1. 概要
セントルシアは、カリブ海のウィンドワード諸島に位置する島国であり、英連邦王国の一員である。立憲君主制および議院内閣制を採用し、イギリス国王を元首とし、総督がその代理を務める。首都はカストリーズ。地理的には火山島であり、ピトン山脈などの自然景観に恵まれ、熱帯海洋性気候のもと多様な動植物が生息している。歴史的には、先住民の居住、フランスとイギリスによる激しい植民地争奪、そして1979年の独立という変遷を経てきた。この過程は、特に奴隷制や植民地支配が島の人々、特に脆弱な立場の人々に与えた影響という点で、人権と民主主義の観点から重要な考察を含む。政治は連合労働者党とセントルシア労働党の二大政党が中心となって運営され、東カリブ最高裁判所を頂点とする司法制度を持つ。経済は観光業と農業(特にバナナ)が主要産業であるが、近年は観光への依存度が高まっている。社会的にはアフリカ系住民が大多数を占め、公用語の英語のほか、フランス語系のクレオール語が広く話されている。宗教はローマ・カトリックが多数派である。ノーベル賞受賞者を2名(アーサー・ルイス、デレック・ウォルコット)輩出するなど、文化面でも独自の発展を遂げている。本稿では、セントルシアの地理、歴史、政治、経済、社会、文化について、中道左派・社会自由主義的視点を反映し、特に民主主義の発展、人権状況、社会の公平性、持続可能な開発といった側面に焦点を当てて詳述する。
2. 国名
セントルシアの公式名称は、英語で Saint Lucia (Saint Luciaセントルシア英語) である。日本語では一般的に「セントルシア」と表記される。この国名は、カトリック教会の聖人であるシラクサのルチア (Sancta Lucia聖ルチアラテン語) に由来するとされている。伝承によれば、クリストファー・コロンブスがこの島に到達した日が12月13日の聖ルチアの祝日であったため、この名が付けられたとされる。しかし、コロンブスが実際にこの島を発見したという明確な証拠はなく、1500年頃にスペインの探検家フアン・デ・ラ・コーサが作成した地図に「エル・ファルコン」(El Falconエル・ファルコンスペイン語) として記載されているのが初期の記録の一つである。また、1520年にバチカンで作成された地球儀には「サンクタ・ルチア」 (Sancta Luciaサンクタ・ルチアラテン語) と記されており、スペインの初期の探検家によって命名された可能性も示唆されている。
この島は、ヨーロッパ人が到来する以前、アラワク族によって Louanalaoイグアナの島アラワク語 と呼ばれ、その後西暦800年頃に到来したカリブ族(カリナゴ族)には Hewanorraイグアナが見られる場所カリブ語 と呼ばれていた。頻繁にイギリスとフランスの間で領有権が争奪された歴史から、ギリシャ神話のヘレンになぞらえて「西インド諸島のヘレン」(Helen of the Westヘレン・オブ・ザ・ウェスト英語) とも呼ばれた。
3. 歴史
セントルシアの歴史は、先コロンブス期の先住民の定住に始まり、ヨーロッパ列強による植民地化、そして独立と現代国家の形成に至るまで、数々の変遷を経験してきた。特にフランスとイギリスによる長年にわたる領有権争いは、島の社会、経済、文化に深い影響を与えた。このセクションでは、各時代の主要な出来事と共に、それが一般民衆、特に奴隷化されたアフリカ人やその子孫、先住民といった脆弱な立場の人々にどのような影響を及ぼしたかという視点も踏まえて記述する。
3.1. 先コロンブス期
ヨーロッパ人の到来以前、セントルシア島にはまずアラワク族が居住していた。彼らは紀元200年から400年頃に南アメリカ大陸北部からカヌーで渡ってきたと考えられている。島内各地の考古学遺跡からは、彼らが製作した土器などが発見されており、農耕を中心とした生活を営んでいたことがうかがえる。
その後、紀元800年頃になると、より戦闘的なカリブ族(カリナゴ族)が島に到来し、アラワク族を制圧した。カリブ族はアラワク族の男性を殺害し、女性を社会に同化させることで島を支配したとされる。彼らは漁労や狩猟、小規模な農耕を行い、独自の文化を築いていた。
3.2. ヨーロッパ人による探検と初期植民地化
セントルシア島をヨーロッパ人が最初に「発見」した正確な経緯は明確ではない。クリストファー・コロンブスが1502年の第4回航海中に島を目撃した可能性が指摘されているが、彼の航海日誌には言及がない。1500年にフアン・デ・ラ・コーサが作成した地図には、この島が El Falconエル・ファルコンスペイン語 として記載され、南の島は Las Agujasラス・アグハススペイン語 とされている。1511年のスペインの勅令では、この島がスペイン領内に含まれるとされており、1520年にバチカンで作成された地球儀には「サンクタ・ルチア」(Sancta Luciaサンクタ・ルチアラテン語) と記されている。
16世紀後半の1550年代には、フランスの海賊フランソワ・ル・クレール(片足が木製だったため「木の足」を意味する Jambe de Boisジャンブ・ド・ボワフランス語 と呼ばれた)が、ピジョン島に拠点を設け、通過するスペイン船を襲撃していた。
ヨーロッパ人による最初の本格的な入植の試みは、1605年にイギリス船オリフェ・ブロッサム号 (Oliphe Blossomeオリフェ・ブロッサム英語) がガイアナへ向かう途中で嵐に遭い、この島に漂着したことから始まる。67人の入植者は当初、カリブ族の首長アントニーに歓迎されたが、1605年9月26日までには、別のカリブ族の首長アウグラウマートによる度重なる襲撃の結果、生存者はわずか19人となり、島からの逃亡を余儀なくされた。イギリスは1638年にも再度入植を試みたが、カリブ族の抵抗は続き、成功しなかった。
最終的にフランスが1650年に島の領有を宣言し、1660年にはカリブ族と条約を締結した。しかし、1664年にはセントクリストファー島の総督トーマス・ワーナー卿の息子であるトーマス・ワーナーがイギリスのためにセントルシアを領有宣言したが、イギリス人は1666年に再び撤退し、ブレダ条約の締結後、フランスが島の完全な支配権を得た。1674年、セントルシアはマルティニークの属領として、正式なフランス王領植民地となった。
3.3. 18世紀から19世紀
18世紀に入ると、セントルシアは砂糖プランテーションの潜在的な価値から、イギリスとフランスの間で激しい争奪の対象となった。この世紀を通じて、島の領有権は14回も変わり、あるいは中立地帯と宣言されることもあったが、フランス人入植者は島に留まり続け、事実上フランスの植民地であり続けた。
1722年、イギリス国王ジョージ1世はセントルシアとセントビンセント島を第2代モンタギュー公ジョン・モンタギューに下賜した。モンタギュー公は商人船長で冒険家のナサニエル・ユーリングを副総督に任命した。ユーリングは7隻の船団を率いて島々へ向かい、プチ・カレナージュに入植地を築いた。しかし、イギリス海軍からの十分な支援を得られず、彼と新たな入植者たちは間もなくフランス軍によって追い払われた。
七年戦争中、イギリスはセントルシアを1年間占領したが、1763年のパリ条約によってフランスに返還した。他の島のイギリス人やオランダ人と同様に、1765年、フランス人は換金作物として大規模プランテーションでのサトウキビ栽培のための土地開発を開始した。イギリスは1778年に再び島を占領した。
1782年から1803年にかけて、島の支配権は何度も入れ替わった。フランス革命中の1791年1月、国民議会は革命思想を広めるために4人のコミッセール(弁務官)をセントルシアに派遣した。1791年8月までに、奴隷たちは農園を放棄し始め、総督ジャン=ジョセフ・スールバデール・ド・ジマは逃亡した。1792年12月、ジャン=バティスト・レイモン・ド・ラクロース中尉が革命のパンフレットを持って到着し、貧しい白人や有色の自由民は「愛国者」として武装し始めた。1793年2月1日、フランスはイギリスとオランダに宣戦布告し、ニコラ・グザヴィエ・ド・リカール将軍が総督に就任した。国民公会は1794年2月4日に奴隷制を廃止した。1794年4月1日、セントルシアはジョン・ジャーヴィス中将率いるイギリス遠征軍によって占領され、モーン・フォーチュンは「フォート・シャーロット」と改名された。間もなく、フランス革命軍兵士とマルーン(逃亡奴隷)からなる混成部隊「森のフランス軍」(L'Armée Française dans les Boisラルメ・フランセーズ・ダン・レ・ボワフランス語) が反撃を開始し、第一次ブリガンド戦争(奴隷反乱)が勃発した。
その後まもなく、新たに勃発したフランスとの戦争の一環としてイギリス軍が島に侵攻した。1795年2月21日、名目上ヴィクトル・ユーグの指揮下にあったフランス軍は、ビュー・フォートとラボでイギリス軍大隊を破った。1796年には、紛争の一環としてカストリーズが焼き払われた。第27歩兵連隊(イニスキリング連隊)を率いたジョン・ムーア将軍は、2日間の激戦の末、1796年にフォート・シャーロットを奪還した。名誉として、フュージリア連隊の軍旗は、ユニオンジャックに置き換えられる前に1時間、占領されたモーン・フォーチュンの要塞の旗竿に掲げられた。ムーアの上官であるラルフ・アバークロンビーは島を去り、ムーアをイギリス守備隊の指揮官に任命した。ムーアはこの職に留まったが、黄熱に罹患し、1798年以前にイギリスに帰国した。
1803年、イギリスは再び島の支配権を掌握した。「森のフランス軍」の多くのメンバーは深い熱帯雨林に逃げ込み、捕獲を逃れてマルーンのコミュニティを築いた。島での奴隷制度はしばらく続いたが、イギリス本国では奴隷制度反対の気運が高まっていた。イギリスは1807年の奴隷貿易法により、白人であろうと有色人であろうと、あらゆる者による奴隷の輸入を停止した。
フランスとイギリスは、ナポレオン戦争終結後の1814年のパリ条約によってイギリスが島を確保するまで、セントルシアをめぐって争い続けた。その後、セントルシアはイギリス領ウィンドワード諸島植民地の一つと見なされた。
島における奴隷制度は、1833年奴隷制度廃止法によりイギリス帝国全土で廃止されたのと同様に、1834年に廃止された。廃止後、すべての元奴隷は自由の概念に慣れるために4年間の「見習い」期間を経なければならなかった。この期間中、彼らは週の労働時間の少なくとも4分の3を元主人たちのために働いた。完全な自由は1838年にイギリスによって正式に認められた。その頃には、アフリカ系の人々の数がヨーロッパ系の人々を大幅に上回っていた。カリブ系の人々も島内では少数派を構成していた。この時代の奴隷制度は、島の社会構造と経済基盤を形成する一方で、非人道的な扱いを受けたアフリカ系住民の人権を著しく侵害し、その後の社会にも長く影響を残すこととなった。
3.4. 20世紀
セントルシアにおける最初の代議制政府は1924年に導入され、最初の選挙は1925年に行われた。多くのセントルシア人が第二次世界大戦に従軍し、紛争は1942年3月9日のカリブ海の戦い中にドイツのUボートがカストリーズ港でイギリス船2隻を攻撃・撃沈した際に直接島を襲った。アメリカ合衆国は戦時中、島を軍事拠点として利用し、グロス・アイレットに補助海軍基地を設置し、現在のヘウノラ国際空港をアメリカ空軍基地として使用した。
普通選挙権は1951年に導入され、同年に選挙が実施された。これにより、全ての人種的背景を持つ成人に投票権が与えられ、民主主義への重要な一歩となった。1958年、セントルシアは西インド連邦に加盟したが、連邦はわずか数年後の1962年に解体された。1967年、セントルシアは西インド諸島連合州の6つのメンバーの1つとなり、内政自治権を獲得した。
独立は、1979年2月22日に連合労働者党(UWP)のジョン・コンプトン卿の下で平和的に達成された。島はイギリス連邦内に留まり、当時の女王エリザベス2世を君主とし、現地では総督が代表を務める英連邦王国となった。独立は、長年にわたる自治権拡大と民主主義発展の努力の集大成であった。
3.5. 独立以降
国を独立に導いたにもかかわらず、コンプトン卿の最初の首相としての任期はわずか数ヶ月で終わり、1979年セントルシア総選挙でアラン・ルイジー率いるセントルシア労働党(SLP)に敗れた。1980年、ハリケーン・アレンが島を襲い、インフラの多くを破壊し、経済成長を鈍化させた。労働党政権の任期中の多くの不安定の後、1982年セントルシア総選挙を経てコンプトンは再び権力の座に返り咲いた。コンプトンの第2期政権下では、バナナ輸出が大幅に増加し、国の主要な歳入源となった。インフラの改善や、農村部への教育の拡大も行われた。セントルシアは、1983年のアメリカによるグレナダ侵攻において重要な役割を果たした。
1990年代から2000年代にかけて、ケニー・アンソニーの指導の下、国の経済は農業から観光業へと転換し始めた。2001年のアメリカ同時多発テロ事件では2人のセントルシア人が犠牲となり、経済の減速を引き起こしたが、大不況まで緩やかな成長は続いた。不況と2010年のハリケーン・トマスの上陸は、2010年代初頭の経済成長を鈍化させたが、10年代後半には経済は持ち直し、COVID-19パンデミックが世界的に大きな経済問題を引き起こした2020年まで縮小を回避した。
2016年6月、アレン・シャスタネ率いる連合労働者党(UWP)は、2016年セントルシア総選挙で17議席中11議席を獲得し、現職首相ケニー・アンソニーのセントルシア労働党(SLP)を破った。しかし、セントルシア労働党は次の2021年セントルシア総選挙で勝利し、党首のフィリップ・J・ピエールが独立以来9人目の首相となった。独立以降、セントルシアは民主主義制度の定着と経済発展に努めてきたが、自然災害への脆弱性や国際経済の変動への対応、そして国内の人権状況の改善といった課題にも直面し続けている。
4. 地理

セントルシアはカリブ海東部に位置する火山島であり、山がちな地形と熱帯気候が特徴です。このセクションでは、その気候、地質、そして豊かな動植物と生態系について詳述します。
セントルシアはカリブ海東部、ウィンドワード諸島の南部に位置する火山島である。北にはセントルシア海峡を隔ててフランス領マルティニーク、南にはセントビンセント海峡を隔ててセントビンセント・グレナディーンのセントビンセント島がある。国土面積は 617 km2 である。火山島であるため、国土の大部分は山がちで、最高峰は標高 950 m のジミー山 (Mount Gimieマウント・ギミー英語) である。島の最も有名なランドマークは、南西部のスフリエール近郊にある2つの火山性岩頸、ピトン山(グロ・ピトンとプチ・ピトン)であり、世界遺産にも登録されている。また、世界で唯一車で火口縁まで行ける「ドライブイン火山」として知られるサルファー・スプリングスもある。海岸線は入り組んでおり、多くの湾や入り江が存在する。主要な河川は短く、急流が多い。人口は海岸沿いに集中しており、内陸部は深い森林に覆われているため、人口は希薄である。
4.1. 気候
セントルシアの気候は熱帯であり、具体的にはケッペルンの気候区分における熱帯雨林気候(Af)に分類される。北東からの貿易風によって穏やかな気候となっている。年間を通じて気温の変化は少なく、日中の平均気温は約 30 °C、夜間の平均気温は約 24 °C である。乾季は12月1日から5月31日まで、雨季(地元ではハリケーン・シーズンとも呼ばれる)は6月1日から11月30日まで続く。年間平均降水量は海岸部で約 1300 mm、山岳部の熱帯雨林では約 3810 mm に達する。島はハリケーンベルトに位置しており、時折ハリケーンの襲来による被害を受けることがある。
月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年間 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
平均最高気温 °C (°F) | 29 | 29 | 29 | 30 | 31 | 31 | 31 | 31 | 31 | 31 | 30 | 29 | 30.2 |
日平均気温 °C (°F) | 26 | 26 | 26 | 27 | 28 | 28 | 28 | 28 | 28 | 28 | 27 | 26 | 27.2 |
平均最低気温 °C (°F) | 23 | 23 | 24 | 24 | 25 | 25 | 25 | 25 | 25 | 25 | 24 | 24 | 24.3 |
降水量 mm (インチ) | 125 | 95 | 75 | 90 | 125 | 200 | 245 | 205 | 225 | 260 | 215 | 160 | 2020 |
平均降水日数 | 14 | 9 | 10 | 10 | 11 | 15 | 18 | 16 | 17 | 20 | 18 | 16 | 174 |
月間平均日照時間 | 248 | 226 | 248 | 240 | 248 | 240 | 248 | 248 | 240 | 217 | 240 | 248 | 2891 |
出典: Climates to travel |
4.2. 地質


セントルシアの地質は、主に3つの地域に区分される。最も古いのは、1600万年から1800万年前の火山岩で、カストリーズから北部にかけて露出し、侵食された玄武岩と安山岩の中心部から成る。島の中央高地部分は、1040万年から100万年前の開析された安山岩の中心部で構成される。一方、島の南西部低地には、スフリエール火山センター(SVC)からの最近の活動が見られる。このSVCは、カリブーカルデラ(Qualibou caldera)と呼ばれる窪地を中心に、火砕流堆積物、溶岩流、ドーム、ブロックアンドアッシュフロー堆積物、爆発クレーターを含んでいる。この窪地の周縁部には、スフリエールの町、タバック山、ジミー山、モーン・ボナン、グロ・ピトンが含まれる。直径は約 10 km で、西部はグレナダ海盆に向かって開いており、この窪地は最近では10万年前に形成された。この窪地は、特にサルファー・スプリングスやスフリエール・エステーツでの地熱活動、1776年の水蒸気爆発、そして最近の地震活動(2000年~2001年)で知られている。
窪地の北東に位置する侵食された安山岩質の成層火山には、ジミー山、ピトン・サンテスプリ、グラン・マガザン山などがあり、これらはすべて100万年以上前に形成された。これらの火山からの安山岩質およびデイサイト質の火砕流は、モーン・タバック・ドーム(53万2千年前)、モーン・ボナン・ドーム(27万3千年前)、ベルビュー(26万4千年前)で見られる。カリブーカルデラ形成時の土石流堆積物は沖合や、ラボ、プレザンス、クーバリルの巨大な岩塊に見られる。その後、プチ・ピトン(10万9千年前)とグロ・ピトン(7万1千年前)のデイサイト質ドームが窪地の底に噴出し、アンス・ジョン(10万4千年前)とラ・ポワント(5万9800年前)の火砕流を伴った。後期の火砕流には、軽石を多く含むベルフォンとアンス・ノワール(2万年前)がある。最後に、テール・ブランシュ(1万5300年前)とベルフォン(1万3600年前)のデイサイト質ドームが窪地内に形成された。
4.3. 動植物と生態系
セントルシアは、その火山性の地形と熱帯気候により、多様な生態系を有している。国土の約77%が森林に覆われており、ウィンドワード諸島湿潤林、リーワード諸島乾燥林、ウィンドワード諸島乾燥林、ウィンドワード諸島乾燥低木林、小アンティル諸島マングローブ林の5つの陸上生態地域が存在する。2019年の森林景観保全指数の平均スコアは6.17/10で、172カ国中84位であった。
島には多くの固有種が生息しており、代表的なものとして、トカゲの一種であるセントルシア・アノール (Anolis luciaeアノリス・ルシアエ英語) や、ボア科のヘビであるセントルシア・ボア (Boa orophiasボア・オロフィアス英語) などが挙げられる。鳥類では、国鳥であるセントルシア・アマゾン (Amazona versicolorアマゾナ・ヴェルシコロール英語、別名ジャコー) が特に有名で、絶滅の危機に瀕している。その他にも、セントルシアクロフィンチ (Melanospiza richardsoniメラノスピザ・リチャードソニ英語) やセントルシアムシクイ (Leucopeza semperiレウコペザ・センペリ英語) といった固有種が生息する。
森林資源は、木材供給源としてだけでなく、水源涵養や土壌保全の観点からも重要である。南東部海岸にはマングローブ林が発達し、海草の藻場やサンゴ礁と共に、多様な海洋生物の生息地となっている。これらの海域にはアメリカイセエビなどが生息している。
自然保護の取り組みとして、特にピトン管理地域が知られている。この地域は、その壮大な自然景観と地質学的価値から2004年にユネスコ世界遺産(自然遺産)に登録された。また、サヴァネス湾および南部のマンコーテー・マングローブはラムサール条約登録湿地として保護されている。環境保全は、持続可能な観光開発や生物多様性の維持にとって重要な課題となっている。
5. 政治
セントルシアは、立憲君主制および議院内閣制を基盤とする英連邦王国の一員である。政治体制は、行政、立法、司法の三権分立に基づいている。民主主義の発展と人権保障は、国の重要な政策目標とされている。
5.1. 行政


国家元首はセントルシア国王であり、現在はイギリス国王であるチャールズ3世がその地位を兼ねている。国王の権限は、国王によって任命される総督が代行する。現在の総督はエロール・チャールズである。

行政の実権は内閣が掌握しており、その長である首相が行政の首長となる。首相は通常、下院総選挙後に多数派を形成した政党の党首が総督によって任命される。現在の首相はフィリップ・J・ピエールである。閣僚は首相の助言に基づき、総督が任命する。内閣は国家の行政運営全般に責任を負う。
5.2. 立法
議会は両院制であり、上院(Senateセネット英語、元老院とも訳される)と下院(House of Assemblyハウス・オブ・アセンブリー英語、代議院とも訳される)から構成される。
上院は11議席で、全議員が任命によって着任する。その内訳は、首相の助言に基づき総督が任命する議員が6名、野党第一党党首の助言に基づき総督が任命する議員が3名、宗教界、経済界、社会団体などから総督が独自に選任する議員が2名である。
下院は17議席で、全議員が国民による直接選挙(小選挙区制)によって選出される。
両院とも任期は5年である。法案は両院の可決を経て、総督の裁可によって成立する。議会は、立法権のほか、予算の承認、政府の監視などの重要な権限を有する。
5.3. 政党
セントルシアの政党システムは、主に二つの主要政党が政治をリードする二大政党制に近い状況にある。主要政党は、中道右派・保守系の連合労働者党(United Workers Partyユナイテッド・ワーカーズ・パーティ英語、略称: UWP)と、中道左派・社会民主主義系のセントルシア労働党(Saint Lucia Labour Partyセントルシア・レイバー・パーティ英語、略称: SLP)である。これらの政党は、独立以来、交互に政権を担当してきた。
選挙においては、これらの二大政党が議席の大部分を獲得し、国の政策決定に大きな影響力を持つ。小規模な政党も存在するが、二大政党の勢力を覆すほどの力は持っていないことが多い。各政党は、選挙公約を通じて経済政策、社会福祉、外交政策などに関する方針を掲げ、国民の支持を求めて競い合う。
5.4. 司法
セントルシアの司法制度は、東カリブ最高裁判所(Eastern Caribbean Supreme Courtイースタン・カリビアン・スプリーム・コート英語、略称: ECSC)を頂点としている。ECSCは、東カリブ諸国機構(OECS)の加盟国共通の高等裁判所および控訴裁判所であり、セントルシアを含む6つの独立国と3つのイギリス海外領土を管轄している。セントルシア国内には、ECSCの一部として高等裁判所が置かれ、重大な民事・刑事事件を扱う。また、下級裁判所として治安判事裁判所があり、軽微な事件を処理する。
法体系は、イギリスのコモン・ロー(英米法)を基礎としつつ、フランス植民地時代の影響を受けた大陸法の要素も含む混合法体系となっている。特に、1867年のセントルシア民法典は、1866年のケベック民法典を基にしており、イギリスのコモン・ロー形式の立法によって補完されている。
最終的な上訴裁判所は、2023年の憲法改正まではイギリスの枢密院司法委員会であったが、同改正によりカリブ司法裁判所(Caribbean Court of Justiceカリビアン・コート・オブ・ジャスティス英語、略称: CCJ)に移管された。法の支配の確立と、全ての国民に対する司法アクセスの保障は、セントルシアの司法における重要な原則である。
5.5. 行政区画
セントルシアは、10の行政区(Quarterクォーター英語、クォーター)に分かれている。これらの行政区は、フランス植民地時代に設定され、その名称がイギリス統治下でも英語化されて維持された。面積および人口が最大の行政区は、首都カストリーズが位置するカストリーズである。
以下は、10の行政区の一覧(アルファベット順)。
- アンス・ラ・レイ (Anse la Rayeアンス・ラ・レイ英語)
- カナリアス (Canariesカナリアス英語)
- カストリーズ (Castriesカストリーズ英語)
- ショゼール (Choiseulショゼール英語)
- デナリー (Denneryデナリー英語)
- グロス・アイレット (Gros Isletグロス・アイレット英語)
- ラボリー (Laborieラボリー英語)
- ミクッド (Micoudミクッド英語)
- スフレ (Soufrièreスフレ英語)
- ビュー・フォート (Vieux Fortビュー・フォート英語)
地方行政は、各行政区レベルで行われるが、中央政府の権限が比較的強い。一部の町や村には地方自治評議会が設置されている場合もある。
5.6. 法と治安
セントルシアの法体系は、前述の通りイギリスのコモン・ローとフランス法の影響を受けた混合法制である。刑法および民法は、これらの伝統を基礎としつつ、国内の立法によって整備されている。
治安状況に関しては、カリブ海諸国の中では比較的良好とされてきたが、近年、特に殺人事件の発生率が高い水準にあり、深刻な社会問題となっている。2021年には75件の殺人事件が発生し、これは2020年の55件から34.5%の増加であり、同国史上最多の殺人事件数および殺人発生率(人口10万人あたり40件)を記録した。強盗などの財産犯も多く発生している。
これらの犯罪増加の背景には、違法薬物の蔓延や銃器の拡散、ギャング組織間の抗争などが指摘されている。警察組織である王立セントルシア警察隊 (Royal Saint Lucia Police Forceロイヤル・セントルシア・ポリス・フォース英語) は、治安維持活動や犯罪捜査、国境警備などを担当し、特に薬物・銃器密輸対策やギャング対策に力を入れている。しかし、高い犯罪発生率は、市民生活の安全確保や人権擁護とのバランスにおいて、政府と警察にとって大きな課題となっている。
5.7. 国際関係
セントルシアは、独立以来、積極的な外交政策を展開している。主要な国際機関に加盟しており、地域および国際社会において一定の役割を果たしている。
主要な加盟国際機関としては、カリブ共同体(CARICOM)、東カリブ諸国機構(OECS)、フランコフォニー国際機関、国際連合(UN)、米州機構(OAS)、世界貿易機関(WTO)などがある。特にCARICOMおよびOECSにおいては、地域統合、経済協力、共通の外交政策の形成などに積極的に関与している。
二国間関係では、歴史的なつながりからイギリスやフランス、カナダと友好関係を維持している。最大の貿易相手国であり、経済的にも影響力の大きいアメリカ合衆国とも緊密な関係にある。1983年のアメリカによるグレナダ侵攻の際には、セントルシアはこれを支持し、国連での非難決議に反対票を投じた。
アジア諸国との関係では、中華民国(台湾)との外交関係が特筆される。セントルシアは1997年に中華人民共和国と国交を樹立し台湾と断交したが、2007年に再び中華民国と国交を回復し、中華人民共和国とは断交した。現在も台湾との外交関係を維持している。
国際的な人権問題や環境問題、持続可能な開発といった地球規模の課題に対しても関心を示し、関連する国際的な枠組みやイニシアティブに参加している。人道支援活動にも取り組み、国際社会の一員としての責任を果たそうとしている。
5.8. 軍事
セントルシアは正規の軍隊を保有していない国の一つである。国防および国内の安全保障は、主に王立セントルシア警察隊 (Royal Saint Lucia Police Forceロイヤル・セントルシア・ポリス・フォース英語) が担っている。警察隊内には、準軍事的な能力を持つ特別サービスユニット (Special Service Unitスペシャル・サービス・ユニット英語、SSU) や、領海警備、捜索救助、麻薬密輸取締りなどを任務とする沿岸警備隊 (Coast Guardコースト・ガード英語) が設置されている。これらの組織の規模は比較的小さい。
地域安全保障システム (Regional Security Systemリージョナル・セキュリティ・システム英語、RSS) には1982年の設立当初から加盟しており、東カリブ海地域の近隣諸国と防衛・安全保障面での協力を行っている。また、2018年には国連の核兵器禁止条約に署名している。
6. 経済
セントルシアの経済は、伝統的に農業に依存していましたが、近年は観光業が中心となっています。このセクションでは、主要産業、経済インフラ、そして関連する課題について説明します。
セントルシアの経済は、伝統的に農業、特にバナナ栽培に大きく依存してきたが、近年は観光業が経済の柱へと移行している。小島嶼開発途上国(SIDS)の一つであり、国際市場の変動や自然災害の影響を受けやすい構造的脆弱性を抱えている。近年の経済成長は観光業の動向に左右されることが多い。国内総生産(GDP)の構成を見ると、2020年にはサービス部門(主に観光業)がGDPの86.9%を占め、次いで工業部門が10.9%、農業部門が2.2%であった。政府は外国からの投資誘致に努め、道路、港湾、通信などのインフラ整備を進めている。経済発展を進めるにあたり、持続可能な開発、労働者の権利保護、社会の公平性の確保といった側面への配慮が求められている。
6.1. 主要産業
セントルシア経済を支える主要な産業部門について、それぞれの特徴、経済への貢献度、関連する社会・環境問題について記述する。
6.1.1. 観光業

観光業はセントルシアの経済において最も重要な部門であり、GDPおよび外貨収入の最大の源泉となっている。観光客数は、特に乾季(1月から4月)に多く、この時期は観光シーズンと呼ばれる。セントルシアの熱帯気候、美しい自然景観(ピトン山脈、白砂のビーチ、熱帯雨林など)、高級リゾート施設などが観光客を惹きつけており、2019年には約129万人の観光客が訪れた。
主要な観光資源としては、世界遺産のピトン管理地域、ドライブイン火山として知られるサルファー・スプリングス、セントルシア植物園、歴史的な遺跡が残るピジョン島国立公園などがある。クルーズ船の寄港も多く、観光客向けの様々なアクティビティ(ダイビング、セーリング、ハイキングなど)が提供されている。
観光開発は雇用創出や経済成長に大きく貢献する一方で、自然環境への負荷、地域社会への影響(物価上昇、文化変容など)、季節変動による経済の不安定性といった課題も抱えている。持続可能な観光の推進、地域住民への利益還元、環境保護への配慮が、今後の観光業の発展にとって重要となる。
6.1.2. 農業
かつてセントルシア経済の最大の柱であった農業は、特にバナナ輸出が中心であった。しかし、南米諸国産バナナとの競争激化や、EUの輸入制度変更、ハリケーン被害などにより、その重要性は大幅に低下した。それでもなお、農業は国内の雇用や食料供給において一定の役割を果たしており、2021年には雇用の7.9%、GDPの2.2%を占めた。
国土の約18%が農地として利用されている。バナナは依然として主要な農産物であるが、その他にもココナッツ、カカオ豆、マンゴー、アボカド、各種野菜、柑橘類、ヤムイモやサツマイモといった根菜類も栽培されている。小規模農家が多く、彼らの生計維持や農業技術の向上が課題となっている。
政府は農業の多角化や高付加価値化を推進しており、有機農業やアグロツーリズム(農業体験型観光)といった新たな取り組みも見られる。食料安全保障の観点からも、国内農業の振興は重要視されている。また、農薬使用による環境汚染や土壌流出といった環境問題への対応も求められている。
畜産業は小規模で、主に養鶏が行われている。鶏卵生産は自給自足しており、鶏肉や豚肉の生産も近年増加している。漁業もまた、国内経済にとってある程度の重要性を持っている。
6.2. インフラストラクチャー
セントルシアの社会基盤(インフラストラクチャー)は、経済活動と国民生活を支える上で不可欠な要素である。
道路網:島内の主要な町や村を結ぶ道路網が整備されているが、山岳地帯や一部の農村部では未整備な区間も残る。公共交通機関としては、個人経営のミニバスが島内各地をカバーする広範な路線網を運行しており、政府がルート設定やハブターミナルの整備を担当している。
港湾:主要な商業港は首都カストリーズにあり、貨物輸送やクルーズ船の寄港地として機能している。また、ヨットやプレジャーボートの拠点として、ロドニー湾にあるマリーナが重要であり、ここにはセントルシア・ヨットクラブもある。
空港:島内には2つの空港がある。南部に位置するヘウノラ国際空港 (Hewanorra International Airportヘウノラ国際空港英語) が主要な国際空港であり、長距離国際線が発着する。首都近郊にあるジョージ・F・L・チャールズ空港 (George F. L. Charles Airportジョージ・F・L・チャールズ空港英語) は、主にカリブ海地域内の短距離路線に利用されている。
電力供給:電力は主に、クル・ド・サック発電所 (Cul De Sac Power Stationクル・ド・サック発電所英語) における石油火力発電によって供給されている。近年は太陽光発電の導入も進められており、地熱発電や風力発電といった再生可能エネルギーの導入も模索されている。
通信網:固定電話、携帯電話、インターネットサービスが提供されている。都市部を中心に通信網は比較的整備されているが、地方ではアクセスに課題が残る場合もある。
インフラ整備は、経済成長、国民生活の質の向上、そして特に観光業の発展にとって不可欠であるが、資金調達、維持管理、自然災害への対策、そして環境への配慮といった課題も伴う。公共サービスへの公平なアクセスを確保することも重要な視点である。
7. 社会
セントルシアの社会は、アフリカ系住民が大多数を占める多民族社会であり、歴史的経緯からヨーロッパ文化とアフリカ文化が融合したクレオール文化が特徴的である。人口、民族構成、言語、宗教、教育、保健医療、人権状況など、社会の主要な側面とその特徴について以下に記述する。特にマイノリティや脆弱な立場の人々の状況、社会福祉についても考慮する。
7.1. 人口構成
2010年の国勢調査によると、セントルシアの総人口は165,595人で、世帯数は58,920世帯であった。これは2001年の前回調査時の157,490人から5.1%の増加である。国連の推計では、2018年の人口は約18万人を超えている。人口の約40%が首都カストリーズが位置するカストリーズ行政区に集中している。
年齢構成を見ると、0歳から14歳が人口の24.1%、65歳以上が8.6%を占めている(2010年)。出生率は近年低下傾向にあり、2021年の合計特殊出生率は女性1人あたり1.4人で、アメリカ大陸で最も低い水準となっている。これは1990年の3.4人、ピークだった1959年の6.98人と比較して大幅に低い。
平均寿命は、2021年時点で71.1歳(男性67.8歳、女性74.7歳)であったが、これは2019年の73.4歳から低下しており、主にCOVID-19パンデミックの影響とされている。
国内外への移住に関しては、主に英語圏の国々への移住が見られる。イギリスには約1万人のセントルシア生まれの市民がおり、セントルシア系の出自を持つ人々は3万人を超える。アメリカ合衆国、特にマイアミやニューヨーク市にも多くのセントルシア人が居住している。カナダ、特にフランス語圏のケベック州モントリオールも移住先の一つである。2021年のセントルシア人の年齢の中央値は33.1歳であった。
7.2. 民族
セントルシアの民族構成は、歴史的背景を反映して、アフリカ系住民が圧倒的多数を占めている。これは、植民地時代にサトウキビプランテーションでの労働力として多くのアフリカ人が奴隷として連れてこられた結果である。
2010年の国勢調査によると、人口の85.3%がアフリカ系(黒人)、10.9%が混血(クレオール)である。その他の少数派民族集団としては、インド系カリブ人(2.2%)、白人(主にヨーロッパ系、0.6%)、そして先住民であるカリナゴ族(0.6%)などが存在する。カリナゴ族の小規模なコミュニティは、ショゼール地域や西海岸の他の町に見られる。また、少数のレバノン系やシリア系の住民もいる。
これらの多様な民族集団は、セントルシアの文化的多様性に寄与している。民族間の関係は概ね良好であるが、社会経済的地位や機会の平等といった観点からは、依然として課題も存在する。
7.3. 言語
セントルシアの公用語は英語である。政府機関、教育、メディアなどで公式に使用される。しかし、国民の日常生活において広く使用されているのは、フランス語をベースとしたクレオール言語であるセントルシア・クレオール語(Kwéyòl Sent Lisiクウェヨルフランス語をベースとしたクレオール言語、ピジン言語、パトワとも呼ばれる)である。人口の大多数がこのクレオール語を話す。
セントルシア・クレオール語は、フランス植民地時代の初期に形成され、主にフランス語の語彙と西アフリカ諸言語の文法構造が融合したものである。アンティル・クレオール語の一つであり、ハイチ・クレオール語とも関連性があるが、独自の特徴も持っている。この言語は、口承文学、音楽、そして日常会話において重要な役割を担っており、セントルシアの文化的アイデンティティの核となる要素である。近年では、クレオール語の保存と振興を目的とした取り組みや、公的な場面での使用を促進しようとする動きも見られるが、まだ公式言語としての地位は確立されていない。
7.4. 宗教
セントルシアの宗教は、キリスト教が圧倒的多数を占めており、これはフランスおよびイギリスによる植民地化の歴史的影響を反映している。2010年の国勢調査によると、国民の約90.4%がキリスト教徒である。
その中でも、フランス植民地時代の影響が強いため、ローマ・カトリックが最大の宗派であり、人口の61.5%がカトリック教徒である。次いでプロテスタント諸派が25.5%を占め、その内訳は、セブンスデー・アドベンチスト教会(10.4%)、ペンテコステ派(8.9%)、バプテスト教会(2.2%)、聖公会(1.6%)、チャーチ・オブ・ゴッド(1.5%)、その他のプロテスタント(0.9%)などとなっている。
その他の宗教としては、ラスタファリ運動の信者が1.9%、ヒンドゥー教徒が1.4%(主にインド系住民)、イスラム教徒、バハイ教、ユダヤ教、仏教なども少数ながら存在する。無宗教であると回答した人々は5.9%であった。
セントルシア憲法は信教の自由を保障しており、国教は定められていない。宗教団体は教育機関を設立する自由も保障されている。宗教は、祝祭、社会慣習、価値観など、セントルシアの社会生活の様々な側面に影響を与えている。
7.5. 教育
セントルシアの教育制度は、初等教育から高等教育まで整備されている。義務教育は5歳から15歳までと定められており、これには7年間の初等教育と3年から5年間の中等教育が含まれる。公立学校が教育の主体であり、授業料は無料である。
中等教育の最後の2年間では、生徒は地域共通のカリブ海試験評議会(CXC)が実施するCSEC(Caribbean Secondary Education Certificate)試験やCAPE(Caribbean Advanced Proficiency Examination)試験に備えて、各自の進路希望に応じた科目を選択することができる。
高等教育機関としては、公立のサー・アーサー・ルイス・コミュニティ・カレッジ (Sir Arthur Lewis Community Collegeサー・アーサー・ルイス・コミュニティ・カレッジ英語) が主要な役割を担っており、準学士号や職業訓練プログラムを提供している。また、西インド諸島大学(UWI)のオープンキャンパスも設置されており、遠隔教育を通じて学位取得が可能である。私立の高等教育機関としては、アメリカのモンロー大学の分校や、国際アメリカン大学医学部 (International American University College of Medicine国際アメリカン大学医学部英語) などの医科大学が存在する。
政府は教育へのアクセスと質の向上に努めており、2020年の公的教育支出はGDPの3.6%であった。教育は、個人の能力開発だけでなく、国の社会経済的発展や社会的流動性を促進する上で重要な役割を担っていると考えられている。しかし、地域間の教育格差や、特定の専門分野における人材育成といった課題も存在する。
7.6. 保健医療
セントルシアの保健医療サービスは、公的部門と民間部門によって提供されている。公的医療の中心となるのは、2つの主要な公立病院(ビクトリア病院とセントジュード病院)と、島内各地に設置された地域の保健センターである。これらの施設では、基本的な診療、救急医療、入院治療などが提供される。
一方で、歯科治療や眼科診療の多く、および高度な専門医療の一部は、民間の医療機関や開業医によって提供されている。
国民の健康水準を示す指標として、平均寿命は2021年時点で71.1歳(男性67.8歳、女性74.7歳)であった。乳児死亡率は、改善傾向にあるものの、依然として課題の一つである。主要な疾病としては、生活習慣病(糖尿病、高血圧、心血管疾患など)や、蚊が媒介する感染症(デング熱など)が挙げられる。
政府は公衆衛生政策を通じて、疾病予防、健康増進、母子保健の向上などに取り組んでいる。2019年の公的医療支出はGDPの2.1%であった。医療サービスへのアクセスについては、都市部と地方部での格差や、専門医不足、医療費負担といった課題が存在する。国民皆保険制度は導入されていないため、医療費の支払いは個人負担または民間の医療保険によるものが中心となる。
7.7. 人権
セントルシア憲法は、生命、自由、財産の権利、表現の自由、集会の自由、良心の自由といった基本的な人権と自由を保障している。しかし、これらの権利の完全な実現に向けては、依然としていくつかの課題が存在する。
差別の問題としては、民族、ジェンダー、性的指向に基づく差別が懸念されている。特にLGBTQI+の人々に対する法的保護は十分ではなく、同性間の性的行為は依然として法律で禁じられている(ただし、近年は実質的に適用されていないとの報告もある)。女性に対する暴力やジェンダーに基づく不平等も社会的な課題である。
司法アクセスに関しては、法的手続きの遅延や、経済的困窮者に対する法的扶助の不足などが指摘されることがある。警察による権力乱用や、刑務所の過密状態といった問題も人権擁護団体から報告されている。
労働者の権利については、結社の自由や団体交渉権は概ね保障されているが、一部の非公式部門や特定の産業においては、労働条件や賃金に関する問題が見られることがある。
先住民であるカリナゴ族やその他の少数派民族集団の権利擁護も重要な課題である。彼らの文化の維持、土地への権利、社会経済的機会への平等なアクセスなどが求められている。
政府は人権状況の改善に取り組む姿勢を示しており、オンブズマン制度や人権委員会の設置といった努力も見られる。しかし、国際的な人権基準の完全な遵守と、すべての国民の人権が実質的に保障される社会の実現には、継続的な努力が必要とされている。
8. 文化
セントルシアの文化は、アフリカ、フランス、イギリスの文化が長年にわたり融合して形成された、独自のクレオール文化として特徴づけられる。この多様な影響は、食文化、音楽、舞踊、文学、芸術、スポーツ、祝祭など、生活のあらゆる側面に表れている。
8.1. 食文化
セントルシアの食文化は、地元の新鮮な食材を活かし、アフリカ、フランス、インド、そしてカリブ海諸国の料理の影響を色濃く受けている。代表的な伝統料理としては、「グリーンフィグと塩漬け魚」(green figs and saltfishグリーンフィグ・アンド・ソルトフィッシュ英語) が国民食とされている。これは未熟な調理用バナナ(グリーンフィグ)と塩抜きしたタラをスパイスと共に煮込んだ料理である。
その他にも、マカロニパイ、ブラウンシチューチキン、ライスアンドピーズ(豆ご飯)、ロティ(インド風フラットブレッド)、そして地元産の野菜をふんだんに使ったスープなどが一般的である。肉や魚介類は、シチューにしたり、香ばしく焼き色をつけたりして、濃厚なグレイビーソースと共に「グラウンドプロビジョンズ」(ヤムイモ、キャッサバ、ダシーンなどの根菜類)や米飯にかけて食べられることが多い。「ジョニーケーキ」(揚げパンまたは焼きパン、ベイクスとも呼ばれる)も一般的で、塩漬け魚など様々な付け合わせと共に食される。
ココナッツ、マンゴー、パパイヤ、プランテンといった熱帯の果物も豊富で、デザートや飲み物、料理の材料として広く用いられる。ラム酒も特産品の一つである。
8.2. 音楽と舞踊
セントルシアの音楽と舞踊は、カリブ海地域の多様なリズムとメロディが融合した活気に満ちたものである。カリプソ、ソカ、レゲエ、ズークといったカリブ海音楽が広く親しまれている。特にセントルシア独自の音楽スタイルとして「デネリー・セグメント」(Dennery Segmentデネリー・セグメント英語) が知られており、これはアンゴラのクドゥーロ、セントルシアのソロ音楽、ダンスホールの影響を受けたジャンルである。
伝統舞踊としては、フランスの宮廷舞踊に起源を持つカドリーユなどが、地域の祭りや行事で踊られることがある。
毎年開催されるセントルシア・ジャズ・フェスティバルは、国際的に有名な音楽イベントであり、世界中から著名なミュージシャンと多くの観光客が集まる。このフェスティバルは、国の経済にも大きく貢献している。その他にも、様々な音楽フェスティバルや文化イベントが年間を通じて開催され、島の音楽文化を豊かにしている。
8.3. 文学と芸術
セントルシアは、人口に対して非常に多くの著名な文学者や芸術家を輩出している。その中でも最も国際的に知られているのは、詩人であり劇作家のデレック・ウォルコット(1930年-2017年)である。彼は、カリブ海の歴史、文化、アイデンティティを壮大なスケールで描いた作品で高く評価され、1992年にノーベル文学賞を受賞した。彼の作品は、セントルシアの自然やクレオール文化を背景に、植民地主義の遺産や人種間の葛藤といったテーマを探求している。
視覚芸術の分野では、絵画、彫刻、陶芸、木工芸などが盛んである。地元の自然や文化、神話をモチーフとした作品が多く見られる。伝統工芸品としては、バスケット編みや木彫りなどがある。近年では、現代アートの分野でも才能ある若手アーティストが登場している。
国内にはいくつかのアートギャラリーがあり、地元のアーティストの作品を展示・販売している。また、文化イベントやフェスティバルでは、芸術作品の展示やパフォーマンスが行われることもある。
8.4. スポーツ

セントルシアで最も人気のあるスポーツは、他の多くのカリブ海諸国と同様にクリケットである。セントルシアの選手は、多国籍チームであるクリケット西インド諸島代表の一員として国際試合に出場する。ダレン・サミーは、2007年にセントルシア人として初めて西インド諸島代表に選ばれ、2010年にはキャプテンを務めた。国内には、カリビアン・プレミアリーグ(CPL)に参加するT20フランチャイズチーム、セントルシア・キングスがある。
サッカーも人気があり、国内リーグが存在する。サッカーセントルシア代表は、FIFAワールドカップやCONCACAFゴールドカップへの出場経験はないが、カリビアンカップでは1991年大会で3位に入賞した実績がある。
陸上競技も盛んであり、特に2024年のパリオリンピックでは、ジュリアン・アルフレッドが陸上女子100メートル競走で金メダル、女子200メートル競走で銀メダルを獲得し、セントルシアに史上初のオリンピックメダルをもたらした。これは国のスポーツ史における歴史的な快挙となった。
その他、セーリングも主要なスポーツであり、毎年カナリア諸島からセントルシアまで大西洋を横断するヨットレース「アトランティック・ラリー・フォー・クルーザーズ」(ARC)の終着点となっている。バスケットボール、テニス、ゴルフ、バレーボールなども人気がある。近年では、空手やボクシングの人気も高まっている。
8.5. 祝祭と行事
セントルシアでは、年間を通じて様々な伝統的な祝祭や行事が開催され、国の文化と歴史を反映している。
最も大規模で活気のある祝祭の一つが、毎年夏(通常7月)に開催されるカーニバルである。このカーニバルでは、華やかな衣装を身にまとった人々がソカやカリプソの音楽に合わせてパレードを行い、ストリートパーティーや音楽コンペティションが数日間にわたって繰り広げられる。
また、「ラ・ローズ」(La Roseラ・ローズフランス語、バラの会)と「ラ・マーグリット」(La Margueriteラ・マーグリットフランス語、マーガレットの会)と呼ばれる2つの対抗する花祭りがユニークな伝統行事として知られている。これらは、それぞれ特定の守護聖人に捧げられ、歌や踊り、演劇的な要素を含む祝祭である。ラ・ローズは8月30日、ラ・マーグリットは10月17日に祝われる。これらの祭りは、フランス植民地時代の社会組織や伝統に起源を持つとされ、地域社会の結束を高める役割も担っている。
その他、独立記念日(2月22日)、復活祭、クリスマスといったキリスト教関連の祝祭や、奴隷解放記念日(8月1日)、感謝祭(10月第1月曜日)なども重要な祝祭日として祝われる。これらの祝祭は、セントルシアの歴史、宗教、文化的多様性を反映し、国民のアイデンティティを形成する上で重要な役割を果たしている。
8.6. 世界遺産
セントルシアには、ユネスコの世界遺産リストに登録された自然遺産が1件存在する。
- ピトン管理地域 (Pitons Management Areaピトン管理地域英語) - 2004年に登録。
この地域は、セントルシア南西部の海岸に位置し、印象的な2つの火山性岩頸であるグロ・ピトン山(標高798 m)とプチ・ピトン山(標高743 m)を中心としている。これらの山々は、海から急峻にそびえ立ち、周囲の緑豊かな熱帯雨林やサンゴ礁と共に壮大な景観を形成している。地質学的には、火山活動によって形成された地形であり、多様な生態系を育んでいる。プチ・ピトンとグロ・ピトンの間には、地熱地帯であるサルファー・スプリングスがあり、温泉や噴気孔が見られる。この地域は、その顕著な自然美と地質学的価値、そして生物多様性の豊かさから世界遺産に選ばれた。保護管理は、自然環境の保全と持続可能な観光利用のバランスを取りながら行われている。
9. 著名な出身者
セントルシアは、その比較的小さな人口にもかかわらず、政治、経済、文化、スポーツなど様々な分野で国際的に評価される多くの著名人を輩出している。彼らの業績は、セントルシア国内外に影響を与え、時には民主主義の推進、人権擁護、社会進歩への貢献、あるいはそれらに関連する論争点を提起してきた。
- アーサー・ルイス (Sir William Arthur Lewisサー・ウィリアム・アーサー・ルイス英語、1915年 - 1991年) - 経済学者。開発経済学の分野で顕著な業績を上げ、特に二重経済モデル(ルイスモデル)で知られる。1979年に「開発途上国の経済発展問題に関する先駆的研究」により、セオドア・シュルツと共にノーベル経済学賞を受賞した。これはアフリカ系として初のノーベル経済学賞受賞であり、カリブ海地域出身者としても初であった。彼の研究は、開発途上国の経済政策や国際的な開発援助のあり方に大きな影響を与えた。社会進歩と経済的公正の観点から、貧困削減と経済発展の関連性を深く考察した。
- デレック・ウォルコット (Sir Derek Alton Walcottサー・デレック・アルトン・ウォルコット英語、1930年 - 2017年) - 詩人、劇作家。カリブ海の歴史、文化、自然を壮大な詩的言語で表現し、植民地主義の遺産、アイデンティティの葛藤、人種間の緊張といったテーマを深く掘り下げた。代表作に叙事詩『オメロス』(Omerosオメロス英語) などがある。1992年に「偉大な光輝に支えられ、歴史的展望に裏打ちされた、多文化社会への献身を描いた詩作品」によりノーベル文学賞を受賞した。彼の作品は、カリブ海文学の国際的評価を高め、ポストコロニアル文学の重要な担い手として位置づけられている。彼の活動は、文化的多様性の尊重と、芸術を通じた社会批評の可能性を示した。
- ジョン・コンプトン (Sir John George Melvin Comptonサー・ジョン・ジョージ・メルヴィン・コンプトン英語、1925年 - 2007年) - 政治家。セントルシアの独立運動を指導し、1979年に初代首相に就任。その後も数度にわたり首相を務め、「国家の父」と称される。彼の指導の下で、セントルシアは農業経済から観光中心の経済への転換を進めた。彼の政治的手腕は評価される一方で、長期政権に対する批判や、開発政策が環境や社会に与えた影響についての議論も存在する。民主主義制度の確立と国家建設への貢献は大きい。
- ケニー・アンソニー (Kenny Davis Anthonyケニー・デーヴィス・アンソニー英語、1951年 - ) - 政治家。セントルシア労働党の指導者として、数度にわたり首相を務めた。彼の政権下では、社会福祉政策の拡充や教育改革などが進められた。現代セントルシア政治における重要な人物の一人であり、国の経済運営や外交政策において中心的な役割を果たしてきた。
- レヴァーン・スペンサー (Levern Spencerレヴァーン・スペンサー英語、1984年 - ) - 陸上競技選手(走高跳)。パンアメリカン競技大会で3連覇を達成するなど、国際大会で数々の成功を収めた。セントルシアのスポーツ界を代表する選手の一人であり、若い世代のロールモデルとなっている。
- ダレン・サミー (Daren Julius Garvey Sammyダレン・ジュリアス・ガーベイ・サミー英語、1983年 - ) - クリケット選手。元西インド諸島代表キャプテン。T20ワールドカップで西インド諸島を2度優勝に導いた。セントルシア出身者として初めて西インド諸島代表のキャプテンを務め、国内外で高い人気を誇る。彼の成功は、セントルシアにおけるクリケットの発展と、スポーツを通じた国民的誇りの高揚に貢献した。
- ジュリアン・アルフレッド (Julien Alfredジュリアン・アルフレッド英語、2001年 - ) - 陸上競技選手(短距離走)。2024年パリオリンピックにおいて、陸上女子100メートル競走で金メダル、女子200メートル競走で銀メダルを獲得し、セントルシアに史上初のオリンピックメダルをもたらした。この歴史的快挙は、セントルシア国民に大きな喜びと感動を与え、国のスポーツ史に新たな1ページを刻んだ。
これらの人物は、それぞれの分野で卓越した業績を上げると共に、セントルシアの国際的な認知度向上や、国内の社会文化的発展に貢献してきた。