1. 概要
高橋由伸は、1975年に千葉県で生まれ、幼少期から野球の才能を発揮した。慶應義塾大学では東京六大学野球リーグで数々の記録を樹立し、大学野球界のスターとして注目された。1998年に読売ジャイアンツに逆指名で入団。プロ入り後は「天才打者」と称され、高い打撃技術と積極的な守備でチームの中心選手として活躍し、新人ながらゴールデングラブ賞を受賞するなど鮮烈なデビューを飾った。キャリアを通じて度重なる怪我に悩まされながらも、その都度復帰を果たし、通算321本塁打、1753安打を記録した。アテネオリンピックでは日本代表として銅メダル獲得に貢献した。2015年に現役を引退し、同年から読売ジャイアンツ監督に就任。3シーズン指揮を執った後、2018年に退任。現在は球団特別顧問や野球解説者、評論家として活動し、野球界に貢献し続けている。
2. 初期とアマチュア時代
高橋由伸は、幼少期から野球に対する非凡な才能を見せ、特に左打ちに関しては3歳から自然に身につけていたという。
2.1. 幼少期から高校時代
千葉県千葉市中央区で生まれた高橋は、小学校4年生で地元の少年野球チームに入団すると、すぐに6年生ばかりのレギュラーに唯一抜擢された。これは、入団以前から高橋の動きやスイングの速さに卓越したセンスを感じていた監督によるものであった。5年生時には3番・遊撃手としてチームを県大会初優勝に導き、6年生時には4番・投手(エース)として2連覇に貢献した。
高橋は幼少期から父親と二人三脚で自主練習に励み、身長の倍ほどの竹で素振りをする日課もあった。しかし、父親がプロを目指して挫折してほしくないという配慮から、練習時以外は野球に触れることがほとんどなく、本人もプロを志すことはなかった。野球自体もあまり好きではなかったが、父や兄弟が喜んでくれるために続けていたと後に語っている。また、当時から人前に出るのが苦手で目立つことを嫌い、プロ野球選手になりたいともなれるとも全く思っていなかったという。
中学時代はポニーリーグで4番・投手(エース)としてチームを全国大会2連覇に導いた。中学3年時には26試合に出場し、打率.559、17本塁打、65打点を記録した。この頃、野球を辞めて学業に専念しようと考えたが、父親の「あと3年だけ楽しませてくれ」という要望を受け、甲子園を目指すことを決意した。勉強との両立が可能であること、そして特に憧れていた慶應義塾大学への入学の近道として、数多くのスカウトの中から神奈川県の強豪、桐蔭学園高等学校へ進学した。
桐蔭学園高校野球部には期待の投手として入部したが、すぐに土屋恵三郎監督から打撃と強肩を活かす右翼手への転向を勧められた。高橋は当初渋ったものの、転向すればすぐにレギュラーで3番を打たせるとの言葉で決断。1年生から3番・右翼手のレギュラーの座を掴み、強肩と好守備に加えて勝負強さを見せた。夏の甲子園では3回戦に進出したが、鹿児島実業にサヨナラ負けを喫した。
4番打者となり投手を兼任するようになった2年時の1992年にも第74回全国高等学校野球選手権大会に出場。沖縄尚学戦で本塁でのクロスプレーの際に左太ももの肉離れを起こしたが、8回からリリーフ投手として登板した。しかし、延長12回で再びサヨナラ負けを喫し、1回戦敗退となった。試合後、足の痛みで歩けなくなり、チームメイトに担がれてマウンドを降りた。この怪我と腰痛治療のため2週間の入院を余儀なくされたが、退院後にはチームメイトからの厚い人望により翌年の主将に任命された。本人は「チームを引っ張っていけるタイプではない」と断ったものの、監督命令で引き受けたという。当時の先輩は、高橋が「口で引っ張っていくのではなく、日常の自然な練習態度や言動から気がつけば周囲に人が集まっている、という独特の雰囲気を持っていた」と語っている。
3年時には土屋監督の強打者を1番に据える方針により1番打者を務めたが、甲子園出場は叶わなかった。高校通算打率は.400、通算30本塁打を記録した。東京ヤクルトスワローズなど複数のプロ球団からスカウトされたが、慶應義塾大学(法学部政治学科)への進学という入学当初からの目標は変わらず、指定校推薦で進学した。土屋監督も「非凡なセンスを持ちながら根っからの野球好きでない高橋には、自由で伸び伸びとしたチームがいい」と助言したという。
2.2. 大学時代
慶應義塾大学野球部では1年時からレギュラーとして活躍した。春季リーグ戦の開幕戦から5番・三塁手として出場し、新入生ながら新記録となる3本塁打を放った。3年時の東京六大学野球1996年春季リーグ戦では打率.512、5本塁打を記録し、三冠王を獲得した。
4年時の1997年には主将に就任。相手チームが勝負を避けるようになり、2試合で7四球など敬遠が目立つ中で、春季リーグ戦ではチームを9季ぶりのリーグ優勝に導くなど大きく貢献した。秋季リーグでは法政大学の安藤優也から本塁打を放ち、田淵幸一が持つ東京六大学リーグ本塁打記録を更新する通算23本塁打を達成した。リーグ通算102試合出場(4年間全試合フルイニング出場)し、通算打率.325、119安打(当時歴代4位)、23本塁打(歴代1位)、62打点(当時歴代12位)、219塁打(歴代1位)という記録的な成績を残した。
日米大学野球では日本代表の4番打者として3試合連続本塁打を放つなど活躍。インターコンチネンタルカップでは大学生ながら日本代表の4番打者として出場し、上原浩治(大阪体育大学)が先発した国際大会151連勝中のキューバとの決勝戦で1回裏に先制点かつ決勝点となる3点本塁打を放ち、その後も2点三塁打を打つなど優勝に貢献した。この年には大学を卒業し、甘いマスクと走攻守を兼ね備えた六大学のスターとして高い人気を誇った。リーグ戦では一度だけリリーフ投手として登板し無失点で切り抜け、球速149 km/hを記録したこともある。当時の慶大監督である後藤寿彦は、高橋を「試合の勝敗にはすごくこだわるのに、自分の記録や賞についてはギラギラしていない」と評した。
ドラフト会議では、中日ドラゴンズ、日本ハムファイターズ、広島東洋カープを除く9球団による激しい争奪戦が繰り広げられた。高橋の出身地である千葉市を本拠地とする千葉ロッテマリーンズのファンが「高橋君にロッテへの逆指名入団を」と数万人の署名を集める運動も行われた。高橋はヤクルトスワローズ、西武ライオンズ、読売ジャイアンツの3球団に絞り、11月4日に巨人を1位で逆指名し入団した。この際、記者会見では笑顔が一切見られず目が充血していたと報じられ、巨人逆指名に至るまでの経緯について様々な憶測を呼んだ。当時の契約金は最高標準額を大幅に超える6.50 億 JPYであったことが後に報じられ、巨人側もこれを認めている。入団時には、良い投手とスター性のある打者がつける背番号24を着用した。
3. プロ野球選手としての経歴
高橋由伸は、読売ジャイアンツで18年間のプロ野球選手生活を送り、そのキャリアは華々しい記録と度重なる怪我との闘いの連続であった。

3.1. プロ入りと新人時代
1998年、高橋は読売ジャイアンツにドラフト1位で入団。当時の長嶋茂雄監督からは「21世紀のスター」として大きな期待を寄せられ、松井秀喜、清原和博と共に「MKT砲」として宣伝された。
東京ヤクルトスワローズとの開幕戦に7番・右翼手で先発出場し、いきなりプロ初安打を放った。4月7日の東京ドームでの対広島東洋カープ戦では、山内泰幸からプロ入り初本塁打を記録。右足を高く上げる独特の一本足打法で打線を牽引し、後半戦からは5番打者に定着した。1998年のオールスターゲームのファン投票では新人史上最多の51万4351票で選出され、以降7年連続で出場した。最終的に打率.300(リーグ8位)、19本塁打(リーグ9位)、75打点(リーグ10位)、OPS.852(リーグ8位)の好成績を収めてシーズンを終えた。プロ1年目での打率3割(規定打席到達)は史上7人目、セ・リーグでは長嶋茂雄以来40年ぶりの快挙であった。同年5月2日の対ヤクルト戦では3回無死満塁の打席で川崎憲次郎から、7月2日の対ヤクルト戦では2回二死満塁の打席で伊藤智仁からそれぞれ満塁本塁打を放ち、新人選手で2本の満塁本塁打を記録した。
新人王候補にも名前が挙がったが、新人王は中日ドラゴンズの川上憲伸が受賞した。この年の川上との直接対決の成績は22打数1安打(1本塁打)であった。新人王は獲得できなかったものの、その成績が認められ異例のセントラル・リーグ特別表彰を受賞した。守備でも強肩を活かしてリーグ最多タイの12補殺を記録し、新人外野手としては史上初のゴールデングラブ賞を受賞。以降6年連続で受賞することとなる。同年、長嶋監督から「ウルフ」のニックネームを与えられた。
3.2. 全盛期と主要な記録
1999年、春季キャンプからMLB・サンフランシスコ・ジャイアンツのバリー・ボンズを参考にして重心移動に取り組み、長打力が向上した。オープン戦で6本塁打を記録した勢いそのままに、開幕戦から3試合連続本塁打(1993年の秋山幸二以来6年ぶり)を放った。4月には打率.433、8本塁打、29打点を記録し月間MVPを獲得。開幕から5番として出場していたが、5月5日にはプロ2年目にして巨人第66代の4番打者に指名された。以後、チームメイトの松井秀喜、ヤクルトスワローズのロベルト・ペタジーニと熾烈な本塁打王争いを展開。しかし、9月14日の対中日戦(ナゴヤドーム)での守備の際に外野フェンスに激突し、鎖骨骨折の重傷を負ってチームから離脱した。中日と激しい優勝争いをしていたチームにとって高橋の離脱は大きな痛手となり、本塁打王と共にチームの優勝も逃した。4月2日の阪神タイガースとの開幕戦では8回に福原忍から、4月28日の対ヤクルト戦では2回二死満塁の打席で河端龍から、6月10日の対中日戦では8回二死満塁の打席で小笠原孝からそれぞれ満塁本塁打を放ち、巨人の選手で初の1シーズン3本の満塁本塁打を記録した。自身は打率.315(リーグ5位)、34本塁打(リーグ6位)、98打点(リーグ4位)を記録。故障により終盤欠場しながら打撃成績のほとんどの数字で前年を上回り、初のベストナインに選出された。オフには年俸6100.00 万 JPY増の1.00 億 JPYでサインし、史上最速の年俸1億円到達となった。
2000年、広島からFAで移籍してきた江藤智の入団により、シーズン前半戦は主に5,6番を任された。前年の骨折の影響もありプロ入り後初めてのスランプを経験するが、後半戦には復調。8月24日の広島戦で不振に陥っていた江藤に代わって3番打者を務めると、初回に黒田博樹から2年連続となる20号本塁打を放ち、この試合では2打点を挙げて巨人のサヨナラ勝ちに貢献した。その後は再び6番打者に降格したものの同月29日の阪神戦で再び3番打者を務め、ソロ本塁打を含む2安打1打点、翌30日には2本塁打3打点を挙げる活躍を見せ、「MKT砲」と称された3番・高橋、4番・松井、5番・清原和博の強力クリーンアップの一員としてリーグ優勝・日本一に貢献した。9月5日の対広島戦で3-3の同点の9回二死無走者の打席で高橋建から球団通算1000号サヨナラ本塁打を放った。プロ入り初の全試合・フルイニング出場を果たすも、3年目で初めて打率3割を下回った。
2001年、前年同様、シーズン序盤にスランプに苦しんだ。それでも江藤とともに3番・6番打者を任され、2年連続で全試合出場。7月24日の2001年のオールスターゲーム(札幌ドーム)で自身が放った球宴初本塁打は初回先頭打者本塁打だった(史上7人目、表では5人目)。8月1日の対中日戦では4回一死一塁の打席で川上憲伸からプロ通算100号本塁打、9月18日の対阪神戦では1点を追う4回二死満塁の打席でグレッグ・ハンセルから逆転満塁本塁打を放つ。打率も2年ぶりに3割をクリアした。シーズン後には台湾で開催された第34回IBAFワールドカップの日本代表に選出され、主に「4番・右翼」として出場。予選のキューバ戦では3安打を放って勝利に貢献した。日本は予選で4連勝を果たし決勝トーナメントに進み、準決勝では再びキューバと対戦するも延長戦の末に敗れた。その後の3位決定戦でも台湾に敗れて日本はメダルを逃したものの、高橋は大会打点王とベストナインを受賞した。
2002年、春季キャンプ前の自主トレで「タイトル奪取」を目標に掲げ、開幕から好調を維持。5月4日の対横浜ベイスターズ戦では2打席連続本塁打を放ち、この時点で打率は.402を記録。6月23日の対広島戦(札幌ドーム)では6回に球団通算7500号本塁打を放ち、対戦投手は2000年にも球団通算節目の本塁打を放った高橋建だった。しかし、シーズン中盤に入るとスランプに陥り、.402だった打率は7月末には3割台前半にまで落ち込んだ。8月3日の広島戦(旧広島市民球場)では新井貴浩が放った打球をフェンス際でジャンピングキャッチを試みた際に左足かかとを強打し戦線離脱(左足底筋腱挫傷)。復帰までに約1か月半を要し、その復帰第1戦となった9月16日の対横浜戦で中根仁が放った同様のフェンス際の打球ではジャンピングキャッチを成功させた。本塁打・打点は新ストライクゾーンと35試合欠場した影響で前年から大幅に成績を下げてしまい、開幕前に掲げたタイトル奪取はならなかったが、2年連続で打率3割をキープした。
2003年、この年より選手会長に任命される。松井のMLB・ニューヨーク・ヤンキース移籍により守備位置が右翼手から中堅手へコンバートされ、同時に松井の移籍で、クリーンナップトリオとしてのMKT砲と称してきた愛称は、1人減ってトリオからコンビになったのを機に、清原・高橋のみを表す「KT砲」に改められた。清原の欠場もあり、初めて開幕戦を4番で迎えた。途中腰痛で戦線を離脱したものの、シーズン中盤には好調をキープし続け、11打数連続安打、14打席連続出塁のプロ野球タイ記録を樹立し、打率は自己最高の.323を記録した。6月1日の対阪神戦では1点を追う9回無死一塁の打席で当時無敗を誇っていたジェフ・ウィリアムスから逆転サヨナラ2点本塁打を打ち、シーズン唯一の黒星を付けた。7月6日の対中日戦では3-3の同点の延長12回二死無走者の打席で久本祐一からシーズン2本目のサヨナラ本塁打を放った。7月15日の2003年のオールスターゲーム(大阪ドーム)では2打数2本塁打3打点の活躍で自身初のオールスターMVPを受賞。また、シーズン後にはアテネ五輪の予選を兼ねた第22回アジア野球選手権大会に出場し、首位打者となった。
2004年、シーズンの目安として打率3割3分・35本塁打・110打点を発言。前年に続き中堅手へのコンバートを試みるが、まもなく近鉄から移籍してきたタフィ・ローズに譲る。ロベルト・ペタジニをヒントにした、バットを持つ両手を胸の横に置き、それまで寝かせていたバットを立てた打撃フォームに改造した結果、開幕直後は極端な不調に陥ったが、徐々に復調していった。開幕からシーズン途中に開催されたアテネ五輪まで継続して4番打者を務める。五輪では日本代表の3番・中堅手と副主将を任され、代表チーム最多の3本塁打を打つなど活躍。中でも野球台湾代表戦では王建民から貴重な同点2点適時本塁打を放った。しかし、五輪で肘の遊離軟骨状態が悪化し肘に痛みを抱えながらのプレーで守備面では送球に精彩を欠き、ゴールデングラブ賞をプロ入りして初めて逃したが、打撃では5年ぶりに30本塁打を記録、打率も4年連続で3割をクリアした。9月29日の対広島戦では長嶋茂雄の849試合目に次ぐ史上8位のペースとなるプロ850試合目での1000本安打を達成した。オフには右肘の手術を受け、球団合併問題では巨人の選手会長、また日本プロ野球選手会の副会長として署名活動などで大きく貢献した。
3.3. 怪我との闘いと復帰
高橋由伸の選手キャリアは、度重なる怪我との闘いでもあった。特に外野フェンスへの激突による負傷が多く、その積極的なプレースタイルが代償となった。
1999年9月14日の対中日戦(ナゴヤドーム)での守備の際に外野フェンスに激突し、鎖骨骨折の重傷を負ってチームから離脱した。これは40本塁打ペースで本塁打王争いをしていた中での痛恨の負傷であった。
2002年8月3日の広島戦(旧広島市民球場)では新井貴浩が放った打球をフェンス際でジャンピングキャッチを試みた際に左足かかとを強打し戦線離脱(左足底筋腱挫傷)。復帰までに約1か月半を要した。
2005年4月29日の対広島戦(旧広島市民球場)では自身初の1試合3本塁打を放ったが、翌30日の対広島戦での守備中、旧広島市民球場のフェンスに登った際に右肩肩甲下筋の肉離れを起こして離脱。その後、7月8日の対広島戦でフェンスに右足首を強打し再び離脱した。3年前と合わせて3度も同じ球場、同じフェンス際の打球の処理で怪我に遭ったため、復帰後の対広島戦では球場のフェンス際に清めの塩を撒いたという逸話がある。その後も右足首は回復しないまま骨棘が形成され、痛みを抱えた状態で試合に出続けたが、88試合の出場に留まり、プロ入り以来はじめて規定打席を割った。オフの12月9日に右足首の手術を受け、同月20日の契約更改ではプロ入り8年目で初のダウンとなる年俸2000.00 万 JPY減の3.10 億 JPYでサインした。
2006年、手術により調整が遅れ、オープン戦には中盤から参加した。この年から再就任した原辰徳監督の「守備の要であるセンターラインを守ることでチームを引っ張っていってほしい」という方針から再び中堅手にコンバート。右足首の状態は開幕に間に合うかどうかというものであったが、開幕から好調なスタートを切った。しかし、4月12日の対広島2回戦にて中堅手の守備でダイビングキャッチの際、左脇腹を痛めてしまい、4月15日に出場登録を抹消された。復帰して半月ほどたった5月27日の対ロッテ戦で再びダイビングキャッチを試みて左肩を負傷した。その後守備位置を中堅手に戻されるが、度重なる負傷で本来の打撃や守備を取り戻すことができず後半戦からは守備の負担を軽減させるため初めて左翼手の守備に就いた。前年に手術した右足首の状態が悪いままプレーを続けたこともあり、2年連続で規定打席を割り、打率.260、15本塁打と不本意な成績に終わった。
2008年、4月6日の阪神戦では史上52人目となる通算250号本塁打を放った。二年連続で開幕から好調を維持し、4月18日からは4番として起用されるも、5月3日のヤクルト戦で腰痛を再発させ登録抹消となった。6月15日に一軍復帰するも8月7日に再び戦線離脱となる。ベンチ入りしても出場しない試合もあり、埼玉西武ライオンズとの2008年の日本シリーズは欠場した。チームがリーグ優勝した一方で、91試合の出場で打率.236と自己ワーストの成績に終わってしまった。プロ入りして以来10年間3割以上をキープしていた通算打率が.299となった。オフには腰の精密検査を行い、手術も検討したが引き続きリハビリによる改善を目指すことにした。
2009年、この年から生え抜き野手最年長となったが、腰痛が改善せず春季キャンプでは初の二軍スタート。シーズン終盤の8月28日の阪神戦で復帰し、9回に代打で登場したものの藤川球児に対し見逃し三振に終わってしまう。翌29日に出場選手登録を外れ、腰の手術を受けることを表明し翌年の開幕復帰を見据え9月15日に手術を受け、わずか1打席でシーズンを終えた。この手術は選手生命をかけたものであり、成功しても痛みが完全に取れる保証はなく、リハビリには1年以上かかる可能性、最悪の場合は車椅子生活になる可能性もあったという。高橋自身もこの年を「野球をしていることを想像したくてもできなかった時期」、「もう無理だと思った」と振り返るほど絶望的な状況であった。
2011年、開幕前にレギュラー再奪取を目標として掲げ、開幕戦に「5番右翼」でスタメン出場。しかし、4月26日のヤクルト戦の守備で外野フェンスに激突して負傷交代、29日に登録を抹消。検査の結果、左肋骨を3カ所骨折していたことが判明した。故障明けの6月11日に再登録。だがシーズンを通じては95試合出場で打率.246、15本塁打、37打点という成績に終わり、規定打席にも届かなかった。一方でOPSは.829と規定打席到達者の中でリーグトップだった長野久義(.847)と遜色ない成績を残した。契約更改では当時の球団史上最高のダウン額となる1.80 億 JPY減の推定1.70 億 JPYでサインした。
2013年、春のキャンプでは、阿部がワールド・ベースボール・クラシック(WBC)に出場したため主将代理を務めた。「6番左翼」で開幕戦を迎え、4月4日の横浜戦でシーズン初安打(2007年以来、自身6年ぶりの三塁打)を放ったが、二塁を回った際に左脹脛を痛め途中交代し、一軍登録を抹消された。肉離れで全治3か月と診断されたが、6月29日に一軍に復帰した。7月4日の阪神戦では阿部の代役として4番に座ると、怪我の影響を感じさせない果敢な走塁を見せ決勝のホームを踏んだ。この年は前述の故障の影響で68試合の出場に留まったものの、打率.303、10本塁打、OPS.950を記録。2年ぶりに2桁本塁打を記録し、規定打席不足ながらOPS傑出度は自己最高の数値を記録した。
2014年、シーズン前半は代打の切り札としてチームを支え、代打での打点は柳田俊郎の球団記録にあと1に迫る17打点を記録した。夏場からは先発出場が増え、クリーンアップを任される試合もあった。8月18日、高橋にバッティングの礎を叩き込んだ父・重衛が心不全のため75歳で死去。その告別式の翌日にも試合に出場し、ソロ本塁打を放った。ベースを周っている途中、天を見上げる仕草が見られた。しかし、8月24日の中日戦でスイングした際に右手中指を脱臼し、25日に登録を抹消され、そのまま復帰できないままシーズンを終えた。出場試合数こそ多くないが、前年に引き続き衰えを感じさせない成績を収めた。
3.4. 後期キャリアと引退
2007年、心身ともに強い選手という意味で「強」をテーマに掲げ、原辰徳監督は開幕戦から高橋を「1番・右翼」で起用した。横浜との開幕戦(横浜スタジアム)の第1打席、横浜先発の三浦大輔の初球を右翼スタンドへ本塁打を放った(1回裏の初球を含めると広瀬叔功・山崎裕之に次ぎ4例目)。セントラル・リーグ史上初、1962年の衆樹資宏(阪急)以来45年ぶりの開幕戦初球先頭打者本塁打を放ち、長嶋茂雄の5年連続に次ぐ歴代2位の3年連続開幕戦本塁打を記録した。4月28日、FA権を取得するも、早い段階で宣言せずに残留することを表明。生涯巨人を宣言した。6月以降は右足首痛が悪化するもそのまま出場を続け、6月には打率.408、8本塁打、18打点、OPS1.347を記録し4年ぶりとなる月間MVPを受賞。7月26日の横浜戦ではマット・ホワイトからプロ野球新記録となるシーズン9本目の初回先頭打者本塁打を記録。終盤は腰痛により成績を落としたが、1年を通じて大きなケガや長期離脱もなくプレーし、3年ぶりに規定打席に到達し、リーグ6位の打率.308を記録。8年ぶりのベストナインに選ばれ、4年ぶりのゴールデングラブ賞も獲得。だが規定打席到達はこれが最後となった。1番打者として出塁を意識し、自己最高の66四球・出塁率.404を記録する一方で初球打ちの打率は.441、自己最多の35本塁打も記録した。日程終了時点ではリーグ最多本塁打だったが、その後村田修一が最後の1本となる36本目を佐々岡真司引退試合の9回最後の打席で打ったため、本塁打王を逃した。OPS.982、得点圏打率.409は12球団トップであり、その成績から「1番に据えておくのはもったいない」という意見も出るほどで、当時東北楽天ゴールデンイーグルスの野村克也監督からも「俺ならクリーンナップ」と言われた(なお、この発言の翌日の試合のみ4番として起用されている)。オフの契約更改ではFA権は行使せず、巨人の生え抜き選手としては最高となる4年総額16.00 億 JPY(年俸3.50 億 JPYプラス出来高5000.00 万 JPY)で新たに契約を結んだ。
2010年、自主トレから慎重に調整を行い、春季キャンプでは一軍に入る。この年から一塁手としての出場を視野に入れ練習を重ねつつ、オープン戦では5割近い打率を記録し、開幕戦にキャリア初となる「8番・一塁手」で先発出場。この年には同じく自身初となる2番打者も経験。中盤以降は右翼手や代打での起用が増えた。腰の状態を気にしながらの出場で規定打席には届かなかったが、1年を通して116試合に出場(うち先発が76試合)。2010年のセントラル・リーグクライマックスシリーズも含め、高橋が本塁打を打った試合でチームは全勝した。前年の怪我から復帰した一年であったが、出塁率.364、得点圏打率.325、CSでの打率は.375と選球眼や勝負強さは健在であった。
2012年、開幕前のインタビューで「体の衰えが技術で補えなくなっている」と発言したが、開幕戦に「6番右翼」としてスタメン出場。わずか4打席の差で5年ぶりの規定打席到達は逃したが、大きな怪我もなく1年間を通して一軍に帯同。シーズン打率.239、8本塁打に終わったものの、出塁率は3割5分を越え、満塁の場面では.538、2本塁打、21打点と勝負強さが光った。7月の2012年のオールスターゲームには2007年以来約5年ぶりに出場。第1戦、第3戦に「7番左翼」で先発出場、第2戦に堂林翔太の代打で登場し、5打数2安打1死球を記録した。8月17日の広島戦(東京ドーム)で史上37人目となる300本塁打を達成した。クライマックスシリーズは全試合に先発出場し、日本シリーズでは、3戦目に阿部慎之助が負傷したため4戦目に4番打者として先発出場した。この年3月、朝日新聞が入団時の契約金が最高標準額を大幅に超える6.50 億 JPYであったことを報道、巨人側も婉曲的に認めた。
2015年、6月11日の日本ハム戦でNPB史上55人目となる通算3000塁打を達成した。最終的に77試合の出場で打率.278の成績を残し、代打の切り札として代打打率.395を記録し、翌シーズンも現役続行の意向を示していた。しかし、クライマックスシリーズ敗退を受けて同年限りでの勇退を表明した原監督の後任として球団より監督就任要請を打診され、10月23日に、渡邊恒雄取締役最高顧問、白石興二郎取締役オーナー(いずれも当時)と面会の上、翌2016年シーズンからの監督就任を受諾することを報告。同時に2015年シーズンをもって現役を引退することを表明した。10月26日には監督就任会見を行い、11月5日に日本野球機構(NPB)より任意引退公示された。高橋の引退及び監督就任が突然の決定であったことから、球団側では「ファンから(引退式を行って欲しいという)要望も多く、こちらも何かの形にしたかった」として11月23日のファンフェスタ(東京ドーム)で高橋の現役引退式並びに監督就任セレモニーが執り行われた。なお、背番号は現役時代より引き続き24となった。NPBでは史上初の「昭和50年代生まれ及び逆指名入団の監督」、また巨人監督としても、後楽園球場試合出場経験のない初めての監督となった。
現役時代は天才打者として君臨して入団から2004年までは「7年連続規定打席到達」を継続していたが、2005年から引退する2015年までは腰痛などの故障離脱が多かったこともあり規定打席到達は2007年の1回だけであり2000本安打を達成することはできなかった。
4. 国際大会での経歴
高橋由伸は、プロ野球選手として複数の国際大会で日本代表として活躍した。
1997年のIBAFインターコンチネンタルカップでは大学生ながら日本代表の4番打者として出場し、国際大会151連勝中だったキューバとの決勝戦で1回裏に先制点となる3点本塁打を放ち、優勝に貢献した。
2001年には第34回IBAFワールドカップの日本代表に選出され、主に「4番・右翼」として出場。予選のキューバ戦では3安打を放って勝利に貢献した。日本は予選で4連勝を果たし決勝トーナメントに進んだが、準決勝で再びキューバと対戦し延長戦の末に敗れた。その後の3位決定戦でも台湾に敗れて日本はメダルを逃したものの、高橋は大会打点王とベストナインを受賞した。
2003年の第22回アジア野球選手権大会では、アテネ五輪の予選を兼ねたこの大会で日本代表として出場し、首位打者を獲得した。
2004年アテネオリンピックでは日本代表の3番・中堅手と副主将を任され、代表チーム最多の3本塁打を放つなど活躍。中でも野球台湾代表戦では王建民から貴重な同点2点適時本塁打を放ち、チームの銅メダル獲得に貢献した。
5. プロ野球監督としての経歴
高橋由伸は、2016年から2018年まで読売ジャイアンツの監督を務めた。
5.1. 監督時代 (2016-2018)
2016年、高橋由伸は監督として「一新」をテーマに掲げた。開幕から4連勝を達成するなど序盤は好調だったが、先発候補の多くが故障離脱したことで先発投手が不足し、5月に入り調子を落とした。広島東洋カープの快進撃もあり、一時は4位にまで低迷したが、そこから立て直して再び上位に加わった。しかし、8月24日の広島戦で敗れて広島のマジック点灯を許すと、広島は勢いが加速し巨人は失速。この試合がその後の戦いぶりの明暗を分けることとなった。そして9月10日の広島戦で敗れ、球団史上2度目の東京ドームで他球団のリーグ優勝胴上げを見届ける屈辱を味わった。最終的に広島、DeNA、中日の3チームに負け越したが、リーグ2位でシーズンを終了した。2016年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ(CS)ではCS初出場となった3位の横浜DeNAベイスターズと対戦し、初戦を落として第2戦に勝利したが、第3戦は延長戦の末敗れて2011年のファーストステージ以来5年ぶりにファーストステージで敗退した。
2017年、この年のテーマは「新化」であった。前年同様開幕5連勝を記録するなど序盤は好調だったが、5月中旬から徐々に失速。球団の歴代ワーストとなる13連敗を喫する(この記録は1975年の11連敗を更新)など借金は一時2桁にまで膨らみ、チームは低迷した。ケーシー・マギーを7月下旬から「2番・二塁」で起用する攻撃的布陣で挑み8月に巻き返したが、9月になると一時的に3位に浮上した時期はあったものの、主将の坂本勇人、阿部慎之助、村田修一らのベテラン組が疲労などが原因の打撃不振に陥るなど再び失速した。10月1日の阪神戦に敗れ、3位のDeNAが勝利したため、勝率は最終的には前年を上回りながらも11年ぶりのBクラスとなる4位が確定した。
2018年、この年のテーマは「奮輝」であった。同級生の上原浩治が復帰したものの、補強組が前年の陽岱鋼、山口俊同様不発に終わり、坂本やスコット・マシソン、二塁手として頭角を現してきた吉川尚輝など故障者の続出などもあってほとんど優勝争いができず、8月以降借金を作るなど低迷した。9月以降はDeNAとの3位争いとなり、2018年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ進出が決まるシーズン最終戦で阪神に勝利して公式戦3位を確保した。岡本和真、吉川尚らを飛躍させたことなど若手育成に実績を挙げたことから続投を要請されるも、優勝できなかった責任もあって10月3日に監督辞任を表明した。優勝がなかった巨人の監督は堀内恒夫に次いで二人目となった。CSではファーストステージのヤクルト戦をエース・菅野智之のノーヒットノーランなどで2勝無敗で勝ち抜けたが、ファイナルステージはリーグ王者・広島の前に3試合連続でマギーの適時打による1点だけに抑えられ、3連敗で敗退した。監督退任に伴い、1998年の入団から21年間着続けたユニフォームをこの年限りで脱ぐことになった。監督辞任後は球団特別顧問に就任した。
6. 監督退任後の活動
高橋由伸は、読売ジャイアンツ監督退任後も野球界に深く関わり続けている。
2019年からは読売巨人軍球団特別顧問の肩書に加え、日本テレビの野球解説者や、スポーツ報知の野球評論家に就任した。また、新たに『news zero』(日本テレビ)のスポーツコメンテーターとしても不定期で出演している。
2021年からは、ラジオ日本の野球解説者も兼任している(同局には、2019年及び2020年にもゲスト解説として出演していた)。
2024年1月1日付で読売新聞スポーツアドバイザーに就任することが2023年12月19日に発表された。
7. 選手としての特徴
高橋由伸は「天才」と称される高い打撃技術と天性のタイミングの取り方、そして積極的な守備で知られる選手であった。
7.1. 打撃

高橋は「天才」と称される高い打撃技術と天性のタイミングの取り方を持ち味とし、早打ちの傾向があるため初球から積極的にスイングする。右足を高く上げる一本足打法でどんなボールにもフォームを崩さずに安定した対応ができる柔軟さを併せ持ち、多少のボール球でも安打を放つことができる技術を誇った。ファウル打ちの技術にも優れ、外角の球にも強く広角に打球を打ち分ける技術を持っていた。主に1番打者として起用された2007年は長打狙いに加えて出塁も意識したスタイルとなり、ファーストストライクでのスイング率が前年から15パーセント下がり四球数が増加した。
度重なる怪我でタイトルやキャリアを棒に振ることでも知られるが、晩年になっても打撃の天才であることは認められていた。引退する3年前の2012年にも、後に二刀流として打者としても大成した大谷翔平をプロのスカウトは「高橋由伸タイプで三冠王を狙える素材」と評価しており、間接的ながらも高橋の打撃センスを認めるコメントを残している。
村上宗隆は『スポーツ報知』で高橋本人から取材を受けた際に「僕、小さい頃は高橋由伸さんをすごく見ていて足の上げ方とかめっちゃマネしていました。憧れがあったので今すごい緊張しながら話してます」「好打者でなんでも打てる。先頭打者ホームランのイメージが強いですね」と印象を語っている。
7.2. 守備・走塁
守備では入団以来、主に右翼手としてプレー。フェンスへの衝突を恐れない積極的な守備を見せ、送球面では遠投120 mの強肩と正確さを併せ持ち、加えて捕球してから送球するまでの流動性も特徴であった。右翼守備の評価は高く、入団1年目から6年連続でゴールデングラブ賞獲得というNPB記録を持つ。2003年は松井秀喜のメジャーリーグ移籍によって、2006年は原辰徳監督の要望によって一時的に中堅手にコンバートされた。2010年からは故障による負担を軽減するため一塁手としても起用されるようになった。プロ入り後に内野守備の経験はなかったが安定した守備を魅せ、この年のゴールデングラブ賞一塁手部門では2位となった。2012年シーズンは開幕前の春季キャンプで左翼手でのレギュラーを狙う方針を打ち出し、夏以降は左翼でのスタメン出場が増加した。
一方でファインプレーの代償として負傷することが多く、入団2年目の1999年、2002年、2005年、2006年、そして2011年と、特にフェンス際での守備が原因で大怪我を負っている。2006年にはこの年から原監督からダイビングキャッチ禁止を言い渡されたこともある。だが、高橋本人は自身の守備について「捕れると思った瞬間には飛びついてしまう。その瞬間の頭は真っ白。ケガのことなんか考えられない」と語っている。2014年以降はスタメン出場する場合は守備負担を考慮して左翼に回る機会が多かった。
走塁面ではプロ入り当初は50メートル走6.0秒台、一塁到達4.0秒台の俊足を誇っていたが、若手の頃から盗塁数は少なく、最多は2000年の5盗塁と盗塁は苦手としていた。
8. 表彰と記録
高橋由伸は、選手として数々の個人表彰を受け、多くの記録を樹立した。
8.1. 主要な受賞歴
- ベストナイン:2回(1999年、2007年)
- ゴールデングラブ賞:7回(1998年 - 2003年、2007年)
- セントラル・リーグ連盟特別表彰:1回(新人特別賞:1998年)
- 月間MVP:5回(1999年4月、2000年8月、2001年8月、2003年6月、2007年6月)
- セ・リーグ会長特別表彰(1998年)
- オールスターゲームMVP:1回(2003年第1戦)
- オールスターゲーム優秀選手賞:1回(2004年 第1戦)
- 東京ドームMVP:1回(1998年)
- 優秀JCB・MEP賞:1回(2003年)
- JA全農Go・Go賞:1回(好走塁賞:2007年3・4月)
- 「ジョージア魂」賞:1回(2011年度第8回)
- ヤナセ・ジャイアンツMVP賞:2回(2003年、2015年)
- アットホームヒーロー・オブ・ザ・イヤー:1回(2014年)
- 月間アットホームヒーロー賞:1回(2014年7月)
8.2. 主要な記録
- 初出場・初先発出場:1998年4月3日、対ヤクルトスワローズ1回戦(明治神宮野球場)、7番・右翼手で先発出場、2打数1安打
- 初打席:同上、2回表に石井一久から中飛
- 初安打:同上、7回表に高木晃次から右前安打
- 初打点:1998年4月5日、対ヤクルトスワローズ3回戦(明治神宮野球場)、6回表に川崎憲次郎から左中間へ適時二塁打
- 初本塁打:1998年4月7日、対広島東洋カープ1回戦(東京ドーム)、4回裏に山内泰幸から右越ソロ
- 初盗塁:1998年4月15日、対中日ドラゴンズ2回戦(東京ドーム)、2回裏に二盗(投手:門倉健、捕手:光山英和)
- 100本塁打:2001年8月1日、対中日ドラゴンズ19回戦(東京ドーム)、4回裏に川上憲伸から中越2ラン ※史上214人目
- 150本塁打:2003年9月27日、対広島東洋カープ26回戦(広島市民球場)、6回表に河内貴哉から右中間へソロ ※史上129人目
- 1000安打:2004年9月29日、対広島東洋カープ27回戦(東京ドーム)、6回裏にジョン・ベイルから右前安打 ※史上227人目(850試合目での達成は歴代8位)
- 200本塁打:2006年4月4日、対東京ヤクルトスワローズ1回戦(明治神宮野球場)、4回表に石井一久から中越2ラン ※史上86人目
- 1000試合出場:2006年8月18日、対中日ドラゴンズ16回戦(東京ドーム)、3番・右翼手で先発出場 ※史上412人目
- 250本塁打:2008年4月6日、対阪神タイガース3回戦(東京ドーム)、3回裏に福原忍から右中間へ2ラン ※史上52人目
- 1500安打:2011年7月10日、対広島東洋カープ9回戦(東京ドーム)、5回裏にブライアン・バリントンから左翼線へ安打 ※史上108人目
- 1000三振:2012年4月8日、対阪神タイガース3回戦(阪神甲子園球場)、3回表に岩田稔の前に空振り三振 ※史上53人目
- 1500試合出場:2012年5月4日、対阪神タイガース7回戦(阪神甲子園球場)、5番・右翼手で先発出場 ※史上175人目
- 100死球:2012年7月14日、対中日ドラゴンズ11回戦(ナゴヤドーム)、6回表にエンジェルベルト・ソトから ※史上19人目
- 300本塁打:2012年8月17日、対広島東洋カープ16回戦(東京ドーム)、5回裏にブライアン・バリントンから左越2ラン ※史上37人目
- 3000塁打:2015年6月11日、対北海道日本ハムファイターズ3回戦(札幌ドーム)、4回表に上沢直之から右中間二塁打を放ち達成 ※史上55人目
- 入団から2年連続で打率3割以上(1998 - 1999年)※史上4人目
- 入団から6年連続ゴールデングラブ賞受賞(1998年 - 2003年)※日本記録
- 11打数連続安打(2003年6月7日 - 6月11日 3四球挟む)※日本タイ記録
- 14打席連続出塁(2003年6月7日 - 6月11日)※日本2位タイ記録
- シーズン初回先頭打者本塁打:9本(2007年)※日本記録
- オールスターゲーム選出:9回(1998年、1999年、2000年、2001年、2002年、2003年、2004年、2007年、2012年)
8.3. 年度別打撃成績
年度 | 球団 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 盗塁死 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 | 長打率 | OPS | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1998 | 巨人 | 126 | 515 | 466 | 65 | 140 | 32 | 1 | 19 | 231 | 75 | 3 | 2 | 1 | 5 | 36 | 1 | 7 | 85 | 5 | .300 | .356 | .496 | .852 |
1999 | 118 | 505 | 454 | 71 | 143 | 18 | 2 | 34 | 267 | 98 | 3 | 3 | 2 | 2 | 39 | 7 | 8 | 96 | 3 | .315 | .378 | .588 | .966 | |
2000 | 135 | 577 | 519 | 89 | 150 | 29 | 1 | 27 | 262 | 74 | 5 | 3 | 3 | 3 | 46 | 2 | 6 | 87 | 11 | .289 | .352 | .505 | .857 | |
2001 | 140 | 605 | 543 | 88 | 164 | 26 | 0 | 27 | 271 | 85 | 3 | 2 | 1 | 5 | 49 | 4 | 7 | 85 | 14 | .302 | .364 | .499 | .863 | |
2002 | 105 | 454 | 409 | 63 | 125 | 18 | 0 | 17 | 194 | 53 | 1 | 3 | 2 | 3 | 27 | 0 | 13 | 70 | 7 | .306 | .365 | .474 | .839 | |
2003 | 118 | 486 | 443 | 85 | 143 | 31 | 1 | 26 | 254 | 68 | 3 | 1 | 0 | 2 | 38 | 2 | 3 | 59 | 7 | .323 | .379 | .573 | .952 | |
2004 | 109 | 477 | 426 | 83 | 135 | 20 | 1 | 30 | 247 | 79 | 1 | 3 | 1 | 1 | 38 | 1 | 11 | 70 | 12 | .317 | .387 | .580 | .966 | |
2005 | 88 | 360 | 325 | 50 | 97 | 15 | 0 | 17 | 163 | 41 | 1 | 0 | 0 | 0 | 30 | 0 | 5 | 54 | 8 | .298 | .367 | .502 | .868 | |
2006 | 97 | 390 | 350 | 45 | 91 | 14 | 1 | 15 | 152 | 51 | 1 | 0 | 2 | 5 | 25 | 0 | 8 | 64 | 5 | .260 | .320 | .434 | .754 | |
2007 | 133 | 590 | 503 | 76 | 155 | 29 | 1 | 35 | 291 | 88 | 1 | 5 | 3 | 2 | 66 | 6 | 16 | 107 | 3 | .308 | .404 | .579 | .982 | |
2008 | 91 | 311 | 275 | 38 | 65 | 11 | 0 | 17 | 127 | 41 | 1 | 0 | 0 | 1 | 30 | 3 | 5 | 76 | 3 | .236 | .322 | .462 | .783 | |
2009 | 1 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
2010 | 116 | 332 | 280 | 30 | 75 | 9 | 0 | 13 | 123 | 56 | 2 | 0 | 0 | 6 | 44 | 1 | 2 | 75 | 6 | .268 | .364 | .439 | .804 | |
2011 | 95 | 301 | 256 | 35 | 63 | 13 | 0 | 15 | 121 | 37 | 0 | 1 | 1 | 0 | 40 | 1 | 4 | 64 | 9 | .246 | .357 | .473 | .829 | |
2012 | 130 | 442 | 368 | 30 | 88 | 17 | 0 | 8 | 129 | 56 | 2 | 3 | 1 | 4 | 61 | 4 | 8 | 77 | 14 | .239 | .356 | .351 | .707 | |
2013 | 68 | 197 | 165 | 23 | 50 | 6 | 1 | 10 | 88 | 34 | 0 | 0 | 0 | 0 | 31 | 2 | 1 | 34 | 4 | .303 | .416 | .533 | .950 | |
2014 | 72 | 130 | 112 | 8 | 32 | 4 | 0 | 6 | 54 | 29 | 0 | 0 | 0 | 2 | 14 | 0 | 2 | 30 | 0 | .286 | .369 | .482 | .851 | |
2015 | 77 | 158 | 133 | 11 | 37 | 5 | 0 | 5 | 57 | 21 | 2 | 0 | 0 | 1 | 20 | 0 | 4 | 39 | 3 | .278 | .386 | .429 | .815 | |
通算:18年 | 1819 | 6831 | 6028 | 890 | 1753 | 297 | 9 | 321 | 3031 | 986 | 29 | 26 | 17 | 42 | 634 | 34 | 110 | 1173 | 114 | .291 | .366 | .503 | .869 |
8.4. 年度別打撃成績所属リーグ内順位
年度 | 年齢 | リーグ | 打率 | 安打 | 本塁打 | 打点 |
---|---|---|---|---|---|---|
1998 | 23 | セ・リーグ | 8位 | 9位 | 9位 | 10位 |
1999 | 24 | 5位 | - | 6位 | 4位 | |
2000 | 25 | - | 8位 | 6位 | 10位 | |
2001 | 26 | - | 2位 | 8位 | 9位 | |
2002 | 27 | 8位 | - | - | - | |
2003 | 28 | 4位 | - | 8位 | - | |
2004 | 29 | 4位 | - | - | - | |
2005 | 30 | - | - | - | - | |
2006 | 31 | - | - | - | - | |
2007 | 32 | 6位 | 9位 | 2位 | 9位 | |
2008 | 33 | - | - | - | - | |
2009 | 34 | - | - | - | - | |
2010 | 35 | - | - | - | - | |
2011 | 36 | - | - | - | - | |
2012 | 37 | - | - | - | - | |
2013 | 38 | - | - | - | - | |
2014 | 39 | - | - | - | - | |
2015 | 40 | - | - | - | - |
8.5. アテネオリンピックでの打撃成績
; 予選(第22回アジア野球選手権大会)
年度 | 代表 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 盗塁死 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 敬遠 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 | 長打率 | OPS |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2003 | 日本 | 3 | 13 | 12 | 2 | 7 | 1 | 0 | 0 | 8 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | .583 | .615 | .667 | 1.282 |
; 本戦
年度 | 代表 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 盗塁死 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 敬遠 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 | 長打率 | OPS |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2004 | 日本 | 9 | 44 | 38 | 9 | 11 | 1 | 0 | 3 | 21 | 8 | 0 | 0 | 1 | 1 | 2 | 0 | 2 | 6 | 1 | .289 | .349 | .553 | .901 |
8.6. 年度別守備成績
年度 | 球団 | 外野 | 一塁 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | ||
1998 | 巨人 | 124 | 226 | 12 | 7 | 4 | .971 | - | |||||
1999 | 118 | 209 | 3 | 2 | 1 | .991 | - | ||||||
2000 | 135 | 245 | 2 | 4 | 1 | .984 | - | ||||||
2001 | 140 | 255 | 6 | 4 | 0 | .985 | - | ||||||
2002 | 105 | 175 | 6 | 2 | 0 | .989 | - | ||||||
2003 | 111 | 221 | 7 | 3 | 3 | .987 | - | ||||||
2004 | 109 | 185 | 5 | 1 | 0 | .995 | - | ||||||
2005 | 78 | 150 | 5 | 1 | 0 | .994 | - | ||||||
2006 | 96 | 152 | 7 | 1 | 0 | .994 | - | ||||||
2007 | 128 | 210 | 7 | 1 | 0 | .995 | - | ||||||
2008 | 80 | 120 | 2 | 2 | 1 | .984 | - | ||||||
2010 | 45 | 53 | 1 | 0 | 0 | 1.000 | 52 | 344 | 15 | 4 | 23 | .989 | |
2011 | 76 | 89 | 6 | 0 | 1 | 1.000 | 15 | 87 | 2 | 0 | 2 | 1.000 | |
2012 | 110 | 134 | 3 | 1 | 0 | .993 | 6 | 27 | 0 | 0 | 2 | 1.000 | |
2013 | 54 | 47 | 2 | 0 | 0 | 1.000 | - | ||||||
2014 | 30 | 30 | 1 | 2 | 0 | .939 | 1 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | |
2015 | 25 | 33 | 2 | 0 | 1 | 1.000 | - | ||||||
通算:18年 | 1564 | 2534 | 77 | 31 | 12 | .988 | 74 | 460 | 17 | 4 | 27 | .992 |
8.7. 年度別監督成績
年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | 本塁打 | 打率 | 防御率 | 年齢 | ||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2016 | 巨人 | 2位 | 143 | 71 | 69 | 3 | .507 | 17.5 | 128 | .251 | 3.45 | 41歳 | ||
2017 | 4位 | 143 | 72 | 68 | 3 | .514 | 16.5 | 113 | .249 | 3.31 | 42歳 | |||
2018 | 3位 | 143 | 67 | 71 | 5 | .486 | 13.5 | 152 | .257 | 3.79 | 43歳 | |||
通算:3年 | 429 | 210 | 208 | 11 | .502 | Aクラス2回、Bクラス1回 |
; ポストシーズン
年度 | 球団 | 大会名 | 対戦相手 | 勝敗 |
---|---|---|---|---|
2016 | 巨人 | セントラル・リーグクライマックスシリーズ ファーストステージ | 横浜DeNAベイスターズ(セ・リーグ3位) | 1勝2敗=敗退 |
2018 | セントラル・リーグクライマックスシリーズ ファーストステージ | ヤクルト(セ・リーグ2位) | 2勝0敗=進出 | |
セ・リーグ クライマックスシリーズ ファイナルステージ | 広島東洋カープ(セ・リーグ1位) | 0勝4敗=敗退 |
8.8. 背番号
- 24(1998年 - 2018年)
8.9. 登場曲
- 2001 - 2002年:小室哲哉「SPEED TK RE-MIX」
- 2002 - 2004年、2006年:THE BLUE HEARTS「夢」
- 2004年:Eminem「Without Me」
- 2004年:TUBE「夢の翼ひろげて」
- 2005年:Sean Callery&Armin van Buuren「24 Theme」
- 2006年:Kevin Lyttle「Turn Me On」
- 2007 - 2009年:SEAMO「ルパン・ザ・ファイヤー」
- 2008年:湘南乃風「晴伝説」
- 2010年:FUNKY MONKEY BABYS「ヒーロー」
- 2011年:米米CLUB「浪漫飛行」
- 2012 - 2013年:SMAP「オリジナル スマイル」
- 2014年 - 2015年:ケリー・クラークソン「Stronger (What Doesn't Kill You)」
9. 個人生活
高橋由伸の愛称は「ウルフ高橋」である。妻は元日本テレビのアナウンサーの小野寺麻衣で、2児(2人姉妹)の父である。小野寺結衣は義妹にあたる。
10. 評価と影響
高橋由伸は、その卓越した打撃技術と積極的な守備で「天才打者」と称され、プロ入りから多くのファンを魅了した。度重なる怪我に見舞われながらも、その都度復帰を果たし、チームの勝利に貢献し続けた姿勢は、多くの選手やファンに影響を与えた。特に、フェンスを恐れない守備は、怪我のリスクを伴いつつも、そのプレーがチームを鼓舞するものであった。
監督としては、若手育成に力を入れ、岡本和真や吉川尚輝といった選手を飛躍させた実績は高く評価されている。優勝には届かなかったものの、チーム再建の一翼を担った。
引退後も球団特別顧問や野球解説者・評論家として、多角的に野球界に関わり、その知見を伝えている。彼のキャリアは、怪我との闘い、そしてそれらを乗り越えて野球に情熱を注ぎ続けた姿として、日本のプロ野球史に刻まれている。
11. 関連情報
高橋由伸は野球以外の分野でも活動し、様々な表彰を受けている。
11.1. 野球以外での表彰
- 日本ジュエリーベストドレッサー賞(男性部門:2000年)
- 千葉市市民栄誉賞(2004年)
- イクメン オブ ザ イヤー(イクメンスポーツ部門:2019年)
11.2. 出演
11.2.1. テレビ番組
- 筋肉番付シリーズ(TBS)
- ZONE(TBS)
- ウチくる!?(フジテレビ)
- NONFIX高橋由伸 300日の肖像 ~巨人の理由~(1998年1月27日、フジテレビ)
- とんねるずの生でダラダラいかせて!!(2000年11月22日、日本テレビ)
- SMAP×SMAP(2000年1月17日、フジテレビ)
- 夢対決!とんねるずのスポーツ王は俺だ!スペシャル(2001年、テレビ朝日)
- 関口宏の東京フレンドパークII(2001年2月10日、TBS)
- 逮捕しちゃうぞ(2002年12月12日、テレビ朝日) - 最終話にゲストで出演。
- とんねるずのみなさんのおかげでした 食わず嫌い王決定戦(2002年12月12日、フジテレビ)
- 第53回NHK紅白歌合戦(2002年12月31日、NHK総合・ラジオ第1) - 審査員として出演。
- お正月だよ!クイズ・ドレミファドン!(2003年1月3日、フジテレビ)
- 24時間テレビ(2003年・2005年、日本テレビ)
- 第17回全国おもしろニュースグランプリ2004(2004年12月31日、テレビ朝日)
- 『ぷっ』すまスペシャル(2005年2月8日、テレビ朝日)
- 水曜プレミア 人類史上最高のトップアスリート頂上決戦!!筋肉王国スペシャル(2005年2月9日、TBS)
- スタジオパークからこんにちは(2006年1月10日、NHK総合)
- バース・デイ(2006年4月25日、TBS)
- 日経スペシャル ガイアの夜明け(2008年7月29日、テレビ東京)
- おはスタ(2010年9月1日、テレビ東京)
- 石川遼スペシャル RESPECT ~ゴルフを愛する人々へ~(2011年2月13日 - 3月6日、テレビ東京)
- Going!Sports&News(2022年1月8日 - 、日本テレビ)
- news zero(2019年4月2日 - 、日本テレビ〈野球解説者として不定期出演〉)
11.2.2. CM
- サントリー
- 「ペプシコーラ」
- 「マグナムドライ〈爽快仕込〉」
- ダイハツ
- 「アトレー」 - CMソングも歌っている。
- 「アトレー・ワゴン・エアロダウンビレット」
- 「アトレー7」 - 巨人の星の星飛雄馬との対決という演出だった。「大リーグシート 完成篇」と「感動編」の2種類。
- 明治製菓
- 「明治アーモンドチョコレート」
- 「カールスティック」 - 広末涼子と共演。
- 「プッカ」 - ナインティナインと共演。
12. 関連項目
- オリンピックの野球競技・メダリスト一覧
- 千葉県出身の人物一覧
- 慶應義塾大学の人物一覧
- 読売ジャイアンツの選手一覧
- 読売ジャイアンツ歴代4番打者一覧
13. 外部リンク
- [https://sp.baseball.findfriends.jp/player/19750004/ 選手情報] - 週刊ベースボールONLINE
- [https://www.1101.com/yoshinobu2016/index.html ほぼ日刊イトイ新聞 高橋由伸×糸井重里 高橋由伸新監督の真っ直ぐなことば。](2016年3月)
- [https://www.1101.com/yoshinobu2017/index.html ほぼ日刊イトイ新聞 高橋由伸×糸井重里 勝つって、こんなにうれしいんだ。](2017年3月)