1. 生い立ちと人物像
フアン・パブロ・ソリンは1976年5月5日、アルゼンチンのブエノスアイレスで生まれた。彼はユダヤ系アルゼンチン人である。サッカー選手としてのキャリアと並行して、知的な関心も高く、作家としても活動した。彼は『Grandes Chicos』(「大きな子供たち」または「小さな偉人たち」の意)という著書を執筆し、その収益をアルゼンチン国内での学校建設や小児病院改修のための資金に充てるなど、慈善活動にも積極的に取り組んだ。
2. クラブ経歴
フアン・パブロ・ソリンは、キャリアを通じてアルゼンチン、ブラジル、ヨーロッパの様々なクラブでプレーし、それぞれの地で大きな足跡を残した。
2.1. 初期キャリア
ソリンは、アルゼンチンの下部リーグに所属するAAアルヘンティノス・ジュニアーズでそのキャリアをスタートさせ、1994年にトップチームデビューを果たした。1995-96シーズン中には、カタールで開催された1995 FIFAワールドユース選手権でアルゼンチンU-20代表のキャプテンとして優勝を飾る活躍を見せた。この活躍が認められ、彼の契約はイタリアの強豪ユヴェントスFCに買い取られた。しかし、当時のユヴェントスにはすでに強力な選手層が確立されており、監督のマルチェロ・リッピの下で出場機会を得るのに苦労した。セリエAで2試合、コッパ・イタリアで2試合、UEFAチャンピオンズリーグで1試合の計5試合の出場にとどまり、シーズン前半の終了後にはアルゼンチンに復帰することとなった。
2.2. リーベル・プレート
1996年の後半にCAリーベル・プレートに移籍したソリンは、そこでキャリアを再活性化させた。リーベル・プレートでは、エンソ・フランチェスコリ、アリエル・オルテガ、エルナン・クレスポといったスター選手たちと共にプレーし、数々のタイトルを獲得した。具体的には、プリメーラ・ディビシオンの前期リーグ(1996年、1997年、1999年)で3度、後期リーグ(1997年)で1度、さらに1996年にはコパ・リベルタドーレスを、1997年にはスーペルコパ・スダメリカーナを制覇した。1996年のインターコンチネンタルカップでは古巣ユヴェントスFCと対戦したが、0-1で敗れた。
2.3. クルゼイロでの最初の期間と欧州へのレンタル移籍
2000年、ソリンはブラジルのクルゼイロECへと移籍した。ここで2年半にわたってプレーし、2000年にコパ・ド・ブラジルを制覇。その情熱的なプレーとリーダーシップは、現在に至るまでクルゼイロのファンから最も愛される選手の一人として記憶されている。
2002年のコパ・ド・ブラジル終了後、2002年7月にイタリアのSSラツィオへレンタル移籍したが、度重なる怪我に見舞われ、リーグ戦わずか6試合の出場にとどまった。半年後の2003年1月31日、負傷離脱したDFフェルナンド・ナバーロの代役として、スペインのFCバルセロナにレンタル移籍した。当時、非EU圏選手の出場枠は3人までであり、ソリンはフアン・ロマン・リケルメやロベルト・ボナーノと共にその枠を占めた。2月9日にカンプ・ノウで行われたアスレティック・ビルバオ戦でデビューし、2002-03シーズン後半戦だけで15試合に出場し、セルタ・デ・ビーゴ戦では1得点を記録するなど順調なシーズンを送った。しかし、ラツィオ在籍中にUEFAカップに出場していたため、バルセロナではヨーロッパカップ戦には出場できなかった。移籍金が高額であったことや、非EU圏枠の問題が重なり、バルセロナへの完全移籍は実現しなかった。
2003年夏にはフランスのパリ・サンジェルマンFCへレンタル移籍し、2003-04シーズンにはクープ・ドゥ・フランス優勝に貢献した。2004年にはクルゼイロECに復帰し、カンピオナート・ブラジレイロ・セリエAでプレーした。
2.4. ビジャレアルとハンブルガーSV
2004年11月、ソリンはスペインのビジャレアルCFに自由移籍(移籍金なし)で加入した。2005年2月20日のアトレティコ・マドリード戦では、試合終了間際に決勝ゴールを挙げ、3-2の勝利に貢献した。2004-05シーズンにはリーグ戦でさらに3得点を挙げ、クラブの過去最高位となる3位躍進に貢献し、UEFAチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。続く2005-06シーズンには、リーグ戦20試合出場3得点、チャンピオンズリーグでは13試合出場1得点(エヴァートンFC戦で得点)を記録。ビジャレアルはチャンピオンズリーグで快進撃を続け、準決勝まで到達したが、アーセナルFCに敗れた。
2006年夏にはイングランドのポーツマスFC、ボルトン・ワンダラーズFC、ニューカッスル・ユナイテッドFCなどが獲得に興味を示したが、最終的には2006年8月にドイツのハンブルガーSVへ移籍した。移籍金は300.00 万 EURで、3年契約を結んだ。しかし、ハンブルガーSVでの2年間は度重なる負傷に悩まされ、わずか24試合の出場にとどまった。2008年7月15日、契約満了を待たずにクラブが補償金を支払う形で契約が解除された。
2.5. クルゼイロへの復帰と引退
ソリンは2008年8月29日に三度目のクルゼイロECへの復帰を果たした。この契約はシーズン終了までのもので、2年間の延長オプションが付いていた。2009年春には長女が誕生したが、負傷に苦しむ状況は変わらず、復帰後わずか1試合(2009年6月14日のセリエAの試合)の出場にとどまった。そして、再び怪我に悩まされたクルゼイロでの1年を経て、2009年7月28日にプロサッカー選手からの現役引退を正式に発表した。
3. 代表経歴
ソリンはアルゼンチン代表としても輝かしいキャリアを築き、若手時代からその才能を発揮し、A代表ではキャプテンを務めるなど重要な役割を担った。
3.1. ユース代表経歴
ソリンは1995年にアルゼンチンU-20代表のキャプテンとして、カタールで開催された1995 FIFAワールドユース選手権に出場し、チームを優勝に導いた。同年には1995年パンアメリカン競技大会のサッカー競技で金メダルを獲得するなど、若手年代から国際舞台で実績を上げた。
3.2. シニア代表経歴
1995年2月14日に行われたブルガリアとの親善試合でアルゼンチンA代表デビューを果たした。1998 FIFAワールドカップ・南米予選では中心選手の一人であったが、フランスで開催された1998 FIFAワールドカップ本大会の出場メンバーからは外れた。
1999年のコパ・アメリカでは、準々決勝で後に優勝するブラジルに敗れ、アルゼンチンは大会を去った。
日本と韓国で共催された2002 FIFAワールドカップに出場し、グループリーグのナイジェリア戦、イングランド戦、スウェーデン戦の全3試合に先発出場した。しかし、優勝候補と目されながらも、グループリーグ初戦のナイジェリア戦で勝利したものの、イングランドに1-0で惜敗し、最終戦のスウェーデン戦では引き分けに終わり、早期のグループリーグ敗退という結果に終わった。
2002年11月20日に行われた日本との親善試合では、先制点を挙げてチームの勝利に貢献した。2004年7月にはペルーで開催されたコパ・アメリカ2004に出場し、準決勝のコロンビア戦では3-0と勝利を決定づける3点目を決めて決勝進出に貢献した。決勝のブラジル戦は延長戦の末に2-2の引き分けとなり、PK戦にもつれ込んだ。ソリンは4番手のキッカーとしてPKを成功させたが、アンドレス・ダレッサンドロとガブリエル・エインセが失敗したため、アルゼンチンは優勝を逃した。
翌2005年には2005 FIFAコンフェデレーションズカップに出場し、全試合に先発出場したが、決勝で再びブラジルに1-4で敗れ、準優勝に終わった。
ホセ・ペケルマン監督の下、アルゼンチン代表は再建され、ソリンは2006 FIFAワールドカップでキャプテンに指名された。この大会で、ソリンは攻撃的なサイドバックとして重要な役割を担った。アルゼンチンはグループリーグでコートジボワールに2-1、セルビア・モンテネグロに6-0で勝利し、決勝トーナメントに進出した。メキシコとの決勝トーナメント1回戦では延長戦の末に勝利を収めた。この試合では、マキシ・ロドリゲスへのサイドチェンジのパスを送り、大会のベストゴールに選出されたボレーシュートをアシストした。しかし、準々決勝でホスト国ドイツにPK戦の末に敗れ、大会を終えた。2006 FIFAワールドカップ以降、ソリンは代表から遠ざかった。
4. プレースタイル
ソリンは、強靭なフィジカルと豊富な運動量を持ち合わせた、多才で勤勉な左サイドバックとして知られる。彼はセンターバックや、左サイドのあらゆるウイングポジションでもプレーすることができた。これは、彼の左足からの正確なパスとクロス能力によるものだった。彼は時に型破りなプレースタイルを見せ、主に守備的な役割を担いながらも、頻繁に攻撃的なポジションへと走り込み、その技術的な能力と積極的なヘディング能力を遺憾なく発揮した。彼の特徴的な長髪は、ピッチ上での彼の存在感を一層際立たせていた。
5. 引退後のキャリア
プロサッカー選手引退後、フアン・パブロ・ソリンはそのままブラジルに定住した。彼は当初ベロオリゾンテに、後にポルト・アレグレに居住し、ESPN ブラジルでスポーツコメンテーターや番組プロデューサーとして活躍した。2012年から2017年にかけては、その経験と知識を活かし、テレビを通じてサッカーの魅力を伝え続けた。
6. 私生活と慈善活動
ソリンはユダヤ系アルゼンチン人であり、サッカー界での活躍だけでなく、その知的で多面的なパーソナリティでも知られている。彼はガブリエル・ガルシア=マルケスやヘルマン・ヘッセの小説を愛読する読書家であり、インタビューではしばしば文学に関する知的な受け答えを見せた。また、自身のラジオ番組では、アルゼンチンの社会情勢や経済情勢について鋭い指摘を行うこともあった。彼の好きなバンドはローリング・ストーンズである。
私生活では女優のソル夫人と共に、故郷アルゼンチンの地方での学校設立や病院の改築資金を集めるなどの慈善活動に積極的に取り組んでいる。この活動の一環として、彼は『Grandes Chicos』という著書も執筆している。
7. タイトル・受賞歴
フアン・パブロ・ソリンが選手キャリアで獲得した主要なチームおよび個人の受賞歴は以下の通りである。
クラブ
- CAリーベル・プレート
- プリメーラ・ディビシオン: 1996年アペルトゥーラ、1997年クラウスーラ、1997年アペルトゥーラ、1999年アペルトゥーラ
- コパ・リベルタドーレス: 1996
- スーペルコパ・スダメリカーナ: 1997
- クルゼイロEC
- コパ・ド・ブラジル: 2000
- カンピオナート・ミネイロ: 2009
- コパ・スル=ミナス: 2001, 2002
- パリ・サンジェルマンFC
- クープ・ドゥ・フランス: 2003-04
代表
- アルゼンチン
- FIFAワールドユース選手権: 1995
- パンアメリカン競技大会: 1995 (金メダル)
- コパ・アメリカ: 準優勝 2004
- FIFAコンフェデレーションズカップ: 準優勝 2005
個人
- 南米年間ベストイレブン: 1996, 2000, 2001
- ボーラ・ジ・プラッタ: 2000
- 全国プロサッカー選手連合月間最優秀選手: 2004年4月
- IFFHS アルゼンチン歴代ベストイレブン (チームC): 2021
8. キャリア統計
フアン・パブロ・ソリンのクラブおよび代表試合の出場と得点の統計データは以下の通りである。
クラブ | シーズン | リーグ | 国内カップ | 大陸大会 | 合計 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
ディビジョン | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||
アルヘンティノス・ジュニアーズ | 1994-95 | アルゼンチン・プリメーラ・ディビシオン | 20 | 1 | 20 | 1 | ||||
ユヴェントス | 1995-96 | セリエA | 2 | 0 | 2 | 0 | 1 | 0 | 5 | 0 |
リーベル・プレート | 1996-97 | アルゼンチン・プリメーラ・ディビシオン | 32 | 5 | 13 | 1 | 45 | 6 | ||
1997-98 | 21 | 4 | 2 | 0 | 23 | 4 | ||||
1998-99 | 18 | 1 | 10 | 2 | 28 | 3 | ||||
1999-2000 | 7 | 1 | 11 | 2 | 18 | 3 | ||||
合計 | 78 | 11 | 36 | 5 | 114 | 16 | ||||
クルゼイロ | 2000 | セリエA | 14 | 3 | 14 | 3 | ||||
2001 | 15 | 0 | 7 | 1 | 22 | 1 | ||||
2004 | 6 | 0 | 6 | 0 | ||||||
合計 | 35 | 3 | 7 | 1 | 42 | 4 | ||||
ラツィオ (レンタル) | 2002-03 | セリエA | 6 | 0 | 1 | 0 | 4 | 0 | 11 | 0 |
バルセロナ (レンタル) | 2002-03 | ラ・リーガ | 15 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 15 | 1 |
パリ・サンジェルマン (レンタル) | 2003-04 | リーグ・アン | 21 | 1 | 5 | 1 | - | 26 | 2 | |
ビジャレアル | 2004-05 | ラ・リーガ | 21 | 4 | 0 | 0 | 6 | 0 | 27 | 4 |
2005-06 | 20 | 3 | 0 | 0 | 13 | 1 | 33 | 4 | ||
合計 | 41 | 7 | 0 | 0 | 19 | 1 | 60 | 8 | ||
ハンブルガーSV | 2006-07 | ブンデスリーガ | 19 | 4 | 0 | 0 | 3 | 0 | 22 | 4 |
2007-08 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 | ||
合計 | 24 | 4 | 0 | 0 | 3 | 0 | 27 | 4 | ||
クルゼイロ | 2008 | セリエA | 0 | 0 | 0 | 0 | ||||
2009 | 1 | 0 | 1 | 0 | 2 | 0 | ||||
合計 | 1 | 0 | 1 | 0 | 2 | 0 | ||||
キャリア通算 | 243 | 28 | 8 | 1 | 73 | 7 | 324 | 36 |
代表チーム | 年 | 出場 | 得点 |
---|---|---|---|
アルゼンチン | 1995 | 3 | 0 |
1996 | 2 | 1 | |
1997 | 2 | 0 | |
1998 | 0 | 0 | |
1999 | 10 | 2 | |
2000 | 7 | 0 | |
2001 | 8 | 2 | |
2002 | 7 | 2 | |
2003 | 3 | 0 | |
2004 | 14 | 3 | |
2005 | 14 | 0 | |
2006 | 5 | 1 | |
合計 | 75 | 11 |
:アルゼンチンの得点を先に記載。スコア欄はソリンの各得点後のスコアを示す。
No. | 日付 | 会場 | 対戦相手 | スコア | 結果 | 大会 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 1996年10月9日 | エスタディオ・ポリデポルティーボ・デ・プエブロ・ヌエボ、サン・クリストバル、ベネズエラ | ベネズエラ | 2-1 | 5-2 | 1998 FIFAワールドカップ・南米予選 |
2 | 1999年2月10日 | ロサンゼルス・メモリアル・コロシアム、ロサンゼルス、アメリカ合衆国 | メキシコ | 1-0 | 1-0 | 親善試合 |
3 | 1999年7月11日 | エスタディオ・アントニオ・アランダ、シウダー・デル・エステ、パラグアイ | ブラジル | 1-0 | 1-2 | コパ・アメリカ1999 |
4 | 2001年3月28日 | エスタディオ・モヌメンタル・アントニオ・ベスプシオ・リベルティ、ブエノスアイレス、アルゼンチン | ベネズエラ | 2-0 | 5-0 | 2002 FIFAワールドカップ・南米予選 |
5 | 2001年4月25日 | エスタディオ・エルナンド・シレス、ラパス、ボリビア | ボリビア | 3-3 | 3-3 | 2002 FIFAワールドカップ・南米予選 |
6 | 2002年4月17日 | ゴットリープ・ダイムラー・シュタディオン、シュトゥットガルト、ドイツ | ドイツ | 1-0 | 1-0 | 親善試合 |
7 | 2002年11月20日 | 埼玉スタジアム2002、さいたま、日本 | 日本 | 1-0 | 2-0 | 親善試合 |
8 | 2004年6月2日 | ミネイロン、ベロオリゾンテ、ブラジル | ブラジル | 1-2 | 1-3 | 2006 FIFAワールドカップ・南米予選 |
9 | 2004年7月20日 | エスタディオ・ナシオナル・デル・ペルー、リマ、ペルー | コロンビア | 3-0 | 3-0 | コパ・アメリカ2004 |
10 | 2004年9月4日 | エスタディオ・モヌメンタル・ウニベルシタリオ、リマ、ペルー | ペルー | 3-1 | 3-1 | 2006 FIFAワールドカップ・南米予選 |
11 | 2006年5月30日 | スタディオ・アレキ、サレルノ、イタリア | アンゴラ | 2-0 | 2-0 | 親善試合 |
9. 外部リンク
- [https://www.fussballdaten.de/person/juan-pablo-sorin/ Fussballdaten プロフィール]
- [https://www.legaseriea.it/it/serie-a-tim/calciatore/juan-pablo-sorin Lega Serie A プロフィール]
- [http://www.blogsorin.com/es/ Blog Sorín]
- [http://www.terra.com.ar/canales/educacion/118/118121.html 『Grandes Chicos』発表記事(スペイン語)]
- [http://www.mediapunta.es/firmas_resultados.php?id=9&id2=9 メディアプンタでのソリン(スペイン語)]
- [http://futpedia.globo.com/jogadores/sorin Futpedia プロフィール]
- [https://www.national-football-teams.com/player/303.html National-Football-Teams.com]