ち前の勤勉さと人間的な魅力で「アメリカ外交の秘密兵器」といわれるほどの優秀な外交官になった。演説の原稿はすべて自分で書いており、国連で演説したのは宇宙の平和利用と環境問題と難民問題についてのみである。中華人民共和国と友好的な立場をとり国連加盟を強く主張、アメリカ政府の首脳部に公式の請願書を送るなど働きかけをした。やがて中華人民共和国の国連加盟 (1971年) と米中国交回復が実現していく。

当時アメリカと国交のなかったエジプトで会議に出席したとき、サダト大統領が突然現れ、自分はファンだ、彼女が主演した『ハイディ』の映画フィルムが欲しいと言った。大統領は自ら「(イスラエルとの) 平和を心から望んでいる最初のアラブの指導者だ」と述べた。シャーリーはこの発言をすぐキッシンジャー国務長官に伝え、帰国後すぐ『ハイディ』の映画フィルムを贈った。やがてアメリカとエジプトの国交回復を経て、1978年、ジミー・カーター大統領の仲立ちでイスラエルとエジプトとの和平が成立する。
その後ジェラルド・R・フォード大統領によって駐ガーナアメリカ合衆国大使(1974年12月6日~1976年7月13日)に任命された。大使の職はアメリカでは政治任用ポストとされ功なり名を遂げた政治家や財界人、高名な学者、有力官僚などの中から任命される。日本のような公務員試験はないが、議会による厳しい資格審査(上下両院の外交委員会での長時間の口頭試問を含む)を経るため任用されないままに終わる者も多い。アメリカ史において女優から大使になった者はシャーリー・テンプルの前にも後にもおらず、そもそも当時は女性の大使さえ非常に少数だった。彼女がガーナ大使になった時にガーナ人男性の中には女性だという理由で反発する者もいたが、108人のスタッフのトップとして1日17時間働いて仕事をきちんとこなすうち、称賛が反対にとってかわった。それまでの大使とは異なり、民衆の中に飛び込みガーナ人の心を掴むよう努めた。
ガーナ大使時代のエピソードを2つ紹介する。最初のエピソードは着任直後のものである。シャーリーは深夜、大使館の庭で捨て猫が哀れっぽくニャーニャー鳴く声を聞いた。哀れに思い拾って世話をしてやろうと庭に下り、声のする方を探してまわっていると、突然、ガーナ人の庭師が血相を変えて飛び出してきて、彼女を必死に建物の中へ引き戻したという。実は、夜になると近くのジャングルから無数の毒蛇があらわれるので庭に出てはいけないことになっており、子猫の鳴き声と思ったのは猛毒のコブラが餌に襲いかかる時の威嚇音で、シャーリーは噛まれる寸前だったことになる。
2番目のエピソードは、部下の大使館員と一緒に有力部族の大酋長に会いに行った時の話である。ガーナでは相手に靴の裏を見せることは最大の侮辱とされており、決してやってはならない仕草である。ところが、部下の大使館員は話に夢中になって靴の裏がだんだんと大酋長に向き始めた。シャーリーはやきもきして部下の大使館員に身振りで、靴の裏を大酋長に向けないように合図をしていた。そちらに気を取られて大酋長の言葉にうっかりイエスと答えてしまう。じつは大酋長はその時、第三夫人にならないかと言っていた。有頂天になった大酋長に第三夫人にすることをあきらめてもらうため、シャーリーには巧みな外交的な駆け引きが必要だった。
1976年、テンプルはその年の大統領選挙でジェラルド・フォードの潜在的な副大統領候補と見なされた。共和党全国大会のためにミズーリ州カンザスシティに滞在中、テンプルと夫はホワイトハウスの電話が設置された部屋を与えられた。テンプルは夫に、この電話はフォードが彼女に大会で副大統領候補になるよう依頼するために設置されたのではないかと推測したと回想したが、電話は切断された。代わりにボブ・ドールが副大統領候補に選ばれた。
彼女は初代女性アメリカ合衆国儀典長(1976年7月1日~1977年1月21日)に任命された。ホワイトハウスの全ての儀式の責任者として、また同時にブレアハウス等のアメリカの迎賓館で全ての国賓の接待を取り仕切る役職に置かれた。さらに大統領が海外を訪問する時は大統領専用機で同行し、大統領の右腕として相手国との折衝をまとめた。三木武夫首相訪米の際は接待の総責任者、また1977年にはジミー・カーター大統領の就任式式典を指揮して任期を終えた。儀典長の手腕も国務省で非常に高く評価され、現在に至るまで最も高名な米国儀典長と評価されてきた。儀典長退任の際、外交官としての功績により特に大使の称号を一生名乗ることを認められた。
ロナルド・レーガンの1980年の大統領選挙での勝利後、テンプルは閣僚の地位か別の大使職を与えられることを望んでいた。レーガンはテンプルを米国大統領就任祝賀行事の一環としてパリに派遣したが、レーガン政権下で新たな役職を与えられることはなかった。作家のアン・エドワーズは、これはテンプルが1980年の共和党予備選挙でレーガンのライバルであるジョージ・H・W・ブッシュを支持していたためだと示唆した。レノア・アンネンバーグの辞任後、レーガンがテンプルを儀典長に再任する計画があるという噂が流れた際、テンプルは「過去を振り返ることは信じない」と述べた。
1981年のレーガン政権の発足に伴い、ワシントンとパリで大統領就任式の公式祝賀舞踏会が開かれた。パリの舞踏会には夫と共に出席し大統領の名代を務めている。その年、国務省は大使養成機関であるアメリカ外交アカデミーを創立し、初代委員のシャーリーは新任の大使とその配偶者を対象に、任地でいかに振舞うべきか、誘拐されたり大使館で爆弾が炸裂したりテロリストに脅迫されたりしたときの対処法など、1989年まで実際的な知識を伝授した。この間シャーリーの教えを受けた大使とその配偶者は146名に及ぶ。
南アフリカ共和国のアパルトヘイト廃止を目指し、1986年に国務省内で様々な働きかけをし、実現に向けて多くの国際会議で演説をおこなった。これはやがて1980年代後半の国際的な反アパルトヘイトの大きな流れへとつながり、1991年にデクラーク大統領がアパルトヘイト撤廃を打ち出し、1994年、アパルトヘイトは完全に撤廃された。1987年、これらの功績によってアメリカ史上初の名誉外交官の称号を受ける。

彼女はジョージ・H・W・ブッシュ大統領によって駐チェコスロバキアアメリカ合衆国大使(1989年8月23日~1992年7月12日)に任命され、この職に就いた最初で唯一の女性だった。テンプルはチェコスロバキアの共産主義との闘いの歴史における2つの重要な瞬間に立ち会った。彼女は1968年8月、国際多発性硬化症連盟の代表としてプラハにいたが、ソ連軍の侵攻当日、チェコスロバキア共産党指導者アレクサンデル・ドゥプチェクと会談する予定だった。ドゥプチェクは「プラハの春」として知られる一連の改革の後、ソ連の不興を買った。戦車が侵攻する中、ホテルに閉じ込められたテンプルは、ホテルの屋根に避難した。彼女は後に、そこから非武装の女性がソ連軍によって射殺されるのを目撃し、その光景は彼女の人生の残りの期間、心に残り続けたと報告している。
その後、チェコスロバキア大使に就任した後、チェコスロバキアにおける共産主義の終焉をもたらしたビロード革命に立ち会った。テンプルは反共産主義の反体制派に公然と共感し、彼らの活動を支援した。彼女は、ヴァーツラフ・ハヴェル率いる新政府とアメリカが正式な外交関係を樹立した際の大使だった。彼女は異例にもハヴェルに同行し、同じ飛行機でワシントンへの初の公式訪問に同行した。
アメリカ航空宇宙局(NASA)は、女性の社会進出のパイオニアとしてシャーリー・テンプルの記事をホームページの教育向けサイトに掲載、「外交官としての功績は人気子役の時代より、世界のさらに多くの人々に影響を与えた」と紹介、さらに「迅速な判断、機知に富み、暖かく優雅な人柄により、アメリカで最も尊敬される外交官の一人となった」と記した。またケネディ・センターは外交官の功績について「アメリカだけでなく世界もシャーリー・テンプルに負うところが大きい」と結論付けている。
シャーリー・テンプルは米国内外で多くの公的な委員会や非政府組織、NPO団体の委員・評議員も務める。また歴代の大統領や国務長官とともに、アメリカ外交問題の最高のシンクタンクで「影の世界政府」の異名もある外交問題評議会に所属。政治・産業・金融・メディアの各界ならびに教育界のエリートがつどう国際的な非公開会議ビルダーバーグ会議の参加者でもある。初めて出席した1982年はノルウェーヴェストフォル県サンデフィヨルドの高級ホテルで開かれた。公職を退いた後も終生、スタンフォード大学国際問題研究所(フリーマン・スポグリ国際学研究所)の評議員だった。
生前に委員・評議員などについた組織や団体はつぎのとおり。
- 米国大使評議会
- 外交問題評議会
- ビルダーバーグ会議
- 米国ユネスコ委員会
- 米中友好に関わる委員会
- 国際連合協会
- スタンフォード大学国際問題研究所
- 国際多発性硬化症連盟の共同設立人
外交および社会貢献について、名誉学位授与や特別研究員に遇された。
- 名誉博士:サンタクララ大学、リーハイ大学
- 特別研究員:ノートルダム・ド・ナムール大学
- 客員教授:イェール大学チャブ基金客員教授(1979-80年、ガーナ特別全権大使およびアメリカ儀典長として)
女性の尊厳を傷つけ、子どもに悪影響を与えるとしてポルノに反対した。サンフランシスコ映画祭の審査員だったときにはスウェーデンからポルノを思わせる作品が出品されたので、審査員を辞任したことがある。ただし彼女は決して芸術的な価値の高いポルノまで反対しているわけではなく、あくまでも金儲けのために乱造された芸術的に無価値なポルノである。
また特に子どもの人権を侵すとして、児童ポルノの製造と販売禁止を訴えた。児童ポルノ反対運動により、『労働基準法』への「シャーリー・テンプル修正条項」("Shirley Temple amendment" to the Wages and Hours Law)がアメリカ議会で成立した。これにより16歳以下の子どもを被写体にしたポルノの製造と販売が禁じられる。彼女の努力で、事実上それまで野放し状態だったアメリカの児童ポルノに大きな規制がかけられた。当時はアメリカのポルノ解放論者がシャーリーを強く非難したが、現在では全く影をひそめている。
6. 私生活
シャーリー・テンプルは、二度の結婚を経験し、特にチャールズ・オールデン・ブラックとの結婚生活は長きにわたり幸福なものだった。彼女は家族を大切にし、健康問題にも積極的に向き合った。
### 結婚と家族 ###
1943年、15歳のテンプルは22歳のジョン・エイガーと出会い、2年後の1945年、17歳で彼と結婚した。彼女は1948年にリンダ・スーザン・エイガーを出産した。エイガーはアルコール依存症で、不倫をしていたと報じられている。テンプルは1950年に精神的虐待を理由にエイガーと離婚した。
1950年、ハワイでテンプルはカクテルパーティーでチャールズ・オールデン・ブラックと出会った。テンプルは1950年にチャールズ・オールデン・ブラックと結婚し、彼の死である2005年8月4日まで連れ添った。彼らには息子チャールズ・オールデン・ブラック・ジュニアと、ロックバンドメルヴィンズのベーシストとなった娘ロリ・ブラックがいた。
ブラック家は先祖が1620年にメイフラワー号でイギリスからマサチューセッツ州へ移民してきた、清教徒の名門だった。チャールズの父はアメリカ最大手に数えられるパシフィック・ガス電気会社会長で、チャールズは次男。地元カリフォルニアでは指折りの資産家の生まれでしかも独身だとよく噂の種にされた。アメリカ最難関の中高一貫私立男子校(プレップ・スクール)の一つで全寮制のホッチキス校からスタンフォード大学に進み、ハーバード大学大学院でMBAを取得、第二次世界大戦の徴兵で海軍情報将校に任命される。二人が知り合った頃は予備役であり、パイナップル栽培加工で有名なドール社の社長室付だった。結婚すると海軍に戻り1951年5月に中佐としてペンタゴンに赴任するため首都ワシントンへ転出。数年して退役するとテレビ会社アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー(ABCネットワーク)の幹部を経てスタンフォード研究所の財務担当理事に就任、同研究所を退職後はアンペックス社の副社長から牡蠣・鮑・鮭の養殖に転じてマディーラ社を起業する。社長業と並行してサンタクララ大学の評議員に選ばれた。海洋学の専門家でもあるチャールズはタイタニック号発見にも貢献。また世界最高の超エリート会員制クラブ「ボヘミアンクラブ・オブ・サンフランシスコ」の会員でもあり、趣味はサーフィンで結婚前は毎日のように海に通っていたという。
二人の結婚は「おとぎ話のような結婚」として注目された。彼女は彼が当時のアメリカで指折りの裕福な一族の生まれと知らず、勉強と軍務とサーフィンに明け暮れた彼は12歳からずっと映画を見なかったため彼女がシャーリー・テンプルだと分からず、そんな二人の恋が成就したからである。
結婚直後、女優と結婚したことを理由に夫チャールズが社交界名士録から名前を消される事態がおきる。アメリカの上流社会では演劇や映画を軽視するという清教徒の伝統がまだ強く、結婚相手が俳優の場合は社交界から締め出すという規則があった。国の誇りとまで言われ、上品さで有名な映画スターのシャーリーでさえ、例外ではなかった。夫は社交界名士録から名前を外されたことなど気にしなかったが、1950年12月に妻は22歳で映画界を引退。その3年後の1953年に1歳年下のオードリー・ヘプバーンが、『ローマの休日』で映画デビューをしたことを思えば、あまりにも早い引退だったと言えよう。それ以後、上流階級という言葉を使うことを彼女自身は嫌っても、富裕層の一員としての生活が2014年に至るまで続いた。
ワシントンへ引っ越したシャーリーはやがて室内装飾の趣味が高じて1954年にインテリア・デザイナーの資格を取り、仕事をしようとしたことがある。富裕層の個人の邸宅を対象にすることから、アメリカの上流階級の女性は当時よくこの分野で働いていた。その時の名刺には旧姓「テンプル」は入れず、「インテリア・デコレーター、シャーリー・T・ブラック」とだけ記しており、仕事を始めたばかりなのに相当な問い合わせがあったという。ただし初めて仕事先の邸宅に出向いたところ、シャーリー・テンプルに興味津々の女性が何人も待ち構えていたので、回れ右をして引き返すとそれきり仕事は辞めてしまった。
二人は非常に仲むつまじい夫婦で、シャーリーは子供が3人いる専業主婦として子育てに専念した。義理の父はドワイト・D・アイゼンハワー大統領と親交があり、シャーリーと夫チャールズも大統領と親しくなる。彼女は後に、歴代の大統領で一番好きな人物としてアイゼンハワーの名を挙げている。
アメリカ航空宇宙局(NASA)が「素晴らしい家庭を築いた」と賞賛しているとおり、ブラック家は家族の絆が非常に強く、またふだんは彼女自身が家事一切を行いつつ、同時に国務省の公務や実業家としての仕事をこなした。社会的に高い地位にあっても贅沢はせず生活は質素なものの、宿泊先はセキュリティのため必ず超一流ホテルのスイート・ルームを選んでいる。現代のアメリカ人には珍しく、年老いた両親ガートルードとジョージを家に引き取ると他人の助けを借りずに自分ひとりで介護する。父ジョージは晩年、脳溢血のため身体が不自由になったため、毎食、流動食を作っては食べさせていた。
子供は3人。長女はサンフランシスコの図書館員、長男は実業家で父の会社を継いだ。次女は、ごく短期間メルヴィンズなどのロック・バンドでベースを弾き、後に写真家として活動している。孫は一人、曾孫は一人いる。
趣味はゴルフ、ガーデニング、釣り、料理など。
### 健康 ###
テンプルは非常に健康で精力的に活動したが、2度大病をしている。最初は長男の出産のとき、ブラック家と非常に親しかったキンブル海軍長官の強い求めに応じて海軍病院に入院した際のこと。海軍が大佐でベテランの軍医を主治医にあてたところ、当時は誰にも分からなかったことだがその医師は進行した脳腫瘍のため正常な判断ができず、帝王切開手術後に適切な処置を受けられなかった彼女が瀕死の状態に陥る。軍は慌てて主治医を軍医総監に替え、一時は死線をさまよった彼女は数週間後に回復した。元主治医はその後まもなく脳腫瘍で亡くなる。
1972年、44歳の時に乳がんの診断を受けた。当時、がんは通常ひそひそと話される病気だったが、テンプルの公表は乳がん啓発を向上させ、病気に対するスティグマを減らす上で重要な節目となった。当時のアメリカで主流だった全摘出手術ではなく、ヨーロッパで実験的に行われ始めた手術をしてくれるように医師を説得し、国内で初めて乳房温存手術を受ける(その後、この手術が一般的になっていく)。また自分が乳がんであるとラジオやテレビ、雑誌や新聞、タブロイド紙「デイリー・メール」で明かした。乳がんを公にした世界初の有名人の一人となり、その例にならってベティ・フォード大統領夫人が二番目に公表する。アメリカの女性たちに検診の必要性を呼びかけ、「家にいて癌を恐れていないで、出かけて医師の診察を受けましょう」というシャーリーの言葉はよく知られている。
7. 神話と噂
人気絶頂期には、テンプルは多くの神話や噂の対象となり、そのいくつかはフォックス・フィルム社の広報部によって広められた。フォックスは彼女を、正式な演技やダンスの訓練を受けていない「生まれつきの才能」として宣伝した。彼女が様式化されたバック・アンド・ウィング・ダンスをどのように知っていたかを説明するために、彼女は2週間、エリサ・ライアン・ダンススクールに登録された。
誤った主張として、テンプルは子供ではなく、30歳の小人であるという噂が広まった。これは、彼女のずんぐりとした体型が一因だった。この噂は特にヨーロッパで非常に広まり、バチカンは、彼女が本当に子供であるかどうかを調査するためにシルヴィオ・マッサンテ神父を派遣した。彼女が歯を一本も失っていないように見えたという事実も、一部の人々に彼女がすべての永久歯を持っていると結論づけさせた。テンプルは実際にはフォックスとの活動期間中、定期的に乳歯を失っていた。例えば、グローマンズ・チャイニーズ・シアターの前で行われた歩道での式典では、彼女は靴を脱いで裸足でコンクリートに足型をつけ、顔から注意をそらした。演技中は、歯の隙間を隠すために義歯やキャップを着用していた。別の噂では、彼女の歯は赤ちゃんの歯のように見えるように削られていたとも言われた。
テンプルのトレードマークである髪型については、かつらを着用しているという噂が流れた。何度もファンが彼女の髪を引っ張って噂を試した。彼女は後に、かつらを着用するだけで済めばよかったのにと語り、毎晩の巻き毛のセットは退屈で骨の折れる作業であり、週に一度の酢リンスは目にしみた、と嘆いた。
彼女の髪の色が自然なブロンドではないという噂も広まった。『農園の寵児』の制作中、彼女がトレードマークの巻き毛なしで長時間のシーンを撮影するというニュースが広まった。制作中、彼女は風邪をひき、数日間休んだ。その結果、イギリスで彼女の髪がすべて切られたという誤報が流れた。
8. 社会的影響と評価
シャーリー・テンプルは、その子役としての成功と、それに続く外交官としての活動を通じて、大衆文化に多大な影響を与え、社会貢献においても顕著な足跡を残した。
### ポップカルチャーへの影響力 ###
ジョン・カッソンは次のように述べている。「彼女はまた、子供と大人のための商品を推奨する最も人気のある有名人であり、ミッキーマウスに匹敵する唯一の存在だった。彼女は子供服の流行を変え、12歳までの女の子に幼児のようなスタイルを普及させ、1930年代半ばには、アイデアル・ノベルティ・アンド・トイ・カンパニーのシャーリー・テンプル人形のラインは、国内で販売された全ての人形のほぼ3分の1を占めていた。」成功したシャーリー・テンプル関連商品には、女児用ドレスのラインやその他多くの商品が含まれていた。
サルバドール・ダリの絵画『シャーリー・テンプル、その時代の映画界最年少にして最も神聖な怪物』では、新聞から切り取られたテンプルの頭部の白黒写真が、乳房と長い白い爪を持つ燃えるような赤い雌ライオンの体と組み合わされている。彼女は1939年の『サインハウンド』でドナルドダックと共にアニメ化された。
彼女の名前は、彼女にちなんで名付けられたノンアルコールカクテルによっても不朽のものとなっているが、テンプル自身はこの飲み物を甘すぎると感じていた。1988年、テンプルは自身の名前を使用した瓶入りソーダの販売を阻止するために訴訟を起こした。
2021年6月9日、テンプルはサンタモニカ歴史博物館で開催された彼女の貴重な記念品コレクションを展示する特別展「ラブ、シャーリー・テンプル」の開館記念として、その日のGoogle Doodleに登場した。
欧米の児童向け文化は既に19世紀後半に成立しており、1920年代の映画界にはジャッキー・クーガンなど子役の大スターが出現、やがて1930年代に入るとシャーリー・テンプルの映画とディズニーの短編アニメがそれを大きく革新していく。この成功が1930年代と1940年代における少女スターの黄金時代を導き、ディアナ・ダービンやエリザベス・テイラー等の人気に道を開いたとも言える。
1930年代には米国で娘に「シャーリー」と名付けることが流行、女優シャーリー・マクレーンも自分の名前はシャーリー・テンプルから取ったと語っている。男性なのにシャーリーと名づけられてしまった気の毒な例もあり、また植物にもスイートピーとシャクヤクに同名の品種がある。

アイデアル社発売の「シャーリー・テンプル人形」は1930年代から数十年間にわたりヒット、初めて発売された時点の商品は2009年現在、状態さえ良ければ一体数万円から数十万円の価格帯で取引されたという。アメリカのダンバリー・ミント社が製作・販売した陶製の人形は全10種類、2009年には状態により販売価格が2000ドルを超える。eBay等ウェブ上のオークションで人形一体に百万円単位相当の入札もあった。
名前にちなんだカクテル (ノンアルコール・カクテル) は2種類、シャーリー・テンプルとシャーリー・テンプル・ブラックのどちらもソフトドリンクである。禁酒法が1930年代に廃止され家族づれでお酒を飲みに行く機会ができると、子供向けにこの飲み物が発案された。作り方はレモンライムソーダもしくはジンジャーエールにグレナデン・シロップを加えマラスキーノ・チェリーで飾る。後者のシャーリー・テンプル・ブラックはレモンライム・ソーダの代わりにコカコーラを使う。シャーリー自身は酒場で名前を勝手に使われることに違和感を覚えていたようである。
小説への影響も見られる。アメリカの小説家ジェイムズ・サーバーの短編小説に登場する主人公の中年男性はほうれん草が嫌いなのに、どこに行ってもシャーリー・テンプルのヒット曲「ほうれん草を食べなさい」が聞こえてきてヒステリーを起こす。1949年、ドイツの児童文学作家エーリッヒ・ケストナーは著書『ふたりのロッテ』で「シャーリー・テンプルは7歳か8歳のとき自分の出た映画を映画館に見に行ったものの、幼いため入場を断られたことがある」と述べているが間違いで、そういう事実は全くない。その当時アメリカで映画館の入場制限は3歳以下であり、それより年上で入場料大人15セント・子供8セントさえ払えば誰でも鑑賞できた。出演作が劇場で初公開されたとき4歳5ヶ月だった彼女は入場できた。5歳の時には最も初期に出演した短編映画を母親と一緒に見に行き、フォックス・フィルム社にスカウトされて移籍するエピソードもある。一部の日本の情報源にはケストナーの文章を更に取り違えて、シャーリーがPG13指定の作品に出たため入場を断られたと書かれているが、これも完全な間違いである。アメリカで映画のレイティングシステムがしかれるのはベトナム戦争の時期からである。
毎年1月1日にカリフォルニア州で開かれるローズ・パレードは新年の伝統行事であることから、アメリカ全土に放送される。シャーリーは3回、その儀式長グランド・マーシャルを務めてきた。すべて開催の節目に当たる年で50回目の1939年、100回目の1989年と110回目の1999年である。記録によると、このグランド・マーシャルを複数回にわたり務めた人物としてはアイゼンハワー大統領、ニクソン大統領等がいる。
ザ・ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のジャケットには多くの人々が描かれ、2ヵ所に登場するのはバンドメンバーを除くと彼女しかいない。1964年8月のカウ・パレス公演の前にビートルズと対面している。
歌を取上げるなら、アニメ映画『シュレック3』で登場人物のクッキーマンがシャーリーの主演作『輝く瞳』の劇中歌 「オン・ザ・グッド・シップ・ロリポップ」(邦題「こんぺい糖のお舟」)を歌う。TVアニメ『ザ・シンプソンズ』は過激でどぎついギャグで有名で、あるエピソードで父親のホーマーはキングコングに変身し街を破壊してまわり、劇場でシャーリー・テンプルに出会ってしばらく歌を聴く。改心するかと思いきや、突然、彼女を飲み込んでしまう(第4シーズン第4エピソード「恐怖のツリーハウス3」)。別のエピソードではタップダンスがうまい彼女のパロディとして、タップダンス教師リトル・ヴィッキー・ヴァレンタインが登場すると最後に「オン・ザ・スペースシップ・ロリポップ」という替え歌を歌う(シャーリーの持ち歌は「オン・ザ・〈グッド・シップ〉・ロリポップ」。第11シーズン第20エピソード「スプリングフィールド最後のタップダンス」)。
アメリカ映画界の大スターの例にならい、6歳の1934年にハリウッドのグローマンズ・チャイニーズ・シアターの前の路面に手形と足型を残す。足型は史上初の裸足で、その原因はちょうど永久歯に生え変わる時期でもあり、折悪しく式典の途中で乳前歯がポロリと抜けてしまったからだった。多数の新聞記者とカメラマンに取り囲まれ、つめかけたファンが目をこらすなか、シャーリーはとっさの機転で口を閉じたままほほえむと靴を脱ぎ、カメラと人々の目線を足元に導いて裸足で足型を残して歯が抜けた顔を見せなかったという。ヴァイン通り1500番地のハリウッド・ウォーク・オブ・フェイムの星に「シャーリー・テンプル (映画)」という銘が刻まれた。

20世紀フォックスの本社ビルが建設されたのはシャーリーのおかげで破産を免れた後であり、ビルの正面玄関に金箔を貼った少女時代のシャーリーの小さな銅像が置かれた。かつてはその前を通る社員は重役であれ誰であれ、一度立ち止まって会社を救ってくれた恩人に頭を下げる慣わしだったという。その後、ビルは老朽化により取り壊されたものの、スタジオの庭には今も初代より大きな2代目の銅像が立つ。また同社の社内託児センターはシャーリー・テンプル託児センターと命名された。
### 肯定的貢献 ###
ケネディ・センターは「子供のとき、彼女は歌とダンスでアメリカ精神を体現し、アメリカ人に計り知れないほどの喜びと希望を与えた」と述べている。少女スター時代には、どんな時にも自然な自分を出すことでファンに感動を与え続け、多くのファンレターを受け取った。また、撮影現場では台詞を完璧に暗記し、NGをほとんど出さない「一回撮りのシャーリー」として知られ、プロフェッショナリズムを発揮した。
女優としての成功後、彼女は公職に転身し、外交官として顕著な功績を残した。国連代表として環境、青少年、人権問題に取り組み、特に難民問題の解決に貢献した。ガーナ大使時代には、現地の文化に溶け込み、献身的な姿勢で人々の信頼を得た。チェコスロバキア大使としては、プラハの春の悲劇を目の当たりにし、その後のビロード革命では民主化を支持し、流血の事態を避けるために尽力した。これらの功績により、彼女はアメリカ史上初の「名誉外交官」の称号を受け、NASAやケネディ・センターから「迅速な判断、機知に富み、暖かく優雅な人柄により、アメリカで最も尊敬される外交官の一人となった」と高く評価されている。
私生活では、ハリウッドの子役スターの多くが抱える心の傷とは異なり、健全で満ち足りた人生を送った。二度の結婚を経て、特にチャールズ・オールデン・ブラックとの結婚生活は「おとぎ話のように幸福な」ものだったと語られている。また、乳がんを公表し、乳がん啓発のパイオニアとして社会に貢献した。
### 批判と論争 ###
1930年代のヨーロッパでは、シャーリー・テンプルについて大衆向きのタブロイド紙が様々な珍妙な記事を書きたてた。イギリスでは、実は30歳で7歳の子供がいると書く。つるっぱげでカツラをかぶっているという記事がフランスのタブロイド紙に載った。あるいはまた、母親がすごいステージ・ママだったせいでノイローゼになっていると記したものもある。当然、今となってはそういう内容を真に受け取る人はいない。
1937年にイギリスの高名な作家グレアム・グリーンは編集する雑誌『ナイト・アンド・デイ』に、家族向けの映画『テンプルの軍使』を見た中年男性の観客が9歳のシャーリー・テンプルに欲情を感じるという趣旨の批評を書く。結果、イギリス世論の怒りを買い20世紀フォックスから告訴され、敗訴して雑誌は廃刊となった。(ただし廃刊は敗訴三か月前のことで、原因は資金繰りの失敗であって実は裁判とは関連が薄い)。これをきっかけに彼は映画評論の仕事を絞り、以後は小説に集中していく。
『テンプルの軍使』は主に子供を対象にした健全な「家族向け」の作品であり、またシャーリー・テンプルはアメリカでもっとも品の良い少女スターと認められていたことから、グリーンの批評は非常に奇異なものとして受けとめられた。1930年代の欧米では一般にタブロイド紙の「子役のシャーリー・テンプルは実は30歳で7歳の子持ち」という記事を彼がうのみにして、勇み足をしたものと理解された。
その後1990年、晩年にグリーンのロリータ・コンプレックスが明かされると様相が一変する。伝記作家マイクル・シェリダンによれば、趣味を疑わせるものはすでにいくつかあったという。家族向け映画『テンプルの燈台守』に登場する、肌に張り付くズボンをはく8歳のシャーリー・テンプルはセクシーだと書き、『オズの魔法使』のジュディ・ガーランドの足は「心地よい」とも記した。小説『権力と栄光』に官能的な7歳の少女を登場させ、またウラジミール・ナボコフの『ロリータ』の擁護者としても知られている。死の少し前、高名な歴史家レイモンド・カーがエッセイ新聞『スペクテーター』に載せた記事からグリーンがハイチに出かけては児童買春をしていたと暴かれて少女愛疑惑は決定的になる。あるいはまた小説家フランシス・キングの、リゾート地ブライトンで幼い少女を求めていたとする証言もあった。グリーンは訴えられた後、イギリスと犯罪者引渡し条約がないメキシコに逃亡している。民事訴訟に対する反応にしては過剰ともいえ、少女買春が発覚して刑事事件に発展することを恐れたと考えれば納得がいく。
現在この『テンプルの軍使』や『テンプルの燈台守』への批評は、著者のロリコン趣味を表したものだと考えられ、シェリダンはグリーンのこれらの批評について童女の「臀部」に思いをめぐらせた「奇妙きてれつさ」を示している。ただしグリーンの指摘が一般的に正しかったかどうかと、本人がどういう人間だったかとは全く別の問題という反論も可能である。
9. 受賞歴と栄誉
1935年3月14日、シャーリーはハリウッドのグローマンズ・チャイニーズ・シアターの前庭の濡れたセメントに足跡と手形を残した。彼女はカリフォルニア州パサデナで毎年1月1日に開催されるローズ・パレードのグランド・マーシャルを、1939年、1989年、1999年の3回務めた。1960年2月8日には、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに星を獲得した。
1970年、彼女はアメリカン・アカデミー・オブ・アチーブメントのゴールデンプレート賞を受賞した。1980年2月、テンプルはペンシルベニア州バレーフォージのフリーダムズ財団から表彰された。1975年、テンプルはガーナのケープ・コーストのオグアア族の名誉副最高首長に就任した。
1998年、彼女は映画界での功績によりケネディ・センター名誉賞を受賞した。
彼女の名前は、彼女にちなんで名付けられたノンアルコールカクテルによっても不朽のものとなっているが、テンプル自身はこの飲み物を甘すぎると感じていた。1988年、テンプルは自身の名前を使用した瓶入りソーダの販売を阻止するために訴訟を起こした。
2021年6月9日、テンプルは、サンタモニカ歴史博物館で開催された彼女の貴重な記念品コレクションを展示する特別展「ラブ、シャーリー・テンプル」の開館記念として、その日のGoogle Doodleに登場した。
様々な賞を授けられる。少女スターとして受けた評価は公的機関であるアメリカン・フィルム・インスティチュート(AFI)が選出した「最も偉大な俳優100選」(AFI's 100 Years...100 Stars)の女優部門第18位、サンフランシスコ・クロニクル紙のまとめた「最も偉大な女優50選」13位など非常に高い。1935年に6歳で映画芸術科学アカデミーのアカデミー賞特別賞に輝き、授賞式では幼い彼女にあわせた小型のオスカーが用意されていた。50年後の1985年にアカデミーは「シャーリー・テンプルに捧ぐ(A Tribute to Shirley Temple)」として、かつての小さなトロフィーに加え通常の大きさのオスカー像を改めて授与する。全米映画俳優組合(SAG)よりジーン・ケリーと共に1988年第5回全米映画俳優組合賞を受賞。
あらゆるジャンルの芸術家にとって国立機関ケネディ・センターからケネディ・センター名誉賞を授かることは最も晴れがましく、彼女は1998年にビル・クリントン大統領より贈られた。映画界最高の栄誉はSAGの生涯功労賞であり、2006年歴代42番目の授賞理由は少女スター時代の活躍に加えて外交官として平和と人権のために尽くした功績である。壇上でシャーリー・テンプル・ブラック夫人を紹介する子役女優ダコタ・ファニングと、客席のシャーリー77歳の表情をとらえた映像が公開されている。ファニングはシャーリー・テンプル人形を見せ、自分はシャーリーファンの4世代目にあたると述べた。
その他の受賞には次の各賞をふくむ。
- 生涯功労賞。文明の同盟に認められる情報メディアリテラシー団体のアメリカ子供メディアセンター主催。
- NBR賞貢献賞。非営利団体ナショナル・ボード・オブ・レビュー主催。
- 功労賞。非営利教育財団(フリーダムズ財団)主催、1980年2月受賞。ジェームズ・スチュアート(俳優)、ジョン・デンバー(歌手)、ユタ州上院議員ジェイク・ガーン他と同時に受賞。
テネシー大学教授パスティ・ガイ・ハモンツリーは次のように述べた。
「シャーリー・テンプル・ブラックの子役時代の映画は70年以上も世界中で魅力を発揮し続けている。その名前を聞くとたいていの人は『ええ、好きです』と答えるだろう。映画界を引退してほぼ60年、どの時代にも人々は映画の中で彼女に出会い、まるで新作映画の出演者のようにその顔と名前を心にとどめた。ふつうの子役にはありえないほど賞賛され、その名声に踊らされず成人後は堅実で満ち足りた生活を送った点は異例である。ほとんどの子役は脚光を浴びなくなると人生に適応できなくなるものの、全く振り返ることなくきっぱりと華やかなショービジネスの世界を離れた側面でも傑出している。個人的にはよき妻でありやさしい母であり、公には外交官、環境保護の擁護者、国内外の様々な委員会や評議会の委員として、また財界人として成功を重ねたのである。」
10. 死
テンプルは2014年2月10日、カリフォルニア州ウッドサイドの自宅で85歳で死去した。2014年3月3日に発表された死亡診断書によると、死因は慢性閉塞性肺疾患(COPD)だった。テンプルは生涯喫煙者だったが、ファンに悪い手本を見せたくないという理由で、公共の場での喫煙習慣を避けていた。彼女はアルタ・メサ記念公園に埋葬されている。
遺族は広報担当者シェリル・ケイガンを通じてコメントを発表した。
「家族の目から見ても、とてもすばらしい一生だったと感じています。俳優であり外交官であり、そしてもちろん私共家族には愛すべき母、祖母、曾祖母であり、また亡くなった父チャールズ・オールデン・ブラックの最愛の妻として、精一杯生きた人でした。」
11. 作品リスト
- 『赤毛の口実』(1932年)
- 『メリリー・ユアーズ』(1932年)
- 『キッドズ・ラスト・スタンド』(1932年)
- 『キッドズ・ラスト・ファイト』(1932年)
- 『グラッド・ラグズ・トゥ・リッチズ』(1932年)
- 『ラント・ページ』(1932年)
- 『ウォー・ベイビーズ』(1932年)
- 『パイ・カバード・ワゴン』(1932年)
- 『ニュー・ディール・リズム』(1933年)
- 『キッド・イン・ハリウッド』(1933年)
- 『ポリー・ティックス・イン・ワシントン』(1933年)
- 『ドーラズ・ダンキング・ドーナッツ』(1933年)
- 『キッド・イン・アフリカ』(1933年)
- 『ホワッツ・トゥ・ドゥ?』(1933年)
- 『アウト・オール・ナイト』(1933年)
- 『最後の男』(1933年)
- 『カロライナ』(1934年)
- 『マンダレー』(1934年)(彼女の登場シーンはカットされた)
- 『アズ・ザ・アース・ターンズ』(1934年)
- 『パードン・マイ・パップス』(1934年)
- 『マネージド・マネー』(1934年)
- 『ハリウッド・ガッド・アバウト』(1934年)
- 『歓呼の嵐』(1934年)
- 『チェンジ・オブ・ハート』(1934年)
- 『可愛いマーカちゃん』(1934年)
- 『ナウ・アイ・ウィル・テル』(1934年)
- 『ベビイお目見得』(1934年)
- 『今と永遠に』(1934年)
- 『輝く瞳』(1934年)
- 『小連隊長』(1935年)
- 『我らの小さな少女』(1935年)
- 『カーリー・トップ』(1935年)
- 『ちびっこ反乱軍』(1935年)
- 『キャプテン・ジャニュアリー』(1936年)
- 『貧しい金持ちの少女』(1936年)
- 『えくぼ』(1936年)
- 『密航者』(1936年)
- 『テンプルの軍使』(1937年)
- 『ハイジ』(1937年)
- 『アリ・ババ・ゴーズ・トゥ・タウン』(1937年)(エキストラ、クレジットなし)
- 『農園の寵児』(1938年)
- 『リトル・ミス・ブロードウェイ』(1938年)
- 『ジャスト・アラウンド・ザ・コーナー』(1938年)
- 『テンプルちゃんの小公女』(1939年)
- 『スザンナ・オブ・ザ・マウンティーズ』(1939年)
- 『青い鳥』(1940年)
- 『ヤング・ピープル』(1940年)
- 『キャスリーン』(1941年)
- 『ミス・アニー・ルーニー』(1942年)
- 『アワー・ガール・シャーリー』(1942年)
- 『君去りし後』(1944年)
- 『アイ・ウィル・ビー・シーイング・ユー』(1944年)
- 『キス・アンド・テル』(1945年)
- 『ハネムーン』(1947年)
- 『独身者と未成年』(1947年)
- 『ヘイゲン・ガール』(1947年)
- 『アパッチ砦』(1948年)
- 『ミスター・ベルヴェデーレ・ゴーズ・トゥ・カレッジ』(1949年)
- 『アドベンチャー・イン・ボルチモア』(1949年)
- 『シービスケット物語』(1949年)
- 『コリスの口づけ』(1949年)
テレビ番組:
- 『ジュニア・ミス』(ラジオ番組、1942年)
- 『シャーリー・テンプル物語』(1958年 - 1961年)
- 『シャーリー・テンプル・ショー』(1960年 - 1961年)
- 『レッド・スケルトン・ショー』(ゲスト出演、1963年)
- 『AFI's 100 Years...100 Stars』(司会、1999年)
- 『チャイルド・スター:シャーリー・テンプル物語』(コンサルタント、2001年)