1. 概要

ヤン・インゲマル・ステンマルク(Jan Ingemar Stenmarkˈɪŋː(ɛ)mar ˈstêːnmarkスウェーデン語、1956年3月18日 - )は、スウェーデン出身の元アルペンスキー選手である。彼は伝説的なスキーヤーであり、史上最も傑出したスウェーデン人アスリートの一人と見なされている。キャリアを通じて複数のオリンピックメダルとワールドカップタイトルを獲得し、特に回転と大回転の技術系種目における史上最高のスペシャリストと評価されている。1989年に現役を引退した際、彼はアルペンスキーにおける国際大会での最多勝利記録(86勝)を保持しており、この記録は2023年にミカエラ・シフリンによって破られるまで、男子選手の中では現在も破られていない。彼はTärna IK Fjällvindenに所属していた。
2. 生涯
インゲマル・ステンマルクの人生は、幼少期にスキーと出会い、その才能を開花させたことから始まった。彼のキャリアは、技術系種目における圧倒的な支配力と、スポーツ界におけるその後の影響力によって特徴づけられる。
2.1. 出生と幼少期
ステンマルクは1956年3月18日にスウェーデンのヴェステルボッテン県ストゥールマン市ヨエシェで生まれた。彼が4歳の時、家族はノルウェー国境に近いテュルナビーに移住した。この地で、彼は後に1983年のワールドカップ回転種目で同率優勝を果たすことになるスティグ・ストランドと幼なじみとなった。ステンマルクは5歳でスキーを始め、8歳で初めて国内大会で優勝した。
2.2. 初期キャリア
ステンマルクは17歳の時、1973年12月にアルペンスキー・ワールドカップにデビューした。具体的には、1973年12月8日にフランスのヴァル=ディゼールで開催された1973-74シーズン第1戦の大回転に出場し、46位の成績を収めた。翌年1974年3月、ノルウェーのヴォスで行われた1973-74シーズン第17戦の大回転で、グスタフ・トーニ(イタリア)とハンジ・ヒンターゼーア(オーストリア)に次ぐ銅メダルを獲得し、初のワールドカップ表彰台に上がった。
3. 競技キャリア

インゲマル・ステンマルクの競技キャリアは、アルペンスキーの技術系種目において前例のない支配力を示した。彼はその卓越した技術と精神力で、数々の記録を打ち立て、後世の選手たちに大きな影響を与えた。
3.1. ワールドカップ
ステンマルクはワールドカップで通算86勝(大回転46勝、回転40勝)を挙げ、これは彼が引退した時点でのアルペンスキー史上最多勝利記録であった。この記録は2023年にミカエラ・シフリンによって更新されたが、男子選手の中では依然として破られていない。彼は滑降やスーパー大回転といった高速系種目にはほとんど出場せず、回転と大回転の2つの技術系種目に特化していた。これは、時速120 km/hを超える高速に不快感を覚えたためであり、彼はスキー技術の複雑さを極めることを優先した。彼のトレーナーであるヘルマン・ノグラーはかつて、「私は彼を見ていた。彼は常に、より良い方法、よりスムーズな方法、より速い方法でゲートを通過しようと努めていた」と述べている。
ステンマルクは、1976年にスカンジナビア人として初めてワールドカップ総合優勝を果たし、1976年から1978年まで3年連続で総合タイトルを獲得した。彼はワールドカップのアルペンスキーレースにおいて、史上最大の勝利差の記録を保持している。1979年2月4日にチェコスロバキアのヤスナで行われた大回転で、2位のボヤン・クリジャイに4.06秒の大差をつけて優勝した。
彼はまた、単一の種目においてワールドカップタイトルを8回獲得した唯一の男子スキーヤーである(回転と大回転の両方)。1977-78シーズンと1978-79シーズンには、出場した全ての大回転で優勝した。1979-80シーズンも、11戦中10勝を挙げた。回転においても、1975-76シーズンは7戦中7勝、1976-77シーズンは10戦中9勝、1981-82シーズンは9戦中8勝、1979-80シーズンは8戦中7勝、1974-75シーズンは8戦中7勝、1980-81シーズンは10戦中8勝と、この時期の技術系種目では他を寄せ付けない圧倒的な強さを見せた。
1979年からワールドカップに導入された新ルールでは、総合ポイントが滑降、回転、大回転、複合の4種目それぞれ3レースの成績のみで計算されるようになった。このため、ステンマルクは総合優勝のために一度だけ複合のポイントを稼ぐ目的でキッツビュールでの滑降に出場し、複合で3位、15ポイントを獲得したが、滑降単独では39人中34位という結果に終わり、以降、二度と滑降に出場することはなかった。当時のコーチによれば、彼は滑降の才能はあったものの、その練習に割く時間がなかったためだという。
ステンマルクは物静かなチャンピオンとして知られ、メディアの質問に対しては短くも丁寧な返答をすることで知られていた。
総合 | 回転 | 大回転 |
---|---|---|
1976 1977 1978 | 1975 1976 1977 1978 1979 1980 1981 1983 | 1975 1976 1977 1978 1979 1980 1981 1984 |
3 | 8 | 8 |
シーズン | 年齢 | 総合 | 回転 | 大回転 | スーパー大回転 | 滑降 | 複合 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1974 | 17 | 12 | 6 | - | 開催なし | - | 表彰なし |
1975 | 18 | 2 | 1 | 1 | - | ||
1976 | 19 | 1 | 1 | 1 | - | - | |
1977 | 20 | 1 | 1 | 1 | - | 表彰なし | |
1978 | 21 | 1 | 1 | 1 | - | ||
1979 | 22 | 5 | 1 | 1 | - | ||
1980 | 23 | 2 | 1 | 1 | - | - | |
1981 | 24 | 2 | 1 | 1 | - | 15 | |
1982 | 25 | 2 | 2 | 2 | - | - | |
1983 | 26 | 2 | 1 | 2 | 表彰なし (大回転と統合) | - | 23 |
1984 | 27 | 2 | 2 | 1 | - | - | |
1985 | 28 | 6 | 3 | 10 | - | 25 | |
1986 | 29 | 5 | 2 | 2 | - | - | - |
1987 | 30 | 6 | 2 | 7 | - | - | - |
1988 | 31 | 21 | 16 | 9 | - | - | - |
1989 | 32 | 17 | 21 | 4 | - | - | - |
シーズン | 日付 | 場所 | 種目 |
---|---|---|---|
1975 | 1974年12月17日 | マドンナ・ディ・カンピーリオ、イタリア | 回転 |
1975年1月12日 | ヴェンゲン、スイス | 回転 | |
1975年2月21日 | 苗場、日本 | 大回転 | |
1975年3月2日 | ガリバルディ(ウィスラー)、カナダ | 大回転 | |
1975年3月13日 | サンバレー、アメリカ合衆国 | 大回転 | |
1976 | 1975年12月15日 | シュテルツィング、イタリア | 回転 |
1976年1月11日 | ヴェンゲン、スイス | 回転 | |
1976年1月24日 | キッツビュール、オーストリア | 回転 | |
1976年1月27日 | ツヴィーゼル、西ドイツ | 大回転 | |
1976年3月7日 | コッパーマウンテン、アメリカ合衆国 | 回転 | |
1976年3月14日 | アスペン、アメリカ合衆国 | 回転 | |
1977 | 1977年1月3日 | ラークス、スイス | 回転 |
1977年1月10日 | ベルヒテスガーデン、西ドイツ | 回転 | |
1977年1月16日 | キッツビュール、オーストリア | 回転 | |
1977年1月23日 | ヴェンゲン、スイス | 回転 | |
1977年2月6日 | ザンクト・アントン、オーストリア | 回転 | |
1977年3月6日 | サンバレー、アメリカ合衆国 | 大回転 | |
1977年3月18日 | ヴォス、ノルウェー | 回転 | |
1977年3月20日 | オーレ、スウェーデン | 回転 | |
1977年3月21日 | 大回転 | ||
1977年3月25日 | シエラネバダ、スペイン | 大回転 | |
1978 | 1977年12月10日 | ヴァル=ディゼール、フランス | 大回転 |
1977年12月13日 | マドンナ・ディ・カンピーリオ、イタリア | 回転 | |
1977年12月14日 | 大回転 | ||
1978年1月5日 | オーバーシュタウフェン、西ドイツ | 回転 | |
1978年1月8日 | ツヴィーゼル、西ドイツ | 大回転 | |
1978年1月9日 | 回転 | ||
1978年3月18日 | アローザ、スイス | 大回転 | |
1979 | 1978年12月9日 | シュラートミンク、オーストリア | 大回転 |
1978年12月21日 | クランスカ・ゴーラ、ユーゴスラビア | 回転 | |
1978年12月22日 | 大回転 | ||
1979年1月7日 | クールシュヴェル、フランス | 大回転 | |
1979年1月16日 | アーデルボーデン、スイス | 大回転 | |
1979年1月23日 | シュタインアッハ、オーストリア | 大回転 | |
1979年2月4日 | ヤスナ、チェコスロバキア | 大回転 | |
1979年2月10日 | オーレ、スウェーデン | 大回転 | |
1979年2月11日 | 回転 | ||
1979年3月4日 | レークプラシッド、アメリカ合衆国 | 大回転 | |
1979年3月12日 | ヘブンリーバレー、アメリカ合衆国 | 大回転 | |
1979年3月17日 | 富良野、日本 | 回転 | |
1979年3月19日 | 大回転 | ||
1980 | 1979年12月8日 | ヴァル=ディゼール、フランス | 大回転 |
1979年12月11日 | マドンナ・ディ・カンピーリオ、イタリア | 回転 | |
1979年12月12日 | 大回転 | ||
1980年1月21日 | アーデルボーデン、スイス | 大回転 | |
1980年1月27日 | シャモニー、フランス | 回転 | |
1980年2月27日 | ウォータービルバレー、アメリカ合衆国 | 回転 | |
1980年3月1日 | モン=サンタンヌ、カナダ | 大回転 | |
1980年3月10日 | コルティーナ・ダンペッツォ、イタリア | 回転 | |
1980年3月11日 | 大回転 | ||
1980年3月13日 | ザールバッハ、オーストリア | 大回転 | |
1980年3月15日 | 回転 | ||
1981 | 1980年12月9日 | マドンナ・ディ・カンピーリオ、イタリア | 回転 |
1980年12月10日 | 大回転 | ||
1981年1月6日 | モルジヌ、フランス | 大回転 | |
1981年1月18日 | キッツビュール、オーストリア | 回転 | |
1981年1月26日 | アーデルボーデン、スイス | 大回転 | |
1981年2月1日 | ザンクト・アントン、オーストリア | 回転 | |
1981年2月2日 | シュラートミンク、オーストリア | 大回転 | |
1981年2月8日 | オスロ、ノルウェー | 回転 | |
1981年2月11日 | ヴォス、ノルウェー | 大回転 | |
1981年2月14日 | オーレ、スウェーデン | 大回転 | |
1982 | 1982年1月9日 | モルジヌ、フランス | 大回転 |
1982年1月12日 | バート・ヴィースゼー、西ドイツ | 回転 | |
1982年1月17日 | キッツビュール、オーストリア | 回転 | |
1982年1月19日 | アーデルボーデン、スイス | 大回転 | |
1982年2月9日 | キルヒベルク、オーストリア | 大回転 | |
1983 | 1982年12月14日 | クールマイユール、イタリア | 回転 |
1983年1月23日 | キッツビュール、オーストリア | 回転 | |
1983年2月11日 | マルクシュタイン、フランス | 回転 | |
1983年2月13日 | トートナウ、西ドイツ | 大回転 | |
1983年2月26日 | イェリヴァーレ、スウェーデン | 大回転 | |
1984 | 1983年12月13日 | クールマイユール、イタリア | 回転 |
1983年12月20日 | マドンナ・ディ・カンピーリオ、イタリア | 回転 | |
1984年1月10日 | アーデルボーデン、スイス | 大回転 | |
1984年1月17日 | パルパン、スイス | 回転 | |
1984年1月23日 | キルヒベルク、オーストリア | 大回転 | |
1984年2月4日 | ボロヴェッツ、ブルガリア | 大回転 | |
1984年3月7日 | ベイル、アメリカ合衆国 | 大回転 | |
1986 | 1985年12月15日 | アルタ・バディア、イタリア | 大回転 |
1986年1月25日 | ザンクト・アントン、オーストリア | 回転 | |
1986年2月27日 | ヘムセダル、ノルウェー | 大回転 | |
1986年3月18日 | レークプラシッド、アメリカ合衆国 | 大回転 | |
1987 | 1986年11月29日 | セストリエーレ、イタリア | 回転 |
1987年2月14日 | マルクシュタイン、フランス | 回転 | |
1989 | 1989年2月19日 | アスペン、アメリカ合衆国 | 大回転 |
種目 | 1位 | 2位 | 3位 | 合計 |
---|---|---|---|---|
回転 | 40 | 29 | 12 | 81 |
大回転 | 46 | 13 | 13 | 72 |
パラレル | 0 | 1 | 0 | 1 |
複合 | 0 | 0 | 1 | 1 |
合計 | 86 | 43 | 26 | 155 |
3.2. 世界選手権
ステンマルクは、アルペンスキー世界選手権でも輝かしい成績を収めた。1978年に西ドイツのガルミッシュ=パルテンキルヒェンで開催された世界選手権では、回転で2位に3分の2秒、大回転で2秒以上の大差をつけて優勝した。これらの2つの世界タイトルは、1980年のレークプラシッドオリンピック(世界選手権を兼ねる)でも成功裏に防衛された。
1982年にオーストリアのプラナイで開催された次の世界選手権では、大回転の第1滑走で不調に終わり、アメリカのスティーブ・マーレに破れ銀メダルに終わった。しかし、回転では巻き返し、史上初めて同じタイトルを3大会連続で獲得する快挙を達成した。25歳でのこのメダルが、彼の主要な国際大会における最後のメダルとなった。
年 | 年齢 | 回転 | 大回転 | スーパー大回転 | 滑降 | 複合 |
---|---|---|---|---|---|---|
1974 | 17 | DNF | 9 | 開催なし | - | - |
1976 | 19 | DNF2 | 3 | - | - | |
1978 | 21 | 1 | 1 | - | - | |
1980 | 23 | 1 | 1 | - | - | |
1982 | 25 | 1 | 2 | - | - | |
1985 | 28 | 4 | DNF | - | - | |
1987 | 30 | 5 | 10 | - | - | - |
1989 | 32 | DNF2 | 6 | - | - | - |
1948年から1980年までの冬季オリンピックは、アルペンスキーの世界選手権も兼ねていた。
1954年から1980年までの世界選手権では、複合は3種目(滑降、大回転、回転)の結果を組み合わせた「ペーパーレース」として行われた。
3.3. オリンピック
ステンマルクはオリンピックでも輝かしい実績を残している。1976年のインスブルックオリンピックでは大回転で銅メダルを獲得した。1980年のレークプラシッドオリンピックでは、回転と大回転の両種目で金メダルを獲得し、2冠を達成した。回転ではアメリカのフィル・マーレとスイスのジャック・リュティを破り、大回転ではリヒテンシュタインのアンドレアス・ベンツェルとオーストリアのハンス・エンを抑えて優勝した。
しかし、1984年のサラエボオリンピックには出場できなかった。これは、彼がプロモーション料を国のスキー連盟を介さずに直接受け取っていたため、国際スキー連盟(FIS)のアマチュア規定に抵触したためである。この出場禁止は、スウェーデンチームのメダル獲得への大きな打撃となった。1980年のオリンピックで2つの金メダルを獲得していたハンニ・ヴェンツェル(リヒテンシュタイン)も同様の理由で出場を禁止された。また、1983-84シーズンに最高の回転選手であったマルク・ジラルデリも、ルクセンブルク国籍を持っていなかったという別の理由で出場を禁止された。
ステンマルクは1988年のカルガリーオリンピックで再びオリンピックに出場したが、すでに全盛期を過ぎており、メダルを獲得することはできなかった。しかし、回転競技の第2滑走では、優勝したアルベルト・トンバよりも1秒近く速いトップタイムを記録し、5位に入賞するという意地を見せた。
年 | 年齢 | 回転 | 大回転 | スーパー大回転 | 滑降 | 複合 |
---|---|---|---|---|---|---|
1976 | 19 | DNF2 | 3 | 開催なし | - | 開催なし |
1980 | 23 | 1 | 1 | - | ||
1984 | 27 | 出場禁止 | ||||
1988 | 31 | 5 | DNF2 | - | - | - |
ステンマルクと、同じくオリンピック2冠のハンニ・ヴェンツェルは、国のスキー連盟を介さずにプロモーション料を直接受け取ったため、1984年のオリンピックから出場禁止となった。
3.4. スキー・スタイルと競技アプローチ
ステンマルクは、その支配的な滑走スタイルと競技へのアプローチで「史上最強の天才スラローマー」と称された。彼は技術系の種目(回転と大回転)において、しばしば5秒前後という異次元の大差をつけて優勝し、ライバル選手たちに「ステンマルクに次ぐ2位は優勝と同じ価値がある」と言わしめるほど圧倒的な強さを見せた。
1981-82シーズンから回転に導入された可倒式ポールにも素早く対応し、現在では当たり前に行われている「すねでポールを倒して最短距離で進む」走法をいち早く取り入れた。1982年のキッツビュールでは、2位に3.16秒もの大差をつけ、ワールドカップ回転史上最大のタイム差を更新する圧勝を遂げた。
4. 受賞歴
インゲマル・ステンマルクは、その輝かしい競技キャリアを通じて数々の栄誉ある賞を受賞している。
- ホルメンコーレン・メダル: 1979年(エリック・ホーケル、ライサ・スメタニナと共同受賞)。これは1976年から1978年までのワールドカップ3年連続総合優勝の功績によるものであり、アルペンスキー選手としては珍しい受賞である。
- スヴェンスカ・ダーグブラーデット・ゴールド・メダル: 1975年、1978年の2回受賞。1978年の受賞はテニス選手のビョルン・ボルグと共同であり、この賞を2度受賞した唯一の男子選手である(女子アルペンスキー選手のアンヤ・パーションは2006年と2007年に受賞)。
- イェーリング賞: 1979年、1980年。
- 国王メダル: 1978年。
5. 私生活

インゲマル・ステンマルクは、1984年にルフトハンザの客室乗務員であったドイツ人女性、アン・ウフハーゲンと結婚したが、1987年に離婚した。彼らの間には1984年に生まれた娘が一人いる。その後、2016年には10年間交際していたフィンランド出身のタリア・オリと結婚した。タリアとの間には2008年に生まれた娘が一人いる。
2006年まではモナコに居住していたが、現在は妻と二人の娘とともにストックホルム近郊のヴァックスホルム島に在住している。
6. 引退後の活動

インゲマル・ステンマルクは、1989年3月、33歳の誕生日を数日後に控えた長野県志賀高原でのワールドカップを最後に競技生活から引退した。
彼は1976年から1978年にかけて、テニス選手のビョルン・ボルグとともにスウェーデンの国民的アイコンとなった。1980年に税金対策のためモナコに移住したにもかかわらず、その地位は変わらなかった。
引退後も多岐にわたる活動を行っている。40歳になった1996年には、スウェーデンの「スーパースターズ選手権」で優勝した。2004年12月26日には、タイで休暇中にインド洋大地震に遭遇したが、高台に避難し九死に一生を得た。2015年には、スウェーデンのテレビ番組「Let's Dance」(ダンシング・ウィズ・ザ・スターズのスウェーデン版)に有名人ダンサーとして出演し、プロダンサーのセシリア・エーリングと組んだ。
彼は、2022年にALSで亡くなった親友でありスウェーデンのアイスホッケー選手であったボリエ・サルミングにちなんで名付けられたボリエ・サルミングALS財団のアンバサダーを務めている。2024年には68歳で世界マスターズ陸上競技選手権大会に参加し、棒高跳で3 mを跳び、総合8位に入賞した。
ステンマルクはデビュー時から当時無名だったエランのスキー板を使用しており、引退するまで変更することはなかった。
7. 遺産と影響力
インゲマル・ステンマルクは、スウェーデンの国民的アイコンとしての地位を確立し、アルペンスキー界に計り知れない貢献をした。彼は「伝説的なスキーヤー」であり、「20世紀を代表する選手」と評され、史上最も傑出したスウェーデン人アスリートの一人と見なされている。
彼の卓越した技術と、技術系種目における圧倒的な支配力は、アルペンスキーの歴史に深く刻まれている。彼は、ライバル選手たちが「ステンマルクに次ぐ2位は優勝と同じ価値がある」と認めるほどの異次元の強さを見せつけ、「史上最強の天才スラローマー」としての名声を不動のものとした。
彼のワールドカップ最多勝利記録は、長年にわたり男子アルペンスキー界の金字塔として君臨し続けた。引退後も、彼はスポーツ界におけるその持続的な名声と評価を保ち続けている。