1. 概要
葛西紀明(葛西 紀明かさい のりあき日本語、1972年6月6日生まれ)は、日本のスキージャンプ選手である。その長いキャリアは、1988年のワールドカップデビューから2024-25シーズンまで34シーズンにわたり、スキージャンプの歴史に数々の記録を刻んできた。特に、冬季オリンピックへの史上最多8回連続出場や、スキージャンプ・ワールドカップにおける史上最年長優勝、表彰台、ポイント獲得、そして最多出場記録など、年齢の壁を打ち破る彼の挑戦は国内外で「レジェンド」と称され、多くの人々に感動とインスピレーションを与えている。
2. 幼少期と背景
葛西紀明は、北海道上川郡下川町で生まれ育ち、早くからスキージャンプの才能を見出された。彼のキャリア初期は、その非凡な才能を国際舞台で示し始める時期であった。
2.1. 幼少期と教育
1972年に札幌オリンピックが開催された年に下川町で生まれ、同郷の嶋宏大や岡部孝信らに続き、10歳でジャンプを始める。すぐにその才能を開花させ、雪印杯全日本ジャンプ大会ジュニアの部などで優勝を重ねた。中学3年時には宮様スキー大会のテストジャンパーとして、成年組で優勝した東昭広の飛距離を上回るなど、逸材として注目された。東海大学付属第四高等学校(現:東海大学付属札幌高等学校)に進学し、学生時代からその実力を発揮した。
2.2. 初期キャリアの始まり
高校1年時の1988-89シーズン、11月に札幌で開催されたスキージャンプ・ワールドカップに16歳6ヶ月の当時史上最年少で初出場し、31位を記録した。翌年1月には第28回STVカップ国際スキージャンプ競技大会で国際大会初優勝を飾る。さらに当時の中村圭彦ジャンプ部長の抜擢により、2月にラハティ(フィンランド)で開催された1989年ノルディックスキー世界選手権に16歳8ヶ月の日本人男子史上最年少で出場した。高校2年生時の1989-90シーズンからはワールドカップに本格的に参戦し、12月9日のレークプラシッド(アメリカ合衆国)大会で自身初の1桁順位となる9位を記録、翌12月10日には7位に更新した。このシーズン中に他に2回7位に入り、シーズン個人総合24位となった。高校3年時の1990-91シーズンは最高18位でワールドカップポイントを獲得できなかった。
3. プロフェッショナルキャリア
葛西紀明の選手としてのキャリアは、数々の変革と挑戦を経験しながら、一貫して世界のトップレベルで活躍し続けてきた。
3.1. デビューと初期の成功(1988年 - 1997年)
1991年、秋元正博らが所属する地崎工業(現:岩田地崎建設)に入社。このシーズンはV字スタイルへの移行期にあたり、葛西もその習得に時間を要した。クラシカルスタイルで挑んだ1991-92シーズン前半のワールドカップでは札幌・大倉山大会で6位に入るなど、前シーズンの不調から脱却。しかし、1月に日本ナショナルチーム全体の方針としてV字スタイルに転向し、初出場となった2月のアルベールビルオリンピック(フランス)ではノーマルヒル31位、ラージヒル26位と振るわなかった(団体では4位入賞)。
V字スタイルに慣れると再び成績も上昇し、2月29日のワールドカップラハティ大会で3位に入り初の表彰台に登ると、3月4日のエルンシェルツビク大会(スウェーデン)では自己最高を更新する2位を記録した。さらに3月22日にハラホフ(旧チェコスロバキア)で開催されたスキーフライング世界選手権(兼ワールドカップ K=180)で金メダルを獲得し、19歳9ヶ月でワールドカップ日本人最年少優勝記録(当時)を樹立した。スキーフライング世界選手権でのメダル獲得は日本人初であり、日本国外開催のワールドカップ優勝は1980年3月の秋元正博以来12年ぶり2人目という快挙であった。
1992-93シーズンは、年末年始のスキージャンプ週間で第1戦オーベルストドルフ(ドイツ)で3位、第2戦ガルミッシュ=パルテンキルヒェン(ドイツ)では、ジャンプ週間において1971年-72シーズンの笠谷幸生以来となる優勝を達成した。続く第3戦インスブルック(オーストリア)で3位、第4戦ビショフスホーフェン(オーストリア)で2位と、4戦すべてで表彰台に登り、総合でもアンドレアス・ゴルトベルガー(オーストリア)と激しい優勝争いを繰り広げ、総合2位となった。このシーズンはV字スタイルを完全に習得し、前述のジャンプ週間を含むワールドカップで3勝(準優勝1回、3位2回)をあげて個人総合3位となる活躍を見せた。身体を平らにし、スキー板よりも前に放り出す深い前傾姿勢から、ジャンプの本場・欧州では「Kamikaze Kasaiカミカゼ・カサイ英語」の異名を取った。
1993-94シーズンには、日本国内の大倉山ジャンプ競技場のバッケンレコードを大幅に更新するなど圧倒的な成績を残した。スキージャンプ週間では2度表彰台に立ち、総合4位。ワールドカップでも、1月9日のムーラウ大会(オーストリア)で秋元正博を抜いて日本人単独1位となる通算5勝目をあげた。2月のリレハンメルオリンピック(ノルウェー)ではノーマルヒルで5位入賞、団体戦で銀メダルを獲得した。
1994-95シーズン開幕前の11月24日にノルウェー合宿で転倒し鎖骨を骨折した。1月に復帰して8日の雪印杯に出場したものの、直後の11日に再び転倒して同じ個所を痛め、このシーズンはワールドカップ、世界選手権には1試合も出場できなかった。葛西の代役として船木和喜がワールドカップにデビューしていきなり優勝し、スターダムにのし上がった。
1995-96シーズンは2シーズンぶりにワールドカップに復帰し、表彰台登壇はなかったもののインスブルックで9位に入った。
1996-97シーズン、1月26日に白馬ジャンプ競技場で開催されたラージヒルで2位に入り、3シーズンぶりの表彰台に登った。
1997-98シーズンは11月29日のワールドカップリレハンメル大会で3位に入り、その後も1桁順位を続ける幸先の良いスタートを切ったが、12月30日にチームで興じていたサッカー中に原田雅彦に足を蹴られ、左足首捻挫を負う。長野オリンピックでは、2月11日の個人ノーマルヒルで7位入賞を果たすも、2月15日の個人ラージヒルでは上記の怪我の影響もあって出場メンバーから外され、さらに翌16日に発表された団体メンバーからも外されることになった。だが個人入賞ということもあり、直後のテレビ番組や式典では金メダルを獲得した団体メンバーとともに出演するなど悔しい思いを経験し、この悔しさは今でも競技を続ける原動力の一つだと語っている。その後、3月に行われたワールドカップでは22日のプラニツァ大会(スロベニア)で4シーズンぶりの優勝を果たすなど、3度表彰台に登り復活を印象付けた。同月には所属していた地崎工業のスキー部が廃部となり、マイカル(現:イオンリテール)へ移籍した。
3.2. 全盛期と長野オリンピック時代(1997年 - 2004年)
1998-99シーズンはジャンプ週間で第3戦インスブルックでの優勝を含む3度表彰台に登り(残り1戦も4位)、ヤンネ・アホネン(フィンランド)、マルティン・シュミット(ドイツ)らと総合優勝を争い、1992-93シーズン以来の総合2位入賞を果たした。ジャンプ週間を含むワールドカップでは6勝(準優勝1回、3位7回、1シーズン6勝は小林陵侑が更新するまで日本人男子最多)をあげて自己最高タイの個人総合3位に入った。1試合平均の獲得ポイントは55.28(合計1603点/29試合)で、これは現スコア方式の1993-94シーズン以降では自己最高である。ラムサウ(オーストリア)で開催された世界選手権にも3大会ぶりに出場し、団体戦で自身初のメダルとなる銀メダルを獲得した。
1999-2000シーズンは、複数回1桁順位を記録したものの、前シーズンから一転して個人表彰台には一度も登壇できなかった。
2000-01シーズンは年末年始のスキージャンプ週間でガルミッシュ=パルテンキルヒェン大会での1勝を含む3戦連続表彰台に登るなど好調で、ワールドカップシーズン個人総合で4位に入った。
2001-02シーズンは、10月に所属していたマイカルが廃部したため土屋ホームに移籍。ワールドカップではオリンピック直前に開催された地元札幌大会で3位に入ったが、2月のソルトレークシティオリンピック(アメリカ合衆国)では個人2種目とも40位台と振るわず、団体戦には出場できなかった。
2002-03シーズンは1月までのワールドカップでは2度の9位が最高だったが、2月9日のヴィリンゲン(ドイツ)大会で優勝を飾ると、直後にヴァル・ディ・フィエンメ(イタリア)で開催された世界選手権で初めて個人戦のメダル(銅2個)を獲得。団体戦の銀メダルと合わせて出場全種目でメダルを獲得した。
2003-04シーズンはワールドカップ序盤より度々1桁順位を記録し、1月25日の札幌大会でシーズン初表彰台となる2位。2月28日にパークシティ大会(アメリカ合衆国)で優勝し、31歳7ヶ月の最年長優勝記録(当時、2009年3月10日に岡部孝信に更新されるまで)を樹立した。シーズン総合でも3シーズンぶりの1桁順位となる8位であった。
3.3. 選手兼監督時代と安定期(2004年 - 2013年)
2005年、マッチ・ニッカネンらを指導したフィンランド人のカリ・ユリアンティラが、日本チームのヘッドコーチに就任した。ユリアンティラの厳しい指導に対し、過去の実績に対するプライドから初めは強く反発したが、徐々にアドバイスを聞き入れるようになり、その結果助走スピードや飛距離が向上した。
2006年トリノオリンピック(イタリア)では全種目に出場した。
世界選手権では2007年札幌大会、2009年リベレツ大会(チェコ)で団体戦の銅メダルを2大会連続で獲得した。
2009年4月6日、所属する土屋ホームスキー部の監督に就任し、日本スキー界としては異例となるプレーイング・マネージャーとなった。
2010年2月、6大会連続出場となったバンクーバーオリンピック(カナダ)でも全種目に出場。ラージヒル個人では、1本目121.5mで21位と出遅れるも、2本目に135mの大飛躍を見せ、順位を上げて8位入賞を果たした。団体ではアンカーを務め、5位入賞に貢献した。
2010-11シーズンは、開幕の団体戦で3位に入った。個人戦の最高成績は1月23日ザコパネ大会(ポーランド)での5位であった。2011-12シーズンは、ジャンプ週間よりワールドカップメンバー入りし、1月28日札幌大会の15位が最高成績だった。
2012年11月15日、フィンランド航空は、葛西紀明選手兼監督および、葛西選手率いるチーム土屋を公式サポートした。2009年よりフィンエアーは公式サポートしており、この期で4シーズン目となった。2012-13シーズンは、5試合で10位以内に入り、最高成績は3月22日と24日のプラニツァ大会スキーフライングでの4位であった。
3.4. ソチオリンピックの成功と「レジェンド」時代(2013年 - 2018年)
2013-14シーズン、12月15日のワールドカップ・ティティゼー=ノイシュタット大会(ドイツ)で3位入賞し、ワールドカップ史上最年長(41歳6ヶ月9日)での表彰台登壇を達成した。年末年始のジャンプ週間で4戦全てで1桁順位に入り総合5位となった。その後、2014年1月11日、バート・ミッテルンドルフ(オーストリア)で行われた個人第13戦スキーフライングで10シーズンぶりに優勝し、スキージャンプ・ワールドカップ史上最年長優勝(41歳7ヶ月5日)を達成した。翌12日の個人第14戦スキーフライングでも3位、25日の個人第17戦札幌でも3位に入り、スキージャンプ・ワールドカップ史上最年長表彰台記録(41歳7ヶ月19日)を更新した。
2月のソチオリンピック(ロシア)では夏季・冬季通じて史上最年長で日本選手団主将を務めた。2月9日、最初の競技となったノーマルヒル個人では、1本目101.5mで8位だったが、2回目に順位を上げることができず7位で終了した。同月15日に行われたラージヒル個人では、1回目139mを飛び2位につけ、2回目は133.5mを飛び、惜しくも金メダルには届かなかったものの銀メダルを獲得した。これは1994年リレハムメルオリンピックでの団体銀メダル以来20年ぶり、個人としてはオリンピック7度目の出場で初のメダル獲得であった。日本ジャンプ勢のオリンピックでのメダル獲得は1998年長野オリンピックでの船木和喜・原田雅彦以来16年ぶりのことであり、41歳254日でのメダル獲得は、冬季オリンピックにおける日本人最年長記録となった。冬季オリンピックジャンプ競技に限れば1948年サンモリッツオリンピックで36歳168日で銀メダルを獲得したビルゲル・ルート(ノルウェー)以来約66年ぶりの世界最年長記録更新となった。同月17日、清水礼留飛、竹内択、伊東大貴と出場した団体ラージヒルでも銅メダルを獲得した。このメダルにより、葛西は更新したばかりの最年長メダル記録を「41歳256日」と僅かながらさらに更新した。ただし、この日本勢最年長メダル記録は2022年北京オリンピックで石崎琴美が43歳1ヶ月で更新している。
オリンピック後最初に行われた2月26日のワールドカップファールン大会(スウェーデン)では3位に入ったが右膝を負傷した。次の第22戦1試合のみ欠場したが、第23戦より復帰すると、3月7日の第25戦トロンハイム大会で再び3位入賞し、ワールドカップ最年長表彰台記録を41歳9ヶ月4日に更新した。3月15日にハラホフ(チェコ)で開幕したスキーフライング世界選手権では、個人の初日2本で3位と1ポイント差の4位につけた。2日目の後半2本は強風のため中止になったため順位を上げることはできなかったが、4位は1992年大会の優勝に次ぐ好成績であった。その後も3月23日のワールドカップシーズン最終戦プラニツァ大会まですべての試合でトップ10入りを達成した。このシーズンは個人開幕戦で27位になった後は、出場した22戦全てでトップ10入りし、個人総合成績で10シーズンぶりの1桁順位となる5位入賞を達成した。
2014年4月1日、1992年アルベールビルオリンピックから2014年ソチオリンピックまでの計7回の冬季オリンピック最多出場記録、2014年1月11日に41歳219日で達成したワールドカップ最年長優勝記録、同年2月17日に41歳256日で達成した冬季オリンピックスキージャンプ競技最年長メダリストの3つの記録がギネス世界記録に認定された。
3.5. 近年の活動と継続的な挑戦(2018年 - 現在)
2014-15シーズン、11月22日のワールドカップシーズン開幕戦のクリンゲンタール大会(ドイツ)団体戦で準優勝すると、翌日の個人第1戦でも6位に入る幸先の良いスタートを切った。28日にルカ(フィンランド)で開催された第2戦で3位に入り、シーズン初表彰台を飾った。この試合では伊東大貴も2位に入っており、日本勢のワンツーフィニッシュは2006年1月の札幌大会以来のことであった。翌日の第3戦では1本目で最長不倒の145mを飛びトップに立つと、2本目は風に恵まれず131.5mだったもののトップは譲らず、シモン・アマン(スイス)と同点で通算17勝目をあげ、自身の持つワールドカップ最年長優勝記録を42歳5ヶ月に更新した。ジャンプ週間では前半の2戦で連続8位、第3戦インスブルックで再びアマンと同点の3位、第4戦ビショフスホーフェンでは2位と4戦全てでトップ10入りし、総合成績で前シーズンを上回る4位となった。
その後2月7日の第21戦ティティゼー=ノイシュタット大会(ドイツ)まで出場17戦連続でトップ10入りしたのち、2月14日の第23戦ヴィケルスン大会(ノルウェー)スキーフライングで3位に入り、10戦ぶりの表彰台に登壇した。2月18日に開幕した世界選手権では混合団体で銅メダルを獲得したものの、自身のジャンプは不調に陥り、個人戦ではトップ10入りを逃した。世界選手権後のワールドカップで復調し、第29戦ホルメンコーレンスキー大会で2位になり最年長表彰台記録を42歳282日に更新した。最終的に総合成績で6位となり2シーズン連続のトップ10入りを果たした。
2015-16シーズンは11月22日にクリンゲンタールでのワールドカップ個人開幕戦で5位スタート。その後は調子が上がらなかったが、12月19日の第6戦エンゲルベルク大会(スイス)では1本目12位ののち、2回目のジャンプでプレヴツ兄弟に続く3位に順位を上げ、シーズン初表彰台を飾った。ジャンプ週間は第1戦オーベルストドルフでの5位が最高で全4戦の総合では日本人トップの7位となり、3シーズン連続でトップ10入りした。
FISスキーフライング世界選手権で5位入賞をしたのち、1月31日のワールドカップ札幌大会から3戦連続の3位入賞を達成。3月4日のヴィスワ(ポーランド)大会でも3位に入り、自身の持つワールドカップ最年長表彰台記録を43歳272日に更新した。3月17日の第27戦プラニツァ大会スキーフライングで、出場試合数がワールドカップ個人で史上初めて500試合に到達。主催者の計らいにより500番のゼッケンをつけて競技を行い、6位に入賞した。シーズン総合成績は3シーズン連続のトップ10入りとなる8位。また、シーズン中の2月にスキー界で最も権威がある賞の一つと言われているホルメンコーレン・メダルを受賞した(日本人では荻原健司、船木和喜に続き3人目)。
2016-17シーズンは、11月25日に行われたルカ(フィンランド)でのワールドカップ開幕戦は18位。1月4日に行われたジャンプ週間第3戦インスブルックで、ジャンプ週間通算100試合出場を達成し、主催者より記念ゼッケンが贈られた。この試合でシーズン最高の10位となった。その後は調子が上がらず、ラハティでの世界選手権を含めて表彰台登壇はなかったが、3月19日にヴィケルスンで行われたスキーフライングにおいて1回目5位につけた後、2回目で2位に順位を上げ、シーズン初めて表彰台登壇を果たし、ワールドカップ最年長表彰台記録を44歳9ヶ月に更新した。次戦3月24日、プラニツァでのスキーフライングでも4位、26日の最終戦で3位となりワールドカップ最年長表彰台記録をさらに更新してシーズンを終えた。総合順位はトップ10入りは逃したもののこのシーズンも日本勢トップの15位であった。
2017-18シーズンは小林潤志郎、小林陵侑兄弟が台頭してきたが、全日本選手権ラージヒルで2人を破り優勝した。ワールドカップは12月10日のティティゼー=ノイシュタット大会で10位となりシーズン初のトップ10入り。ジャンプ週間は不振だったが、1月13日に開催されたバート・ミッテルンドルフ大会(オーストリア)スキーフライングで今季最高の5位となった。また、同日にオーストリアスキー連盟により、かつてのライバルのアンドレアス・ゴルトベルガーやグレゴア・シュリーレンツァウアーなど約600名が出席して、葛西の功績を称える祝賀会が開催された。
平昌オリンピック開会式で日本選手団の旗手を務めた。2月10日のノーマルヒルでは104.5m、99mで21位。17日のラージヒルは121mと伸び悩み、2回目に進めず33位だった。ワールドカップシーズン個人総合は26位で、日本勢では3番目であった。
2018-19シーズンもワールドカップメンバーに選出。12月16日の第7戦エンゲルベルク大会で30位に入り、今シーズン初めてワールドカップポイントを獲得した。この試合以外は不調でポイント獲得できない試合が続いていたが、1月27日の第16戦札幌大会でシーズン自己最高の7位に入り、ワールドカップ史上最年長トップ10入り記録を更新した。しかし、葛西以外の日本勢が葛西を上回るワールドカップポイントを獲得していたため、世界選手権の代表には選出されなかった。シーズン総合成績は37位。このシーズンは、葛西自らが土屋ホームにスカウトした教え子の小林陵侑が日本人男子初のスキージャンプワールドカップ総合優勝を達成した。
2019-20シーズンはサマーグランプリ白馬大会でポイントを得られず、夏のコンチネンタルカップに初めて参戦した。ワールドカップメンバーには開幕戦から選出され、昭和、平成、令和の3元号でのワールドカップ出場を果たすも、5試合連続でポイント獲得がならず、ジャンプ週間への出場を逃しコンチネンタルカップに回った。ワールドカップ札幌大会では1日目予選敗退、2日目36位で終わり、ワールドカップ本選は3試合出場にとどまり、ポイントを得ることができずシーズンを終了した。
2020-21シーズンは、コロナ禍でワールドカップメンバーの入れ替えが限定され、札幌で行われる予定であったコンチネンタルカップやワールドカップが中止となる中でポイントを獲得すべく、コンチネンタルカップエンゲルベルク大会に参戦したが、2日とも2回目に進めずポイントを獲得できなかった。ワールドカップに1試合も出場できなかったのは故障により欠場した1994-95シーズン以来26シーズンぶりであった。国内戦では札幌オリンピック記念の3位タイが最高であった。
2021-22シーズンは、ワールドカップ遠征メンバーの選考を兼ねたシーズン序盤の国内戦で結果を残せず、メンバー入りを逃したことにより、北京オリンピックへの出場を逃し、オリンピック連続出場が途絶えることになったが、50代での現役続行と2026年五輪及び2030年五輪を目標とすることを宣言している。2022年1月、HTB杯で3位に入り、前シーズン以来10ヶ月ぶりで今シーズン初めての表彰台登壇を果たした。同月の雪印メグミルク杯全日本ジャンプ大会で1回目2位から2回目に逆転し、2017年全日本選手権以来4シーズンぶりとなる優勝を果たした。北京オリンピックでは、フジテレビ系の放送にコメンテーターとして現地から出演。男子ノーマルヒルでは会場で観戦し、教え子の小林陵侑が金メダルを獲得したことに「目の前で、愛弟子がもう、金とれるなんて幸せですね。嬉しいです」と喜びを表明した。
2023-24シーズンは、2024年1月20日、21日の札幌・大倉山で行われたコンチネンタルカップに出場し、ポイントを獲得、2月16日から18日に行われる札幌・大倉山のワールドカップに出場する権利を得て、2019-20シーズン以来4季ぶりに代表選手に復帰した。2月17日の第19戦で30位に入り、51歳290日でワールドカップ史上最年長ポイント獲得記録を更新しただけでなく、第23戦以降の代表遠征メンバー復帰も決めた。そのままシーズン終了まで代表遠征メンバーとしてワールドカップに出場し、3月3日のラハティ(28位)、3月17日のヴィケルスン(27位)、3月22日のプラニツァ(29位)でポイントを獲得。2月3日のラハティ(5位)、3月23日のプラニツァ(4位)では団体戦にも出場した。シーズン終了後の4月17日には、ワールドカップ最年長ポイント獲得記録と2016-17シーズンのワールドカップ最年長表彰台記録がギネス世界記録に新たに認定された。
4. 記録と節目
葛西紀明は、その異例の選手寿命を通じて、スキージャンプの歴史に数多くの世界記録と節目を刻んできた。彼の記録は、単なる数字にとどまらず、世代を超えて競技の限界を押し広げ、世界中のファンに感動を与え続けている。
4.1. ギネス世界記録
葛西紀明が公式に認定されたギネス世界記録は以下の通り。
- 冬季オリンピック最多出場:8回(1992年 - 2018年)
- スキージャンプ競技個人種目史上最年長メダリスト:41歳254日(2014年ソチオリンピック ラージヒル個人 銀メダル)
- 冬季オリンピック史上最年長メダリスト:41歳256日(2014年ソチオリンピック ラージヒル団体 銅メダル)。この記録は後に石崎琴美が2022年北京オリンピックで更新した。
- FISノルディックスキー世界選手権個人戦最多出場:13回
- FISスキージャンプワールドカップ個人戦最多出場:578回(2023-24シーズン終了時点)
- FISスキージャンプワールドカップ史上最年長優勝:42歳5ヶ月(2014年11月29日、ルカ大会)
- FISスキージャンプワールドカップ史上最年長表彰台:44歳9ヶ月(2017年3月26日、プラニツァ大会)
- FISスキージャンプワールドカップ史上最年長ポイント獲得:51歳290日(2024年3月22日、プラニツァ大会)
4.2. 主要大会記録
葛西紀明の主要な国際大会における出場記録は以下の通り。
- 冬季オリンピック**
- 史上最多出場回数:8回(1992年アルベールビルから2018年平昌まで)
- 合計出場スタート数:21回
- FISノルディックスキー世界選手権**
- 史上最多出場回数:13回(1989年ラハティから2017年ラハティまで)
- 合計出場スタート数:42回
- FISスキーフライング世界選手権**
- 史上最多出場回数:11回
- 合計出場スタート数:13回
4.3. ワールドカップ記録
FISスキージャンプワールドカップにおける葛西紀明の主な記録は以下の通り。
- 最多出場記録**:個人戦578回出場。ワールドカップが主催する全種目において、最も多くワールドカップに出場した選手である。
- 最年長優勝記録**:42歳5ヶ月(2014年11月29日、ルカ大会)。
- 最年長表彰台記録**:44歳9ヶ月(2017年3月26日、プラニツァ大会)。
- 最年長ポイント獲得記録**:51歳290日(2024年3月22日、プラニツァ大会)。
- 最年長出場記録**:51歳291日(2024年3月23日、プラニツァ大会)。
5. パブリックイメージと私生活
葛西紀明は、その並外れた競技キャリアだけでなく、その人間性や私生活においても多くの人々に影響を与えている。彼のジャンプスタイル、愛称、そして個人的な哲学は、彼の「レジェンド」としてのイメージを形成する重要な要素となっている。
5.1. 家族と個人的な関係
葛西は両親と姉、妹のいる5人家族の長男として育った。1997年には母を火災で亡くしており、母の命日とお盆、ワールドカップ遠征前には必ず墓参をしている。妹は1993年に難病の再生不良性貧血を患い、一度は臍帯血治療で克服し2003年に結婚したものの、2013年に再発。葛西は同シーズン中にも2度病院に駆けつけた。ソチオリンピック直前には妹からLINEで「絶対メダル取れるから何も心配せずに飛んで」と励まされたという。「妹のために」は葛西の口癖で、冬季オリンピックで金メダルという目標も、当初は妹を勇気づけるのが目的であったという。しかし治療の甲斐なく、妹は2015年5月には意識不明になり、2016年1月13日に意識が戻らぬまま永眠した。葬儀は遠征中だった葛西の帰国を待って19日に行われ、翌20日に自身のブログでファンに報告した。自身の心の支えとなった歌としてかぐや姫の「妹」を挙げている。
2014年2月まで独身であったが、ソチオリンピックで銀メダルを獲得した直後の2月22日に一般女性と結婚し、2016年1月30日には長女の莉乃が誕生した。2018年には、約100坪の敷地に2階建ての自宅を新築し、フィンランド式サウナも備え付けた。長期の海外遠征ともなると、独身生活で身につけた手料理を後輩に振る舞うこともある。
5.2. ジャンプスタイルと異名
ジャンプ時の空中姿勢は、身体をスキー板より前に出るほど深く前傾させる。そのダイナミックかつスリリングな独特のフォームはジャンプの本場・欧州で人気があり、ワールドカップ総合3位に入った1992-93シーズン頃から「Kamikaze Kasaiカミカゼ・カサイ英語」と呼ばれ、このネーミングは2014年に「レジェンド」に取って代わられるまで、長年葛西のキャッチコピーとして定着していた。その後もフォームの改良を続け、現在は手は体につけずに広げて、掌で風を受けて飛ぶムササビのようなスタイルになっている。
年齢が30代後半に達して以降も第一線で競技を続ける選手は、当時のスキージャンプ界では異例のことであり、この頃からヨーロッパで敬意をこめて「Legendレジェンド英語」と呼ばれるようになった。2014年1月11日にワールドカップ史上最年長優勝を達成した際には、日本以外の多数の選手・コーチから、とりわけワールドカップ史上最多勝記録を持つグレゴア・シュリーレンツァウアーからは脱帽しての最敬礼での祝福を受けたほか、競技会場・オーストリアの地元紙は複数が1面トップでこれを報じ、ドイツ公共放送連盟(ARD)は、「『驚異』という言葉はこれからは『カサイ』にすべき」と賞賛した。翌シーズンの2014年11月28日に最年長優勝記録をさらに更新した際にはシュリーレンツァウアーは「Air Nipponエアーニッポン英語」と称賛した。
葛西がワールドカップ個人戦通算500試合出場を達成した2016年3月17日のプラニツァ大会では500試合出場を記念し、金色のワシがあしらわれた「500番」のゼッケンが用意され、葛西がこれをつけて競技を行い、1回目のジャンプが終わった後、2万人の観客が会場アナウンスに合わせて日本語で「ありがとう」と祝福した。会場にはジャンプが盛んな欧州のメディアに加え、葛西だけのためにカナダのメディアも訪れ、葛西は競技直後に取材ゾーンで20数社の取材を受けた。オーストリアの『クローネ紙』は葛西の500試合出場達成に対し、「日本の奇跡のワシは、どうも永遠に若いままでいるようだ」と評した。
5.3. トレーニングと哲学
シーズン中のベスト体重は60kg程度で、減量のために断食することもしばしばある。ただ減量し過ぎるとスキージャンプ界のいわゆる「BMIルール」に引っかかり失格の恐れが出てくるため、一定の体重を維持することにも気を使っている。彼の長寿キャリアは、厳しい自己管理と競技への飽くなき情熱によって支えられている。
5.4. 事業活動と広告出演
2014年現在の所属である土屋ホームとはプロ契約ではなく、一般の社員として雇用されている。そのため、シーズンオフには一社員として同社のモデルハウスでのサイン会・握手会などの販促業務をこなしている。2014年2月にはソチオリンピック銀メダルの功績により、同社住宅部長に昇進した。また同年6月には土屋ホームから、葛西プロデュースの戸建住宅「土屋LEGEND 葛西MODEL 2014」が発売された。
5.5. 趣味とその他の活動
自身のブログでは絵文字を多用している。B'z、女優・相武紗季、スティーヴン・セガールのファンであることを公言している。
2014年に第27回日本メガネベストドレッサー賞・スポーツ部門に選出された。また、同年にワールドカップ最年長優勝とオリンピックメダル獲得を達成したことで「レジェンド」の異名が日本国内でも広まり、2014年新語・流行語大賞で「レジェンド」がトップテン入りした。趣味はゴルフ、釣り、ワイン。好物は地元下川町にある喫茶店アポロのナポリタン、やない菓子舗の生クリームあんぱんである。
6. 受賞歴
葛西紀明は、その輝かしい選手キャリアを通じて、国内外で数々の表彰と栄誉を受けている。
- 下川町町民栄誉賞(2001年)
- JOCスポーツ賞 特別功労賞(2013年)
- 日本メガネベストドレッサー賞 スポーツ界部門(2014年10月)
- アンチエイジング大賞2014 特別賞(2014年11月)
- 第64回日本スポーツ賞 オリンピック特別賞(2015年1月)
- ホルメンコーレン・メダル(2016年2月)
- 第18回ビートたけしのエンタテインメント賞 功労賞(2018年1月)
7. 主要競技成績
葛西紀明が参加した主要な国際大会の成績を以下に示す。
7.1. 冬季オリンピック
7.2. FISノルディックスキー世界選手権
年 | 場所 | ノーマルヒル | ラージヒル | 団体ノーマルヒル | 団体ラージヒル | 混合ノーマルヒル |
---|---|---|---|---|---|---|
1989 | ラハティ、フィンランド | 54位 | 57位 | N/A | 15位 | N/A |
1991 | ヴァル・ディ・フィエンメ、イタリア | - | 36位 | N/A | 11位 | N/A |
1993 | ファールン、スウェーデン | 10位 | 7位 | N/A | 5位 | N/A |
1995 | サンダーベイ、カナダ | 出場せず | ||||
1997 | トロンハイム、ノルウェー | |||||
1999 | ラムサウ、オーストリア | 5位 | 10位 | N/A | ![]() 銀メダル | N/A |
2001 | ラハティ、フィンランド | 8位 | 19位 | 4位 | 4位 | N/A |
2003 | ヴァル・ディ・フィエンメ、イタリア | ![]() 銅メダル | ![]() 銅メダル | N/A | ![]() 銀メダル | N/A |
2005 | オーベルストドルフ、ドイツ | 21位 | 36位 | 9位 | 10位 | N/A |
2007 | 札幌、日本 | 34位 | 24位 | N/A | ![]() 銅メダル | N/A |
2009 | リベレツ、チェコ | 30位 | 32位 | N/A | ![]() 銅メダル | N/A |
2011 | オスロ、ノルウェー | 26位 | 24位 | 5位 | 6位 | - |
2013 | ヴァル・ディ・フィエンメ、イタリア | 35位 | 22位 | N/A | 5位 | - |
2015 | ファールン、スウェーデン | 35位 | 11位 | N/A | 4位 | ![]() 銅メダル |
2017 | ラハティ、フィンランド | 28位 | 32位 | N/A | 7位 | - |
7.3. FISスキーフライング世界選手権
年 | 場所 | 個人 | 団体 |
---|---|---|---|
1990 | ヴィケルスン、ノルウェー | 23位 | N/A |
1992 | ハラホフ、旧チェコスロバキア | ![]() 金メダル | N/A |
1994 | プラニツァ、スロベニア | 19位 | N/A |
1996 | バート・ミッテルンドルフ、オーストリア | 24位 | N/A |
1998 | オーベルストドルフ、ドイツ | - | N/A |
2000 | ヴィケルスン、ノルウェー | 5位 | N/A |
2002 | ハラホフ、チェコ | - | N/A |
2004 | プラニツァ、スロベニア | 24位 | 5位 |
2006 | バート・ミッテルンドルフ、オーストリア | - | - |
2008 | オーベルストドルフ、ドイツ | 35位 | 7位 |
2010 | プラニツァ、スロベニア | 12位 | - |
2012 | ヴィケルスン、ノルウェー | - | - |
2014 | ハラホフ、チェコ | 4位 | - |
2016 | バート・ミッテルンドルフ、オーストリア | 5位 | - |
2018 | オーベルストドルフ、ドイツ | 25位 | - |
7.4. FISスキージャンプワールドカップ
葛西紀明のFISスキージャンプワールドカップにおける詳細な成績を以下に示す。
7.4.1. シーズン総合順位
シーズン | 総合 | スキージャンプ週間 | スキーフライング | ラウ・エア | ノルディックトーナメント | スキージャンプカップ |
---|---|---|---|---|---|---|
1988-89 | - | - | N/A | N/A | N/A | N/A |
1989-90 | 24位 | 19位 | N/A | N/A | N/A | N/A |
1990-91 | - | 73位 | - | N/A | N/A | N/A |
1991-92 | 9位 | - | 7位 | N/A | N/A | N/A |
1992-93 | ![]() 3位 | ![]() 2位 | - | N/A | N/A | N/A |
1993-94 | 6位 | 4位 | 19位 | N/A | N/A | N/A |
1995-96 | 36位 | 10位 | 26位 | N/A | N/A | 36位 |
1996-97 | 17位 | 24位 | 23位 | N/A | 11位 | 15位 |
1997-98 | 10位 | 24位 | 13位 | N/A | 4位 | 10位 |
1998-99 | ![]() 3位 | ![]() 2位 | ![]() 2位 | N/A | ![]() 優勝 | 4位 |
1999-00 | 15位 | 20位 | 10位 | N/A | 9位 | 14位 |
2000-01 | 4位 | 12位 | 8位 | N/A | 23位 | N/A |
2001-02 | 23位 | 31位 | N/A | N/A | 28位 | N/A |
2002-03 | 13位 | 23位 | N/A | N/A | 6位 | N/A |
2003-04 | 8位 | 8位 | N/A | N/A | 10位 | N/A |
2004-05 | 16位 | 11位 | N/A | N/A | 26位 | N/A |
2005-06 | 21位 | 9位 | N/A | N/A | 15位 | N/A |
2006-07 | 26位 | 34位 | N/A | N/A | 20位 | N/A |
2007-08 | 34位 | 34位 | N/A | N/A | 31位 | N/A |
2008-09 | 15位 | 13位 | 20位 | N/A | 13位 | N/A |
2009-10 | 17位 | 11位 | - | N/A | 8位 | N/A |
2010-11 | 25位 | 31位 | 31位 | N/A | N/A | N/A |
2011-12 | 51位 | 33位 | 45位 | N/A | N/A | N/A |
2012-13 | 24位 | 42位 | 17位 | N/A | N/A | N/A |
2013-14 | 5位 | 5位 | ![]() 2位 | N/A | N/A | N/A |
2014-15 | 6位 | 4位 | 4位 | N/A | N/A | N/A |
2015-16 | 8位 | 7位 | 5位 | N/A | N/A | N/A |
2016-17 | 15位 | 29位 | 4位 | 8位 | N/A | N/A |
2017-18 | 26位 | 40位 | 9位 | 24位 | N/A | N/A |
2018-19 | 37位 | 42位 | 26位 | 42位 | N/A | N/A |
2019-20 | - | - | - | - | N/A | N/A |
2022-23 | - | - | - | - | N/A | N/A |
2023-24 | 58位 | - | 38位 | 45位 | N/A | N/A |
7.4.2. 個人優勝大会
回数 | シーズン | 日付 | 場所 | ヒル種別 |
---|---|---|---|---|
1 | 1991-92 | 1992年3月22日 | ハラホフ、旧チェコスロバキア | フライングヒル |
2 | 1992-93 | 1993年1月1日 | ガルミッシュ=パルテンキルヒェン、ドイツ | ラージヒル |
3 | 1993年1月23日 | プレダッツォ、イタリア | ラージヒル | |
4 | 1993年3月6日 | ラハティ、フィンランド | ノーマルヒル | |
5 | 1993-94 | 1994年1月9日 | ムーラウ、オーストリア | ラージヒル |
6 | 1997-98 | 1998年3月22日 | プラニツァ、スロベニア | ラージヒル |
7 | 1998-99 | 1999年1月3日 | インスブルック、オーストリア | ラージヒル |
8 | 1999年1月29日 | ヴィリンゲン、ドイツ | ラージヒル | |
9 | 1999年1月31日 | ヴィリンゲン、ドイツ | ラージヒル | |
10 | 1999年3月9日 | トロンハイム、ノルウェー | ラージヒル | |
11 | 1999年3月14日 | オスロ、ノルウェー | ラージヒル | |
12 | 1999年3月21日 | プラニツァ、スロベニア | フライングヒル | |
13 | 2000-01 | 2001年1月1日 | ガルミッシュ=パルテンキルヒェン、ドイツ | ラージヒル |
14 | 2002-03 | 2003年2月9日 | ヴィリンゲン、ドイツ | ラージヒル |
15 | 2003-04 | 2004年2月28日 | パークシティ、アメリカ合衆国 | ラージヒル |
16 | 2013-14 | 2014年1月11日 | バート・ミッテルンドルフ、オーストリア | フライングヒル |
17 | 2014-15 | 2014年11月29日 | ルカ、フィンランド | ラージヒル |
7.4.3. 団体優勝大会
葛西紀明が参加した団体優勝大会を以下に示す。
7.5. 国内大会
葛西紀明の日本国内での主な優勝は以下の通り。
- 1987年1月17日 第19回北海道中学校スキー大会
- 1987年3月15日 第21回雪印杯全日本ジャンプ旭川大会ジュニアの部
- 1987年3月29日 第6回全国ジュニアオリンピックスキー競技大会
- 1988年1月10日 第29回雪印杯全日本ジャンプ大会ジュニアの部
- 1988年1月17日 第20回北海道中学校スキー大会
- 1988年3月19日 第22回雪印杯全日本ジャンプ旭川大会ジュニアの部
- 1989年1月15日 第28回STVカップ国際スキージャンプ競技大会
- 1989年1月29日 第30回NHK杯ジャンプ大会少年の部
- 1989年2月5日 第1回UHB杯ジャンプ大会少年の部
- 1990年1月18日 第42回北海道高校スキー大会
- 1990年1月24日 第45回北海道スキー選手権大会少年の部
- 1990年2月3日 第2回UHB杯ジャンプ大会少年の部
- 1990年2月4日 第1回TVh杯ジャンプ大会少年の部
- 1991年1月22日 第47回北海道スキー選手権大会少年の部
- 1991年2月2日 第2回TVh杯ジャンプ大会少年の部
- 1991年2月24日 第62回宮様スキー大会国際競技会(ラージヒル)少年の部
- 1991年2月25日 第62回宮様スキー大会国際競技会(ノーマルヒル)少年の部
- 1991年12月8日 第7回吉田杯ジャンプ大会兼第22回名寄ピヤシリジャンプ大会
- 1994年1月29日 第21回HTBカップ国際スキージャンプ競技大会
- 1994年1月30日 第35回NHK杯ジャンプ大会兼第72回全日本スキー選手権大会(ラージヒル)
- 1994年2月5日 第6回UHB杯ジャンプ大会
- 1994年2月6日 第5回TVh杯ジャンプ大会
- 1995年12月16日 第26回名寄ピヤシリジャンプ大会
- 1995年12月17日 第11回吉田杯ジャンプ大会
- 1996年1月14日 第23回HTBカップ国際スキージャンプ競技大会兼1996FISコンチネンタルカップジャンプ大会
- 1999年2月13日 第77回全日本スキー選手権大会(ノーマルヒル)兼第4回NBS杯白馬ジャンプ大会
- 2000年1月14日 第28回札幌オリンピック記念国際スキージャンプ競技大会兼FISコンチネンタルカップジャンプ大会
- 2000年12月17日 第16回吉田杯ジャンプ大会
- 2003年3月28日 第4回伊藤杯シーズンファイナル大倉山ナイタージャンプ大会
- 2004年7月17日 第22回札幌市長杯宮の森サマージャンプ大会
- 2004年1月10日 第31回HTBカップ国際スキージャンプ競技大会
- 2004年1月11日 第43回STVカップ国際スキージャンプ競技大会
- 2004年1月13日 第46回HBCカップジャンプ競技会
- 2004年3月19日 第28回伊藤杯 宮の森ナイタージャンプ大会
- 2007年1月21日 第19回UHB杯ジャンプ大会
- 2008年1月19日 第20回UHB杯ジャンプ大会
- 2009年1月18日 第20回TVh杯ジャンプ大会
- 2010年1月9日 第37回HTBカップ国際スキージャンプ競技大会
- 2010年1月10日 第49回STVカップ国際スキージャンプ競技大会
- 2010年1月31日 第88回全日本選手権ラージヒル兼第51回NHK杯ジャンプ大会
- 2010年1月24日 第22回UHB杯ジャンプ大会
- 2011年1月9日 第50回STVカップ国際スキージャンプ競技大会
- 2012年1月15日 第23回TVh杯ジャンプ大会
- 2013年1月13日 第52回STVカップ国際スキージャンプ競技大会
- 2014年1月18日 第41回HTBカップ国際スキージャンプ競技大会
- 2016年1月9日 第57回雪印メグミルク杯全日本ジャンプ大会
- 2016年1月10日 第27回TVh杯ジャンプ大会
- 2016年7月31日 第14回名寄サンピラー国体記念サマージャンプ大会
- 2017年8月4日 第35回札幌市長杯宮の森サマージャンプ大会
- 2017年8月6日 大倉山チャレンジカップ2017サマージャンプ大会
- 2017年11月5日 第96回全日本選手権ラージヒル兼第59回NHK杯ジャンプ大会
- 2022年1月30日 第63回雪印杯全日本ジャンプ大会
- 2024年2月3日 第35回TVh杯ジャンプ大会
- 2024年2月22日 第78回国民スポーツ大会
- 2025年2月1日 第36回TVh杯ジャンプ大会
- 2025年2月9日 第66回雪印杯全日本ジャンプ大会
8. 出版物とメディア
葛西紀明は、その競技活動を通じて多くの出版物やメディアに登場し、自らの経験や哲学を共有している。
8.1. 単著
彼が自ら執筆した書籍は以下の通り。
- 『家族で獲った銀メダル』(光文社、2014年7月)
- 『夢は、努力でかなえる。』(実業之日本社、2014年10月)
- 『葛西紀明のレジェンド・ストレッチ: 下半身を柔らかくすれば10歳若返る』(小学館、2017年3月)
- 『向かい風がいちばんいい』(河出書房新社、2017年12月)
- 『40歳を過ぎて最高の成果を出せる「疲れない体」と「折れない心」のつくり方』(東洋経済新報社、2017年12月)
8.2. 関連出版物と映像作品
葛西紀明に関する関連書籍、ドキュメンタリー、映画などは以下の通り。
- 関連書籍
- 折山淑美『日本ジャンプ陣 栄光への挑戦!』(世界文化社、2013年11月)
- 岡崎敏『不屈の翼』(日刊スポーツ出版社、2014年2月)
- 城島充『レジェンド! 葛西紀明選手と下川ジャンプ少年団ものがたり』(講談社、2014年10月)
- 佐々木敏『葛西紀明 40歳を過ぎても衰えない人の秘密』(詩想社、2015年3月)
- 映像作品
- 『プロフェッショナル 仕事の流儀 スキージャンプ日本代表 葛西紀明の仕事 伝説の翼、まだ見ぬ空へ』(DVD、2016年9月)
- 映画『ヒノマルソウル~舞台裏の英雄たち~』(2021年5月公開、演:落合モトキ)
8.3. メディア出演
葛西紀明が出演した主要なメディアは以下の通り。
- テレビ
- 『2022年北京オリンピック』(2022年、フジテレビ) - コメンテーター
- CM
- 土屋ホーム
- 政府広報 『ゆう活』「ゆう活ジャンプ篇」(2015年)
- 日本生命保険「Play,Support. 葛西紀明選手・母の言葉篇」(2017年)
- アデランス フリーダム「葛西紀明チャレンジ篇」(2021年)
- 日産自動車 エクストレイル「葛西紀明 meets NISSAN X-TRAIL e-4ORCE篇」(2024年)
9. 関連項目
- スキージャンプ
- 国際スキー連盟
- 冬季オリンピック
- スキージャンプ・ワールドカップ
- スキージャンプ週間
- ノルディックスキー世界選手権
- スキーフライング世界選手権
- ホルメンコーレン・メダル
- ギネス世界記録
- 土屋ホーム
10. 外部リンク
- [https://ameblo.jp/nori66nori/ 葛西紀明オフィシャルブログ「神風ジャンパーの挑戦」]
- [https://www.fis-ski.com/DB/general/athlete-biography.html?sectorcode=JP&competitorid=29533 FIS(国際スキー連盟):葛西紀明]
- [https://www.olympedia.org/athletes/29533 Olympedia:葛西紀明]
- [https://teamtsuchiya.com/ 土屋グループスキー部 【TEAM TSUCHIYA】]
- [https://web.archive.org/web/20180327092451/https://job.career-tasu.jp/2017/guide/blog/kasai キャリタス就活スペシャルブログ「自分の夢は、努力でかなえる」]
- [https://www.instagram.com/nori66nori66/ 葛西紀明インスタグラム]
- [https://web.archive.org/web/20110205092426/http://www.sports-reference.com/olympics/athletes/ka/noriaki-kasai-1.html Sports Reference:葛西紀明]
- [https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Noriaki_Kasai Commons:Noriaki Kasai]
- [https://ja.wikinews.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%BB%E8%91%9B%E8%A5%BF%E7%B4%80%E6%98%8E%E9%81%B8%E6%89%8B%E3%81%8C41%E6%AD%B3%E3%81%A7%E6%82%B2%E9%A1%98%E3%81%AE%E9%8A%80%E3%83%A1%E3%83%80%E3%83%AB_-_%E3%82%BD%E3%83%81%E4%BA%94%E8%BC%AA ウィキニュース:スキージャンプ・葛西紀明選手が41歳で悲願の銀メダル - ソチ五輪]