1. 幼少期と背景
マリヤ・スタドニクのレスリングキャリアは、ウクライナ時代に始まり、ジュニア大会での顕著な活躍を見せたが、ドーピング問題という大きな挫折も経験した。
1.1. 出生と教育
スタドニクは1988年12月3日にソビエト連邦のウクライナ・ソビエト社会主義共和国、リヴィウで生まれた。彼女は2000年にレスリングを始め、リヴィウ国立体育大学を卒業した。
1.2. ウクライナ時代とドーピング問題
ウクライナ代表として、スタドニクはジュニアレベルで優れた成績を収めた。2003年8月にスペインのセビリアで開催されたヨーロッパジュニア選手権では、44kg級の決勝でルーマニアのアリナ・ポガチャンを破り、14歳で初の国際大会金メダルを獲得した。翌2004年7月にブルガリアのアルベナで開催されたヨーロッパジュニア選手権では、決勝でスウェーデンのソフィア・マットソンに敗れ銀メダルを獲得した。2005年7月にリトアニアのヴィリニュスで開催されたジュニア世界選手権では、44kg級でインドのスデス・クマール、ドイツのアンニハ・ホフマン、トルコのデメット・カヤを次々と破り、決勝ではベトナムのティ・ハン・グエンに8対0で勝利し、16歳で世界ジュニア選手権の優勝者となった。
しかし、2006年4月25日から30日にかけてロシアで開催されたヨーロッパ選手権では、ウクライナ代表として48kg級で金メダルを獲得したにもかかわらず、同年6月に国際レスリング連盟(FILA)からフロセミドという禁止薬物の陽性反応が検出されたと報告された。このドーピング違反により、彼女はヨーロッパ選手権の金メダルを剥奪され、国際大会への出場が1年間禁止された。さらに、スポーツ仲裁裁判所(CAS)の決定により、2006年4月26日から2008年4月25日までの間に獲得した全ての成績が失格とされた。
2. 国籍変更とアゼルバイジャン代表としての活動
ドーピングによる出場停止処分が解除された後、マリヤ・スタドニクはウクライナ代表チームでの機会に恵まれず、アゼルバイジャン代表として新たなキャリアを歩むことになった。
2007年4月にスタドニクの国際大会出場停止処分が終了したが、同年9月に開催される2008年オリンピックのライセンスがかかった世界選手権への出場を巡り、ウクライナ代表チーム内で激しい競争が生じていた。特に、2004年アテネオリンピックの優勝者であるイリーナ・メルレニが産休から復帰し、アスリートとしての調子を取り戻していた。当時のチームコーチ陣は、18歳のスタドニクは若く経験不足であると判断し、世界選手権にはイリーナ・メルレニを派遣することを決定した。2008年オリンピック出場を最大の目標としていたスタドニクは、この決定を受けウクライナ代表チームを離れることとなった。
一方、2007年の世界選手権の開催国であるアゼルバイジャンでは、大会を前にアゼルバイジャンレスリング連盟(AWF)が女子代表チームを編成するため、他国籍のレスリング選手(ロシアのマリア・カチナ、ラトビアのオレシャ・ザムラ、ベラルーシのユリア・ラトケビッチなど)を積極的に勧誘していた。AWFはマリヤ・スタドニクにもアゼルバイジャン代表としての出場を要請し、彼女はこの招待を受け入れた。これにより、スタドニクはアゼルバイジャン代表として国際大会に出場するキャリアをスタートさせた。
アゼルバイジャン代表として初めて出場した主要大会は、2007年9月16日から24日にかけてバクーのヘイダル・アリエフ・スポーツアリーナで開催された世界選手権だった。彼女は9月21日に登場し、1/32決勝でルーマニアのクリスティーナ・クロイトル、1/16決勝で韓国のキム・ヒョンジュにそれぞれ早送り勝利を収め、1/8決勝に進出した。この段階では、世界選手権とヨーロッパ選手権の優勝経験を持つドイツのブリジット・ワグナーを2対0で破り、準々決勝に進出。準々決勝では2004年アテネオリンピックのファイナリストである日本の伊調千春と対戦し、激しい戦いの末1対2で敗れ、敗者復活戦に回った。敗者復活戦の最初の試合ではアメリカのステファニー・ムラタに敗れ、最終的に7位で大会を終えた。しかし、先に述べたCASの決定により、この2007年世界選手権での彼女の成績も後に失格とされた。
マリヤ・スタドニクはアゼルバイジャン代表として活動しているが、現在も出身地であるリヴィウ市に居住しており、夫とともにリヴィウ地区組織「スパルタク体育スポーツ協会」に所属している。
3. 主な実績
マリヤ・スタドニクはアゼルバイジャン代表として、数々の国際大会で輝かしい実績を残し、女子レスリング界のトップ選手の一人としての地位を確立した。
3.1. オリンピック
スタドニクはオリンピックで合計4個のメダルを獲得した。
オリンピック | 種目 | 予選 | 1回戦 | 準々決勝 | 準決勝 | 敗者復活戦1 | 敗者復活戦2 | 決勝 / 3位決定戦 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
対戦相手 結果 | 対戦相手 結果 | 対戦相手 結果 | 対戦相手 結果 | 対戦相手 結果 | 対戦相手 結果 | 対戦相手 結果 | 順位 | ||
2008 北京 | |||||||||
ヒュン L 3-4, 0-2 | colspan=3 - | キム W 1-0, 3-2 | 3位決定戦 バカチュク W 2-1, 8-0 | ||||||
2012 ロンドン | |||||||||
チャン W 判定 (ポイント差なし) | マトコフスカ W 判定 (ポイント差あり) | メルレニ W 判定 (ポイント差なし) | colspan=2 align="center" - | 小原 L 判定 (ポイント差あり) | |||||
2016 リオデジャネイロ | |||||||||
ベルムデス W テクニカルフォール | マトコフスカ W テクニカルフォール | ヤンコバ W フォール | colspan=2 - | 登坂 L フォール | |||||
2020 東京 | |||||||||
オルシュシュ W 11-7 判定 (ポイント差あり) | ハムディ W テクニカルフォール | 須崎 L テクニカルフォール | colspan=2 - | 3位決定戦 ツォグト・オチリーン W テクニカルフォール | |||||
2024 パリ | |||||||||
オトゴンジャルガル L 0-6 | colspan=5 - |
- 2008年北京オリンピック: 48kg級で銅メダルを獲得した。初戦でカナダのキャロル・ヒュンに敗れたものの、敗者復活戦を勝ち上がり銅メダルを獲得した。
- 2012年ロンドンオリンピック: 48kg級で銀メダルを獲得した。決勝で日本の小原日登美と対戦し、敗れた。
- 2016年リオデジャネイロオリンピック: 48kg級で銀メダルを獲得した。決勝で日本の登坂絵莉と対戦し、2対1で優勢に進めていたが、残り13秒でポイントを奪われ逆転負けを喫した。
- 2020年東京オリンピック: 50kg級で銅メダルを獲得した。準決勝で日本の須崎優衣にテクニカルフォールで敗れたが、3位決定戦に勝利した。
- 2024年パリオリンピック: 50kg級で出場。世界オリンピック予選トーナメントで出場枠を獲得したが、2回戦でモンゴルのドロゴルジャビン・オトゴンジャルガルに敗れ、メダルには届かなかった。

3.2. 世界選手権
世界選手権では2度の優勝を含む、数々のメダルを獲得した。
3.3. ヨーロッパ選手権
ヨーロッパ選手権では、これまでに11個の金メダルを獲得しており、驚異的な強さを見せている。
- 2008年フィンランド・タンペレ: 48kg級で金メダルを獲得。
- 2009年リトアニア・ヴィリニュス: 48kg級で金メダルを獲得。
- 2011年ドイツ・ドルトムント: 48kg級で金メダルを獲得。
- 2014年フィンランド・ヴァンター: 48kg級で金メダルを獲得。
- 2016年ラトビア・リガ: 48kg級で金メダルを獲得。
- 2017年セルビア・ノヴィ・サド: 48kg級で金メダルを獲得。
- 2018年ロシア・カスピースク: 50kg級で金メダルを獲得。
- 2021年ポーランド・ワルシャワ: 50kg級で金メダルを獲得。
- 2023年クロアチア・ザグレブ: 50kg級で金メダルを獲得。
- 2024年ルーマニア・ブカレスト: 50kg級で金メダルを獲得。決勝ではトルコのエヴィン・デミルハン・ヤブズを破った。
3.4. その他の国際大会
オリンピック、世界選手権、ヨーロッパ選手権以外にも、様々な国際大会でメダルを獲得している。
- ヨーロピアンゲームズ
- イスラム連帯ゲームズ
- その他の主要国際大会での成績
- ゴールデングランプリ: 2008年、2011年、2014年(バクー)、2014年(パリ)で金メダル、2009年(バクー)で銅メダル。
- グランプリ大会: 2011年(ゲッツィス)、2012年(ロンドン、キーウ、ドルマーゲン)、2014年(クリッパン、ドルマーゲン)、2015年(クリッパン)、2016年(キーウ)で金メダル、2018年(クリッパン)で銀メダル。
- ヤシャル・ドゥグー国際大会: 2011年イスタンブールで金メダル。
- ダン・コロフ&ニコラ・ペトロフ記念大会: 2018年ソフィア、2023年ソフィアで金メダル。
- ポーランド・オープン: 2015年ワルシャワ、2016年スパワ、2018年ワルシャワ、2021年ワルシャワで金メダル。
4. 私生活
マリヤ・スタドニクは1988年12月3日にリヴィウで生まれた。彼女はウクライナのレスリング選手であるアンドレイ・スタドニクと結婚しており、夫婦の間には2010年に生まれた息子イーゴリと、2013年に生まれた娘ミアがいる。義姉(夫の妹)であるヤナ・ラティガンも同じ48kg級のレスリング選手であり、マリヤと国際大会で3度対戦しているが、いずれもマリヤが勝利している。ヤナは後に英国籍を取得した。
5. 引退と引退後の活動
マリヤ・スタドニクは2025年2月2日に自身の選手キャリアからの引退を発表した。引退の翌日である2025年2月3日には、アゼルバイジャンレスリング連盟の女子レスリングコーディネーターに就任することが報じられ、長年の経験と知識をアゼルバイジャンの女子レスリングの発展に活かすこととなった。
6. 評価と影響
マリヤ・スタドニクは、その卓越した実績により、レスリングの歴史とアゼルバイジャンのスポーツ界に計り知れない影響を与えた。特に、彼女がオリンピックで4個のメダル(銀メダル2個、銅メダル2個)を獲得したことは、女子レスリング選手としては極めて稀な偉業であり、アゼルバイジャン選手としては初の快挙である。この業績は、彼女がアゼルバイジャンのオリンピック出場選手の中で最も多くのメダルを獲得した選手であることを意味し、その競技力と継続的な努力の証である。
ドーピング問題による一時的な挫折とそれに続く国籍変更という困難を乗り越え、アゼルバイジャン代表として国際舞台で成功を収めた彼女のキャリアは、逆境に立ち向かう精神とプロフェッショナリズムを示している。2度の世界選手権優勝と11度を誇るヨーロッパ選手権優勝の記録は、彼女が長年にわたり世界トップレベルで活躍し続けたことを物語る。引退後はアゼルバイジャンレスリング連盟の女子レスリングコーディネーターに就任し、指導者としての新たな役割を担うことで、未来の選手たちの育成と女子レスリングのさらなる発展に貢献することが期待されている。マリヤ・スタドニクは、アゼルバイジャン女子レスリングの象徴として、その名をスポーツ史に刻む存在である。