1. 概要
ハンス=ウルリッヒ・ルーデルは、第二次世界大戦中のドイツ空軍において、急降下爆撃機Ju 87「シュトゥーカ」を駆り、東部戦線で圧倒的な軍事的功績を挙げたパイロットである。彼は戦車519両、艦船複数隻、その他多数の車両や火砲を破壊し、9機の空中戦勝利を記録した。その卓越した戦功により、騎士鉄十字章の最高位である「黄金柏葉剣付ダイヤモンド騎士鉄十字勲章」を唯一受章した人物として知られる。
しかし、ルーデルの遺産は軍事的技量に留まらず、ナチズム思想への揺るぎない支持と戦後のネオナチ活動によって複雑な評価を受けている。彼は戦後、ヨーゼフ・メンゲレをはじめとするナチス戦犯の逃亡を支援し、アルゼンチンやパラグアイの右翼政権と関係を築いた。ドイツ帰国後も極右政党の主要メンバーとして活動し、その言動は「ルーデルスキャンダル」などの社会的な論争を引き起こした。彼の生涯は、比類なき軍事的英雄としての側面と、反民主主義的で人権を軽視する思想に固執した人物としての側面が混在しており、その影響は軍事史だけでなく、戦後のドイツ社会や極右運動にも及んだ。
2. 生涯と背景
2.1. 幼少期と教育
ハンス=ウルリッヒ・ルーデルは、1916年7月2日、プロイセン王国のシレジア地方ニーダーシュレージエンにあるコンラーツヴァルダウ(Konradswaldauドイツ語)で生まれた。彼はルーテル教会の牧師ヨハネス・ルーデルの三男であり、インゲボルクとヨハンナという二人の姉がいた。幼少期から活発でスポーツを好み、8歳の時には母親から贈られたパラシュートの玩具で遊ぶうちに空を飛ぶことに興味を抱いた。この時、自宅の2階から傘をパラシュート代わりに飛び降りて片足を挫くという出来事があったが、これが彼にパイロットを志すきっかけを与えたと後に語っている。父親の転任に伴い転校を繰り返したが、ラウバン(現ポーランド領ルバン)の人文系ギムナジウムに通い、アビトゥーアに合格した。1933年にはヒトラーユーゲントに加わり、1936年には義務的な国家労働奉仕団(Reich Labour Serviceドイツ語)での服務を経験した。
2.2. 初期キャリアと軍務
国家労働奉仕団での服務を終えたルーデルは、1936年にルフトヴァッフェ(ドイツ空軍)に入隊し、軍事キャリアを開始した。当初は航空偵察パイロットとして訓練を受け、1939年1月には第121長距離偵察飛行隊(Fernaufklärungsgruppe 121ドイツ語)に転属した。彼は戦闘機パイロットを志望していたが、卒業前に急降下爆撃隊への配属の噂を信じ、自ら急降下爆撃隊を志願した。1938年6月にはグラーツの第168急降下爆撃航空団第I飛行隊に配属されたが、この時期の彼は技量不足と見なされ、一時的に偵察隊に転属させられたり、急降下爆撃訓練を継続するためにグラーツに戻されたりした。1940年にはウィーンの第43航空兵訓練連隊で副官を務め、戦闘任務から外れることもあった。しかし、後にシュトゥーカの優秀性を知ると、急降下爆撃隊に留まることが幸福であると感じるようになったと述べている。1941年初頭には急降下爆撃機パイロットとしての訓練を受け、第2急降下爆撃航空団(Sturzkampfgeschwader 2ドイツ語, StG 2)の第1飛行中隊に配属された。
3. 第二次世界大戦への参加
第二次世界大戦中、ルーデルは一貫して東部戦線で戦い続け、その軍事的功績は伝説的なものとして語られる。
3.1. シュトゥーカパイロットとしての参戦
1941年6月、ソビエト連邦侵攻作戦であるバルバロッサ作戦に備え、ルーデルが配属された第2急降下爆撃航空団第1飛行中隊はポーランド占領地へ移動した。彼は1941年6月23日、急降下爆撃隊員として初の戦闘任務を経験した。この初出撃からわずか18時間で4回の任務を完了し、その後の1941年7月18日には一級鉄十字章を受章した。
3.2. 東部戦線での主要作戦
ルーデルは東部戦線において数々の主要な戦闘に参加した。1941年9月21日、彼はバルト艦隊の戦艦マラートに対する攻撃に参加した。マラートは9月23日にクロンシュタットの停泊地で、ルーデルが投下した1,000キログラム爆弾を含む2発の爆弾が命中し、艦橋前部の弾薬庫が爆発して艦首部分が破壊され、11 mの海底に着底した。この攻撃により326名が死亡した。マラートの撃沈はしばしばルーデル単独の功績とされているが、実際には彼が投下したのは撃沈に貢献した2発の爆弾のうちの1発であった。

その後、ルーデルの部隊は中央軍集団によるモスクワ占領を目指すタイフーン作戦に参加した。1942年にはスターリングラード攻防戦にも参加し、1941年5月から1942年1月までの間に500回の出撃を達成した。
1943年2月、ルーデルは1,000回目の戦闘任務を達成し、国民的英雄となった。同年4月には柏葉付騎士鉄十字章を受章し、ベルリンでアドルフ・ヒトラーから直接授与された。彼はクルスクの戦いにも参加し、1943年7月5日のドイツ軍攻勢初日には、Ju 87G型機で初めて実戦に投入された。この機体はルーデルの発案に基づき、翼下に2門のBordkanoneドイツ語BK 3.7mm機関砲を搭載した対戦車航空機であり、そのコンセプトは非常に成功した。1943年7月12日には1日で12両のソ連戦車を撃破したと主張している。フェルディナント・シェルナー元帥は「ルーデル一人で一個師団に匹敵する」と評した。1943年10月には100両目の戦車撃破を記録し、11月25日には剣付柏葉騎士鉄十字章を受章した。
3.3. 戦車撃破と軍事的功績
ルーデルは第二次世界大戦中、主にJu 87「シュトゥーカ」急降下爆撃機を操縦し、その生涯で519両の戦車を破壊したと公式に記録されている。この数は、戦車部隊一個軍団を壊滅させたのに相当すると言われる。また、800台以上の車両、150門以上の火砲、4両の装甲列車、多数の橋や補給線を破壊した。艦艇に対しても、戦艦マラートを大破させたほか、巡洋艦1隻(大破状態のペトロパブロフスク)、駆逐艦1隻(ミンスク)、70隻の上陸用舟艇を撃沈した。空中戦においても9機の敵機(戦闘機7機、Il-2 2機)を撃墜し、エース・パイロットの一人にも数えられる。
彼は対空砲火により30回撃墜されたり不時着を強いられたりし、5回負傷したが、その度に戦線に復帰した。また、敵地に取り残された6名の航空隊員を救出した経験もある。これらの戦績は公式記録に基づくものであり、戦友の証言によれば、ルーデルは自身の戦果を部下に譲ったり、無断出撃を繰り返したりしたため、実際の戦果は公式記録よりもさらに多い可能性がある。
3.4. 軍事勲章と表彰
ルーデルは第二次世界大戦において、ドイツ軍の将兵の中で最も多くの勲章を受章した人物である。彼が受章した主要な勲章は以下の通りである。
- 鉄十字章
- 二級鉄十字章(1939年11月10日)
- 一級鉄十字章(1941年7月15日)
- 航空戦での特別の戦果を讃える名誉杯(1941年10月20日、上級中尉として)
- ドイツ黄金十字章(1941年12月7日)
- 騎士鉄十字章(1942年1月6日、上級中尉、第2急降下爆撃航空団第9飛行中隊長として)
- 柏葉付騎士鉄十字章(1943年4月14日、上級中尉、第2急降下爆撃航空団第1飛行中隊長として)
- 柏葉剣付騎士鉄十字章(1943年11月25日、大尉、第2急降下爆撃航空団第III飛行大隊長として)
- 柏葉剣付ダイヤモンド騎士鉄十字章(1944年3月29日、少佐、第2地上攻撃航空団第III飛行大隊長として)
- 黄金柏葉剣付ダイヤモンド騎士鉄十字勲章(1944年12月29日、中佐、第2地上攻撃航空団司令として)
- この勲章は、ヴェルナー・メルダースに授与された勲章よりも一段高い位として、柏葉飾りが金色にデザインされたもので、十二使徒になぞらえて12人の軍人に与えられる予定であったが、実際に受章したのはルーデルただ一人であった。ヒトラーは1945年1月1日に彼にこの勲章を授与した。
- 金・ダイヤモンド付パイロット兼観測員章
- 戦傷章金章
- 金・ダイヤモンド付空軍前線飛行章(2000回出撃記念ペナント付)
- 国防軍長期勤続章4級
- ズデーテンラント併合記念メダル
- 東部戦線従軍記章
- イタリア武勇章銀章
- ハンガリー勲功メダル金章(1945年1月14日)
- この勲章は当時7人のハンガリー将兵にしか与えられておらず、ルーデルは8人目にして唯一の外国人受章者となった。
3.5. 負傷と飛行への復帰
ルーデルは戦争中に複数回負傷したが、その中でも特に深刻だったのは1945年2月8日にフランクフルト・アン・デア・オーダー近郊でソ連軍の40mm高射機関砲の直撃を受け、右足を切断する重傷を負ったことである。この時、後部銃手のエルンスト・ガーデルマンは、意識を失ったルーデルに「気絶している暇があったら操縦桿を引け」と叫び、炎上する機体から彼を引きずり出して止血を施し、命を救った。
ルーデルは治療期間中も、ソ連軍を攻撃できないことを悔やんで涙を流したという。医師からは全治半年と診断されたにもかかわらず、彼は治療が完治する前に病院を抜け出し、特注の義足を装着して1945年3月25日には部隊に復帰した。そして、終戦までのわずかな期間にさらに26両の戦車を破壊したと主張している。彼のこの不屈の精神は、部下から「シュトゥーカ大佐」と慕われる所以となった。なお、右足が義足のエースパイロットとしては、日本の檜與平やイギリスのダグラス・バーダーなどがいる。
3.6. 軍歴の要約
ルーデルは第二次世界大戦の東部戦線で合計2,530回の戦闘任務を遂行した。その大半はJu 87急降下爆撃機でのものであったが、430回はFw 190の地上攻撃型に搭乗した。彼は519両の戦車、戦艦マラートへの深刻な損害、巡洋艦1隻(大破したペトロパブロフスク)、駆逐艦1隻(ミンスク)、70隻の上陸用舟艇の撃沈を記録した。また、あらゆる種類の車両800台以上、150門以上の火砲・対戦車砲・対空砲、4両の装甲列車、多数の橋や補給線を破壊したと主張している。さらに、9機の空中戦勝利(戦闘機7機、Il-2 2機)も記録している。
彼は対空砲火により30回撃墜されたり不時着を強いられたりし、5回負傷した。また、敵地に不時着した6名の航空隊員を救出した。最終階級は大佐。
1945年4月19日、ヒトラーの最後の誕生日を前日に控え、ルーデルはベルリンの総統官邸地下壕でヒトラーと会談した。ヒトラーはルーデルの英雄的な死が敵の宣伝に利用されることを恐れ、再三にわたり地上勤務への異動を要請したが、ルーデルはこれを全て断った。彼は勲章授与の条件として、二度と地上勤務を要請されないことを挙げたほどである。ヒトラーはルーデルを高く評価し、大戦末期の1945年4月14日には「全ジェット部隊の指揮を執ってほしい」と頼み込んだが、ルーデルはこれを拒否した。ヒトラーが自殺するわずか3日前の4月27日にもベルリンに召喚しようとしたが、着陸予定地が赤軍に占領されたため実現しなかった。
1945年5月8日、ドイツの無条件降伏の日、ルーデルはプラハ近郊の飛行場から西へ向けて脱出し、アメリカ軍の支配地域に着陸して投降した。アメリカ軍は彼をソ連に引き渡すことを拒否したため、彼は無事に戦後を迎えることができた。
[http://www.achtungpanzer.com/gen9.htm Achtung Panzer! - Hans-Ulrich Rudel!]
[http://wunderwaffe.narod.ru/HistoryBook/LuftAces/Shturm/Rudel/Rudel.htm Ханс-Ульрих Рудель (Hans-Ulrich Rudel)]ではルーデルの戦前から戦後にかけての写真と説明が掲載されている。
[http://fw190.hobbyvista.com/kitzingen.htm Kitzingen - The Surrender of Oberst Hans-Ulrich Rudel]ではキッチンゲンで投降した時の写真が掲載されている。
3.6.1. 著名な搭乗員と僚友

Ju 87は複座機であり、後席には機銃手が搭乗する。ルーデルのJu 87で後席を務めた機銃手の中で、名前が判明しているのは5人である。
- アルフレート・シャルノヴスキー伍長**(Alfred Scharnowski):1941年9月23日の戦艦マラート攻撃時まで搭乗。ルーデル所属大隊で最年少ながら冷静沈着な性格で知られた。同日のキーロフ級巡洋艦「キーロフ」攻撃で、大隊長機の機銃手として搭乗中に撃墜され戦死した。
- エルヴィン・ヘンシェル兵長**(Erwin Hentschel):1917年10月29日生まれ。シャルノヴスキーの後任として着任し、ルーデルとの付き合いが最も長く、最終出撃回数は1,480回を記録した。後部機銃でソ連軍戦闘機を撃墜し、騎士鉄十字章を受章するなど卓越した腕前を持っていた。1944年3月20日、ヤンポール橋破壊作戦で不時着した僚機の乗員救出のために着陸したが、機体が泥にはまり、ドニエストル川を泳いで渡る際に力尽きて溺死した。ルーデルは彼の死に大きな衝撃を受け、この事件の後、敵地への着陸を禁ずる異例の命令が出された。
- ロートマン一等軍曹**(Rothmann):ヘンシェルの後任。フルネームは不明。元々はJu 87の整備兵であり、正式な機銃手ではなかった。ソ連軍の大攻勢で機銃手の選抜が困難な状況下で、苦肉の策として後席に搭乗した。実戦で多数のP-39に囲まれた際に落ち着きを失い、ルーデルに叱咤された。その後、ルーデルの後席で実戦に参加することはなかったが、第2地上攻撃航空団の整備兵として所属し続けた。
- エルンスト・ガーデルマン少佐**(Dr. med. Ernst Gadermann):1913年12月25日生まれ。出撃回数850回以上、騎士鉄十字章受章。1941年10月、軍医として第2急降下爆撃航空団第III飛行大隊に配属され、ルーデルと出会った。スポーツ好きという共通点から親友となり、1944年5月にルーデル機の専属機銃手となった。1945年2月8日にルーデルが右脚を失った際には、意識を失ったルーデルを救い、止血処置を施して命を救った。ガーデルマンは循環器が専門であり、撃墜され負傷したルーデルに応急処置を施すこともあった。戦後は医師として活動し、1972年のミュンヘンオリンピックでは医学教授陣のチーフを務めた。1973年11月26日、講演中に心臓発作で死去。
- エルンスト=アウグスト・ニールマン大尉**(Ernst-August Niermann):ガーデルマンの後任。もともと従軍記者として派遣されていたが、ルーデルの後席に任官する前からベテラン機銃手として600回以上の出撃を重ね、ドイツ十字章金章を受章した。1945年3月31日にルーデル機に着任し、ルーデル最後の出撃である5月7日にも後席に搭乗し、キッチンゲンでルーデルらと共に米軍に投降した。戦後もルーデルとアルゼンチンへ渡るなど、行動を共にした。
[http://pilotosdelaluftwaffe.tripod.com/f-rudel.htm ヘンシェルが写っている写真](上から二段目の右側にある写真の右側に写っている人物がヘンシェル。左側の人物はルーデル)
[http://www.luftwaffe39-45.historia.nom.br/ases/gadermann.htm ガーデルマンが写っている写真]
ルーデルの僚機(2番機)として出撃したパイロットには、副官でもあった**ヘルムート・フィッケル中尉**(Helmut Fickel)がいる。1921年11月27日生まれ。1943年10月15日から1944年夏までの間、ルーデルの副官兼僚機として500回以上の任務に出撃した。ルーデルと2機だけで対戦車攻撃に出撃し、そのほとんどで成功を収めたため、大隊では有名な存在であった。1944年夏、フィッケル機が対空砲火を受けソ連軍前線に不時着した際、ルーデルは敵の砲火をかいくぐって着陸し、彼と通信士を救出した。フィッケルは戦争中に3回撃墜されたが負傷することはなく、そのうち2回はルーデルによって救われている。最終的に800回以上の出撃を記録し、騎士鉄十字章を受章した。
ルーデルの恩師に当たる人物として、**エルンスト=ジークフリート・ステーン大尉**(Ernst-Siegfried Steen)がいる。1912年9月25日生まれ。彼はラパロ条約によりソ連で航空訓練を受けた古参パイロットの一人であり、急降下爆撃に非凡な才能を持っていた。1941年8月1日、第2急降下爆撃航空団第III飛行大隊指揮官に着任し、ルーデルに急降下爆撃の秘訣を教え込んだ。しかし、1941年9月23日、戦艦マラート攻撃と同日のキーロフ攻撃でシャルノヴスキーと共に戦死した。ステーンは死後、東部戦線に従軍したシュトゥーカパイロットとして初の騎士鉄十字章を授与された。ルーデルはステーンを「真に偉大な人間」と述べ、「のちの私の功績は、ステーンに負うところが多い」と尊敬の念を込めて著書に記述している。
ルーデルの参謀役として彼を支え続けたのは、同僚の**フリードリッヒ・"フリドリン"・ベッカー少佐**(Friedrich Becker)である。ルーデルは彼を「第III大隊員の母親のような人物」と評し、どんな危機的状況でも常に事態を把握していたと述べた。ベッカーは1943年5月1日に第2急降下爆撃航空団第III飛行大隊の副官に任命され、1945年4月には第2地上攻撃航空団本部付の参謀将校として航空団副官に昇進し、副司令として事務的業務を担当した。彼はルーデルやニールマンと共に終戦まで生き残ったが、敗走中の地上部隊を指揮して西側の英米軍占領地を目指していたところ、チェコでソ連軍と現地ゲリラの襲撃を受け死亡した。
4. 戦後の活動とネオナチズム
ルーデルは第二次世界大戦終結後も、その思想と行動においてナチズムへの強い傾倒を示し、極右活動家として知られるようになった。
4.1. 南米での活動
1946年4月に拘留を解かれたルーデルは、ドイツ敗戦により解体された軍を離れ、ヴェストファーレン州ゲルスフェルトで輸送関係の仕事に就いた。転機は、多くの元ドイツ空軍関係者に宛てられたアルゼンチン政府からの非公式招待状であった。ルーデルはアルプス山脈を越え、スイス、イタリアを経てローマで国際赤十字発行の渡航文書を入手し、1948年6月8日にブエノスアイレスに到着した。この旅には、親友である元第2地上攻撃航空団第I飛行大隊長のヘルベルト・バウアー少佐や、終戦を共にしたエルンスト・ニールマン大尉も同行した。
アルゼンチン到着後、ルーデルはアルゼンチン航空機産業の顧問に任命され、コルドバの航空技術研究所で勤務した。彼は当時のフアン・ペロン大統領夫妻や、パラグアイの独裁者アルフレド・ストロエスネルの親友となり、両独裁者の間を取り持ち、両国の経済開発計画にも関与した。また、草創期のアルゼンチン空軍士官学校で教官を務め、幹部候補生に操縦法や低空飛行による航空戦闘技術を指導した。
アルゼンチンでは、ルーデルはナチス戦犯の救済組織「Kameradenwerk」(「同志の会」の意)を設立した。この組織の著名なメンバーには、戦争犯罪容疑でソ連から引き渡しを要求されていた親衛隊将校ルートヴィヒ・リーンハルト、クラスノダールでの戦争犯罪で有罪判決を受けたゲシュタポ隊員クルト・クリストマン、オーストリアの戦犯フリドリン・グース、チリのドイツスパイであるアウグスト・ジーブレヒトらがいた。Kameradenwerkは、アルゼンチンに逃亡していたアンテ・パヴェリッチなど、国際的に指名手配されているファシストたちとも緊密な連絡を維持した。また、ルドルフ・ヘスやカール・デーニッツなど、ヨーロッパで投獄されているナチス犯罪者に対しても、アルゼンチンから食料の小包を送ったり、時には訴訟費用を支払ったりして支援した。
ルーデルはアルゼンチンで悪名高いアウシュヴィッツ強制収容所の医師であり戦犯であるヨーゼフ・メンゲレと知り合い、親しい友人関係を築いた。1957年には、ルーデルとメンゲレは移動式ガス室の発明者ヴァルター・ラウフに会うために共にチリへ旅行した。1960年には、元武装親衛隊員で彼の運転手として働いていたヴィレム・ザッセンと共に、メンゲレのブラジル移住を支援した。メンゲレはルーデルを愛称の「ウリ」と呼ぶほどであった。
アルゼンチンでのルーデルは、コルドバから約36 km離れたビジャ・カルロス・パスに住み、煉瓦工場を経営していた。この地で彼は戦時中の回想録『Trotzdem』(「それでも」の意)を執筆し、1949年11月にブエノスアイレスのDürer-Verlagから出版された。この本は、ナチスの政策を擁護し、国防軍最高司令部を「ヒトラーを裏切った」と非難する内容を含んでいた。西ドイツではこの本の出版を巡って議論が起こったが、冷戦の激化に伴い、後に『Stuka Pilot』としてアメリカでも再編集され出版された。1951年にはパンフレット『Dolchstoß oder Legende?』(「背後からの突き刺し、それとも伝説か?」の意)を出版し、ソ連との戦争は「ドイツの生存権のための防御戦争」であり、「全世界のための十字軍」であったと主張した。1950年代には、ヒンドゥー教とナチズムの提唱者である作家サヴィトリ・デヴィと親交を結び、彼女をスペインや中東に逃亡したナチス逃亡者たちに紹介した。
ペロンの支援を受けて、ルーデルはブラジル軍との間で有利な契約を確保した。彼はまた、ボリビア政権、チリのアウグスト・ピノチェト、パラグアイのストロエスネルのために軍事顧問や武器商人としても活動した。彼は元国家啓蒙・宣伝省国務長官ヴェルナー・ナウマンとも接触があった。1955年のリベルタドーラ革命(ペロンの第二期大統領任期を終わらせた軍事・市民蜂起)後、ルーデルはアルゼンチンを離れてパラグアイに移住せざるを得なくなった。その後数年間、彼はザルツギッターAG、ドルニエ、フォッケウルフ、メッサーシュミット、シーメンス、Lahmeyer Internationalなどのドイツ企業の海外代表として頻繁に活動した。
歴史家ペーター・ハンマーシュミットによれば、ドイツ連邦情報局(BND)とアメリカ中央情報局(CIA)のファイルに基づくと、BNDは「Merex」という偽装会社を通じて、元親衛隊員やナチ党員と密接な連絡を取っていた。1966年、元国防軍少将でBNDエージェントのヴァルター・ドリュックが代表を務めるMerexは、ルーデルとザッセンが築いた人脈を利用して、ドイツ連邦軍の廃棄装備をラテンアメリカの様々な独裁政権に売却した。ハンマーシュミットによると、ルーデルはMerexと元国家保安本部員でベルンハルト作戦に関与したフリードリッヒ・シュヴェントとの間の接触を確立するのを支援した。シュヴェントはペルーとボリビアの軍事機関と密接な関係を持っていたとされる。1960年代初頭、ルーデル、シュヴェント、クラウス・バルビーは「ラ・エストレラ」(「星」の意)という会社を設立し、ラテンアメリカに逃亡した多くの元親衛隊将校を雇用した。ルーデルはラ・エストレラを通じて、自身の元親衛隊・国防軍将校ネットワークを持っていたオットー・スコルツェニーとも連絡を取っていた。
4.2. ドイツ帰国と政治活動
1953年、ルーデルはアルゼンチン政府との契約終了後、西ドイツに帰国し、極右民族主義政党であるドイツ帝国党(Deutsche Reichsparteiドイツ語, DRP)の主要メンバーとなった。彼は1953年の西ドイツ連邦議会選挙でDRPのトップ候補として出馬したが、当選には至らなかった。彼は政治演説中に、第二次世界大戦で西側諸国はソ連との戦いにおいてドイツを軍事支援すべきだったと主張した。ディー・ツァイト紙の編集長ヨーゼフ・ミュラー=マラインは、ルーデルを「飛行隊なき戦隊司令官」と酷評する記事を掲載した。1977年には、ゲルハルト・フライが設立した民族主義政党であるドイツ人民同盟(Deutsche Volksunionドイツ語)のスポークスマンとなった。
4.3. 主要なスキャンダルと論争
ルーデルの戦後の活動は、いくつかの主要な事件や社会的な論争を引き起こした。
- ルーデルスキャンダル**
1976年10月、ルーデルは「ルーデルスキャンダル」(Rudel-Affäreドイツ語)と呼ばれる一連の出来事を偶発的に引き起こした。ドイツ連邦軍の第51偵察航空団(「イメルマン」の名称を継承)が、第二次世界大戦時の隊員を含む再会集会を計画した際、ドイツ連邦国防省の国務長官ヘルマン・シュミットは、ルーデルがフライブルク近郊のブレムガルテンにある空軍基地でナチスのプロパガンダを広めることを恐れ、基地での開催を禁止した。この決定は、当時NATO第2連合戦術空軍司令官であり、元第二次世界大戦時の戦闘機パイロットであったヴァルター・クルピンスキー中将の耳に入った。クルピンスキーは空軍総監ゲルハルト・リンベルクに連絡を取り、基地での集会開催を許可するよう要請した。リンベルクはクルピンスキーの要請を承認し、シュミットの同意がないまま集会は連邦軍施設内で開催された。ルーデルは集会に出席し、自身の著書にサインしたり、サインを求められたりしたが、政治的な発言は控えた。
しかし、ルーデルの出席が公になると、シュミットから事情を聞いていたジャーナリストたちがクルピンスキーとその副官カール・ハインツ・フランケ少将に質問した。このインタビューで、将軍たちはルーデルの過去のナチス・ネオナチ支持者としての経歴を、1930年代にドイツ共産党員であり、第二次世界大戦中にモスクワに滞在しNKVDの作戦に関与したとされる著名な社会民主党指導者ヘルベルト・ヴェーナーの経歴と比較した。彼らはヴェーナーを「過激主義者」と呼び、ルーデルを「家族の銀食器などを盗んだわけではない」名誉ある人物だと評した。これらの発言が公になると、ドイツ社会民主党(SPD)に所属する国防大臣ゲオルク・レーバーは、兵士法第50条に基づき、両将軍を1976年11月1日付で早期退役させた。レーバーのこの行動は、ドイツキリスト教民主同盟(CDU)の野党から激しく批判され、このスキャンダルは1978年初頭のレーバー自身の退任の一因となった。1977年2月3日には、ドイツ連邦議会でこのスキャンダルとその影響について議論された。ルーデルスキャンダルは、その後の軍の伝統に関する議論を引き起こし、最終的に国防大臣ハンス・アペルが1982年9月20日に「伝統の理解と育成に関するガイドライン」を導入することで終結した。
- その他の論争**
1978年のワールドカップ・アルゼンチン大会開催中、ルーデルはドイツ代表チームのアスコチンガにあるトレーニングキャンプを訪問した。ドイツのメディアはドイツサッカー連盟を批判し、ルーデルの訪問を1976年のアルゼンチンクーデター後の軍事独裁政権への共感を示すものと見なした。彼は1958年のFIFAワールドカップ・スウェーデン大会でも、マルメでドイツチームを訪問し、チームマネージャーのゼップ・ヘルベルガーに歓迎されている。
5. 思想と信条
5.1. ナチズムと反共主義
ルーデルは生涯にわたりナチズムへの強い信奉を維持し、アドルフ・ヒトラーへの尊敬の念を公言した。彼は第二次世界大戦におけるソ連との戦争を、ドイツの生存権を守るための防御戦争であり、「全世界のための十字軍」であったと主張した。彼はヒトラー暗殺計画を非難し、戦後に出版した著書『Trotzdem』では、ナチスの政策を擁護し、国防軍最高司令部を「ヒトラーを裏切った」と攻撃する内容を記した。
ルーデルはナチ党員ではなかったが、その思想的背景と戦後の活動(特にナチス戦犯の支援や極右政党での活動)から、典型的なネオナチ活動家と見なされている。彼は共産主義に対する強い嫌悪感を抱き、それが彼の東部戦線での戦いへの執着にも繋がっていた。
6. 私生活
6.1. 結婚、子供、趣味
ルーデルは生涯で3度結婚している。最初の結婚は1942年で、ウルスラ・ベルクマン(愛称「ハンネ」)との間にハンス=ウルリッヒとジークフリートという2人の息子をもうけた。しかし、夫妻は1950年に離婚した。離婚理由の一つとして、妻がダイヤモンド付柏葉章を含むルーデルの勲章の一部をアメリカの収集家に売却したこと、そしてアルゼンチンへの移住を拒否したことが報じられたが、妻ウルスラは後にこの売却を否定している。
1965年には、28歳年下のウルスラ・デーミッシュと再婚し、1969年に三男クリストフが生まれた。1970年4月26日には、オーストリアのホッホフーゲンでのスキー練習中に重度の脳卒中を発症したが、懸命な治療とリハビリにより、再びスキーや水泳ができるまでに回復した。1977年に2度目の離婚をした後、ルーデルはウルスラ・バスフェルトと3度目の結婚をした。
私生活では、ルーデルは熱心なスポーツ愛好家であった。片足を失った後もテニス、水泳、スキーの競技会で好成績を収め、特にアルペンスキーでは南米選手権で優勝した経験もある。また、登山も趣味とし、南米のアンデス山脈の多くの山々に登頂した。これには南米最高峰のアコンカグア(標高6962 m、1951年12月31日)も含まれる。世界で5番目に高い活火山であるユーヤイヤコ(6723 m)にも3度登頂している。1953年3月31日の初登頂時には400 m滑落したが、幸運にも雪だまりに飛び込んで軽傷で済んだ。2度目の登頂では、元同僚のマックス・ダインスと写真家のエルヴィン・ノイベルトと共に登山したが、ノイベルトが滑落死したため遠征は中止となった。ルーデルはそれからわずか10ヶ月後に再登頂し、ノイベルトの遺体を引き揚げてユーヤイヤコの山頂に埋葬した。
[http://unglaublichkeiten.net/lager/Geschichte-AufdemStundenplan.de_37.pdf Stuka-Oberst Hans-Ulrich Rudel-der »Adler der Ostfront«]ではルーデルとウルスラ、息子クリストフの写真などが掲載されている。
7. 死と葬儀
ルーデルは1982年12月18日、ローゼンハイムの病院で新たな脳内出血により死去した。66歳没。
彼の葬儀は1982年12月22日にタイレンホーフェン市のドルンハウゼン地区で行われた。葬儀の際には、ドイツ連邦空軍のF-4ファントム戦闘機2機とF-104戦闘機1機が低空飛行したという目撃情報があり、追悼目的ではないかとの憶測を呼んだ。しかし、国防省は調査報告書で、問題の時刻には通常の訓練飛行が行われており、軍用機は指定されたコースを逸脱せず、町からかなり離れた空域を通過したと否定した。
葬儀には多くの退役軍人が参列したが、故人が大戦の英雄であるため、ネオナチも多数押し寄せ、公然とドイツの国歌の1番(ナチス・ドイツ時代唯一の公式歌詞)や戦時中の軍歌が高歌放吟されたり、ナチス式敬礼が行われるなど騒然とした雰囲気となった。撮影された写真から、2,000人近い参列者のうち4人がナチス式敬礼をしているのが確認され、検察庁はドイツ刑法典第86a条(「違憲な組織の標章の頒布・公然使用等の禁止」)に基づいて捜査を行った。ルーデルの遺体はドルンハウゼンに埋葬されたが、元ナチス・ドイツ軍人であるため、墓所の正確な位置は公表されていない。

8. 評価と遺産
ルーデルの生涯と功績は、その軍事的才能とナチズムへの固執という二つの側面から、肯定と批判の両方で評価されている。
8.1. 肯定的な評価
ルーデルは、その比類なき軍事的勇敢さと卓越した操縦技術により、極右勢力や一部の軍事愛好家の間で肯定的に評価されている。第二次世界大戦末期に中央軍集団を率いたフェルディナント・シェルナー元帥は、「ルーデルは一人で一個師団の価値がある」と述べ、ルーデルの近接航空支援に全面的に信頼を置いていた。ハインリヒ・ヒムラーによってルーデルが自身の指揮下から異動させられた際には、「(航空支援なしで)小銃のみで戦線を維持できるとでも思っているのか!」と激怒したという。
フランスの撃墜王であるピエール・クロステルマンは、ルーデルについて「なんと残念なことか、彼が我が軍の側でなかったということは!」と述べた。戦後、ルーデルとクロステルマンは非常に親しい友人となり、互いの家を頻繁に訪れる間柄にまで発展し、クロステルマンはルーデルの息子クリストフの代父を務めた。
[http://www.hawkertempest.se/AlexandreJaeg.htm On the background to the book The Big Circus (Le Grande Cirque) By Pierre Clostermann]ではピエール・クロステルマンへのインタビューの中で、ルーデルについての言及がされている。
ドイツ空軍トップエースのエーリヒ・ハルトマンは、戦後のルーデルの戦績について「自分は複数のチームで戦っているから、それで真似することはできる。だがルーデル個人の真似はできない。誰もできやしない」と述べ、彼の唯一無二の才能を称賛した。
8.2. 批判と論争
ルーデルは、そのナチズム思想、戦後の活動、そしてネオナチズムとの関連性から、歴史的に厳しい批判を受けている。彼はナチ党員ではなかったものの、戦後もアドルフ・ヒトラーへの尊敬の念を公言し、ナチス戦犯(特にヨーゼフ・メンゲレ)の逃亡を積極的に支援したことは、彼の思想的偏向を明確に示している。
ドイツ帰国後も、彼は極右政党の主要メンバーとして活動し、講演会などで「第二次世界大戦はドイツの生存権のための戦争」と擁護する発言を繰り返した。これは、戦後のドイツ社会で共有されるべき歴史認識とはかけ離れたものであり、彼が「国防軍神話」を広めようとしたことから、次第に「腫れ物」のように扱われるようになった。1976年の「ルーデルスキャンダル」は、彼の存在が西ドイツ社会に与える影響と、軍における伝統の解釈を巡る深刻な対立を浮き彫りにした。
また、インターネット上などで広まっている「スターリンから名指しで『ソ連人民最大の敵』と評され、10万ルーブルの賞金がかけられた」という話は、出典不明の都市伝説である。これは、1971年の著書『Stuka at war』で彼がソ連で「人民の敵ナンバーワン」と呼ばれたという記述が元になっている可能性が高いが、スターリンが直接言及したり、具体的な賞金額が設定されたりしたという確証はない。
9. 影響
9.1. 軍事航空戦術
ルーデルの対戦車攻撃戦術は、その後の軍事航空戦術に大きな影響を与えた。彼はJu 87に37mm機関砲を搭載し、戦車の装甲が薄い後部や側面を狙うという戦術を確立した。この戦術は非常に効果的であることが証明され、特に冷戦期には、NATOとワルシャワ条約機構間の潜在的な紛争においてソ連戦車を空から破壊する戦術として注目された。1976年には、アメリカのフェアチャイルド社がA-10サンダーボルトIIの開発継続の一環としてルーデルを対戦車戦闘セミナーに招き、彼の経験が新型攻撃機の設計に活かされた。
9.2. 極右およびネオナチ運動への影響
ルーデルは死後もドイツの極右勢力、特にドイツ人民同盟(DVU)とその指導者ゲルハルト・フライに人気を保ち続けた。フライとDVUは1983年、ルーデルの追悼式典中に「ルーデル名誉連盟 - 前線兵士保護のための共同体」(Ehrenbund Rudel - Gemeinschaft zum Schutz der Frontsoldatenドイツ語)を設立した。イギリスのホロコースト否認論者デイヴィッド・アーヴィングは、1985年6月にフライからハンス=ウルリッヒ・ルーデル賞を授与され、ルーデルの死に際して追悼演説を行った。このように、ルーデルは戦後のドイツにおける極右およびネオナチ運動の象徴的な存在であり続けた。
10. 著作
ルーデルが自身で執筆または共著した主な出版物は以下の通りである。
- Trotzdem. Kriegs- und Nachkriegszeit (1949年、Dürer-Verlag、ブエノスアイレス; 1966年、Schütz、ゲッティンゲン)
- 英訳版: Stuka Pilot (1958年、バランタイン・ブックス、ニューヨーク)
- 日本語訳版: 『爆撃行』(1953年、日本出版共同株式会社)、『急降下爆撃』(1982年、朝日ソノラマ; 2002年、学習研究社; 2019年、ホビージャパン)
- Wir Frontsoldaten zur Wiederaufrüstung (1951年、Dürer-Verlag、ブエノスアイレス)
- Dolchstoß oder Legende? (1951年、Dürer-Verlag、ブエノスアイレス)
- Es geht um das Reich (1952年、Dürer-Verlag、ブエノスアイレス)
- Von den Stukas zu den Anden
- Hans-Ulrich Rudel-Aufzeichnungen eines Stukafliegers-Mein Kriegstagebuch (2001年、ARNDT-Verlag、キール)
- Mein Leben in Krieg und Frieden (1994年、Deutsche Verlagsgesellschaft、ローゼンハイム)
- Zwischen DeutschlandとArgentinien - Fünf Jahre in Übersee
- Fliegergeschichten: Sonderband Nr. 13 "Der Kanonenvogel"
- Aus KriegとFrieden : Aus den Jahren 1945と1952
11. 戦績
以下は公式の記録であるため、実際の数値はこれより多いとされる。なお艦艇の撃沈記録については、彼一人の戦果ではなく共同戦果である。
- 出撃回数**: 2,530回(うち、Fw 190FやFw 190D-9での出撃が430回)
- 被撃墜回数**: 30回
- 戦闘による負傷**: 5回
- 戦果**:
- 戦車 519輌(この数は戦車部隊一個軍団を撃滅したのに相当する)
- 装甲車・トラック 800台以上
- 火砲(100 mm口径以上) 150門以上
- 装甲列車 4両
- 戦艦 1隻(マラート)(ルーデルの爆撃によって2番主砲塔より前部(一番主砲塔・艦橋・一番煙突含む)を失い大破着底。マラートはこの後も残った砲を用いて戦闘に参加するも、ドイツ軍地上部隊からの砲撃もあって1942年末までにすべての主砲を下ろし半ば放棄されている。終戦後数年を経て浮揚・修理された)
- 嚮導駆逐艦 1隻
- 駆逐艦 1隻
- 上陸用舟艇 70隻以上
- 航空機 9機(戦闘機 2、爆撃機 5、その他 2。9機のうち1機はJu87G型の37mm砲によって撃墜されたものである)
- 受章勲章**:
- 騎士鉄十字章(出撃回数400回、戦艦マラート撃沈の功による)
- 柏葉付騎士鉄十字章(出撃回数1000回による)
- 柏葉剣付騎士鉄十字章(出撃回数1600回による)
- 柏葉剣付ダイヤモンド騎士鉄十字章(出撃回数1800回、戦車撃破数200輌による)
- 黄金柏葉剣付ダイヤモンド騎士鉄十字勲章(出撃回数2400回、戦車撃破数463輌による)
- 金・ダイヤモンド付空軍前線飛行章(2000回出撃記念ペナント付)
- 航空戦での特別の戦果を讃える名誉杯
- 戦傷章金章
- 金・ダイヤモンド付パイロット兼観測員章
- ドイツ十字章金章
- 二級・一級鉄十字章
- 勲功章 (ハンガリーより)
- 武勇章銀章 (イタリアより)
ルーデルの残した記録は並はずれて高いため往々にして伝説めいて語られるが、これらの戦績はあくまで公式記録に基づくものである。というのも、戦友らの証言によればルーデルは仲間たちの評価を上げるために自らの戦果を他人の戦果として申告させていたといい、この証言に従えば実際の戦果は公式記録より多い事になる。また彼は、負傷した際も病院からこっそり抜け出しては出撃して戦列に紛れていたため、実際に挙げた戦果はさらに多かったものと思われる。
また、右足を切断するというパイロット生命に関わる事態が起こったことで、退院後、部隊に戻ってからは航空団司令として地上勤務に就いていると上層部には思われていた。そのため、部隊を率い4月から終戦までに30輌以上の戦車を確実に破壊したと言われる戦果も、公式戦果として認められているのは3輌のみである。
こうした戦績から、ルーデルは様々な人物に評されている。戦争末期に中央軍集団を率いたフェルディナント・シェルナー元帥は「ルーデルは一人で一個師団の価値がある」と述べており、ルーデルの航空支援に全幅の信頼を置いていた。ハインリヒ・ヒムラーによって彼の指揮下からルーデルが異動させられた際には、「(航空支援なしで)小銃のみで戦線を維持できるとでも思っているのか!」と怒り、わめき散らしたという。
フランスの撃墜王であるピエール・クロステルマンは、ルーデルについて「なんと残念なことか、彼が我が軍の側でなかったということは! 」と述べている。戦後知り合ったルーデルとクロステルマンは非常に親しい友人同士となり、お互いの家をよく訪れる間柄にまでなった。こうした関係から、クロステルマンは戦後に生まれたルーデルの息子であるクリストフの代父となっている。
また、ドイツ空軍トップエースのエーリヒ・ハルトマンは戦後ルーデルの戦績について「自分は複数のチームで戦っているから、それで真似することはできる。だがルーデル個人の真似はできない。誰もできやしない」と述べている。
ルーデルによる実際の戦果・撃破数は現在も分かっていない。